バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(8)
01 人は行為をせずに生きられない
引き続き、カルマ・ヨガについて見ていきましょう。クリシュナは次のように述べています。
「人は行為をせずに、行為を超越することはできない。また、行為の放棄によっても成就することはない。実際、一瞬でも行為しないできることのできる人はいない。なぜなら、全ての人はプラクリティから生じたグナによって、必然的に行為してしまうから。瞑想していても、心が様々な感覚対象を想起して迷っているならば、彼は偽の修行者と呼ばれる。しかし、感覚を制御して、執着を離れて行為(仕事、職務)する人は優れている。従って、あなたは定められた行為(義務)をなせ。行為(仕事、職務)は瞑想よりも優れている。もし、あなたが行為(仕事、職務)を放棄するなら、身体を維持することすらままならないだろう。(中略)仕事の結果に執着することなく、ただ当然の義務としてそれを行え。執着心なく働くことによって人はプルシャ(志高者)のもとにいく。ジャナカのような王たちでさえ義務の遂行によって完成の域に達した。ゆえに世の人々に手本を示すためにも君は自らの仕事をやり遂げよ。(中略)無知なる人は成果を求めて義務を行い。賢明なる人は結果に執着せず義務を行う。それは世の人々を但し道へ導くためである。成果を求めて働く無知な人の心を賢明な人はかき乱してはならない。仕事を止めずに奉仕の精神でハタ悪用に励まさなければならない。偽りの自我に左右され困惑した魂は活動の行為者は自分であると考えている。物質自然の三様式に操られているとは知らずに。(中略)物質自然の様式に惑わされ、無知な者は物質的活動に没頭し執着する。だが、それらが無知に起因する愚行であっても賢明な者は彼らの心をかき乱してはならない。ゆえにアルジュナよ、行為の全てを私(クリシュナ)に明け渡し私に関する完全な知識を携え利得も所有権も無気力も手放せ」
高貴な生まれだと偽る偽瞑想家や、精神的向上のために何もかも犠牲にしたようなフリをする有名な職業宗教家たちは、数え切れないほどいるとクリシュナは諭します。クリシュナはアルジュナにそのような詐欺師にはなるなと伝えています。そして、それだけではなく、アルジュナに対して、クシャトリヤとして、つまり軍人としての任務を遂行すべきだと説きます。アルジュナは、この記事の冒頭でもご紹介したように、軍の司令官です。自らの勤めを果たせ、と説いているわけです。結局のところ、私たちがこの世に生まれてきたからには、食べたり、飲んだり、仕事をしたり、遊んだりという行為を避けることはできません。私たちの体がプラクリティでできているので、その束縛から逃れることはできないからです。ですから、行為をしないこと、つまり、瞑想は本来、人間にはそぐわないものであるとクリシュナは指摘するのです。
また、瞑想をしていても、心の中で行為に執着しているなら、つまり、願望や欲望をもって瞑想をしているなら、それは先にも説明したように偽りの瞑想であり、こういった意味においては、社会の中で生活する人にとってラージャ・ヨガのような瞑想法よりも、行為をしながらそれに執着をしないように心掛けるカルマ・ヨガの方が実践に向いていると教えているわけです。私たちの生命そのものがプラクリティによって生じているのです。ですから、プラクリティに逆らったところで、一体どのような勝利が得られると言うのでしょうか。したがって、これを制御するのではなく、プラクリティを識別し、それに囚われないことが大切であるとクリシュナは説いています。ですが、和佐立ちはプラクリティの動きを自分自身で生み出していると考えています。つまり、タマス質の行為は怠惰で眠気のあるもの、ラジャス質の行為は活潑で感情的なもん、サットヴァ質の行為は調和があり自制的なもの、これらを自分で行っているt思い込んでいるわけです。しかし、これらは私の行為ではなく、それぞれのグナによって生じる行為なのです。したがって、私が行為しているのではなく、プラクリティが行為しているとみなければなりません。パラブラフマンの中で万物が動くように、自分の行為もそのように見て、結果に執着せず、行為を平等に見ることがカルマ・ヨガです。このようにプラクリティの動きを識別する人のアートマンは汚されることがありません。
「真理を知り、カルマ・ヨガに専念した者は、見て、聞き、触れ、嗅ぎ、食べ、進み、眠り、呼吸しているときも、『私は何も行為していない』と考える。語り、排泄し、何かを握ったり、目を開き、閉じていても、感覚が感覚の対象に働いているだけだとみる。このように、行為をブラフマンにゆだねて、執着を捨てて行為する人は罪悪に汚されることがない。蓮の葉が泥に汚されないように。ヨギーはすべての執着を捨て。体、心、知性、そして感覚まで使って活動する。ただ浄化されるためだけに。(中略)万物を平等にみて、常に心平静な人は既に生と死を超越している。(中略)自己を知るものは愉快なものを得ても喜ばず、不愉快な事物にあっても悲しまない。」
例えば、新幹線などに乗って、小さな窓から対向車両が動き出すのを見たとき、自分は動いていないにも拘わらず、あたかも自分が進んだかのような錯覚をした経験は無いでしょうか。このような錯覚が日々私たちにも起きています。つまり、アートマンである私が、プラクリティの動きを見て、「私は考えている」「私は欲しがっている」「私が行動している」「私は年を取った」というように認識しているのです。このようにあらゆる心の動きを識別し、「アートマンである私は考えたことも、行為したこともない」とみて行為の結果と執着から離れる人はカルマ・ヨガの実践者であるわけです。クリシュナはこうアルジュナに語っています。
「アルジュナよ、聖者たちは、願いを叶えるための行為をしないことを<行為をしないこと>といい、賢い人たちは、あらゆる行為の結果を気にしないことを<行為を超えること>という。ある賢い者たちは『行為には悪いこともあるから、行為をしてはならない』といい、他の賢い者たちは『祭式や布施や修行という行為はしてもよい』と言う。まず、<行為を超えること>について、私の考えを聞きなさい。<行為を超えること>は三種類である。祭式や布施や修行という行為はしてもよいというだけではなく、する必要がある。これらの行為は、賢い者たちの心を浄化する。しかし、これらの行為は、執着せず、結果を期待せずに、行う必要がある。これが私の最終的な考え方である。」
と。
02 バクティ・ヨガ
それでは、最後にバクティ・ヨガについて考えてみましょう。バクティ・ヨガは親愛のヨガと呼ばれています。『バガヴァッド・ギーター』の中で、クリシュナは度々「私を信愛し、念想せよ」とアルジュナに要求します。つまり、あらゆる行為を神への捧げ物として行い、神を信頼することがバクティ・ヨガの実践といえます。クリシュナはこう語ります。
「アルジュナよ、私に心を捧げ、常に<ヨーガ(ヨガ)の状態にあり、私を想い、私をひたむきに信仰する人が、ヨーガ(ヨガ)を最も知る者である。一方、<見ることができないもの>を想う人もいる。<見ることができないもの>は、不滅で、永遠で、不動で、言葉で表現されず、一切に存在し、想像を超え、確かに存在するものである。そのような<見ることができないもの>を想う人であっても、感官の働きを抑え、どんなものも区別せず、全ての生き物のために喜ぶ人であれば、私のもとに来る。生きている限り、<見ることのできないもの>に到達できない。従って、<見ることのできないもの>を想う人の苦しみは大きい、しかし、一切の行為を私に捧げ、私だけを考え、ヨーガ(ヨガ)によって私だけを想えば、私は、その人を輪廻の海からすぐに救い出す。私だけを想い、私だけを考えれば、必ず、あなたは私の中に存在する。私に心を集中させることができないなら、ヨーガ(ヨガ)を繰り返し、私のもとに来るようにしなさい。ヨーガ(ヨガ)を繰り返すこともできないなら、私の為に行為をしなさい。私の為に行為をする者も、解脱できる。それをすることもできないなら、私のためにヨーガ(ヨガ)を行い、心の働きを抑え、どんな行為の結果にも執着しないゆおにしなさい。」
ところで、皆さんは何か特定の宗教、あるいは神様のようなものを信じていますか?現代の日本社会において、神様は既に遠い存在になっているのではないでしょうか。確かに、合格祈願や結婚成就、事業の成功などを願って、私たちは神社仏閣、パワースポットなどに足繁く通っています。しかし、それは信仰とは全く関係がないでしょう。なぜなら、そのとき私たちは自分の願望を神様に投影しているに過ぎないからです。つまり、自分の願い通りになればそれでいいし、もし願いが叶わなければ、「神などいない」という態度だからです。結局の所、それは、現世利益を願ったエゴイズムの問題に過ぎません。では、それに対して、神に対する信仰というのは何なのでしょうか。ヨガにおいて、神に対する信仰というのは、これまでお箸してきたように、ブラフマン、イーシュヴァラとは宇宙の原理であり、法則でした。この原理を信頼することがヨガに於ける信仰というものになります。もう少し抽象化して簡単にまとめれば、自分に降りかかる困難を神から与えられたものとして受け入れる態度のことともいえます。たとえば、キリスト教において、イエス・キリストは十字架の刑(磔刑)にかけられましたが、この刑を前にしても、「父よ、できることならこの杯を私から過ぎ去らしてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままにしてください」(マタイの福音書)と祈りました。「神よ、どうか私の望むようにしてください」とは祈りませんでした。神を信頼していたので、イエスは十字架を引き受けたのです。
このような態度をバクティ・ヨガとして行ってみましょう。たとえば、病気になれそれが治るように神様に祈ることもあるでしょう。「私は苦しいので、早く治してください」とお願いしたくなるかもしれません。しかし、それは自己の願望をただ神に投影したに過ぎません。むしろ、病気になっても、これをブラフマンの法則として受け入れ、「この病気もブラフマンに与えられたもので、これもまた私には必要なことなのだ」と考えることができるのなら、それはバクティ・ヨガです。つまり、エゴによって良い悪いわではなく、すべてはブラフマンによって作られたものであるという視点から、あらゆる事柄・出来事を受け入れ、また、ブラフマンへの捧げ物として行為するのです。実は、このような考え方は、占星学にも通じるものです。占星学では、私たちの人生の経路をある程度知ることができると考えています。もし、このように人生の出来事がブラフマンによってある程度決められているなら、私たちは決まった道を歩きながら、あれでもないこれでもないと迷い、悲しんだり興ったりしているだけだとも考えられます。心配しようがしまいが、ブラフマンが用意した道を歩いているのですが、私たちが悩むだけ時間の無駄であるともいえます。これは、キリスト教でもプロテスタント、とりわけカルヴァン派の「予定説」(予定説とは、すべての物事は神の業(わざ)であるという考えを突き詰め、人の救済も、その人の信仰の努力ではなく、神によって予め定められている、という信条であり、人は神からあたえられた現世の職業を含めたすべてに対して誠実に生きることを説いたものであった。)にも似ているかも知れません。
つまり、「クリシュナを信愛せよ」とは「この人生はブラフマンによって作られたもので、私のエゴの選択によって作られるものではない」という意味です。結局、過去の出来事でくよくよ悩んでいる人は、自分のエゴが今の状況を作りあげたと勘違いしているので悩んでしまうのです。私のエゴがこの人生の舵取りをしていると思えば、1つ1つの出来事に一喜一憂しなければなりませんが、信頼できる船長が舵取りをしていると思えば、その航海は豪華客船のバカンスのようなものだと捉えなおすこともできるでしょう。その船長とはブラフマンの意思であり、あなたがすべてを委ねることができれば、その航海に不安はなくなります。海の天気をみながら、氏の愛するばかりなのか、それともゆっくりくつろいで景色を眺めるのか、あなたはどちらを選ぶでしょうか。このように、神への親愛を日々の生活に取り入れることがバクティ・ヨガです。私たちは、エゴが判断するような「運が悪い」とか「運が良い」というような世界に生きているのでは無く、すべてにブラフマンの働きがあり、そこに悪いものはないのですから、とにかく自分の人生を全面的に信頼してみればいいと考えるわけです。
しかし、私たちの人生にはときにはひどい嵐に遭遇することもあるでしょう。災害で家を失ったり、耐えがたい苦痛を伴う病気にかかったり、事業の失敗など、悲惨な出来事が起こることがあります。ではなぜ、神は私たちをこのような過酷な目にあわせるのでしょうか。こういった人生の困難に直面したときには、神を呪ってやろうと思うこともあるでしょう。しかし、こういった困難や苦難に対しても、神を信頼する勇気が必要だとバクティ・ヨガでは考えるわけです。なぜなら、私たちの魂は今だ発展の途上であるからです。もし何も困難がなければ、魂が成長することなどできるでしょうか。それは、いわば歪な形をした石のようなもので、さまざまな障害にぶつかりながら、少しずつ角が削られて丸くなっていくのです。このような抵抗がなければ、私たちの魂は歪んだ形のまま来世へと持ち越されるでしょう。これまでの人生を眺めてみると、多くの躓きの石があること、あったことが分かると思います。そのたびに貴方は傷ついてきたかもしれませんが、その躓きの石がなければあなたの魂は磨かれなかったでしょう。磨かれた魂だけが、神の光をこの世に反映させることができる、そうバクティ・ヨガの立場では考えるわけです。クリシュナは以下のようにアルジュナへ語っています。
「いかなる生命体をも妬まぬ親切な友であり、いかなる物も自分の物と思わず、偽りの自我が無く、幸せなるときも苦悩なるときも同等にあり、寛容で、常に満ち足りて、自己を抑制でき、決意をもって献身奉仕を行い、心と知性を私に固定している者、このような献身者が私には大変愛おしい。」
純粋な献身奉仕者はいかなる状況にあろうと決して心を乱すことなく、誰に対しても妬みを持つことが無く、また、自分に敵意を抱くものに対して敵意を持つことがなく、「この人が私の敵のように振る舞っているのは、私が過去に犯した過ちのせいだ。だから抗議するより苦しんだ方が良い」と考え、苦しい時、困難な時、献身者はそれをブラフマンが与えてくださった慈悲だと受け取り、「過去に自分が犯した過ちからすれば本来もっとひどく苦しむべきなのに、ブラフマンの慈悲によってこんなにありがたいことに受けるべき罰ほどの大きさの罰を与えられていない。こんあにわずかな罰しか与えられていないのはブラフマンの慈悲に他ならない」とまで考え、どれほど苦しい状況であろうと、常に穏やかで物静かで忍耐強く、誰に痛いしてもいつも優しく、敵意を寄せる者にも親切であろうとします。献身者は、たとえ自分の身体でさえ、それは自分のものという風には捉えず、体にまつわる苦痛や困難を重視しません。自分と自分の体を同一視しないことから、偽りの自我意識(エゴ)がなく、幸せなときも苦しい時も変わりません。何であれブラフマンによって与えられた慈悲と考えることで、いつも喜んでさえいる、そうした境地にある者をいいます。ゆえに、クリシュナは、こう言います。
「誰をも困難に陥れることなく、誰からも乱されること無く、幸不幸、恐れ、不安のいずれにあっても変わらぬ者、このような者が私は大変愛おしい。世俗的な活動に依存せず、純粋で、熟練していて、気苦労せず、何事にも苦痛を感じず、結果を求めて必死になることもない者。このような献身者がたいへん愛おしい。いかなる状況にも喜ばず悲しまず、嘆くことも求めることもせず、吉兆、不吉なものを放棄している者。(中略)友にも敵にも平等に対応し、名誉も不名誉も、暑さも寒さも、幸福も不幸も、賞賛も非難も、いかなる状況にあっても変わること無く、汚れた交際をせず、常に無口で、何事にも満足し、どこに住もうと気にせず、知識も固定して献身奉仕に励む者」
このように世界を眺めることができるなら、あらゆる場所に神の愛があることが分かるようになり、その石を置いたのが、他ならぬ神自身だと考えるようになります。あらゆるものを神の愛として捉えて信頼し、執着せず恐れず、心を平安に保っている人は、まさにバクティ・ヨガを行っているわけです。最後にクリシュナはこう語っています。
「自らの義務に満足する者は完成に達する。自らの義務に満足する者が、どのように完成に達するのか。それを聞きなさい。自らの義務を行うことによって、生き物の活動の原因、すべてに偏在しているものを崇拝すれば、人は完成に達する。自らの義務を行うことは、正しく行えなくても、他人の義務を正しく行うことよりも優れている。自分自身に定められた義務を行う者に罪悪は生じない。生まれによって定められた義務が不条理であっても、その義務を否定してはならない。火が煙に覆われているように、どんなことも不条理に覆われている。何にも執着せず、心の働きを抑え、欲望をなくせば、行為をしても、<行為をしないこと>になり、<行為を克服した状態>である最高の完成に達する。完成に達した人がどのようにブラフマンに達するのか、それを聞きなさい。それは最高の知識である。正しく判断できる人は、意思によって、心の働きを抑え、色や音等の対象を認識せず、愛しさや憎しみを抱かず、人のいない場所に住み、少ない食べ者を食べ、一言も話さず、身体を動かさず、何も考えず、常に瞑想に集中し、世間の欲望から離れ、自尊心・暴力・傲慢・欲望・怒り・所有欲がなくなり、『自分』という思いがなくなり、心が常に落ち着き、ブラフマンに到達する。ブラフマンに到達し、心が落ち着いた人は、何にも悲しまず、何も求めない。どんな生き物も区別せず、私をひたむきに信じる。」
こうした心境は、ややもすると現代日本人にて理解しがたいところがあるかもしれません。実際、この『バガヴァッド・ギーター』というのは、インド最大の宗教である「ヒンドゥー教」の聖典でもあるから、余計に日本人にとって馴染みがないもののように見えるかもしれません。しかし、皆さんもよく知っている宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩を思い出してみましょう。原文は片仮名ですが、平仮名に直していることを予めご了承ください。
「雨にも負けず/風にも負けず/雪にも夏の暑さにも負けず/丈夫なからだをもち/欲はなく/決して怒らず/いつもしずかにすわっている/一日に玄米四合と/味噌と少しの野菜をたべ/あらゆることを/じぶんのかんじょうに入れずに/よくみききしわかり/そしてわすれず/野原の松の林の陰の/小さな萱ぶきの小屋にいて/東に病気のこどもあれば/行って看病してやり/西につかれた母あれば/行ってその稲の束を負い/南に死にそうな人あれば/行ってこわがらなくてもいいといい/北にけんかやそしょうがあれば/つまらないからやめろといい/ひでりのときはなみだをながし/さむさのなつはおろおろあるき/みんなにでくのぼーとよばれ/ほめられもせず/くにもされず/そういうものに/わたしはなりたい」
この宮沢賢治の詩は、本来自分のために書かれたもので、彼は発表する気はなかったといわれています。なので、この詩には正式な題名が無く「11.3」という日付があるのみです。それが「雨にも負けず」という仮の題名が与えられ、これまで学校の教科書や多くの人々が後生へ語り継いできた賢治の詩です。この賢治の詩の精神には、『バガヴァッド・ギーター』で表現されているような世の中に対する見方、あるいは自分に対する見方と響き合うものがどこかあるように皆さんも感じられるのではないでしょうか。『バガヴァッド・ギーター』はインドという異文化の国の、特定の宗教の聖典ともなっている本である一方、日本人の心の原風景にも実は意外と親しみやすいものがあると私は思います。冒頭で述べたように『バガヴァッド・ギーター』は神話の話を前提に置いた書物であるため、非常に読みづらい文献です。しかし、今回の記事を通して、もし少し興味を持って頂けたのなら、岩波文庫などで邦訳も出ていますし、さまざまな解説書なども出ていますので、ぜひ手に取って読んでみて頂けますと幸いです。ヨガというと、どうしても日本では「単なるエクササイズ」としてしか見られない風潮がありますが、そこには単なるエクササイズを超えた、そして日本人の心の原風景にも似たインドの思想や考え方がヨガの根底にはあるということを知って頂ければ幸いです。
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(2)
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |