ヨガとは何か?(2)

01 自分の本質が言えると心が楽になる

前の記事で自分の本質を観る必要があることを述べてきましたが、どうして私たちは自分の本質を見なくてはいけないのでしょうか。私たちが今直面している「問題」は何でしょうか。もちろん、私とあなたの、皆さんの「問題」はそれぞれ異なっているはずです。それをヨガの思考法を使って自分で解きほぐす手助けになることを目指しているわけです。問題の種類によっては、極端なことをいえば、「死」によってしか解決されないこともあるでしょうし、そうではないものもあるでしょうが、それを見極めていく必要があります。直面している問題を解きほぐして解決するためには、道具が必要です。そのような道具には色々なものがあります。宗教的な信仰心によって解決される場合もあるでしょうし、友人同士の心のふれあいによって解決される場合もあるでしょう。本記事では、その道具として「思考」を用います。これには色々なものがあるでしょうが、ヨガを基軸に現代思想に分類される考え方や思考の枠組みを使って説明していきたいと思っています。

問題を考えるときに必要となるのは「論理」です。それはヨガや現代思想においても同じです。人は「正しくあろう」とする存在です。「自分の考え方が、少なくとも自分にとって正しいものである」から、人はその考えを行動に移すことができます。正しくあろうととすることは、人間の特質であるとさえ言えるでしょう。ただし、この「正しさ」というのは、決して道徳的な意味でも、倫理的な意味でもありません。そのような社会が推奨する正しさということではなく、「自分の内部での正しさ」ということです。この「世界」は錯乱しています。そして、少し極端に言えば、正気よりもむしろ狂気に支配されています。腐臭を放つ汚物の池に首までどっぷりと浸かった状態で、「正気」を保ち続けることは容易ではありません。そのような世界に生きつつ、かつ正しくあろうとすることは、近年ますます難しくなっています。多くの「この腐った世界に適応済みの人たち」は狂気と錯乱を受けれることを私たちに薦めます。「そうすれば楽になるよ」と彼らはいいます。つまり、狂気と錯乱の世界に適応して生きるということは、自らが錯乱するしかないということでしょう。そのように生きている人間を私はたくさん知っていますし、それが悪いとも思いません。しかし、私たちにとって、それはできない相談であるからこそ、本記事を読んでもらえているかと思います。もしそれが可能であるならば、私たちは「死」を考えたりしません。この世界で、いかにして「正しさ」を求めていくことが可能なのか、それが本記事で考える「大きな問題」です。

02 「世界」と「私」はともに腐っていく

私たちを苦しめているのは何でしょうか。それを考えることはそれほど簡単ではありません。一つ一つの問題を解きほぐしていく必要があります。この作業に入っていく前に、基本的なことについて考えておく必要があります。それは「この世界は正しいのか」ということです。もし「正しい」のであれば、間違っているのはその世界の中で苦しんでいる「私たち」ということになります。おそらく私たちの多くもそう感じています。自分が生きている「社会」のほうが正しくて、それにうまく適応できず苦しんでいるのは「そう感じている自分のほうが間違っているからだ」と。しかし、そうではないことも明らかではないでしょうか。事実、この世界は決して健康体でも理想郷でもありません。そんなことは、新聞にざっと目を通すだけで、誰にでもわかることでしょう。そこには、先進国であれば、どうということはない病気で死んでいく多くの人々や、明日の食事を心配しながら暗く寒い夜を過ごしている多くの人々の記事が載っています。それを読んでいる私はというと、エアコンの効いた部屋でテレビを見ながらダイエットと称して食事を残したりしています。そして、悲惨な状況については見て見ぬふりをし、極力考えないようにして、何もしないまま、日々を過ごしています。そして、そんな自分を無力だと考え、どうしようもないと諦め、暖かいベットの中で眠りにつきながら、ほんの数秒だけ反省するのです。しかし、何をどう反省すればいいのでしょうか。腐っているのは、そのような「おおごと」だけではありません。日々の仕事や会議、会話の中で私たちが遭遇する現実の多くが、腐敗した社会の様相を示しています。そして、それらについても、私は多くのことを「仕方ない」と考え、目をつぶり、考えないようにしています。それは偽らざる私の姿です。私は「魂を小さく」して、やっと生き延びています。こうして、私はさらに腐敗していきます。そして、「腐敗しきる」ことさえできずに、「腐敗にあらがう」と勝手に称して、その実、怠惰なだけの日々を不承不承送っているわけです。

その一方で、この世界には美しい部分も、美しい行為も、美しい精神も、多く存在しています。美しいところだけを、良い面だけを見て生きていくことを薦める人もたくさんいます。しかし、「腐った部分」を知ってしまっている以上、もうそんなふりはできません。「美しい部分だけを見るようにする」もしくは「自分も腐敗する」という方法によって、この状況を解決できるという場合もあるでしょうが、それを「離れ業」だと感じているのが私たちの大勢ではないでしょうか。そこで、本記事では、そのような解決策のすべてを否定します。私たちは「正しくある」ことを捨てて生きていくことはできません。ここで言えるのは、少なくとも現在、この世界のある部分は「正しくない」ということです。そして、「正しい」部分と「正しくない」部分とを分けることが可能であるとすれば、おそらく「正しい」部分は、ごくわずかなのではないかとさえ感じています。そして、より正しい考え方としては、「世界」と「私」はともに腐っていくことであるようにも思えてしまいます。「間違っているのは、そこで苦しんでいる私たちのほうだ」という考え方は、常に成立するものではなく、むしろ、「私たちは、私たちの正しさを原因として悩んでいる」という可能性のほうが高いといえるでしょう。もちろん、そのような考え方自体を検討していくのが本記事でもありますが、事実をしっかりと抑えておくことも必要です。大事なことなので、繰り返しておきます。「この世界は決して正しくないし、そこに苦しんでいる私たちは間違っているわけではない」。自分が腐っていくのを実感することは、さらに腐敗まみれにならないようにするためには、とても重要です。

03 自由と抑圧

シモーヌ・ヴェイユは、フランスの哲学者で、リセ(高校)の哲学教師でありながら、一介の労働者として工場に入り込み、そこでの辛い体験を通して、自らの思想を研ぎ澄ましていったことで知られていますが、ヴァイユは当時の工場労働における辛さの原因を「意志の発揮する機会の欠如」であると捉えました。

「いついかなる瞬間でも命令を受ける準備ができていなければならない。全く他人の意志のままになるものだ。人間がものになることは自然ではないのだから、それに鞭とか鎖とか明白な束縛があるわけではないのだから、みずから身を屈してこうした受動性に服従しなければならない。タイム・カードを入れる箱に自分の魂を一時あずけて、終業退出取り戻すことができたらどんなにいいだろう!だが、そんなことはできない。魂は作業場に持ち込まれる。その魂をいつも黙らせておかねばならない」

ヴァイユは同書で、たとえ肉体的に辛い労働であっても、精神的に辛さはそれほどでもない場合があるのだと指摘します。たとえば農作業などおいては、「瞬間瞬間の判断が必要とされ、働く者の『意志』が発揮される機会が残されて」います。しかし、ヴァイユが体験した工場労働においては、このような意志が発揮される機会はことごとく失われていました。そこには単なる服従しかなく、自分の思考や意志によって行われていることはほとんど存在しませんでした。意志が服従を強制されるこということは、屈服を意味しています。魂にとって、それは耐えられないほどの苦痛となります。そのため工場では、「いかに自分の魂を小さくしておくか」ということが重要となるわけです。

ヴァイユは、「肉体は現在の瞬間に生き、一方精神は時間を支配し自由に遍歴して時間に方向づけを行う」ものだと考えました。そして、工場では「時間が秒単位で支配」され、そこには精神が発露する余地が残されていないと指摘します。私たちは「時間の流れ」に抗うことはできません。しかし、時間の流れの中で、次の到来する時点において何をしているかを思い描き、そのとおりに行動することはできます。それを人は「意志」と呼び、また「精神」や「魂」と呼びます。すなわち「魂」とは、人が「時間を支配すること」です。もしも「次の瞬間」、もしくは「次の時間単位」に発生することが、自分の意志とはまったく関係なく起こるものであれば、人は「瞬間に生きる」ほかなくなります。そのとき自由は失われます。

しかし、ヴァイユは、そのことだけが問題であると考えたわけではありません。ヴァイユは「抑圧されること」「服従を強いられること」によって、人の魂が「もはや機能しなくなるほどまで」小さくなっていくということを、身をもって体験しました。そして、それは当時の工場だけにあてはまるものではありません。生産を重視し、「社会的に何らかの役割を果たすこと」が重要とされる現代の社会は、その全体が「工場」と化していると言えるでしょう。その中で人々は、社会の片隅でちっぽけな役割を与えられつつ、それにすがって生きています。そのとき私たちの魂は、屈服しつつ、自分でも気づかないうちに小さくなっていきます。

「ときおり私は考えたものです。ー自分がもっている最良のものを自分の手で圧し殺しながらみずから屈従に努めなければならないくらいなら、外からの強制により、たとえば鞭で打たれながら、屈従させられる方がましだ、と。(中略)苦しまないための唯一の方策は、無意識の中に沈み込むことです。この誘惑には多くの人々が何らかの形で屈して行きます。私もしばしばそれに負けました。人間存在にふさわしい明晰さや意識や自尊心を保ちつつづけることは、不可能と申しませんが、くる日もくる日も絶望に打ち克って行かねばならぬという刑罰にも等しい労苦をみずから課することにほかなりません。」

おそらくヴァイユの指摘の重要さは、現代においてむしろ増しています。私たちは、この「腐敗した世界」「到底正しいとは感じられない世界」で、その束縛から逃れ、自由になろうとしています。そして「自由になろうとしてもがくことそのもの」、もしくは「自由を得られないということそのもの」が、私たちに「辛さ」として重くのしかかっていると考えることができます。

04 道具としての思考

私たち人間は「自由であること」を求める存在です。それゆえに、自由に損なわれているとき、もしくは束縛や抑圧を感じているとき、生きることを辛いと感じるようになります。このとき抑圧とは、決して「社会的な抑圧」のみを指しているわけではありません。「自分の身体」による抑圧や「自分の思考」による抑圧、「言語制度」による抑圧なども含んだ概念をあらわしています。

「教養」は、英語で「Liberal Arts」といいます。これは「自由市民の知識や技術」という意味で用いられたものですが、この含意は「自由になるための技術」であると考えることができます。教養主義の文脈において、教養を身につけるということは、たとえば「上流階級出身者として恥ずかしくない知識や技術を身につけておく」という意味で用いられて来ましたが、そのような方向性のもと身につけられた知識や技術は「こけおどし」的なものであり、実際には何の役にも立たない場合のほうが多いでしょう。しかし、本来、教養とは「自由になるための技術」です。そして、哲学や現代思想、ヨガという技法など、その柱の一つです。「人が自由になる」ということをもっとも詳細に吟味、検討してきた分野は間違いなく哲学です。従って、哲学を放棄することは、思考を放棄することと同義です。そして、それは自由になることを放棄するに等しい愚かな行為であると言えます。私たちに与えられた武器は、思考であり、言語であり論理です。それ以外の武器を、私たちはもっていません。この貧弱な武器で、何とか戦っていくほかはない存在です。

では、「束縛からいかに逃れるのか」ということについて、これらの武器を使って考えてみることにします。私たちが「Aという事物や制度の束縛」から逃れる方法は、一つしかありません。それは「AB型の所有者となる」ことです。たとえば「金銭の束縛から逃れる」唯一の方法は、「金銭を所有する」ことです。完全に自給自足した生活を送る集団とか、一般社会とは隔絶した団体などというような金銭の存在しない共同体に生きるという方法もありますが、それは現実的な解決策ではありません。狭い社会の中に引きこもることによって、金銭の存在に擬似的に目をつぶることでしかないからです。もちろん、「金銭に束縛されていない」と感じている場合は、束縛から逃れることを考えること自体無意味です。

同様に「技術の束縛から逃れる」ためには「技術を所有する」ことが、「学歴の束縛から逃れる」ためには「学歴を所有する」ことが、「身体の束縛から逃れる」ためには「身体を所有する」ことが必要とされます。ここまで「所有」という言葉を使ってきましたが、この場合の「所有」とは、権限をもつことと同義です。つまり、「金銭を所有する」ことは「金銭を消費する権限をもつ」ことであり、「技術を所有する」ことは「技術を使用する権限をもつ」ことであり、「身体を所有する」ことは、「身体を使用する権限をもつ」ことです。たとえば、ある人が自由に1千万円使用できる権限をもっている場合、その人は「1千万円までの金銭」には束縛されないということになります。つまり、そこに「自由」が発生するわけです。何を束縛と感じているかは人それぞれですから、それらのものを所有していないからといって不自由であるこということにはなりません。金銭をまったく所有せずに「金銭的に自由」な人も存在しますし、技術をまったく所有せずに「技術から自由」である人も存在します。その違いは、それぞれの個人の「物語」の違いによります。束縛とは、外部に存在して人の行動を制限するものではありません。その人の採用する「物語」が遂行していく途中に存在する「壁」のことです。その壁が存在することによって「前に進めない」状態を、「束縛」と呼称しているだけです。たとえば、「金銭という束縛」を感じているとすれば、それは「金銭が壁となって邪魔をする」という「物語」が遂行中であることを意味しています。逆に「金銭が壁として存在しない物語」が遂行中であれば「金銭」はまったく束縛の要素とはなりえません。

05 「思考」する能力

ところで、哲学やヨガは「思考の方法」や「枠組み」を提供してくれます。なので、それを放棄することは「思考を放棄すること」に等しいことになります。そして、もし、人を束縛している者が「思考」であるするならば、人は「思考を所有すること」によってしかそれを解決できません。もcいhろん、考えるのは面倒ですし、頭が痛くなったりもします。このように「考えること自体が嫌だ」という場合、その人を苦しめているのは「思考」である可能性が存在します。そして、もしそうであれば「より考える」こと以外にはその束縛から逃れる方法はありません。ふたたび「金銭による束縛」を例に考えましょう。ある人がそのことを苦痛に感じているとします。多くの場合、その人は「金を稼ぐことなんか嫌だ」「金のことを考えること自体がいやだ」などと考えるでしょう。苦痛の根源を遠ざけようとするのは自然な反応です。

しかしながら、それでは問題の解決になりません。「金銭による束縛」から自由になるためには、「金銭を得る」ことがもっとも効率的な近道であり、また、その方法以外には解決策が見当たらないからです。しかし、その一方で「その物語を捨てる」という方法もあります。「金銭による束縛」の場合には、「金銭を得る」という物語の放棄によって、束縛を無意味化することが可能です。言い換えれば、それは、「金銭を得なければ到達できないゴール」を諦めるということです。では、「思考による束縛」の場合はどうでしょうか。「思考を捨てる」ということは、すなわち「何も考えない」ということなので、その実現はかなり難しいと思われます。前述のように、「思考という束縛」から逃れるためには「思考を所有する」ほかはないようです。そして私たちたちには、幸福なことに「思考する能力」が与えられています。それは、ここまで読み進んできたあなたには、十全に与えられている力であるはずです。私はこの記事を書きながら、この記事をここまで読み進むことができない人が多数存在していることをしっています。この記事に書かれている「知る」「理解する」(否定するにせよ、肯定するにせよ)ことができる人間は、実は限られています。そして、せっかくここまできたのですがから、次へ進んでみませんか?

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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