欲求カテゴリーの歴史的編成
目次
- 序(研究目的と先行研究)
- 欲求体制の規定
- 欲求体制の規定と欲求体制の形態
- 欲求体制と生産(労働)体制
- 資本主義的欲求体制の特殊な規定
- 中心的な欲求カテゴリー
- 直接的欲求(共同体=団体的欲求体制)
- 社会的欲求と欲求の社会性(過渡的欲求体制)
- 必要な欲求としての社会的欲求(資本主義的欲求体制)
- 支配的欲求:必要な欲求の「法則」性
- 欲求体制の移行
第一章 先行研究の不足点
「欲求」の概念を単に駆使するのではなく、それを概念的に規定して科学的な範疇にすることができるのは、マルクスの経済学批判の体系においてのみである。経済学批判の体系において、欲求ははじめて分析の道具のみではなく、同時に科学的分析の対象となる。故に、欲求体制の歴史理論の根底に据える諸欲求カテゴリーを、マルクスの欲求カテゴリーと整合させる形で規定することで、われわれは理論的作業の量を大幅に節約できる。
しかし残念なことに、マルクス本人はこれら欲求のカテゴリーを体系的に編成する作業を成し遂げられなかった。彼の後継者もこの理論的任務にそれほどの関心を払わなかった。
主流派経済学にとっての関心事はあくまで市場に現われた需要であって、欲求ではない。
社会学は大方の論者が納得する、欲求への明確の規定を持たず、経済学の需要もしくは有効需要の概念を借用するか、もしくはそれぞれ独自な(また同時に明確に定義されていない)欲求カテゴリーに基づいて議論を展開している。→比較分析のための基盤ができていない
マルクスは「人間の欲望をだれにも容易に理解しうるような形式において展開しているわけではない」。
マルクスの欲求範疇の理論化における根本的な問題:
まず、これまで行われてきた先行研究では哲学的・道徳論的な議論が圧倒的多数を占め、経済学に向ける関心と問題意識が非常に限られている。次に、これらの議論は初期マルクスの著作に対する研究に偏重しており、成熟期のマルクス的理論、とりわけ経済学批判にかんするマルクスの議論にはほとんど触れていない。最後に指摘しなければならないのは、これら初期マルクス(欲求理論の哲学的側面)を中心に展開されてきた先行研究は体系的なマルクスの欲求カテゴリーを構築することができていないほか、その大半は欲求の一般的な範疇から出発しているが故に、『資本論』、『学説史』や『要綱』が強く意識している歴史の形態的視点との整合性が問われる状態にあり、社会的欲求の体系の歴史的形態――欲求体制という範疇が決定的に欠落している。
e.g.
「 [ヘラー――引用者]はマルクスの主要著作を検討し、マルクス欲望論の総体的把握を試みた最初のものとして評価しうる。しかしその構成は欲望概念の哲学的考察が中心であり、経済学<労働価値論>との関連における展開は不十分である。」
ヘラーの議論には哲学・道徳論的側面への関心が強く、経済的側面、とりわけ労働者の具体的な欲求への関心が薄い。また、マルクスの欲求カテゴリーを系統的に整理する作業を綿密に成し遂げたが、ヘラーはマルクスが多用する「直接的欲求」の範疇に一言も触れていない。「直接的欲求」への理論的軽視は欲求理論を哲学の視角から捉えるすべての論者の特徴といえる。この特徴は欲求の「一般性」及び資本主義的欲求体制における欲求を普遍的なものとして無意識に考えた結果だろう。欲求体制の歴史的転形、資本主義以前の欲求体制に対する経済史的考察の欠落はその必然な帰結である。
杉原(四郎)は将来の課題として欲求の体系と労働の体系にかんする更なる現実的歴史的展開を考え、この課題を先送りした。
村串(仁三郎)はおそらく日本で欲求の経済学理論を構築しようとした唯一の学者かもしれない。しかし、村串の「自然的欲望」と「必然的欲望」の規定はマルクスの「自然的欲求」と「必要な欲求」の規定を逸脱している。必要な欲求を「自然的欲望をこえて社会的に必要とされた水準のもの」とする村串の規定に従えば、この範疇は加算法によってしか得られない観念的なものになり、あえて自然的欲求から区別されるこの必要な欲求はどの意味において「必要」(notwendig)なのかが不明になってしまう。また村串も欲求の歴史性、とりわけ社会的欲求体制の歴史的変遷についてはこれを看過したとの非難を免れないだろう。たとえば、労働者の直接的欲求から彼らの階級としての必要な欲求への転化について、村串は「この特殊な個人的欲望が、社会的生産力を基礎に他の個人的欲望に普及し一般化され、社会的に『欲望が必要なものとして措定されうるになる』と、特殊な個人的欲望は必然的欲望に転化する」と見て、その背後に控えている欲求体制の転形を見過ごした。
的場(昭弘)は「社会的欲求」と「普遍的利害」や「資本の増殖欲求」の概念を混同しているように、両者はマルクスの欲求理論に対する体系的把握が欠けており、現実性または実体性のない欲求カテゴリーに固執している。
第二章 中心的欲求と支配的な欲求の規定
人間社会と同様、人間の欲求は本来、歴史的・実証的な範疇である。哲学および心理学における「自然的」もしくは「一般的」あるいは「超経験的」な欲求カテゴリーと区別するために、ここで議論されている欲求をすべて「歴史的欲求」と規定する。歴史的欲求とは欲求の歴史性のことである。
欲求の社会的体系とは、さまざまな欲求から構成される一つ有機的な社会的体系のことである。いくつかの欲求の社会的体系は長期に渡って安定している状態を維持し、段階的な特徴や傾向を有する場合、これら欲求の社会的体系は一つ社会的欲求の体制(システム)、あるいは欲求体制を構成する。
欲求体制の形成は、どのような社会においても程度の差こそあるが、一定の社会的欲求(直接的unmittelbar欲求と対立する間接的mittelbar欲求、あるいはその持ち主である個人や団体が制御できない機構や仕組みによって媒介されている欲求)の存在を前提にする。厳密的に、ある欲求体制が純粋に直接的欲求によって構成されることはできない。というのは、直接的欲求が個人的欲求であり、その充足は匿名性を特徴とするメカニズムに依存せず、したがって社会gesellschaftに媒介されていないため、欲求体制を積極的に構成する要素ではないからである。次章に移動
このように規定されている欲求体制は人類史において、直接的欲求を中心とする共同体―団体的欲求体制、必要な欲求が支配する(を中心とする)資本主義的欲求体制、自由な欲求を根底に据える連合した生産者の社会の欲求体制という三つの歴史的形態、およびその間の過渡的形態を有している。
これら欲求体制において、それぞれの欲求体制の安定した特徴を反映する欲求グループが存在する。その欲求グループが欲求体制を積極的に構成する要素であり、欲求体制の形成・変態・発展と解体を能動的に牽引する欲求グループを、この欲求体制における支配的な欲求と規定する。一方、ある欲求体制を構成する積極的な要素ではないが、この欲求体制における主な欲求のタイプであり、したがってこの欲求体制の特徴を反映している欲求グループを、この欲求体制における中心的欲求と規定する。
ここから歴史的欲求への追加的規定が現われる。社会的(共同体的)労働の諸形態に呼応して、人類社会は直接的欲求を中心とする欲求体制から、来るべき自由な欲求に構成される社会的欲求の体制まで、様々な欲求体制を通過しなければならない。このダイナミックな過程において、社会によってつくりだされる欲求の様々な歴史的形態が浮上する。ある欲求の社会的体系もしくはある欲求体制において、特定な歴史的形態(Form)を持つ範疇を「歴史的欲求」と規定する。
人類史において最初に現われている歴史的欲求は、地続きの生活圏(個人と家庭、もしくは部落や村落などの共同体、カーストあるいは中世のような職業団体)以外のものに媒介されることなく、素朴な「直接的欲求」である。
第一節 欲求の直接性と間接性:社会的欲求と対立する直接的欲求の範疇
『資本論』第一巻の冒頭で商品の二重性のところ、商品の使用価値という属性は人間の諸欲求を満足させるものであるという規定が与えられた。この際、使用価値を規定したのは「直接的欲求」(unmittelbare Bedürfnisse)のカテゴリーである。
- 欲求充足の間接性
人類社会の最初の欲求体制――共同体―団体的欲求体制における中心的欲求、もしくは最初の「歴史的欲求」は直接的欲求(unmittelbare Bedürfnisse)である。確かに、「直接的」(unmittelbar)という用語は「仲介・媒介されていない」のように読み取れる。しかし、直接的欲求の「直接的」はまったく媒介されていない状態を指しているのではなく、欲求の持ち主にとって疎遠な、彼が能動的に制御できない機構(用語要吟味)――たとえば、匿名性を特徴とする社会(Gesellschaft)や市場メカニズム――に媒介されていないという意味で「直接的」である。
事実、欲求の直接性は個人の欲求が共同体(Gemeinde)、団体(Verband)によって媒介されることを排除しない。例えば、共同体および団体の成員は、その個人的欲求の一部を共同体―団体を通じて満たしている。他方、欲求の充足手段を供与する直接的生産者の労働は全て自己の欲求のために使われているとは言えない。
とはいえ、共同体のための直接的労働も、個人的欲求のための共同的労働(それは最初、共同体や団体からの反対給付として現われている)も、一定の政治―宗教的、親族的繋がりを前提に行われている。直接に個人的欲求のために行われていない生産労働の投下量は、やはり共同体―団体からの反対給付との間に、量的相関性が見られる。ゆえに、直接的生産者は自己の生産労働と自己の個人的欲求の充足の間に直接的な関連を見出すことができる。
これとは反対に、間接的(mittelbar)欲求の充足は匿名性が担保されているメカニズム(市場など)を介して満たされているため、そのような直接的関連が見られない。事実、必要な欲求を中心とする資本主義的欲求体制、またはそれに対応する資本主義的生産において、労働者の生産的労働(の投下量)と彼の必要な欲求の充足との間に何らかの必然的な繋がりも存在しない。この意味において、間接的欲求である社会的欲求(必要な欲求は社会的欲求の一つの歴史的形態)は直接的欲求と対立する。
- 欲求体制を構成する積極的・消極的要素
欲求の直接性の第二の特徴はその自己完結性にあり、それによって直接的欲求は欲求体制を構成する消極的要素に過ぎない。直接的欲求が支配する生産様式では、
[交換のための剰余生産物]が少なければ少ないほど、すなわち交換手段がいまだに直接的労働生産物の性質や交換者の直接的諸必要(den unmittelbaren Bedürfnissen)とかかわりあいが深ければ深いほど、諸個人を結びつける共同団体――家父長的関係、古代の共同団体、封建制度、ギルド制度――の力は、まだそれだけ大きいにちがいない。
したがって、直接的欲求の充足はほとんど共同体や団体の内部で完結する。これら個人的欲求が人類社会全体の視点から見て孤立的であり、共同体の域を超えて「一つの内的な紐帯」である欲求体制に統合されていない。
欲求体制の規定および具体的な欲求体制の追加規定は、第三章を参照
反対に、「直接的労働生産物の性質」(その特殊な使用価値)と生産者の「直接的諸必要」とのかかわり合いが遠くなればなるほど、欲求の直接性が弱く、その間接性が強くなる。というのは、直接的労働の産物と直接的生産者の欲求とを取り結ぶ関係は「諸個人を結びつける共同団体」ではなく、徐々にではあるが、匿名性が支配する「社会」に規定されるようになり、個人的欲求の充足は匿名性が担保される市場メカニズムに介して充たされるようになる。結果的に、ある人の欲求は、他人の欲求の充足に依存するようになり、社会におけるさまざまな欲求がこうして「一つの内的な紐帯」である欲求体制に統合されている。
[この有機的な欲求体制が]益々多面的になるにつれて、個人の生産は一面的になる。すなわち、社会的分業が発展すればするほど、交換価値としての生産物の生産あるいは交換価値としての生産物の性格が決定的な意味を持つ。
この生産と欲求の資本主義的体系において、
すべての主体は個人の社会的総欲求のひとつの側面を満足する。しかし、この特殊な分業から生まれる経済的関係自体は消えた。
……彼は使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。
このときから、
生産者たちの私的諸労働は実際に一つの二重の社会的性格を受け取る。それは、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲望を満たさなければならず、そのようにして自分を総労働の諸環として、社会的分業の自然発生的体制の諸環として、実証しなければならない。他面では、私的諸労働がそれら自身の生産者たちのさまざまな欲望を満足させるのは、ただ特殊な有用な私的労働のそれぞれが別の種類の有用な私的労働のそれぞれと交換[しうるかぎりであって、このことが]他人への需要という欲求として(als Bedürfniß andrer Nachfrage)」という新たな「生産者(直接的生産者)自身の欲求[を創出するのである。]
ゆえに、直接的欲求は欲求体制を構成する積極的要因ではないが、間接的欲求である社会的欲求は必然的に欲求の社会的体系を形成する。
第二節 社会的欲求と欲求の社会性(間接性)
マルクスが扱った欲求カテゴリーのほとんどが最初から社会学的(歴史的)な範疇である。ただ、唯一の例外は「自然的欲求」である。生理的欲求とも呼ばれる自然的欲求とは、人間の生物学的性格からして人間を生理的存続させるのに必要不可欠な欲求である。衣食住など基本的な欲求はこのカテゴリーに含まれる。
「交換される商品の自然的特殊性」また「交換者の特殊的な自然的欲求」は客体の措定であって、「経済的形態規定の外部に属する」。この種の欲求は人間と自然の関係によって決められるものであって、社会的分業の体系によって規定される欲求ではない。
実際、自然的欲求の範疇はマルクスの発明ではない。古典派経済学、更にその前の重農主義理論家テュルゴーはすでにこの欲求にたいする満足の優位、「それは生理的必然の優越」であることを強調した。自然法を意識したスミスも、労働の自然価格を議論する章で労働日の延長に休息の欲求による生理的限界を見出し、労賃の最低限は自然的欲求の充足によって規制されていることを語った。
『賃銀、価格、利潤』において、マルクスは「労働力の価値の最低の限界は、生理的要素によって決定される」と述べ、スミスに呼応した。明らかに、マルクスは自然的欲求の範疇が「経済的形態規定の外部」にあると述べたにもかかわらず、資本主義社会において、この範疇は自然の強制による社会的法則として働くという認識を示した。
このように、自然的欲求そのものは経済的形態規定の対象外だが、この欲求の充足は特定の社会的歴史的条件に依存している。したがって、自然的欲求は社会的法則として経済関係に影響する場合がある。
自然的欲求の対概念は「社会によってつくりだされる欲求」(durch die Societät geschaffnen Bedürfnissen)である。社会によってつくりだされる欲求は徹底した社会学的範疇である。というのは、この欲求の充足(外延)だけでなく、この欲求の中身も社会的である。社会によってつくりだされる欲求は、欲求充足の社会化――とりわけ自然的欲求の充足の社会化――の必然的な産物である。
第三節 必要な欲求としての社会的欲求
必要な欲求とは労働者の階級としての必要な欲求(略称「労働者の必要な欲求」あるいは「必要な欲求」)である(なお、資本家の階級としての必要な欲求は価値増殖欲求である。特別に言及されていないかぎり、本書はそれを「資本家の必要な欲求」あるいは「資本の価値増殖欲求」と略する)。
必要な欲求は資本主義社会の欲求であるがゆえに、社会的欲求(媒介される欲求)の一種である。必要な欲求が他の社会的欲求と区別されるのは、その欲求が資本主義的再生産の仕組みによって媒介されているからである。この仕組みはまず機械制による拡大再生産によって「社会的に必要」の「法則」を作り出し、労働者の様々な欲求のなかで「社会的に必要」と認められる部分だけを認めさせることによって、労働力の再生産をもその「法則」に当てようとしている。
ただし、資本主義社会では人びとは欲求の質において区別されるのではなく、欲求の量において疎外されているので、労働者の必要な欲求も量において、とくに労賃において反映される。
個人の欲求の充足手段は社会的であるがゆえに、あらゆる個人的欲求は社会的欲求(社会に媒介されている欲求)になる。さらに、資本主義的欲求体制において、あらゆる社会的欲求が資本の価値増殖欲求に従属させられている。したがって、労働者は自分の欲求を充足させるためには資本の価値増殖欲求のために働かなければならないだけでなく、労働者の欲求充足そのものもまた資本の価値増殖欲求に役立たなければならない。
資本主義社会では欲求が市場と貨幣によって二重に媒介されているため、欲求はまず支払能力を有さないと市場に媒介されない。従って主流派経済学が愛用する「需要」の範疇はただ社会的欲求の量ではなく、支払能力がある社会的欲求の量であって、労賃が必要な欲求によって規定される以上、人口の絶対多数である労働者の需要はかれらの必要な欲求の量でもある。
労働力が一つの社会的使用価値にみなされる時点で、それは必然的に社会的欲求の対象である。資本主義的欲求体制のもとで、特殊な社会的使用価値である労働力は資本の価値増殖欲求という社会的欲求の対象である。同時に、社会的欲求が支配する欲求体制において、社会的欲求を満たす社会的使用価値は他の等価値の社会的欲求を満たす社会的使用価値と交換されなければならない。ゆえに、労働力という特殊な社会的使用価値と交換される等価値の社会的使用価値は、資本主義的欲求体制におけるもう一つの社会的欲求――労働者の階級としての必要な欲求――の充足と結び付けられている。故に、必要な欲求にたいする考察は必然的に労働力の価値、または労働日と労賃への考察と関連付けて行われなければならない。
いわゆる必要な欲求は、「食物や衣服や採暖や住居などのような自然的な欲望」のほかに、
一国の文化段階によって定まるものであり、ことにまた、主として、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活要求をもって形成された」……[かという]「歴史的な精神的な要素(ein historisches und moralisches Element)を含んでいる。
同じく、必要な欲求の充足によって再生産される労働力、その価値構成の要素では「一つは主として生理的な要素、もう一つは歴史的ないし社会的な要素である」。労働力の価値の、したがって必要な欲求のこの二つの要素において、自然的欲求の部分が「生理的要素」として「労働力の価値の最低の限界」を決定する。「これらの必要欠くべからざる生活必需品の価値が、労働の価値の最低の限界となっている」。
こうした純然たる生理的要素のほかに、労働の価値は、どこの国でも、伝統的な生活水準によって決定される。この生活水準は、純然たる生理的な生活ではなく、人々がそこに住み、そして育てられる社会的諸条件から生じる、一定の欲望の充足である。
たとえば、
イングランドのいろいろな農業地域の平均賃金は、それらの地域が農奴制の状態から脱したときの事情のよしあしに応じて、今日でもなお多少ちがいがある。
「歴史的伝統と社会的慣習」が労働者の必要な欲求の形成にたいする「重大な役割」は、労働力の価値に規定される労賃と労働日にも反映されている。
このような純粋に肉体的な限界のほかに、労働日の延長は精神的な限界にもぶつかる。労働者は、精神的及び社会的な諸欲望(geistiger und sozialer Bedürfnisse)を満足させるための時間を必要とし、これらの欲望の大きさや数は一般的な文化水準によって規定されている。それゆえ、労働日の変化は、肉体的及び社会的な限界のなかで動くのである。
残念ながら、労働力の価値規定、もしくは労賃及び労働日における「歴史的精神的な要素」はこれまで過小評価され、経済的形態規定の一部としてみなされているとは言えない。賃労働を研究するほぼすべての研究者は『資本論』の第一巻に現われている労働力の価値規定をマルクスの唯一の出発点と勘違いして、必要な欲求の規定的役割を看過した。
しかし、そのタイトルどおり、『資本論』の第一巻が与えた労働力の価値規定は「資本の生産過程」にとっての必要な形態規定であり、社会的使用価値の一種である労働力の再生産過程にとって充分の形態規定とは言えない。というのは、労働力という特殊な社会的使用価値の再生産は、他の社会的使用価値と異なり、ただ社会的生産過程ではなく、社会的再生産のほかの諸契機(流通、分配及び消費過程)をも通過しなければならない。ゆえに、直接的生産過程の諸結果ではない労働力商品を考察する際、われわれは視野を「資本の生産過程」から、「資本の生産過程」の前提をつくる「資本主義的生産の総過程」に広げなければならない。
だれでも、自分の生産的労働または生産的労働の搾取のほかに、生産的でなく部分的には消費費用にはいる多くの機能を果たさなければならない……本来の生産的労働者は、こうした消費費用を自分で負担し、自分で自分の不生産的労働をしなければならない。
マルクスが示唆したように、労働力という特殊な商品の再生産は、その再生産にとって必要な生活手段の生産のほかに、「生産的でなく部分的には消費費用にはいる多くの機能」を必要とし、これらの機能は社会的生産過程ではなく、社会的流通、分配や消費過程に依存するところが多い。労働力の再生産にとって必要なこれら諸契機は、いずれも労働者の必要な欲求の範囲に反映される。この範囲は前述のように、「歴史的な精神的な要素」という柔軟な部分を含んでいる。ゆえに、労働力を再生産するための必要な社会労働によって規定される労働力の価値を考察する際、労働者の必要な欲求にかんする欲求理論の構築が前提である。この理論構築の試みは本書の第五章でなされる。
とはいえ、必要な欲求の範囲は労働力の正常な再生産を規定する要因であって、労賃や労働日の現実な運動を決定するものではない。というのは、必要な欲求による「これらの限界はどちらも非常に弾力のあるもので、きわめて大きな変動の余地を許すもの」であって、「資本は、剰余労働を求めるその無際限な盲目的な衝動、その人狼的渇望をもって、労働日の精神的な最大限度だけではなく、純粋に肉体的な最大限度をも踏み越える」ことができる。故に、労働力の再生産に関わる諸カテゴリー、とくに労働力の価値、及び労賃と労働日をより全面的に考察するには、われわれは『資本論』の第一巻の次元を超えて、現実の階級闘争を含む理論的次元にたどり着かなければならない。
第四節 必要な欲求の「法則」性
第三章において、われわれは欲求が生産にブレーキをかける欲求体制――直接的欲求を中心とする共同体的・団体的欲求体制にある生産の原則を見てきた。とくに原始的共同体の社会形態において、労働力(あるいは労働時間)の節約が生産活動を支配する原則である。ゆえに、生産は生産階級の直接的欲求が要求する限度の前に停止する。
しかし、この原則は資本主義的欲求体制における「合理性」あるいは「経済性」の原則と同様、あらゆる社会形態に共通する普遍的な経済的「法則」ではない。というのは、生産手段と自分自身の労働力の使用権を支配できる未開社会の経済主体にとって、生産活動の社会的側面は団体の意志によって制御されるものである。団体の意志によって制御できない生産活動の自然的側面は彼らにとっての外的強制であり、この「経済」の領分が彼らに課せられる強制は彼らの生産活動の最低限(生理的限界)として、彼らの自然的欲求として現われる。
とはいえ、個体としての未開人の労働時間を規制するものは、この生理的限界のほかに、ある社会的・文化的限界もある。たとえば、団体的・共同体的欲求を充たす祭祀・儀式、またその儀礼的交換のための生産物への必要も社会的強制として、彼らの最低労働時間を規制するからである。
しかし、この社会的強制は経済的法則として、彼らに課せられる外的強制ではない。なぜなら、これら共同的欲求による社会的必要は量的に調整できる限度のあるものであり、質的にもやはり生産階級の個人的必要に関係するものである。ゆえに、この社会的強制は共同体経済という社会形態に内在する内的強制であることは、共同体を構成する諸個人が理解できる。
中世の封建経済においても状況は変わらない。個人は相変わらず社会的強制によって労働しなければならない。国家と領主からの租税などを納めるほか、彼らは領主に対しても「僕婢奉公の義務Gesindezwangsdienstを負わされた」。これらサービス労働の量は共同体の政治―宗教的必要ないし特権階級の偶然な欲求によって変動するが、この労働への強制は「経済外的な直接的な強力」によって守られているものであり、したがって資本主義的欲求体制のような「経済的諸関係の無言の強制」ではない。ゆえに、この強制は社会的法則として支配される側に課せられる外的強制ではなく、支配する側によって課せられ、中世の身分等級制に依存する内的強制である。支配する側を倒し、身分的等級制度を覆すことでこの内的強制を解除できる。
しかし資本主義的欲求体制において、労働者の階級としての必要な欲求――労働力の価値を質的な面においても量的な面においても規定するこの欲求が、資本の必要な欲求(価値増殖欲求)に従属させられることで、資本の必要な欲求によって制限されることには見えない。というのは、純粋な資本主義的欲求体制において、労働者の必要な欲求の対象範囲によって規定される労賃は、等価交換の原則、労働力商品を含むあらゆる商品の価値量を規定する原則――商品の価値量はこの商品の再生産にとって社会的に必要な労働時間によって規定される――によって「合理的」に定められ、その「合理的」な水準を労働側も資本側もただ受動的に受け入れているように見える。
労働者階級の必要な欲求の充足は資本の必要な欲求を充足する一環であり、労働者の自身のための労働は彼の資本家のための役立ちの一環である。ゆえに、労働者が資本の必要な欲求を充足するために必要な労働を供与している事実が、彼が自分の必要な欲求の充足にとって「必要な」労働時間を働ければならない形態を呈している。要するに、労働者の「必要な欲求」の「必要」(notwendig)は、資本家階級に押し付けられた「必要」であり、労働者階級にとっての必要ではない。というのは、労働者が自分の必要な欲求を充足させるために提供する「必要」のある労働量は、この必要な欲求の対象を生産するために必要な労働量より多い。労働者が提供する「必要」のある労働量は、資本の必要な欲求の充足に規定される労働量である。
しかし資本主義的欲求体制において、労働者の必要な欲求が資本の必要な欲求に従属させられ、したがって資本主義経済における「必要」が労働者にとっての「必要」ではなく、資本にとっての必要であることは、価値の法則と等価交換の原則という平等な規則の背後に隠れている。結果、本来支配される側に強制される不平等は、労働者階級と資本家階級双方に課せられる平等な義務として、支配する側と支配される側によって自発的に貫徹される。
この自発性のゆえに、資本主義的欲求体制におけるあらゆる社会的欲求の資本の必要な欲求への従属は一種の経済的必要(「合理化」の必要)あるいは経済的「法則」――われわれはそれを必要な欲求の「法則」と名づける――として、真実の転倒される形で現象する。
とはいえ、われわれが知ったように、必要な欲求の「法則」はどんな社会的形態でも成立する真の社会的法則、あるいはあらゆる社会形態に依存しない真の自然的法則と異なり、資本主義的欲求体制に依存し、資本主義的欲求体制においてのみ有効である擬似法則である。この「法則」はどのように擬制され、擬似法則の有効性はどのように他の外部的諸契機に依存するか、それを明らかにすることは経済科学の正しい任務と言えよう。
まず第一に、必要な欲求の「法則」の有効性は、直接的生産者の欲求の充足が社会的分配過程に依存する度合いに関係する。というのは、資本主義に先行する直接的欲求を中心とする欲求体制において、生産者の欲求を個別な生産過程を通じて直接に充たすことができる。ゆえに、直接的生産者の個人的欲求の充足が他人の欲求の充足を前提しなければならない状態にはない。言い換えれば、必要な欲求の「法則」を成立させるためには、まず直接的生産者の欲求の充足が他人の欲求の充足に依存する状態をつくらなければならない。要するに、直接的生産者の個人的欲求を社会的欲求(必要な欲求はその一形態に過ぎない)にしなければならない。この場合、直接的生産者の欲求の充足は社会的分配過程(総生産物の各社会階層のあいだの配分)に媒介される。
資本主義的欲求体制において、社会的分配過程の仕組みを決定するのは階級間の、および支配階級である資本家階級の内部諸階層の力関係である。言い換えれば、直接に労働を搾取する個別資本、およびその資本に搾取される特定な労働者がこの分配の仕組みを決定しているわけではない。個別の労働者は、ただ社会的総生活手段のなかで労働者階級の必要な欲求に応じて割り当てられた部分の可除部分を受け取ったに過ぎない。個別の資本も、ただ総剰余生産物のなかで投下資本の額に応じて配分される平均利潤を受け取ったに過ぎない。
直接な搾取過程と搾取の結果との分離は支配の事実を隠蔽し、あたかも個別な労働者と個別な資本が市場経済の「法則」に与えられた分け前を公平に受け取ったような外観をつくった。直接な搾取過程と搾取の結果との分離は個人の直接的欲求の、市場メカニズムに媒介される間接的欲求(社会的欲求)への転換の結果といえよう。
第二に、必要な欲求の「法則」の強制力は、支配階級である資本家階級がどの程度まで自己の必要を労働者が提供する必要のある労働量として、労働者の「必要」として、労働者階級に押し付けられるか、それによって担保される。資本は、労働手段を直接的生産者から取り上げ、生産過程を資本主義的生産過程にすることで、労働者に剰余労働を強いる。直接的欲求のための生産と異なり、資本主義的生産の目的は剰余の取得にあり、取得される剰余の最小限は存在しない。
利潤については、その最小限を決定する法則は存在しない。利潤低下の極限の限界はどれかということは、われわれには言えない。では、なぜわれわれはその限界を決められないのか?そのわけは、われわれは賃金の最低限を決めることはできるが、その最高限を決めることはできないからである。
ゆえに、資本主義的生産は生産者の直接的欲求の満足をはるかに超える剰余生産を要求する。生産過程が終了したあと、労働者階級ははじめて自分が生産した社会的総生産物のなかで、自分の必要な欲求の対象の範囲に相当するものを配分される。この意味において、剰余労働と剰余生産が必要労働および必要生産の概念よりも論理的に先行する。結果的に、資本家階級の絶対的優位を反映した、必要のための生産が剰余のための生産に従属される状態は、必要な欲求の「法則」の強制力を担保する。
とはいえ、この強制力――労働者が資本家のために提供する剰余労働には限度がある。この擬制法則は真の法則に制限されているからである。というのは、剰余労働の最小限を決定する法則は存在しないが、その最大限を規制する法則は存在する。第一章第四節で述べたように、自然的欲求は人間の自然界における位置によって客観的に規定される範疇であり、その範疇に真の自然的法則が反映されている。自然的欲求の充足は労働力の正常な再生産にとっての必須条件であるため、いかなる生産形態においても前提となる。
資本主義的欲求体制において、自然的欲求の充足は一方には社会的生活手段の提供に依存する。ゆえに、これら社会的生活手段と交換するための労賃――労働者の必要な欲求によって規定されるもの――は人間の自然的欲求(あるいは生理的欲求)の充足にとって十分な額でなければならない。他方、どの商品の再生産にも時間がかかると同様、労働力という商品の再生産には、その再生産に必要な「生産手段」である社会的生活手段のほかに、一定の「生産時間」――人間の労働能力の回復にとって必須な余暇を必要とする。したがって労働者の自然的欲求は労働日の生理的最大限をも規定する。
利潤の最大限は、賃金の生理的最低限と労働日の生理的最大限によって限界が決められる。この利潤率の最大限の二つの限界のあいだには非常な変動の幅がありうる……資本家は賃金をその生理的最低限まで引き下げ、労働日をその生理的最大限までのばそうとたえずつとめており、これにたいして労働者はそれと反対の方向にたえず圧力をくわえているからである。
この自然的法則による規制とは別に、必要な欲求の「法則」の強制力はある社会的法則によっても制限されている。それは労働力という特殊な商品はほかの商品とは異なり、「ただ生きている個人の素質として存在するだけである」。そして人間は社会性を持つ動物であり、自己の生理的属性を維持する自然的欲求以外に、自己の社会性を維持する文化的・精神的欲求をも持っている。人間は動物体としての自己だけでなく、社会体としての自己を維持するために必要な文化的・精神的欲求の充足は、賃金の文化的最低限と労働日の文化的最大限を決める。
資本家は賃金をその文化的最低限まで引き下げ、労働日をその文化的最大限までのばそうとたえずつとめており、「これにたいして労働者はそれと反対の方向にたえず圧力をくわえている」。最終的に、賃金の現実な変動は「資本と労働とのたえまない闘争によってはじめて決ま」り、「事態はけっきょく闘争者たちのそれぞれの力の問題となる」。
第三に、必要な欲求の「法則」の擬制は資本のもとへの労働の形式的包摂から始まり、資本のもとへの労働の実質的包摂をもって完結する。
資本のもとへの労働の形式的包摂、したがって「売り手を買い手への経済的従属に陥らせるのは、買い手が単に労働諸条件の所持者だからであって、けっして政治的・社会的に固定された支配・従属関係のゆえではない」。この形式的包摂は、支配者と被支配者とのあいだの超経済的支配関係を「剰余労働を領有する者とそれを提供する者とが純粋な貨幣関係」にする。結果、「経済的諸法則が、一方では社会全体を支配しながら、他方ではその純粋に経済的な能力によって、したがって経済外的な諸要因の助けをかりることなしに《純粋な自然法則》として自己を貫徹しうる」。
とはいえ、手工芸の熟練が労働過程の結果を大きく左右できるほどの重要性を持つかぎり、たとえば第三章第五節で述べた、初期の資本主義的マニュファクチャーにおけるように、熟練工もこの経済的「法則」の貫徹を制限する。熟練は、彼らの欲求の資本の必要な欲求への完全な従属を制限する。熟練がもたらす生産性の向上は資本の包摂によって発展させられた労働の諸形態に依存しない。それは熟練工の生産性として現われ、資本の生産性として現われていない。この制限は機械制大工業の普及によって取り除かれる。
独自に資本主義的な生産様式の発展につれて、これらの直接に物質的な物――労働のすべての生産物、すなわち使用価値から見れば物象的労働諸条件ならびに労働の諸生産物、交換価値から見れば対象化された一般的労働時間、すなわち貨幣――が、労働者に対立し、「資本」として彼に相対するからだけでなく、社会的に発展した労働の諸形態、協業、マニュファクチャー(分業の形態としての)、工場(物質的基礎としての機械装置にもとづいて組織された社会的労働の形態としての)が資本の発展諸形態として現われ、それゆえ社会的労働のこれらの諸形態から発展した労働の生産諸力、それゆえ科学や自然諸力も、資本の生産諸力として現われるからである。
もし、労働のサービス形態の資本主義的形態への転換、あるいは資本のもとへの労働の形式的包摂は、労働過程を同時に資本主義的生産過程、すなわち資本の価値増殖過程にし、労働の果実を資本の果実にすることで、労働の生産諸力の向上を資本の価値増殖の一環にするための前提をつくったとすれば、機械制大工業に基づく「独自に資本主義的な生産様式」、あるいは資本のもとへの労働の実質的包摂ははじめて技術的合理性を資本の価値増殖の条件にし、労働をその技術的合理性に従わせた。この「独自の資本主義的な生産様式」において、資本による労働の強制は技術的合理性による労働の強制に化したことで、資本―賃労働関係に外在する強制のように見える。このときからはじめて、必要な欲求の「法則」が完全に成立し、その「法則性」の有効性が完全に認められる。
「法則」に従い、あらゆる社会的欲求の資本の必要な欲求への従属、したがって社会再生産のあらゆる契機の資本主義的生産への従属が進行しつつある結果、資本主義的生産に支配される社会の下部構造のあらゆる上部構造に対する絶対的優位が成り立つ。資本家階級の、この「法則」の有効性への動かない信仰は、「資本主義社会の自己認識を意味する……ブルジョア社会とその経済的構造の理論」としての史的唯物論(上部構造と下部構造との間の強い構造的因果性を描く理論)の有効性を担保する。
とはいえ、「独自に資本主義的な生産様式」がまだ社会的再生産のあらゆる諸契機を完全に支配するまえに、必要な欲求の「法則」はただ近似的に成立したに過ぎない。この擬似法則の有効性はさまざまな歴史的・社会的条件に影響される。これら歴史的・社会的条件の一つは、前に述べた「闘争者たちのそれぞれの力」であり、次項の分析の焦点である。
第一章 資本主義的欲求体制の特殊な規定との整合性に要注意
第三章 欲求体制の諸規定
[この部分は第二章の冒頭と重複]
欲求の社会的体系とは、さまざまな欲求から構成される一つ有機的な社会的体系のことである。いくつかの欲求の社会的体系は長期に渡って安定している状態を維持し、段階的な特徴や傾向を有する場合、これら欲求の社会的体系は一つ欲求体制を構成する。
欲求体制の形成は、どのような社会においても程度の差こそあるが、一定の社会的欲求(直接的unmittelbar欲求と対立する間接的mittelbar欲求、あるいはその持ち主である個人や団体が制御できない機構や仕組みによって媒介されている欲求)の存在を前提にする。厳密的に、ある欲求体制が純粋に直接的欲求によって構成されることはできない。というのは、直接的欲求が個人的欲求であり、その充足は匿名性を特徴とするメカニズムに依存せず、したがって社会gesellschaftに媒介されていないため、欲求体制を積極的に構成する要素ではないからである。
このように規定されている欲求体制は人類史において、直接的欲求を中心とする共同体―団体的欲求体制、必要な欲求を中心とする資本主義的欲求体制、自由な欲求を根底に据える連合した生産者の社会の欲求体制という三つの歴史的形態、およびその間の過渡的形態を有している。
第一節 欲求体制と生産(労働)体制との対応関係
欲求体制と生産体制とのあいだに必然的に相関関係が存在する。というのは、欲求充足の決定的な契機は生産によってつくらなければならず、そして欲求が社会的欲求であればあるほど、その充足は社会的生産に依存するようになる。結果、ある欲求の社会的体系を安定的に維持するには、その欲求の充足のための諸契機が一定の仕方で組織されている社会的生産によって賄えなければならない。このことは、生産体制が一方的に欲求体制を規定するあるいは規制する、という意味ではない。反対に、われわれは逆のケースをいくつか知っている。
たとえば、直接的欲求を中心とする欲求体制において、生産者の直接的欲求が彼の個人的労働および共同的労働の投下量を規制する「チャヤノフの法則」(Chayanov’s rule)が観察されている。
直接的欲求の規定について、第二章第一節を参照
直接的生産者の生産的労働の投下量と彼自身の直接的欲求との関連が解除された資本主義的欲求体制でも、生産者の直接的欲求に代わって、その欲求体制の支配的欲求である資本の必要な欲求が生産量の下限を絶えずに引き上げている。結果、社会的欲求あるいは欲求体制の「量的規定性」の課題が出てくる。マルクスはこれを需要と供給の「更に踏み込んだ形態規定(weitre Formbestimmungen)」として、「需要の原則を規制するもの」や「需要供給関係が作用するための基礎」と考えている。とはいえ、直接的生産者の欲求とその投下労働とのあいだの関連性が形式上、解除されている。
[資本による]不払労働の取得が……生産の拡張や制限を決定するのであって、社会的欲望にたいする、社会的に発達した人間の欲望にたいする、生産の割合がそれを決定するのではない……この生産様式は、欲望の充足が休止を命ずる点でではなく、利潤の生産と実現とが休止を命ずる点で休止してしまうのである。
しかし代わりに、資本主義的欲求体制において、生産体制と直接的生産者の欲求は常に乖離する。この乖離が真に解消されるのは「連合した生産者の社会」のもとで形成されつつある自由な欲求の欲求体制においてである。
[自由な欲求の欲求体制において]一方では、必要労働時間が社会的個人の諸欲求をその尺度とすることになるであろうし、他方では、社会的生産力の発展がきわめて急速に増大し、その結果として、生産はいまや万人の富を考量したものであるにもかかわらず、万人の自由に処分できる時間が増大するであろう。
むろん、連合した生産者の社会でも、社会的個人の欲求を満足させる必要労働は「やはりまだ必然性の国」に属する。ただ、連合した生産者の社会では欲求を社会的個人が制御しており、この種の欲求体制において労働時間の意味が根本的に変わる。
[一面では]労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望にたいするいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役だち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的な分けまえの尺度として役だつ。
さらにまた、「富の尺度は、もはや労働時間ではけっしてなくて、自由に処分できる時間」である。したがって、自然必然性の国の「かなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が始まるのである」。
とはいえ、欲求体制と生産体制とのあいだは一対一の対応関係ではない。なぜなら、一方では、欲求――とりわけ生理的欲求を除いた社会によって作られた欲求の部分――は非常に弾力的なものであり、生理的・文化的な限度――その文化的限度ですら、長期において調整可能なものである――の許す範囲内で伸縮可能な範疇である。他方、ある欲求の社会的体系を安定的に維持するための社会的生産の水準は、同時に不特定多数の仕方で組織される生産体制が到達しうるものだからである。両者のあいだに「負の因果性」法則の存在が認められる。
第二節 共同体―団体的欲求体制の追加規定
直接的欲求は一般的に生活手段にたいする欲求である。マルクスはほかにも「個人的欲求」、「直接的必要」、「自己必要」、「生活欲求」などの表現を用いたことがある。それは生産の動機は個人的欲求の直接的充足にある社会の歴史的形態を示唆する。ゆえに、直接的欲求は初めての歴史的欲求である。直接的欲求は、資本主義的欲求体制に先行する欲求体制における中心的な欲求であるが、支配的欲求ではない。というのは、第三項で述べたとおり、直接的欲求の範囲は一般に共同体や団体の境界を超えることはなく、したがってそれが能動的に一つの社会的[な]欲求体制を構成することはない。資本主義的欲求体制から区別されるこの先行的欲求体制は三つの特徴を備えている。
第一に、資本主義社会に先行する社会形態では、「使用価値のための、直接的自己需要のための(für den unmittelbaren Selbstbedarf)、生産が優勢」である。この「直接的使用価値のための、生産者たちの自家使用のための生産」は、「生産物はつくるが、商品をつくりはしない」。商品生産が例外的に行われているというのは、それは個人的欲求のなか、直接的欲求のための生産によって充足されていない部分のために行われ、したがってこの非常に限られている部分によって量的に制限されている。全体的に、生産のほとんどは直接的生産者の個人的欲求のために行われる。自然に、生産の限界は個人の欲求の充足によって制限される。
第二に、欲求は質的にも量的にも分割されている。資本主義的欲求体制における平等な市民同士の社会的欲求と異なり、前資本主義社会(一部の採集―狩猟社会を除いて)の欲求はまずは生産的階級と不生産的階級の分割、続いて従属的階層と特権的階層との分割に応じて、質的に分割されている。たとえば、中世の西欧社会では直接に個人的欲求のための生産か、領主や共同体のためのサービスとしての労働が支配的であり、これらの労働の「役だちやその生産物によって」不生産的諸階級の「個人的な欲望」が満たされるが、不生産的諸階級のなかでの特権階級は他の階級に持つことを許されない奢侈的欲求を持っており、その充足は高度な専門性を持つ熟練労働に依存するところが多い。この奢侈的欲求のための生産に従事する労働者の個人的欲求は確かに自己の労働で充足されていないがゆえに、直接的欲求ではない。しかし、この(特権階級のための)生産は社会的な規模で行われておらず、それに応じてこのような専業に従事する労働者の数も非常に限られている。ゆえに、彼らの欲求は当時の欲求体制においては直接的欲求の例外(あるいは補充)でしかない。しかし、これらの労働者が領主や国王にサービス労務を提供する隷属民ではない場合、すなわち彼らは商人(問屋)のために働き、問屋が彼らの労働所産、彼らの個人的欲求および特権階級の欲求を媒介する場合、これらの労働者はすでに伝統的なサービス関係から逸脱し、したがって(商人資本に媒介される)彼らの欲求は、資本主義的欲求体制における労働者の必要な欲求への過渡となる。
第三に、しかしやはり、資本主義に先行する社会形態では、問屋のために働くケースはごく例外的なものである。一部の自由都市、共同体の境界において、社会的欲求のための生産は商人や商人資本によってある程度まで発展させられているとはいえ、商人と商業活動が厳しく制限されている自給自足の農村や、労働力の供給と商品の販売権を同職組合に支配・独占された都市、政治―宗教的特権階級が強力な影響力と強制力をもつアジア的国家と社会では、真の普遍的な社会的欲求――ただの共同体や団体の共同的欲求ではないもの――のための生産は厳しく制限される。資本主義的経営の試みはブローデルのいう通り、十回中九回まで赤字の決算となる。
第三節 資本主義的欲求体制の追加規定
資本主義的欲求体制の成立は、生産が欲求に従属し、欲求が生産を制限するシステムの揚棄と、生産が欲求を支配し、欲求を積極的につくりだすシステムの成立を意味する。生産と欲求との支配関係の逆転は、下部構造と上部構造との強い構造的因果性を主張する史的唯物論を有効にする。というのは、経済外の強制が経済的強制に、社会的諸法則が経済的諸法則に還元され、この経済的強制または経済的諸法則は、あらゆる欲求が資本の必要に従属する「法則」として現われる。
この「法則」は労働力価値を労働者の階級としての必要な欲求の対象に入る社会的労働の量として規定する。必要な欲求の対象である社会的労働の量は個別な生産過程に規定されるものではなく、総生産過程の結果(この結果を社会的再生産の様々な過程が関与する)に規定されているがゆえに、個別労働者が生産過程で消耗した労働量とは無関係のように見える。結果、個別労働者の労働力価値、したがってその転化形態である労賃が労働者階級の必要な欲求によって規定されるという「法則」は、労働者にとっての外的強制であり、「自然法則」のように見える。
しかし、この「法則」は特殊な歴史的条件のもとでつくられ、その働きが様々な歴史的条件に依存しているエセ自然法則であり、この「法則」の強制性を担保するのは資本主義的生産様式における資本家階級の支配的地位である。ゆえに、資本主義社会の諸社会階級――とくに労働者階級と資本家階級との力関係がこの「法則」の表現と有効性を決める要因である。
理論的任務:
必要な欲求の「法則」の表現と有効性を決定する現実な仕組みへの考察
必要な欲求の「法則」が持つ一般的傾向への理論的分析
資本が生産、流通、分配、消費など再生産の諸契機をすべて支配し、労働に対して絶対的有利な地位を獲得したという「純粋な」資本主義的欲求体制において、必要な欲求の「法則」は徹底的に貫徹され、必要な欲求の範囲の不変性と必要労働時間の不変性という、資本が直接的生産過程を包摂した状態に留まり、直接的生産過程の諸法則のみを考察するときの仮定は棄却される。というのは、生産や流通過程が資本の必要に従属させられるだけでなく、個人的消費の過程も資本の必要な欲求の充足のために組織されるとき、労働者の個人的消費は資本の価値増殖の一環として資本主義的欲求体制に組み込まれ、一方では資本に帰属されている価値の実現に役立ち、他方では資本の価値増殖のために自発的に労働力商品を供与する。
資本主義的欲求体制においても、必要な欲求の「法則」が支配する領域は常に階級間の力関係および資本に包摂される労働の範囲によって影響される。
資本主義的生産様式が主導権を握り始めたとき、必要な欲求の「法則」はまだ生産過程における物質的生産労働しか支配していなかった。考察の対象を資本主義の直接的生産過程に限定すれば、われわれは『資本論』の第一巻においてマルクスが行ったように、労働者の物質的満足のみ(というのは、労働者の精神的・文化的満足は直接的生産過程以外の諸契機に依存するところが多い)に関心を持つ。この物質的満足は労働者の必要な欲求の範囲を画する。労働者の必要な欲求は一種の社会的欲求であって、間接的欲求である。ゆえに、その欲求の充足に必要なのは彼の直接的労働ではなく、その社会的欲求の充足のための支払能力である。資本主義的欲求体制において、それは資本家から受け取った彼の労働力の価値の対価である。労働者は、その対価に相当する支払能力を、自身の物質的満足にかかわる必要な生活手段と交換しなければならない。結果的に、これら必要生活手段の価値に相当する社会的労働時間は労働日の必要な部分となり、労働日のこの必要な部分に含まれる平均水準の社会労働は労働者の必要な労働の範囲を規定する。この意味において、必要労働の範囲は労働者の階級としての必要な欲求に規定される。
この労働者の必要な欲求を少し詳しく考察しよう。資本主義的欲求体制において、労働者の必要な欲求は資本家の必要な欲求である資本の増殖欲求に従属させられることは、必要な欲求の「法則」として、あたかも外部からの強制のように、資本家と労働者双方に平等に課せられる。しかし、この見せかけの「法則」は真の法則に背くことはできない。労働力の生理的回復(またはその文化的・社会的回復)はその真の法則に規定されるものである。ゆえに、資本は自己の価値増殖欲求のためにひたすら労働者の労働能力を消費してはならず、たとえ一時的に自己の価値増殖欲求と矛盾しても、資本は労働能力の再生産にとって必要な条件を維持しなければならない。
「労働力の生産はこの個人の存在を前提する」過程である。労働者個人の存在すなわち労働者の生理的・社会的存在は、その存在を維持する労働者の様々な欲求――これらの欲求を合わせて労働者の階級としての必要な欲求となり、一人の労働者の必要な欲求の対象範囲は、全体労働者の必要な欲求の対象範囲の可除部分である――の充足に依存する。これらさまざまな欲求において、労働者の自然的欲求(natürliche Bedürfnisse)は労働力価値の「純生理的要素」に、労働者の「社会によって作り出される欲求」(Societät geschaffnen Bedürfnissen)は労働力価値の精神的・文化的要素に転化する。
労働者の必要な欲求のなかの「純生理的要素」すなわち自然的欲求は、人間の生理的構造および人間と自然との超社会的関係に規定されるものである。シュトルヒによれば、労働者の自然的欲求は「自然対象としての個人のむきだしの存在からは出てこない必要のこと」であり、たとえば「食物や衣服や採暖や住居など」である。このような自然的欲求は、マルクスの経済学批判体系においては「経済的形態規定の外部に属する」。
とはいえ、人間の自然的欲求の充足は社会再生産の結果である。資本主義的欲求体制において、労働者の自然的欲求は労賃と交換される消費手段によって充足されているがゆえに、「これらの必要欠くべからざる生活必需品の価値が、労働の価値の最低の限界となっているのである」。
一方、動物的存在ではなく社会的存在でもある労働者は、自身の社会的存在の維持に「必要欠くべからざる」消費手段をも手に入れなければならない。もし自然的欲求を労働力価値の生理的限界とみなすのであれば、この社会によってつくりだされる欲求は労働力価値の社会的限界をなす。
必要な欲求のこの社会的部分は
だいたいにおいて一国の文化段階によって定まるものであり、ことにまた、主として、自由な労働者階級がどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活要求をもって形成されたか、によって定まるものである。
『資本論』の第一巻は、労働者階級が形成されるとき、彼らの慣習と文化が彼らの階級としての必要な欲求に、したがって彼らの労働力価値に影響する、ということを述べたに留まる。その後に出版された『賃金・価格・利潤』のなかで、マルクスはソーントンの言葉を借りてその議論を補完した。
イングランドのいろいろな農業地域の平均賃金は、それらの地域が農奴制の状態から脱したときの事情のよしあしに応じて、今日でもなお多少ちがいがある。
労働者の物質的満足を考察するときに現われている生理的限界と社会的限界という範疇は、われわれが視点を直接的生産過程から社会的再生産の全過程に拡大しても、なお有効である。ただ、その内容が変わり、質料の部分のほかに、精神の部分などをも含めるようになる。さしあたり、われわれは労働日、もっと正確に言えば余暇という労働者の満足に新たに追加した要素に触れよう。
労働の買い手である個別資本は、自身の買い手として権利を行使し、できるかぎり長く労働者からその労働能力を搾取しようとする。ゆえに、資本にとって絶対的有利な階級間の力関係のもとでは、
労働力の正常な維持が労働日の限界を決定するのではなく、逆に、労働力の一日の可能なかぎりの最大の支出が、たとえそれがどんなに不健康で無理で苦痛であろうとも、労働者の休息時間の限界を決定する。
とはいえ、それでも労働時間を無制限に延長するわけにはいかない。なぜなら、労働時間の絶対的延長はもれなく労働能力の回復という大きな壁にぶつかるからである。というのは、労働能力を再生産し、それを初期状態に回復させるには時間と労力がかかる。労働能力の再生産過程は実際二つのプロセス――生活手段の消費過程と労働者の体内で行われている労働能力の再生産過程――の連続であり、第一の過程は――マルクスの例えを借りれば――第二の過程のために活性化エネルギーを提供し、第二の過程(労働者の体内で行われる化合反応)に必要な反応条件を提供するが、この第一の過程(生活手段の消費過程)自体もエネルギーを消耗する。また、第二の過程――真の質料交換(生活手段という質料→労働能力というエネルギー)の過程――で起きた化合反応は、すべての化合反応と同様に、時間がかかる。この時間――第一の過程に支出するエネルギー(必要な消費労働)のための時間及び第二の過程の化合反応(労働能力の回復)に必要な時間、その双方――が労働日の生理的限界となる。
さらに資本主義的欲求体制において、すべての社会的欲求が資本の必要な欲求に従属させられるということは、労働者の必要な欲求が資本の価値増殖過程の連続性という資本の必要にも規定される、ということを意味する。すなわち、労働者の必要な欲求には、彼自身の労働能力の再生産だけでなく、未来の労働者の再生産、すなわち彼の家族分の労働能力の再生産に必要な部分も含まれている。
労働力の価値は、個々の成年労働者の生活維持に必要な労働時間によって規定されていただけではなく、労働者家族の生活維持に必要な労働時間によっても規定されていた。
ゆえに、前者、すなわち第一の過程(生活手段の消費過程)に支出されるエネルギー(必要な消費労働)には、労働者の家族のために支出される必要な家事労働も含まれなければならない。
家族の機能の或るもの、たとえば子供の世話や授乳などは、まったくやめさせてしまうことはできない。
この機能を保障する余暇または労賃がなければ、未来の労働能力の再生産は損なわれる。その代表例は児童の高い死亡率である。
この高い死亡率の原因は、特に母親の家庭外就業、それに起因する子供の放任と虐待、ことに不適当な食物、食物の不足、阿片剤を飲ませることなどであり、そのうえに、自分の子供にたいする母親の不自然な疎隔。その結果としてわざと食物をあてがわなかったり有毒物を与えたりすることが加わる。
一方、「婦人の就業が最も少ない」農業地区では「[児童の]死亡率は最も低い」。
ゆえに、資本の価値増殖過程の連続性に要求される未来の労働能力の再生産は、労働者の家族のために支出される必要な家事労働、それにかかわる消費費用を労働力価値の生理的限界にすることを求める。
この生理的限界のほかに、社会的存在としての労働者個人の必要な社会的欲求の充足は労働力価値の社会的限界をなす。もし新聞を読むことはその地域の労働者にとって「文化的に必要」と認められる場合、新聞の購読代は労賃に加算され、新聞を読む(新聞という生活手段の消費過程)時間も労働日から控除しなければならない。宗教が「文化的に必要」な場合、宗教的儀礼(礼拝など)のための時間は休日となる。
労働者は、精神的および社会的な諸欲望を満足させるための時間を必要とし、これらの欲望の大きさや数は一般的な文化水準によって規定されている。
これらの時間も労働日から控除されなければならず、したがって労働日の道徳的・社会的限界となる。そのための費用は労働力価値に加算され、したがって労賃の社会的最低限を規定する。
とはいえ、その「一般的な文化水準」が絶えず変動するがゆえに、「これらの限界はどちらも非常に弾力のあるもので、きわめて大きな変動の余地を許すものである」。というのは、一方の資本家は商品交換の法則を根拠に「彼の商品の使用価値からできるだけ大きな効用(Nutzen)を引き出そうとする」が、他方の労働者は同じ法則を拠り所に、「標準労働日を要求する。なぜならば、ほかの売り手がみなやるように、ぼくも自分の商品の価値を要求するからだ」。結局、
ここでは一つの二律背反が生ずるのである。つまり、どちらも等しく商品交換の法則によって保証されている権利対権利である。同等な権利と権利とのあいだでは力がことを決する。
こうして、資本主義社会における階級間の力関係は労働力の価値の「非常に弾力のある」限界を決定する。しかし、そのような労働力の価値は資本主義社会のイデオロギーにおいて、その転化形態である労賃と労働日とに分解する。ゆえに、労働力の価値の限界も当然のように、労賃と労働日の限界に転化するが、この転化の過程に新しい課題が出ている。
というのは、もしわれわれは『資本論』の第一巻のように、しばらく直接的生産過程以外の諸契機を捨象すれば、労働力の価値の限界は一義的に労賃と労働日の限界に転化し、労賃の高さと労働日の長さとのあいだになんの相関関係もない。労賃の限界は労働日の限界に反映されないし、労働日の限界も労賃の限界に影響しない。このことは、『資本論』の第一巻に示唆されている、労働日のなかの必要部分の不変性という仮定の根拠である。
しかし、現実においては労働力の再生産は当然、直接的生産過程以外の諸契機をも考慮しなければならず、それを考慮した結果、労働日の絶対的延長によって、労働日のなかの必要部分も増加する。またほかに、必要労働の範囲の拡大も、労働日のなかの必要部分の長さに影響する。
必要労働は、その他の事情が変わらなければ、その範囲を拡大するであろう。なぜならば、一方では、労働者の生活条件がもっと豊かになり、彼の生活上の諸要求[seine Lebensansprüche]がもっと大きくなるからである。また、他方では、今日の剰余労働の一部分は必要労働に、すなわち社会的な予備財源と蓄積財源との獲得に必要な労働に、数えられるようになるであろう。
ゆえに、労働日のなかの必要部分の不変性という仮定は直接的生産過程を考察する際の便宜なものであって、それ自身一つの「法則」ではない。またとくにわれわれの関心を引くものは、直接的生産過程以外の諸契機への資本の包摂を考察する場合、労働日のなかの必要部分の増加分は労賃の増加によって代替できるという点である。
というのは、前述のように、労働力の再生産は二つの連続する過程である。第一の過程、すなわち生活手段の消費過程は、あくまでも第二の過程(労働能力の生産過程)の前提に過ぎない。直接的生産過程のみを考察する場合、われわれは第一の過程の前提――直接的生産過程の結果である生活手段の生産――のみに関心を持つが、直接的生産過程以外の諸契機をも視野に入れることで、われわれははじめてこの過程を本格的に考察することができる。
第一の過程、すなわち生活手段の消費過程を第二の過程の一つの契機にするために、あるいはマルクスの比喩を借りれば、第二の過程である化合反応のための反応条件をつくるためには、労働による媒介が必要である。この労働は第一の過程である消費過程で現われ、人間の消費行動を媒介するがゆえに、生産労働と区別する機能を持つ。その機能とは消費費用に入る機能とのことである。
だれでも、自分の生産的労働または生産的労働の搾取のほかに、生産的でなく部分的には消費費用にはいる多くの機能を果たさなければならない。
われわれは第一の、生活手段の消費過程に現われ、こうした消費費用に入る機能を行使し、第二の過程を媒介するサービスを提供する労働を「消費労働」と略する。
本来の生産的労働者は、こうした消費費用を自分で負担し、自分で自分の不生産的労働をしなければならない。
ゆえに、資本主義的生産様式において、このサービスは本来、労働者自身あるいはその家族の消費労働によって供与されている。しかし、欲求への質的分割を打破した資本主義的欲求体制において、またとくに直接的生産過程以外の諸契機への資本の包摂を背景に、このサービスは資本に包摂される賃労働者――これら労働者は、以前は特権階級の奢侈的欲求のためにのみ、召使としてこのサービスを供与していた――によって供与されることも可能になった。
無論、資本(に包摂される賃労働者)によって供与されるこの「サービス」は無償のものではない。労働力の再生産は、労働者の家族による無償なサービスか、資本によって供与される有償な「サービス」かのいずれによって媒介されなければならない。
しかし、第四章の議論で示唆されているように、資本主義的欲求体制下の消費者は「自由に選択する」権利を奪われた。資本による有償「サービス」の供与は労働者の必要な欲求の対象として認められず、したがって労働者にはこの「サービス」への支払能力がない場合、労働者は――マルクスの時代のように――「自分で自分の不生産的労働をしなければならない」。一方、余暇または消費労働をする体力が奪われる状態で、もし労働者には資本による有償「サービス」の供与への支払能力を持つ場合、労働者は資本に供与される有償な「サービス」を「選択」するしかない。
要するに、この二つの「選択肢」の違いは、資本による有償「サービス」(労働力の再生産を媒介するという消費労働のサービス)の供与が労働者の必要な欲求の対象に含まれるかどうかの違いである。しかし、労働者は自分の必要な欲求の対象範囲を決定できない。というのは、資本主義的欲求体制において、かれの必要な欲求は資本の価値増殖欲求に従属させられている。それが資本の価値増殖に役立つ場合に限って、労働者の必要な欲求の対象に資本による有償「サービス」の供与を含ませることは認められよう。
第四章 欲求理論の歴史的編成:資本主義的欲求体制への移行
最初の欲求体制は共同体―団体的欲求体制である。この欲求体制の特徴は①直接的生産者が生産手段を領有(appropriate)すること;②生産のほとんどは欲求に制限されている単純再生産であること;③交換は個人的欲求を充たすための偶然的、(互酬性と再分配よりはるかに)副次的な手段であり、多くの場合、共同体あるいは団体による厳しい監視や監査に置かれている。その交換も交換価値ないし価値増殖をではなく、交換物の直接的使用価値を目的としていること;④支配階級と被支配階級(または平民階級)とのあいだの欲求は量的に区別されるだけでなく、質的にも分断されていることである。
共同体―団体的欲求体制の中心的欲求は直接的欲求である。団体(Verband)と団体(あるいは共同体と共同体)とのあいだが分断されていたことで、団体員の欲求は団体の媒介なしには充足できない。ある程度の「社会的」分業があっても、「社会」のための生産も、その生産への「社会的」欲求も、「社会」の規模、すなわち団体の規模および団体が接触しうる範囲に限られている。
マルクスはどこでも同じ欲求カテゴリーあるいは欲求の規定を適応しようとするのではなく、異なる次元の問題を扱うに際して、それぞれ問題の構造的地位に見合う形の規定を持ち出している。したがって、マルクスの欲求理論は決して系統的に構築されているわけではない。彼は「人間の欲望をだれにも容易に理解しうるような形式において展開しているわけではない」としているのである。
したがって、体系的な欲求理論の構築を目指す本書が予め行わなければならないのは、論理的にも歴史的にも整合しておらず、ただマルクスによって個別的にしか言及されていない欲求の諸カテゴリーを、それが歴史において出現している順序、したがって社会的生産様式、強いて言うなら労働の体系の歴史的形態に応じて整理することである。
これら欲求体制は孤立した歴史的形態ではなく、労働体系の歴史的形態したがって生産様式の形態変換と同様に、体系の移行を孕むダイナミックな体系である。ゆえに、政治経済学の分析対象である資本主義社会を欲求の面から解剖しようとしたら、資本主義的欲求体制を分析の唯一の対象とするだけでは不十分である。資本主義的生産様式を考察する際、マルクスは資本主義的生産に先行する社会形態――とりわけそれの資本主義的生産への移行――に対する社会史的考察も怠っていない。この考察、とりわけ『直接的生産過程の諸結果』に示唆される資本のもとへの労働の包摂理論を補完するためにも、欲求の歴史的形態及び欲求体制の歴史的移行に取り組むことが必要であろう。資本主義的欲求体制から連合した生産者の社会への欲求体制の移行は当然、いずれこの歴史的移行に含まれるが、現実の歴史的過程としての、直接的欲求を中心とする共同体―団体的欲求体制から資本主義的欲求体制への移行、これがわれわれの直面する関心事である。
現実の欲求体制の移行において、もっとも肝心なのはその欲求体制における中心的(あるいは支配的)な欲求の変化である。共同体―団体的欲求体制から資本主義的欲求体制への移行、あるいはその移行に際して現われている過渡的欲求体制にかんして、中心的な欲求の変化は直接的生産階級の直接の個人的欲求から労働者階級の階級として必要な(社会的)欲求へのシフトに現われる。欲求のこの変化によって労働力の価値を規定する「必要労働の範囲」という範疇が誕生し、欲求の体制と労働の体系がはじめて社会的欲求と社会的労働の体系として対置されるようになる。したがって、社会的生産と社会的消費がこれまでにない様態を呈することとなり、この新しい様態の解明は欲求体制の移行へ考察を求める。
資本主義的経営の成立条件:労働の物質的性格
資本が最初に支配した社会的労働は流通労働である。これら資本の太古的形態である商人資本に支配される流通労働(保険事業などにかかわる労働は厳密に言えば流通労働ではないが、これらの労働は歴史的に、社会的流通の必要な契機であることで、分配過程に所属しながら、商人資本の支配に従属させられている)は、最初から社会的欲求を媒介する機能を担っているがゆえに、それの資本への従属が古い欲求体制から受けた抵抗がもっとも少なかった。
次に古い欲求体制の解体により、資本が征服したのは物質的生産であった。この過程は、最初から社会的欲求のために組織されている流通部門より難しかった。というのは、資本主義的生産は自身にとって不利な欲求体制において、直接的欲求のための生産と競合しなければならない。これは本書の第三章に示されたとおり、容易なことではない。社会的欲求がまだひじょうに限られている(共同体―団体的欲求体制と資本主義的欲求体制にとっての)過渡的欲求体制において、資本主義的生産は大商人や行政と結託し、さらに労働力と消費市場を独占した同職組合手工業と長いあいだ、一進一退の闘争を繰り広げた。
とくに、初期の資本主義的生産(たとえば、資本のもとへの労働の形式的包摂が完成した資本主義的マニュファクチャー)において、「これまでのところ、生産様式そのものにはまだいかなる違いも生じていない。技術的に見た労働過程は以前とまったく同じように行なわれていて、今では資本に従属した労働過程として行なわれているだけ」に過ぎない。要するに、資本主義的生産の「利点の多くは協業の一般的性質から生ずる」のであり、「労働の強度がより増すとか、労働過程の継続時間がより長くなること、労働がより連続したものになり、利にさとい資本家の監視のもとでより秩序立ったものになるといったこと」に依存するものである。ゆえに、資本主義的生産の利点は、商品への需要が多く、したがってより多くの商品を市場に供与できる生産形態が優越である、発達した社会的欲求を有する欲求体制(資本主義的欲求体制の前段階)において、はじめて発揮できる。この条件は17、18世紀、局所では19、20世紀において成熟した。
直接的欲求のための生産に比べてより多くの商品を市場に供与できる資本主義的生産の優越性は技術的に、労働生産性の法則(本書第一章の序と第一節を参照)が成立する物質的生産の領域においてもっとも強い。というのは、資本のもとへの労働の形式的包摂は労働強度の拡大を可能にする。そして、労働の強度を拡大することで、資本主義的生産が欲求によって労働の投下量が制限された直接的欲求のための生産より多くの商品を供与できるのは、物質的生産の領域においての、労働強度の増大と労働所産の増加とのあいだの規則性のおかげである。言い換えれば、投下された資本の量に応じて生産量が増加するという労働過程の規則性は、その労働過程を同時に資本主義的生産過程にする資本に優越な地位を与える。あるいは、物質的生産過程の技術的性格が資本主義的生産の社会的優位を保障する。
しかし、資本主義的生産の社会的優位が確立されていない領域への資本の進出はきわめて慎重である。
要するに、資本主義は自らの領分以外への闖入が、そのこと自体を目的とすることは稀である。それは、商取引の必要あるいは利潤を考えてそうするのがよいと判断するときにしか生産に手を出さないのである。資本主義の生産諸部門への全面的侵入は、産業革命の時期、機械使用が生産の条件を、産業が利潤拡大の領域となるところまで変化させたときにしか起こらないであろう。資本主義は、そのとき、そうすることによって深く変形させられ、そしてとりわけ拡大されるであろう。だからといって、資本主義が諸状況次第で揺れ動くその歩みを放棄することはないだろう。十九および二十世紀において年月の流れの中で、産業以外の選択を行う機会が資本主義に訪れるだろうからである。
資本に訪れた、「十九および二十世紀において年月の流れの中で、産業以外の選択を行う機会」は、ほかならぬ産業資本による生産過程の支配およびそれに伴う資本主義的欲求体制の形成である。というのは、流通過程を除く社会的再生産の他の諸部面――これらの部面における労働のほとんどは、資本主義的生産の社会的優位を保障する物質的労働の規則性を持っていない――における資本主義的経営の社会的優位は、物質的生産過程の技術的性格によって保障されなくても、資本主義的欲求体制の社会的性格によって保障される。
資本主義的欲求体制は以前のどの欲求体制とも異なり、資本主義的生産(資本による「サービス」供与を一種の「生産」とみなすことができれば)への欲求を内生的に創出する仕組みを持っている。産業資本が支配する物質的生産から発生する必要は、他の部門への需要となり、これらの部門における労働を産業資本に(または生産に)必要な形で「合理的に」組織する需要となり、これらの部門の資本主義的経営への需要となる。ゆえに、資本主義的生産による社会的再生産の他の諸契機の支配は、これら諸契機における資本主義的経営の支配と同時に発生する。産業資本による他の資本(商業資本、保険資本、「サービス」資本など)の支配は、これら諸資本の不生産的労働への支配と同時に発生する。ガルブレイスはこの独自な構造を「生産主義」と名付けた。
産業資本に支配される大工業は、これら生産以外の諸部門(以後、「不生産的諸部門」と呼ぶ)からの「サービス」供与への大規模な需要を創出しただけでなく、そのための必要な条件――これら「サービス」供与の機能を果たす不生産的労働者の創出にも役立った。
大工業の諸部面で異常に高められた生産力は、じっさいまた、他のすべての生産部面で内包的にも外延的にも高められた労働力の搾取とともなって、労働者階級のますます大きい部分を不生産的に使用することを可能にし、したがってまたことに昔の家内奴隷を召使とか下女とか従僕とかいうような「僕婢階級」という名でますます大量に再生産することを可能にする。一八六一年の人口調査によれば、イングランドおよびウェールズの総人口は二〇〇六六二二四人で、そのうち九七七六二五九が男、一〇二八九九六五が女だった。このうちから、労働に不適当な老幼者、すべての「不生産的」な女や少年や子供、次には官吏や僧侶や法律家や軍人などのような「イデオロギー的」な諸身分、さらに地代や利子などの形で他人の労働を消費することだけを仕事にしている人々のすべて、最後に受救貧民や浮浪者や犯罪者などを引き去れば、男女両性と種々雑多な年齢層の概数で八〇〇万が残り、そのなかには生産や商業や金融などでなにかの機能を果たしているすべての資本家も含まれている。この八〇〇万のうちから、次の各部類にそれぞれ次のような人数が属する.
すべての繊維工場の従業員と石炭・金属鉱山の従業員と合計すれば、一二〇八四四二名となる。また、前者をすべての金属工場および加工工場の従業員と合計すれば総数は一〇三九六〇五名となり、どちらの場合にも現代の家内奴隷の数よりも小さい。機械の資本主義的利用の成果のなんというすばらしさだろう!
無論、マルクスの時代においてこれだけ膨大な「サービス階級」(dienende Klasse)が存在する一因は、むしろ資本家の個人的消費(また当然に、一般大衆の個人的消費)はまだ資本の価値増殖過程の一環として、資本主義的欲求体制に取り組まれていないことにある。支配階級の奢侈的欲求を満足するためのこれら奉仕労働は、資本と交換されず、資本家階級の収入と交換されるがゆえに、不生産的な古典的サービスである。
産業資本の物質的生産への支配は、こうした奉仕サービスを提供する不生産的労働者そのものを創出したが、流通「サービス」、分配「サービス」などのように、これら奉仕サービスを提供する不生産的労働者を「合理的に」組織する資本主義的経営への需要を供与していない。というのは、労働者大衆が非常に貧困な状態で、労働者階級の必要な欲求がまだ非常に限られている段階で、個人的消費の場は非常に大きい程度で依然私的領域に留まり、社会的消費の領域に進行していない。ゆえに、資本家階級の奢侈的欲求のための「サービス階級」は、それが資本主義的に合理的に組織されていなくても、十分な奉仕サービスを提供できる。
また、家庭内部のこうした奉仕サービス――労働者の家庭においては、物質的生産から排除された主婦や児童などの家事労働は、それが労働者の収入と交換される不生産的労働とみなす限り、資本家階級への奉仕サービスと同様に、古典的サービスである――は、非常に限られている労働者家庭の直接的欲求を容易に充足できる。ゆえに、労働者からの(資本による)奉仕「サービス」供与の需要も少なかった。
これらの要因が総合して個人的消費への資本の浸透を拒み続けてきたことで、消費過程における資本主義的経営の社会的優位は長いあいだ、現実的なものではない。しかし第二次世界大戦後、新しい歴史的契機――消費過程における資本主義的経営の社会的優位を保障する技術的条件および社会的条件は徐々に形成される。
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