ベルクソンの哲学(入門)
01 量と質との戦い
ヨガで無理なポーズを取ろうとしたとき、体がまだ硬くて「痛いなあ」と思うことがあるだろう。キックボクシングでミドルキックを放ったときに、相手にデフェンスされ臑でカットされると初心者ならかなり痛いだろう。このような痛み、もう少しベルクソンが問題にしたことにフォーカスしてみましょう。ベルクソンは『意識に直接与えられているものについての試論』においてこう述べています。
「世間一般では普通、感覚や感情、情熱や努力などの意識状態は、増大したり減少したりするものだとされている。さらに、ある一つの感覚をとってみても、それと同類のもう一つの別の感覚より、二倍とか三倍、あるいは四倍の強さだということができる、と断言する人もいる。(中略)ある一つの感覚がもう一つの別の感覚より大きいと言ったり、努力にも大小の違いがあると言っても、何ら不都合はないと考えている。つまり、まったく純粋内的な心的状態にも、量的差異があることを認めているのである。さらに一般常識も、この点についてはまったく同意見で、一点の疑念も感じていない。自分が感じる暑さや悲しさを相互に比べて、こちらが大きいとかそちらが小さいとか、と言うのは普通のことだ。そして、このより大きい、より小さいの比較弁別が、主観に関わる心的事象や非外苑的な事物に敷衍されても、誰も特に驚くことはない。しかしながら、そこには、きわめて不明瞭な点が残っており、一般に考えられているよりはさらに深刻な問題が隠されているのである」(竹内信夫訳アンリ・ベルクソン『意識について直接与えられているものについての試論』白水社)
つまり、父親を亡くした悲しみの方が、猫をなくした悲しみよりも大きいとか小さいとか言うことは一般的に可能であるし、そういう発言は自然なものと見なされているが本当にそれって比べられるのか?という問題提起をベルクソンはしているわけです。もう少し分かりやすい例を挙げれば、仮にここに針があるとして、次のような実験をやってみるとしましょう。針を前腕に突き立てて、徐々に針を押していく。針がじわじわと前腕に刺さっていくとします。これは痛そうな仮定ですが、はじめは殆ど何も感じないでしょう。当たっているだけなら、ただの接触感があるだけです。そのうちに、じわじわと肌がくぼんでいき、痛みが増していきます。圧迫感、突っ張ったような感じがし、更に力を加えるとそれなりに痛い感覚がし、一気に針の周辺を痛みの感覚が駆け巡ります。赤い血の点が見える。バンドエイドを貼りたくなりますよね。はじめは接触感、そのうちに圧迫感、つっぱり感があり、それから鋭い痛みが走る。その痛みは周辺にぼけたような感じで広がっていきます。さて、今針にかかる力の強さが100g、200g、300gといった具合に増えていくのと同じように自分が感じた感覚を対応させてみることは可能でしょうか。
17世紀後半のデカルト主義者たちなら、たとえば100gが圧迫感と対応し、400gが痛みと対応するというようなことを主張するかも知れません。そのことから、日常用語でいう痛みというのは、圧迫感の4倍の感覚なのだと主張するでしょう。できる限り簡単で、直接的な数的処理をして、そこから出てくる量的な関係性が世界の本質だからと考えるかも知れません。彼らは世界の根源的な作りが機械論的なものだという直観をもっていましたが、それを詳しく展開するだけの数理的な武装も、実験的な根拠ももっていませんでした。だから、そんな調子で、かゆみは痛みの30%の感覚、だから3回繰り返せば、ほぼ痛みの一回分に相当するというような感じの議論をするでしょう。
もちろん、現代の生理学者たちは、こんな単純な計算で満足することはしないでしょう。だが、今の例に則していえば、針にかかる重みとそれがもたらす感覚との間に何らかの関数関係を探ろうとし、もし何らかの関数が見いだせたら、それで自分の作業は成功したと考えるであろうという意味では、本質的には17世紀のデカルト主義者たちの仕事を継続しているだけだと言っても間違いはなさそうです。先程引用した『意識について直接与えられているものについての試論』(以下、『試論』と略していいます)で彼自身の問題意識はこの点にあったわけです。ベルクソンがこの本で取り上げた問題は、どれもが多少とも生理学や心理学に関係するものです。ところで、その二つの学問は、長い時間を経た上で、いずれも19世紀半ば頃から急速に近代化していく道へ至ります。たとえば、神経インパルスの伝導速度を測ったことで名高い生理学者ヘルムホルツ。19世紀半ばに公刊された彼の『生理光学便覧』は大きな影響力を誇りました。ヘルムホルツらは、生理学という、体の感覚や運動メカニズムを対象にする学問が、<生命力>や<霊魂>のような、本質的に自然科学とは異なるオーダーにある因子を考えなくてもいいという強い信念を持っていました。生物もまた、力学や電磁気学、光学などで次々に成果をあげていった物理学の言葉で記述し、説明することが可能なはずだ。そうヘルムホルツらは考えて作業を進めていきました。
他方、そのような心理学の動きに煽られるようにして、長い間、哲学や文学との違いを明確に打ち立てることができずにいた心理学が、ようやく科学へと脱皮しようとしていました。人間の感覚や知覚のありさまを、概念的な分析や情感の記述によって組み立てていくだけではなく、巧みに造られた多くの実験によって、観察し、検証するという手法の導入がされつつありました。心理学者ヴントは、その種の実験心理学の有名な生みの親の一人です。彼が1870年代に出版した『生理学的心理学綱要』は、心理学史を彩る重要な古典です。
敢えて乱暴にベルクソンが『試論』の中で対象にしていた主題というのは、自然科学としての体裁を整えつつあった生理学や心理学の仕事と大幅に重なっていたということです。その動きをおおまかに体現するものとして、彼は当時実際にしばしば使われた「精神物理学」という言葉を自分でも書いています。そして、ベルクソンがその状況の中でしようとしていたのは、精神物理学の台頭に対して、哲学者としてのなんらかの態度表明をすることでした。具体的には、本当にその種の自然科学的分析手法を使えば、意識や心理というような言葉で意味しようとしている経験の内容が完璧に解明されるのだろうか、という問いによって表されていたわけです。本当に意識は科学で解明し尽くされるのだろうか。気が早いようですが、ベルクソンのその問いに対する大筋の答えとしては、「解明し尽くされることはない」ということでした。なぜなら、本性的に自然科学の手法では捉えられないものが残るだろうから、というわけです。もっとも、そこで話が済むのであれば、ある意味では普通の議論です。優れた文学者やど偉い宗教家なら、きっと同じようなことをいうでしょう。ベルクソンがそうした主張と誤解されるのも想像できます。しかし、ベルクソンの議論の組み立て方はもう少し込み入っています。
科学への脱皮をし始めた生理学や心理学は次々に良い仕事をしている、それは認める。しかし、科学化された生理学や心理学の業績を読み、それなりに納得する人間たちは、本当ならば最初から知っているはずの自分の意識の本当の成り立ちや姿をあたかも生理学や心理学の説明方式になぞらえるように自ら理解してしまい、その結果、本来の意識の成り立ち、本当なら知っているはずの意識の在り方に自ら見えなくしている可能性がある、と。その意味で、ベルクソンの学問的な作業は、ある意味でプラトン的な想起を、意識を対象にして行うということを意味しています。本当は最初から知っているはずなのに、忘れてしまっているものをもう一度見いだすこと。それがベルクソンの目的でした。
ここでもう一度、最初にあげた針で突き通すという実験のことを思い出してみましょう。ベルクソンはその実験について触れながら、こう書いています。針が指されるという感覚は、ともすれば、まず針が当てられた時点から、非常に小さな痛みが存在し、それが徐々に大きくなって大きな痛みに変わっていくように捉えられがちです。つまり、人は、その実験最中に起こるのは、痛みと同一のかんかくが量的に増大していくことだと考えがちです。しかし、実をいうなら、それは針をもっている方の手が徐々に力を加えていく、という筋肉の努力の感じがいかにも量的に単調に増加していくという気がするので、その筋肉努力の増え方の様式を、針を刺される方の感覚に当てはめて理解しているからに他ならない、と。ベルクソンはここで三つのことを同時に述べています。一つ目は、まず筋肉努力のように、なにかの単位を適当に決めれば比較的単調な定量的理解をすることができるものが生理学の話題の中にあるということ。二つ目は、逆に言うならば針を刺されるときに感じるいろいろな感覚は圧迫感やつっぱり、かゆみのような感覚から鋭い痛み、そしてその後にくる周辺にぼやっとj広がっていく痛みの残りかすに至るまで、微妙で質的な違いを持つ一連の感覚なのであり、それは筋肉努力のような説明様式とは違うアプローチを必要とするはずのものだということ。そして三つ目は、
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |