ベルクソンの哲学

01 ベルクソンの哲学について

アンリ・ベルクソンの哲学とは、実在をあるがままに記述する試みです。著作によって扱われる主題はさまざまでしょう。実在のリアルな立ち現れを、一切の媒介に頼ることなく描き切ること。事象から示されるのではない超越的な説明を持ち出さずに、直接与えられるリアルティに従うこと。真の経験論あるいはプラトニスムの顛倒を標榜するこの試みは、一見単純で率直なものに見えるかもしれません。ベルクソンが直観によって、あるいは対象と自己の一致によってこれらの記述を果たすと述べることもその率直さを強く印象づけるでしょう。こうした仕方で見いだされる事象は、たえず変化し、新たな質を生み出し続ける流れ、すなわち本質的に時間的な実在です。そのような実在を、ベルクソンは持続(duree)と名付けました。ベルクソンは、持続である流れから離れることなく、そこに内在的な仕方で入り込むことにより、つねに新たで、それゆえ独自な実在の記述をなしていくわけです。

しかし、この試みを比類ない仕方で行ったベルクソンの哲学は、見かけほど単純でも率直でもありません。むしろ、実在の屈曲を辿り着くそうとするその議論は、多くの錯綜に充ち、至る所で常識的な思考を停止されるように見えます。たとえば、真の経験論についての文章で、ベルクソンはこう述べています。「(経験論の名に値するものは)対象について、その対象にのみ適した概念を切り抜く。概念とは、もはや1つの概念であるとはほとんどいえないものである。というのも、それはその事象にだけしかあてはまらないものだから」。あらゆる実在は独自なもおであり、いっさいの過去を繰り延べて新しい。だから、実在をあるがままに描く哲学は、実在の独自性をすくいとり、その実在のみ適した説明を見いだす必要があるでしょう。そのような記述が、実字の「絶対的なもの」に触れる記述であるでしょう。すると、そのためには実在を記号で置き換えて済ますわけにはいかないことになります。なぜなら記号とは、いつも抽象的で一般化された出来合の概念を表現するものだからです。記号は事象の明晰な記述に役立つが、同時に、たえず移り変わり多様なニュアンスに充ちた流れを逸してしまいます。だから、記号に一切依存することなく実在を探らなければならないという姿勢が生じてきます。ベルクソンは、最初の著作である『試論』から後年にまとめられた『思想と動くもの』の諸論考に至るまで、表面的には記号への忌避のような姿勢をとり続けます。

しかし、対象に密着する記述も、実際には幾分か独自さを失いながら記号によって表現されるものでしかありえません。ベルクソンが、実在を描く場面で特権的に用いている生成、変化、質的異質性、多様体という諸概念にしても、やはり固定された記号によって表現されるものでしかりません。すると、実在をありのままに記述するベルクソンの試みは、始めから問題を孕む物になります。実在を捉えることが哲学の企てであるとしても、変化し続ける実在はもとより記述不可能ではないのかと思えます。逆に言えば、それはいっさいの記号表現を逃れることにより、すぐれて実在として指示されるのではないか。しかしそうであれば、こうした実在の記述を可能にする直観の方法論とはどのように哲学の記述を構成しうるのか、これが問われるべきことになるでしょう。少なくともここで、実在のありのままの記述を標榜する哲学が、見かけ上の率直さにも拘わらず込み入った事情を抱えていることがわかります。

02 流れとしての実在

さらにいえば、ベルクソンが描き出す実在の姿はかなり特殊なもおです。ベルクソンは既成の哲学のシステムから外に出て、常識に映るかぎりのありのままの実在を描こうとします。しかし、ベルクソン自身が認めているように、こうした議論の進め方は逆に眩暈をもたらすような視線の変更を常識に要求するかも知れません。なぜならば、常識はむしろベルクソンが拒絶する固定した地盤を想定して世界を見ようとするものだから。しかし生成の場面に直接入り込むベルクソンの企てによって、われわれは定点をどこにももたないかたちで流れのなかに放り込むことになります。どこにも定点がないという事情を徹底することがベルクソンの試みの極限の姿でしょう。それはどこかしら途方もない結果を招いてきます。

たとえば、ベルクソンは、立ち現れてくる対象に固定した輪郭を認めません。いずれ知覚の場面で説明することになりますが、知覚される対象が特定の輪郭をもって現れるのは、知覚する生命体が世界を生きるための便宜のような事態です。流れである実在は、すべてが変化し続けるものです。だから実在はつねに変化し続け、その変化を包括する環境の変容を引き起こし続けています。砂糖の塊がコップの中で溶けるとき、変化し、解体しつつある過程が砂糖のリアルな実在です。それはまた、砂糖を含むコップの水の変化を、さらにはそのコップを内包する場面全体の変容と伴うでしょう。こうした多層的な過程において、自らは変化せずに変化を支えるような事象はどこにも存在しません。実在はすべて変化し続けるから、そこでは移り変わらない輪郭や形態などは想定すらできないのです。それはどんなに単純な運動を論じても同じ事になります。物体の直線運動においても、運動しない(変化しない)基体を前提とするような思考は、ゼノンのパラドックスによって矛盾に陥ることになります。

個別的な対象に明確な輪郭を認めないベルクソンは、そうした対象が構成される基礎的な要素としての感覚与件の類いを想定することもありません。哲学史的に考えれば、純粋な現れへの復帰が、知覚する対象の究極的な感覚的要素に立ち戻ることを意味することもあり得ます。たとえば、その一例として、ベルクソンと時期的にそう隔たっていないエンスルト・マッハの議論などが挙げられるでしょう。しかし、純粋な感覚的要素という発想は、たとえ徹底した現象の解体であるとしても、それ自身やはり動きもしない基体から動く物を構成するという論理に基づくものです。むしろ、ベルクソンの視点からすれば、感覚的要素の方が変化しつつある全体から抽象的に分離される構成物であるということになります。こうした批判は、要素的な観念を想定して心理的事象を論じていく観念連合的な発想に対しても同様に主張されることになります。この点で、ベルクソンの考えは、原子的な要素の対立に対して全体的な布置の先行性を主張するゲシュタルト心理学に近いといえるでしょう。しかし、ベルクソンは、個別的なゲシュタルト(形態)をも、それが含まれる流れや変化の全体性の中に置き直すように解消するのです。あくまでも変化しつつある全体が、ベルクソンにとっての実在の基本像であるわけです。

こうした実在の姿を知覚とは別の仕方で具体的に示してくれるものは、生命体です。変化である実在がもっとも的確に表現されるのは、生命の領域においてです。生きているものは、成長であるにせよ、老化であるにせよ、常に別のものになりつつあるものです。たとえば、人間には大人も子供もないですね。なぜならば、大人と子供を分け隔てる明確な境目など、実はどこにも存在しないからです。法律などにより人為的に設定されるだけです。だから、本当のところ、大人になりつつある子供か、子供でなくなりつつある大人しか実在することはありません。AからBになりつつあるという場面での、AとBとを諸傾向としてともに含んだ推移の状態しか、実在の名に値するものはないのです。多数的な在り方を孕みながら絶えず自ら変化させるもの、それゆえ、固定した輪郭やかたちでは捉えきれないもの、これが生命体なのです。

同様の事情は、進化という時間の本質に関わる場面においてさらにはっきりと提示されます。生命体とは、きわめて長いタイムスパンで考えれば、過去の全てを萎縮しながら未来へ向かい変化するものです。だからまず生命には、明確に種別化された個体性を与えることはできません。「個体性には無限の段階があり、どこにおいても、人間においてさえ、個体性は完全に実現されていない」わけです。植物、動物(本能)、人間(知性)という3つの傾向は、ベルクソンが生命の進化を考える際に論じる基本的な諸傾向ですが、個別の生命体においてはこれらの諸傾向が錯綜しながら混ざりあっています。つまり、生命体とは、その割合は固有であれ、いつも幾分か植物的であり、動物的であり、知性的なものです。だから個体である生命体も、別種の生成の傾向の力が均衡する現場であり、それ自身が明確な個として存立しうるものではありません。

それだけではなく、さらに生命体とは、たえず進化の途上にありながら、何かしら新たな別の傾向を生み出し変化しつづけているのである。もちろん、我々が実際に把握しうる進化とは、きわめて緩慢なものです。だから、それを的確に見いだすことは困難であるかもしれません。それにまた、現存する生命体が何に向かって変化するのかも明らかなことではない。それは、現時点では表象不可能な何かに向かって変化するとしか述べ得ないものだろう。つまり、この変化とは、知覚できない純粋な推移のようなものです。しかし、このような変化や進化とは、まったく変化も進化もしない個体に突然外側から降りかかってくることです。むしろ、生命体とは、あらゆる場面がさまざまな程度で変化や進化を果たしつつある現場なのです。その限りで生命体とは、ベルクソンの議論にとって特別な実在とみなされます。

さて、これらのことを考えても、対象に合致する直観の方法を単に率直なものとみなすことはできないでしょう。流れである実在に入り込むことは、実在の記述という在り方についての問題とともに、実在への大胆な視線の変更をも要請するものです。そこでは、知覚を構成する要素的な単位も対象の明確な輪郭も排除され、すべては全体の中での推移になります。ベルクソンの述べる直観は、このような実在を明らかにするものとして考えられなければなりません。

03 私という実在

こうした視線の変更はもう一つの、しかも方法論的に考えれば重要な帰結を含んでいます。つまり、流れである実在に内在しようとするために、ベルクソンの議論においては流れを知覚する定点のような主観の存立も排除されてしまうのです。持続である流れに入り込むことが哲学の方法であるとしても、入り込む側の私が流れに対して無関係に、あるいはあらかじめ傍観者的に損壊しているならばどうであろうか。流れを見る者ではあるが、自分は流れない私を設定するならば、それは実在のなかに直接的に内在するベルクソンの方針に深く反することになるのではないでしょうか。私が合致していく事態が持続であれば、そこに内在する私もある種の持続として、あるいは持続の内在的な一位相として見いだされるべきではないでしょうか。

だからベルクソンの議論においては、実在はそれに与えられる焦点のような超越論的主観性が存在しないことになります。私あるいは意識と名指されるものは、実在の流れに対し、何らかの超越論的な位相に実在するわけではありません。むしろ、実在と重なり合う私の姿を確保することが、ここで本質的な問題になるでしょう。この点で、ベルクソンの最初の著作の題名が『意識に直接与えられるものについての試論』と訳されるのは誤解を生みやすいことかもしれません。それはあたかも、流れである実在が意識という場面に対して与えられるという構図を想起させがちだからです。意識も意識に与えられるものも、それらはともに実在なのであり、逆に言えば、ともに幾分かは意識的なものです。そこで重要であるのは、意識という存在が実在の特権的な在り方を示していることです。

流れである実在から切り離される私を認めないという事情は、『物質と記憶』において、知覚が光の屈折という比喩により説明されることからも理解できるでしょう。すでに触れたように、ベルクソンにとって知覚される対象の輪郭とは、生命体が有効な行動をとるための便宜的な区分にすぎないものでした。その意味で、知覚とは一連の流れである全体から生命体にとって有用な場面のみを分解させて浮かび上がらせる働きなのでした。同じ流れのなかに存在していても、地を這う虫と飛翔する鳥と人間である私にとって世界の現れ方ははっきり異なるものでしょう。だから、対象が、生命体の関与に従って固有な在り方で現れることは確かでしょう。しかし、その際ベルクソンは、知覚をなす生命体が世界の中心を形成し、対象に光を投げかけながら世界を能動的に浮かび上がらせるとは考えません。むしろ、生命体とは、知覚世界の側から発せられてくる多様な光を浴びながらそこに屈折を生じさせ、いくつかのラインを消滅させつつ生命体にとって有効な事態を弁別していく働きとして描かれるのです。この意味で、生命体や主観とは、光に屈折をもたらす媒質のように記述されます。世界は多様な光の線に満ちあふれたものであり、生命体や主観とは、まずはこうした光に浸りきったものにすぎません。そこで生命体とは、自らが内在する光の束に固有の変更や減衰をもたらしていく光学装置のような働きをなすのです。

主観とは、光の屈折を生じさせる重力場のようなものでしょう。もちろん、条件反射的な知覚しかなしえない未分化の生命体とは異なり、主観の名に値する私は記憶イマージュという特別な心的装置を備えています。だから、私は知覚に際しても、記憶イマージュを介入させながらたんなる光の屈折では説明できない複合的な働きをはたすことになります。しかし、ベルクソンにとっては記憶もまた、世界のイマージュが別様な仕方で確保されるような審級、いわば光の屈折のヴァリエーションとして論じられることには変わりがありません。私とは光が満ちあふれる実在の中で、意識や記憶という特殊なリズムをもたらす屈折装置なのです。私は、流れである実在から独立することによって、その場が確保されるものではありません。むしろ固有のリズムをもたらしながら自己の位相を織りなしていく、持続の一部とみなされるべきでしょう。

04 忘却と軽傷 思想史の中のベルクソン

しかし、私を実在の中の光の屈折点と捉えるベルクソンの思考は、多くの問題を引き起こすようにも思われます。この姿勢は、実在に内在することから哲学をはじめるベルクソンにとって原則的なものです。だからそれは、哲学の方法論という観点から考えれば難点をもつものではないでしょうか。哲学史的に言えば、実際にこうした疑念が今日に至るまでのベルクソンの評価を特徴付けてきたともいえます。ベルクソンの哲学の意味をよりはっきりと位置づけるために、ここでベルクソンの思想史的評価の変容についても見てみましょう。

著作の年代から考えても、ベルクソンはまさに20世紀の思想を切り開いていく時代に位置しています。この時代は、近代的な哲学の配置を取り払いながら、現代思想といわれる潮流を生み出しはじめた時代でした。そうした激しい思想史の動きの中に、ベルクソンの思考も組み込まれています。ベルクソンの著述の時期は、無意識という概念を創出し、精神分析という人間精神への接近方法を編み出したジクムント・フロイトや構造という概念を使い、従来とは全く異なった観点から言語の存在の可能性を論じたフェルディナン・ド・ソシュールの活躍した年代とほぼ重なっています。ベルクソンの代表的著作である『物質と記憶』は1896年、『創造的進化』は1907年に出版されていますが、フロイトの『夢判断』は1900年に刊行され、またソシュールの一般言語学に関するジュネーブ大学での講義は1900年代から始められています。直接的な交流という意味では、ベルクソンと彼らの繋がりは乏しいものです。個人的な関連を考えるなら、むしろアメリカのプラグマティストであるウィリアム・ジェームスとの交流などに論究することが一般的でしょう。しかし、今日から見れば、フロイトやソシュールとの時代的な連携は無視しがたいものに思えます。

というのも、フロイトもソシュールも当時より影響力をもった思想とみなされながら、その核心的で存在論的ですらある思想史的意義が強調されたのは、ポストモダンが喧伝される1960年代になって、つまり、ラカンやアルチュセール、ロラン・バルトやレヴィ=ストロースらの活躍と評価によってなのですが、そうした見いだされ方にはベルクソンと共通するところがあるからです。ベルクソンも今世紀の初めこそは、近代哲学を批判する新たな「生の哲学」の提唱者としてジャーナリスティックにも持ち上げられもしました。しかし、とりわけフランスでは、19世紀以来のスピリチュアリスムの伝統を継ぐ思想というみなされ方も強く、結局は人間の精神的内面について、あるいは生命という自然について素朴に語るだけの哲学という評価が優勢になります。持続という、ベルクソンにとって存在論的な実在概念も、単なる心理学的記述の延長だと考えられてしまいます。とりわけベルクソンを哲学の一線から退けたのは、フッサールに端を発した現象学のフランスにおける受容でしょう。ベルクソンの次世代に位置するサルトルやメルロ=ポンティらは、ハイデガーによってすでに存在論的に展開されていた現象学こそが哲学の新たな方途を切り開くという見方をとり続けました。彼らにとってベルクソン哲学は、そのオプティミスティックな外観や姿勢も含め、乗り越えられるべき旧世代の思考、あるいはたんなる自然主義的思想の一形態に過ぎなかったのです。彼らはむしろ現象学的な意味での超越論的哲学の徹底を重要なものと考え、ベルクソンから思想史的なアクチュアリティーを奪っていきます。

しかし、この見方は、ジル・ドゥルーズの出現によって変更を余儀なくされることになります。思想の継承者とは、その思想の透徹した理解者であるとともに、単なる解説者やエピゴーネンに留まることなく、予想もしえない別の領域に思考の本質を繰り広げていく者であるならば、ドゥルーズは殆ど唯一と言ってもよいベルクソンの継承者でしょう。もちろん、ヴラジミール・ジャンケレヴィッチをはじめとして、ベルクソンの良き理解者は現象学が隆盛を誇っていた当時から存在していました。のちに具体的に指摘したいことではありますが、メルロ=ポンティも、幾多の批判的な言説にも拘わらず、思考の本質的な部分をベルクソンから受け継いでいるともいえます。しかし、ドゥルーズがなしたベルクソンの読解には、彼以前のベルクソンの批判者やあるいは賞賛者とは、全く異なった独創性があります。ドゥルーズは、ベルクソンのテクストを徹底的に解読することから、新たな存在論の着想とそれを具体化する方法論とを引き出してくるのです。こうした方法論は、さしあたり差異というポストモダンの思考にとって中心的な概念を軸に展開されるでしょう。ドゥルーズは、『ベルクソン研究・第四巻』を発表した凝縮された小論考「ベルクソンに於ける差異の概念」とベルクソンの各著作を順次扱いその内容を敷衍する『ベルクソニズム』において、これまで誰も試みなかったようなベルクソン読解を遂行します。ここでドゥルーズによって強調された持続についての存在論的な位置づけや差異や反復という概念装置は、ベルクソンが直接とりあげられている『差異と反復』や『シネマ』の二巻のみならず、ドゥルーズの思想全体の構造をも規定することになります。しかし、まずはこのような思想史的流れのなかでのベルクソン評価の変容を、思考の内実に踏み込む形で記述していきましょう。

05 超越論性と内在性 現象学とベルクソン

ベルクソンに対するサルトルやメルロ=ポンティの厳しい評価については、理解出来なくもない側面があります。彼らがフッサールに起源を持つドイツ現象学に魅せられた理由は、現象学的還元という哲学的立場を徹底する方法論(自然主義的態度や歴史主義的態度の括弧入れ)と、そこで取り出される志向性、即ち自己を世界の対象に向けて開いていく作用の記述とが、精神主義的色彩が濃いフランスの思考(ベルクソンもそこに含まれる)に風穴を開ける役割を果たすようにみえたことにあるでしょう。フッサールにおいては還元の遂行によって、すべての現象は超越論的主観性(知覚世界を私にとって可能にするような私)という申請の現象領域に連れ戻されていきます。一切の自然主義的なドクサ(臆見)を排して超越論的に設定された自我の一次圏内に還元される現象こそが、純粋な意味で現象の名に値します。しかしこの自我の一次領域は、決して閉ざされた内在なのではありません。それは、そこから世界に向かって志向性が超越していくような開かれた作用の場面です。つまり、主幹の思念作用とその思念が向けられる対象との相関関係により規定される志向性の働きとは、自我への内在から世界を構成するような観念論的なものではないわけです。メルロ=ポンティに即した言い方をするならば、還元の遂行とは、世界と自我との深い結びつきを再発見することであり、世界に深く自我が根付いている事情を再確認することなのです。

つまり、現象学とは、超越論的な還元の方法を軸にした視線の変更の徹底的な要請だったわけです。それは自然主義的な見方を括弧入れしながら、世界の意味が算出される原初の場面を見届けることを目的とします。こうした現象学の徹底性は、サルトルやメルロ=ポンティを引きつけた大きな要素であっただろう。さらに彼らにとってつぎの事情も重要でした。現象学はこのように世界の語り方を変革することにより、従来とは異なった仕方で、他者や身体あるいは歴史や文化を主題化するものでったのです。とりわけ、メルロ=ポンティは具体的現象を見いだす手段としての還元を重視し、客観的に先立った生きられる身体の場面を、他者や歴史との交錯において記述することになります。他者性、社会性、歴史性を根源的な地盤に基づきながら論じうることは、戦後期にあたるこの時代の雰囲気に極めて適した内容でもあったでしょう。

しかし、ここで2つのことを考えなければなりません。1つは、こうした現象学の思考は、実在への徹底した参入を企てるベルクソンの哲学と本質的にどこが異なっているのかということです。現象学とベルクソンの哲学とは、近代主義的な謬見を排して純粋な現れの場面に立ち返るという観点からは共有する指向を持ち合わせているはずでしょう。そうであるならば、この両者の共通項と相違点を見分けることは、ベルクソンの思想史的位置を規定するためにも必要なことではないでしょうか。そして、もう一つは、隆盛を誇った現象学も1960年代以降になってさまざまな批判にさらされはじめたことです。これらの批判を受けながら、ポストモダンの大きな2つの潮流が浮かび上がっていくことになります。その一方は、現象学の原理的批判を深めることにより哲学を解体していくような思想です。他方は現象学とは異なった基盤(ことにエピステモロジーや人文科学的発想、あるいはある種の経験論)に立ちながら、現象学とは別様な仕方で思考を組み立てていくものです。概括的にいえば、その前者はデリダやレヴィナスによって、後者はとりわけドゥルーズやフーコーに代表されるものでしょう。これらの思考形態はともに西洋哲学の徹底した転覆を試みながら、ポストモダンという響きにつきまといがちな表層的流行に留まらず、すでに古典としての位置を確保しつつありものです。ドゥルーズによって再評価されたベルクソンの思考は、その後者と関わりを持つだろう。従って、現象学を乗り越えていくこの2つの流れとベルクソンとの連関を明確にすることは、現代の思考の配置におけるベルクソンの意義を際立たせることになるのではないでしょうか。

後者の議論は、後ほど検討しましょう。まずは、現象学とベルクソンの思想との連関から考えてみましょう。既に述べたようにこの両者には、近代主義的な知見を排除しながら純粋な現れへと回帰する点で共有する部分があります。しかし、ここで次のようにも考えなければなりません。現象学において、純粋な現れとは超越論的自我に現れるものです。これに対して、ベルクソンにおいて重要なことは、私もその一部であるような実在をそこに参入しながら見いだすことです。こうした事情は、すでに引き合いに出した光の比喩を利用すれば理解しやすいでしょう。現象学においては、超越論的自我が世界を照らす焦点のように予め設定されてます。純粋な現れとは、こうした超越論的な場面において光に照らされるように現れるがゆえに、純粋なものであるのでしょう。世界を真正な光で照らすという構図が、志向性の在り方を形成します。ところが、ベルクソンにおいて、光はまったく逆の方向を持つように描かれます。私とはそこから光が発せられる焦点なのではありません。むしろ、光が満ちあふれているのは世界の方です。世界から差し込まれる光が特殊な屈折をなす場面こそが、私として取り出されるのです。つまり、この両者において、実在の純粋さを保証する光の場所は逆になっています。現象学において重要なのは、現れの純粋さを規定する超越論的場面を確保することです。ところが、ベルクソンにおいては、流れとしての実在に内在し、その内在の場所から実在を語ることが必要になります。現象学は、世界に対する特権的で超越論的な光源を現れの純粋性のために確保することです。ところが、ベルクソンの哲学において、世界ははじめから純粋な光の場面であり、そこにどのように内在するのかが方法論上の問題になっているのです。

もちろん、あまりに現象学の超越論性を強調するならば、次のような反論があり得るでしょう。すなわち、こうした見方は中期フッサールまでに限定されるものであり、「生活世界」を主題化する後期フッサール、さらにその問題設定を引き受けたメルロ=ポンティ現象学にはあたらなのではないか、という反論です。とりわけ、フッサールのリジットな超越論主義を緩め、事実性や歴史性の含意の記述に中心を移したメルロ=ポンティの試みを、こうした視点から捉えることはできないのではないか。実際、身体としての主観性を論じるメルロ=ポンティにとって真正な超越論的領域の確保の困難さは既に大きな問題でした。しかし、そうであれ、身体の現象学が還元の成果であることは変わりがありません。また身体に位置づけられる主観性が、現象にとっての超越論的視点として作用することも否定できません。それは身体的志向性や沈黙のコギトという主観性概念が『知覚の現象学』で重要な役割を果たしていることからも分かります。さらにベルクソンとの関わりにおいてこうもいえるでしょう。つまり、メルロ=ポンティは、どこかで超越論的な哲学を特権視していたために、ベルクソンの記述を自然的態度に基づくと断じる姿勢をとり続けることができたのではないでしょうか。即ち、哲学の語り方という観点からは、メルロ=ポンティはフッサールの方法にしたがい続けていたのではないでしょうか。

サルトルの『想像力』におけるベルクソン批判や、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』で随所に見られるベルクソンへの註記に共通するのは、こうした姿勢です。たとえば、サルトルは、志向性という構造を持たないベルクソンの意識を、単なる実在の「実体的な形態の一種」として避難しています。サルトルによれば、実在とは志向性である意識によって、それが向かう対象として措定されるものです。しかし、ベルクソンの記述では、そのような対象は意識と混濁するというかたちで同一視されてしまうというのです。また、メルロ=ポンティも次のように批判します。すなわち、ベルクソンの運動の記述やその多様性の描写は内的経験の的確な把握でありうるが、しかしそれが可能なのは、あくまでもそれらを統括する意識にとってなのではないでしょうか。いずれにせよ、これらの批判の中心点は、意識という特権的な哲学の場面を見いださないベルクソンの記述の原理に向けられています。現象の純粋性を確保する場面をもたない以上、ベルクソンの記述は還元により排除されるべき自然主義的で心理学的な視線の産物ではないかというのです。

しかし、ベルクソンの実在の記述は、本当に自然的視線によってもたらされると考えるべきでしょうか。サルトルやメルロ=ポンティの批判には、ベルクソン固有の方法に対する無理解と、それゆえ描かれている実在を素朴に常識的なもの(心理的観察の延長)とみなす偏見とがあらかじめ含まれてはいないでしょうか。確かにベルクソンの記述には、心理的記述と客観的対象の記述とがただちに連続しているように読める部分があります。たとえば、『創造的進化』になると、心理的記述がコスモロジックな実在全てに段階的説明を欠いた形で拡大されるようでもあります。しかし、意識を実在の一種と考えること、正当な意味での実在論を主張すること、これはまさにベルクソンの姿勢でもある。そこで実在を目指すベルクソンの視線が、なぜ現象学的な意味での自然的態度と同一視されてしまうのでしょうか。この視線は、実在の流れに入り込む独自の内在の方法を徹底する結果として、まずはベルクソンの原理に即して捉えられるべきではないでしょうか。

06 差異化という方法論 ドゥルーズとベルクソン

ここで、ドゥルーズの読解の斬新さが際立つことになります。ドゥルーズのベルクソン読解の鋭さは、何においてもベルクソンの方法の固有性を引き出した点にあるでしょう。ドゥルーズによればベルクソンは、超越論的領域への還元とは違った仕方で直接的な現れを確保し、それに哲学の言葉に展開するというのです。そこで鍵になる考え方は二つあるでしょう。その一つは、ドゥルーズが、差異(difference)の観点から直観という方法を見いだし直したことです。差異化あるいは裁断(decoupage)という方法によって、ベルクソンの記述は実在する事象を内在的に捉える真の経験論として確立されることになります。もう一つは、差異化される実在の統合(integration)という視点です。ベルクソンは、差異化された実在を再び交差(recoupement)させることにより、実在をその総体において把握するというのです。

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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