悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える

01 悪の自覚

『歎異抄』によれば、「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」と言ったことになっている。これが、いつどこでどのような形で言われたのかは定かではない。唯円一人に向かって、この男なら言っても構わないだろう、と思って密かに言ったのか、初めから人々に伝わるものと前提して言ったのか、多くの信者を前にして言ったことなのか、それは定かでない。しかし、唯円の序から見て、このことが人々に知られることを是認したものと見ることもできる。そうだとすると、この言葉は、当時としては、大胆極まるものであったと言わねばならない。もちろん、これによって、孝養ということが本来無意味だなどと、言っているのではないことは明らかである。だが、このことは、そういう意味だと、時の人々に受け取られなかったことを保証しているわけでもない。

本願ぼこりという形で、親鸞が言ったことが誤解されたことからみても、当然、そう受け取られかねない。そうだとすれば、この言葉だけからしても、親鸞が悪人だと思われたのは、当然であろう。まして「悪人正機」を親鸞は語っているのだから、なおさらのことである。もちろん、当時の世相を察してみると、親子関係その他の道徳が、地に落ちていたことは明らかである。時代を代表する人々すらそうだったのだから、他は押して知るべしといえるかも知れません。だが、だからこそ、君臣父子関係の道徳が、表向きは、ことのほか強く言われねばならなかったと、いえるかもしれない。親鸞を追放した人々は、一々身に応えることを言われたため、逆に居丈高になって、拳を振り上げざるを得なかったかもしれない。

『興禅護国論』が書かれなければならなかった時の、人々の目からすれば、親鸞は明らかに悪人であった。この場合の「悪人」というのは、もちろん、道徳的な意味である。だが、やがて人々は、親鸞についてそう言わなくなった。かつて悪とされたものが、時を経て善とされることは、歴史上いくらでも例をあげることができる。ソクラテスもそうだった。プラトンの伝えるところによれば、明らかに、時のアテナイの市民たちを刺戟するようなことを言っている。1番賢いのはお前だ、というお告げを受けたと行って、その賢い理由を、自分が「知らないということを知っている(不識の自覚)」からだ、というところに求めている。これほど刺激的なことは、そう簡単にいえるものではない。時の人々が、この人をどう見ていたかは、アリストファネスの『雲』を見れば、その一端がうかがえる。だが親鸞は聖人という扱いを受けるようになるし、ソクラテスも「聖人」とか言われるようになる。

この二つの例からしても、かつて悪とされたものが善とされ、善とされたものが悪とされるという事実があることは確かである。そうだとすれば、善とか悪とか言うことは、結局相対的であって、時により所によって、異なることになるといえるように思われる。つまり、不易のそれ自身なる善悪というものはないと、言いうるように思われる。ヘーゲルは、真と偽、善と悪というようなものは、それ自体(an sich)にあるものではなく、人間生活なり歴史なりが、その時々に展開し動いて行く場合の契機と、考えられるべきものだとしている。そうだとすれば、相対的であって、一向さしつかえないようにも思える。

では、善悪は所詮相対的なものだと、断定して構わないのだろうか。そうだとすれば、そこに「悪無限」(悪循環)があるだけだとなる。それでいいのだろうか。ヘーゲルは、この悪無限を脱出するため、循環を説いた。だが、カントは定言命法を言った。この場合、そこには相対的ということは全く入っていない。今それを、徳目ということで、考えてみることにする。正直、勇気、博愛、正義というようなことをいう場合、そこには普遍的ということが、当然のこととして、前提されている。だが、それでは、正直、それ自身というようなものが、成り立つだろうか。我々は、正直であろうと努力していると、一応言うことができる。だが、同時に、正直であり得ない人生を、我々は嫌というほど味わわされている。「正直な人だ」というのは、褒め言葉なのかどうか分からない場合もある。正直の反対は嘘つきだろうが、嘘のない人生が成り立たないことも、我々はよく知っている。本来ならば、世の師表と仰がれるべき人々が、嘘で固めた人生を送っている例を嫌というほど見せつけられている。政治や国際関係などは、嘘で固められているといっても良いほどである。このことを、穏やかに表現するとすれば、正直にも何ほどかの嘘が混じっているという風にいえるかもしれない。したがって、嘘にも何ほどかの正直さが入っているという風に言うこともできるだろう。そうだとすれば、やはり相対的だということになり、善とか悪だとかいっても、初戦は、程度の問題だということになる。善悪という質の相違は存在しないのであり、結局は、量(程度)の相違だということになるかもしれない。

だが、当為だとか公準だとかいう場合には、そうは考えられていない。それ自身なる善悪の世界があると前提されている。だが、物語化された場合、典型化された場合を除いて、現にそういうそれ自身なる善や悪があるという例に出会うことはない。現にあるのは、何ほどかの善、何ほどかの悪だということになる。昔から「盗人にも三分の理」とか言われている。そうなるとやはり、相対的な善悪しか存在しないことになる。これを更に推し進めると、所詮、善悪と言ってもその場のことだから、特に目くじらを立てなくても良い、ということになりかねない。だが、そうだからと言って、このことに甘んじ、それを肯定するままにしておいて良いということは、世人は言わないだろう。それでは世の中は保てないというだろうし、教育などは成り立たなくなってしまうと反駁するに違いないだろう。

そこで思いつくのが、悪は善の欠如態(privatio)であるという考えである。この考えは、明らかに、一方の極に全き善を置き、他方の極に全く悪を置いて、欠如の度合いに応じて、すべての相対的善悪をその程度に応じ、両極の間に配列しうるとする。そうすると、一体、すべてはそこに納まることになる。だが、注意しなければならないことは、そう考えるときに、両極に全きという形で、それ自陣なる善悪が前提されているということである。この両極というのは、現にあると考えられているのであろうか。もし現にあるとすれば、どういう形におてなのだろうか。現にあるのは、何ほどかの善、何ほどかの悪であるとすれば、そういう両極は「現に」はないと言わなければならない。そうだとすれば、その両極は「考えられたもの」に過ぎないのではないか、ということになる。完全な善の主体を思い浮かべるとして、イエスというような例をあげるとしても、聖書の伝えるところでは、時に迷い、時に神を疑うようなことを言っている。「神の子」とか「ひとの子」とかいう形で、完全であるかのように語られているが、聖書の読み方によっては、悩み多き人間を代表しているようにさえ、受け取れなくもない。更に、ソクラテスという人を例にとるならば、この人こそ悩み多き人間の苦しみを、そのまま味わった人として、映ってくる。更に釈迦というような人の場合になると、もう善悪のかかさりないところに、立っているように思われる。つまり、そこでは、両極などということが全く意味をなさない。

それでは、仏教では、そういう程度の違いなどは全く考えられていないのかと言えば、もちろん、そうではない。最も低い段階から最も高い段階まで、最も悟りに遠いところから、覚者になるところまで、微に入り細をうがって、煩瑣と言っても良いほどに、程度のちがいが語られている。このことは小乗(上座部)だけのことではない。大乗の場合にも、賢首大師の説いているところでも分かるように、もろもろの段階の区別は、われわれ俗人からみるとき、煩瑣であるというよりほかない。だからこそ、禅が出てくるのだし、法然や親鸞も出てくることになる。これらの場合には、一足飛びに悟になり、救なりに行くことが考えられている。だから、親鸞は「横超」ということを言っている。そこにもなお、多くの問題はあるが、今はそのことに触れないこととする。両極が問題にならないというのは、西欧的に言えば、無底(Ungrund)であろうが、これについては後に触れます。ところで、当面の相対の問題をもう少し考えてみましょう。

先程述べたところでは、両極に全き善と全き悪を置き、その間に程度の違いの善悪を配列する考え方があり得るということであった。その場合、現にあるのは、何ほどかの善と、何ほどかの悪ということだとすれば、全き善とか全き悪とかいう両極は、考えられたものに過ぎないのではないか、ということになる。考えられたに過ぎないというのは、現にあるのではないことと同じ意味である。だから、考えられたに過ぎないというのは、現にあるのではないということと同じ意味である。だから、考えられたに過ぎないということで、架空のもので、とるに足らぬものと言われていることになる。だが、問題はそれほど簡単だろうか。というのも、そういう風に考えるには、それだけの理由があるからである。つまり、今言ったような形で善悪に程度の違いがあるというのは、本来、善そのもの悪そのものがあるからだ、ということになる。そこには、我々を引き摺っていく思惟必然性(Dankenotwendighkeit)のようなものがある。その結果、出てきたものが、カントのいうような超越論的仮象であるにしても、そういうものを考えずにいられない人間が、現にここに”いる”という事は、否定できない。ということは、善悪並びに存するようなところに現にいながら、また、そうであればこそ、それを超えようとする人間がいる、ということである。

そう考えると、当為を立てることは、それほど変なことではないということになる。当為をことのほか強く言ったのは、カントやフィヒテであるが、それを言わざるを得ない人間が、現にいるという事実からすれば、当然のことであるともいえよう。だが、更に考えてみると、その当為は課題であり、要請であると説かれ、現実には到達できないものとされている。では、到達できないということで、当為には、意味がなくなるかといえば、そうではない。到達できないとわかっていながら、しかもなおそれを掲げることによって、現にいる私を道徳的に規制できると、考えられているからである。つまり、私が道徳的でなければならないということの根拠を、私に与えているもの、それが当為だということになる。これはどういうことなのか。

元々、カントは、道徳律は我が内なるものであるという。だから、それは現に私の中に生きていることになる。それにも関わらず、現に私のなかに生きているはずのその道徳律が、しかもなお課題であるということになる。この点から言えば、最も近くあるものが、実は最も遠くにあるという逆説に誓い議論となって出てくることになる。これは一体どういうことであろうか。その理由は比較的簡単である。人間は同時に欲望の主体だからである。カント的には、この欲望なるものは、外から来るものに動かされることとなっているのだが、われわれはそれに、簡単には打ち替えられないと考えている。だが、我々の内にそれに応ずる何ものかがなければ、外なるものをそれほど気にかけ、それを抑えるべきだという言う必要はないはずである。ということは、外なるものは、実は内なるものだ、と言っていることにならないだろうか。だが、それにしても、元々外と内をはっきり分けることなど、できることなのだろうか。

そう反問することは間違っているのだろうか。確かに内と考えられ、また外と考えられるようなことがあることは、否定できない。だが、では、どこからどこまでを外とし、どこからどこまでを内とするかというようなことに答えられ得るだろうか。そう考えると、この区別も人為的なことだということになるように、思われてくる。

この欲望ということに関連して、自分の格率に従うことは悪であるとされる。だから、これをいかにして捨て去るかということに、善の問題があるということになる。だが、さきほども言ったように、内と外の切れ目は、普通考えられているほどに、はっきりしているわけではないし、道徳律それ自身もよく考えてみれば循環の内にある。また、悪をもたらすとされる欲望にしても、今言ったように、外からであることにおいて内であるという形で、循環になっている。そうだということは、人間が欲望が善であると同時に悪であるというと言っていることになる。抜きがたく自らの中に食い込んでいる悪の声に、耳をふさぐことのできなかったカントが、そこにいることになる。むしろ、このことが「現」だということになってくる。このことを自らに照らして、否定しうる人はいないはずである。

だから、当為ということを言っても、そこに、今言ったカントが現にいることによって初めて、それは生きてくることになる。そうだとすれば、この場合の当為は極めてカント的であるということになる。当為というものはあるべきことを言っているのだから、その本来からすれば、普遍妥当であることになり、カント的というような、個人的形容詞がついてはならないはずのものである。しかしなお、形容詞が付けられ得るというところに考えてみなければならない問題があると言わねばならない。現にカントの言っている道徳律というのは、キリスト教の前提なしには考えられないし、十八世紀という時代の背景なしには考えられないし、カント的人となりを前提にしなければ、説明しえられないことである。というのも、「汝心をつくして、汝自身の如く、汝の隣人を愛せよ」というような道徳律は、キリスト教の前提がなければ考えられないからである。また、十八世紀と言ったのは、基本的人権を前提とする個人、その意味での人格の前提がなければ、あの道徳律は考えられないからである。更にカント的といったのは、自ら道徳律の主体たらんとして、厳粛であることを自らに課した人カントが、そこにいるからである。

伝説の通りに、カントが厳粛な生活を送ったかどうか、そこになお問題がないわけではないと聞いてはいるが、でもやはり、いい加減な人だったとは、いえないだろう。だが、この間の事情をもっと詳しく説明する必要は、今のところはあるまい。キリスト教的で、十八世紀的で、カント的だということは、一応わかってもらえるであろう。

これまで述べたところで問題になるのは、次のことである。我々は、両極に善と悪を置くことによって、それ自身において全き善と全き悪を考えるということから出発したはずである。その場合に、あるべき本来として、それ自体なる善と、それ自体なる悪とが置かれて、両極となり、そこに当為としての善が求められ、悪は捨て去られるべき否定であるということであった。だが、今出てきた結果からすると、それ自体に善であるはずのものが循環に入り、悪と同居してカントのなかにあることになり、そこから、当為もまたカント的だということになった。したがって、悪もまたカント的だ、ということになるのは当然である。だが、当為としての善は、それ自身特定の内容をもたないことによって、それであるはずである。一定の内容をもった当為などということは、到底考えられないはずだからである。だあ、それは一定の内容をもっていたし、もたざるをえなかった。そうでなければ、生きている人々に呼びかけることはできない。カントが、あれほど深い感動を、人々に呼び起こしたということを考えてみれば、その間の事情は察しがつくであろう。

もしそうだとすれば、当為は、すでに早く、相対的なものだということになってくる。そんなはずはないのだが、そうなってくる。これを悪の方から考えても、それ自身悪というようなものは、あり得ないという形になってくる。それ自体なる悪というのは、あるはずの自体として考え出された抽象態である。言ってみれば、それは、完全なる悪ということになる。が、それは、理論的に、一応、そういうことが考える事ができるということを、一歩も出ることができない。現に悪に苦しんでいる人間が、考え及んだものである。大事なのは、現に悪に苦しまされている人間がいる、という事実である。このことは、カントの場合でも同じである。このことは、自らに食い込んだ悪の現実においてしか、善を考える事ができないという事実を、言っているものにほかならない。以上のことからいえることは、当為という、相対を超えたはずのものが、しかしもなお相対的だということになってくる。そこにも悪の影が差している。悪に苦しむ人間の前提がなければ、当為ということも意味をもたないからである。ということは、言い換えると、どんなにしても、人間は悪を抜け出すことができないということになる。

ルソーの思想は、現に堕落している人間を目の当たりに見ることから出発している。カントは、このルソーに深く動かされることから、道徳論を始めているはずである。もともとは、カントが、ルソーの思想のなかに、意志の自由を読み取ったということになっている。だが同時に、カントは、文明が堕落をもたらしているというルソーの思想を知らなかったとは考えられない。そう考えると、その堕落した悪を捨てるという意味で、当為としての道徳律を考えたということもできる。それと同時に、ここに堕落した人間がいるという「現」から出発して読まれた対極が、当為としての善であったことに変わりがあるわけではない。そうだとすれば、時代思想に関係なく、当為を言ったといえると同時に、時代思想の影響を受けていたことになる。

このように当為をいうことすら、相対に陥らずをえないことになるとすれあ、もはや当為などということは、意味をなさないように見えてくる。当為というのは翻訳語であって、本来の漢語ではない。ドイツ語Sollenの訳語である。新カント派でこの語が特に使われたときから、我が国でも使われるようになった。sollenはもとはsculdで、現代語ではSchuld(負い目、罪)の意味、scelusに当たるといわれる。それから転じて現在では、本来在るべき当為の意味、在らざるをべからず(不可不または不許不)の意味に使われている。だから強い命令調の語彙をもっている。恐らく罪を負わされていることからの転化だと思われる。現に負わされていることから、それを脱してあるべき本来へと志向するという意味で言われているといえよう。だから、当為をいうときには、現にある姿が罪を負わされている、つまり悪い状態であるという前提が、そこにあると言えよう。そこから在るべき本来に帰る、または達するという意味を、もつようになったと思われる。この後の意味、つまりそこへ達するということからすれば、近代的実践の考え方につらなることになる。つまり、現状に対する否定的評価を前提として、それを在るべき本来にかえす、または在るべしと想定された理想、範型に達するという志向に関連している。

そこで、当為をいうときには、現在の不同に対して「同」を求めるという前提があることになる。この場合不同というのは、道徳的には、何等かの形で、善が悪に食い込まれ、邪魔されて、自己同一を保てないという意味である。だから、不同といっても、それは悪そのものではない。悪という意識をもつかぎりで、同時に何ほどかの善が一緒にあるという意味である。その意味で、不同なのである。その意味での不同の場から、同一を志向していることになる。それは、現に同一がないという前提、自覚から、発している。大切なことはこの点である。現にないという前提から、求められ、想定されたものが同一である。現に同一が保たれてそこにあるならば、同一を志向するということは起こっていない。同一律(law of identity)は論理学の最高原則の一つである。だから倫理学上の原則ではない。だが、倫理的に当為を言っているときには、明らかに、本来在るべき同一として言っているのにほかならない。もともと、論理と倫理は全く別なものではない。これを分けるのは、それなりに学問的根拠があってのことだけれど、一層根本的に考えるならば、この間は簡単に区別できるものではない。この議論をしていると、問題がそれてしまうことになるから、この程度に止めておく。

いずれにせよ、倫理的に当為を言う場合には、在るべき本来という形で、不同の現に対し、同が言われ、求められていることは否定できない。そうだとすれば、重要なのは、「現」が不同であるという認識があって初めて、当為の同が言われていることである。道徳的には善そのものではなく、悪そのものでもないが、何らかの形で善と悪が共存し、純粋ならぬ不純が現にある、という自覚が前提となって、純粋なる善が当為として志向され、純粋なる悪が捨てられるという形になっている。ところが、ひとたび、当為ということが言われるようになると、これが前面にかかげられ、本来は純粋であったものが、いつの日か毒され、汚されて現在のようになったという考えが、固定することになる。この場合、大事なことであるが、当為を言うのは、不純、不善なる「現」に出会っているということである。その自覚が、本来を志向するという形で、当為を言っているのである。だから、現に出会っているところ、現にいるところは悪の世界なのである。

もちろん、そうは言っても、それは悪それ自身というようなものではない。悪が自らの中に突き刺さっているという自覚において、求められたものが善なのである。これが倫理学という正面の議論となるとき、逆の形をとって現れる。その意味では、表向きの倫理学ないし道徳のすすめなどとは、逆のことをいっていることになる。われわれは、健康であるかぎり、健康の自覚はもたない。自分の体がどこか調子の悪いところがあると、今更のようにその部分の存在に気づく。つまり、健康であるときは、胃、肺、心臓の存在を忘れている。ひとたび、どの器官かの不調に出会うと、改めてそれがなにであったのだ、という自覚を新たにする。だから、胃があるのだという自覚にいるときには、胃の調子がよくないときなのである。そこで、胃の存在を忘れた状態に達するために、われわれは医療を受けたり、その他いろいろ手立てを考えるのである。胃の存在が忘れられたとき、もはや医療はいらなくなっているのである。

健康であるとは、その意味で自分の体を忘れていることなのである。日常生活においても、日常生活が不調もなく、普通に動いているときには、日常であるという自覚は伴われていない。ひとたび日常に不調が現れるとき、今更のように、日常があったのだ、という自覚を新たにするのである。日常にいて何も不調がないとき、日常そのものは現にわれわれの自覚には上がらない。その不調に出会って初めて、日常の自覚に出会う。だが、その日常が何であるかという自覚を新たにするとき、日常に逆にぼやけてくる。日常を日常として意識し、それを自覚的にそうあらしめようとするとき、逆に日常は姿を消して行く。これはどういうことであろうか。日常は気づかれない限り、そこにあった。だが、一度崩れた日常を、深めて元に返そうとするとき、それあわれわれから遠ざかっていく。そのとき、日常はあるべき本来の形をとって、それ自身なる同一に転化してしまっている。探し求められる日常は、かつてあったのだが、今はもうない。意識的に求められる日常などというものは、もはや日常ではない。だから、意識して求めるとき、いつもそれは裏切る形でしか形を現さない。日常とは、日常の意識のないところに、初めてあるのである。

日常というものは、形として対象化されるとき、それは同一という固定になってしまう。つまりそれは、あるべき、もしくはあったはずの日常となってしまう。同一律の場にある日常というようなものは、もはや日常ではない。過ぎし日の水の味わい直すことができないように、味わい直そうとして対象化され、形として追い求められるとき、日常はもはや、あったはずの本来として固定されているのである。同一律の場にある当為も、これと同じ性格のものである。当為といっても、所詮、相対に陥るのではないかと、前にのべておいた。そうだとすれば、当為などを言うことに、何ほどの意味があろうか、という反省がそこから出てくることになる。当為というのは、現実が不純であるとする自覚を前提としている。だから、現にいる自らの不純をひるがえして、純粋に帰ろう、ないしはそれに向かって前進しようとするところに成り立つ。だから、現にわれわれのいる所は不純なのである。つまり、悪に食いこまれた自らなのである。

先程言ったように、不純な自己に出会うことにおいて、立てられたものが、純粋なるもの、すなわち自己同一な当為である。だから、当為といっても、所詮、相対に陥るから、当為などというのは意味が無いということにはならない。当為は想定されたもの、要請されたものであるから、考え出されたものであるにはちがいない。だが、当為を当為として立てるのは、現に私が当為的状態にいないという自覚があってのことである。この記事の主題からいえば、私は悪にいるという現実意識のあるところで初めて、当為が意味を得てくる。この現実意識が強烈であるとき、逆に当為はそれだけ烈しく意識されている。無内容でただの形式だということから、当為をかかげることの無意味を主張するのは、よく考えていないからである。問題は当為を高く掲げるということが、悪にみちた現実との対決となるときに、意味が出てくるというところにある。

そう考えると、悪にみちた現実に対する強烈な意識のないところで、当為を言うことは、全く意味が無いということになる。だから、まず善があって、それに対抗する形で悪が出てくるのだとすれば、逆だと言わねばならない。悪に出会うことを通して、善の自覚を新たにするということが順序である。だから、健康の場合がそうであったように、本来、健康は、それと意識されないときに、現にあるものである。だから、それと意識された時には、すでに健康ではない。そのときわれわれは、何かの形で健康をそこなうものに出会っているのである。大切なのはこの出会いである。その出会いの「現」において、健康がそれと自覚されるのである。つまり、不健康との出会いにおいて、今更のように、健康があったのだと自らに言い聞かせるのである。

つまり、不健康との出会いにおいて、今更のように健康があったのだと自らに言い聞かせるのである。これと同じで、悪に出会うその「現」において、今朝のように善に振り返るのである。その振り返りにおいて、善があったのだという自覚が、善それ自身を固定させるとき、当為となると言うべきであろう。そのとき、この固定された善を基にして、そこから現にある悪を説明しようとするならば、悪は、あるべかざるものとして、ただ、ひたすらに排すべきものとされることになる。だが、重ねて言うが、悪にみちた「現」との出会いが根本なのである。その出会いの切実さというものがなければ、当為を言っても無意味というほかない。悪なる現実に対する洞察の深さというものがないところでは、善をどれほど語ろうとも、空言でしかないのは、そのためである。その意味で、またそのかぎりで、悪の自覚こそ根本であると言わねばなるまい。

悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える(2)

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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