帝国と人道主義について―南アフリカ戦争後のイギリス帝国による保護協会
イギリス本国の政治制度の展開を議会の成立、王権の制限、議院内閣制の発達という発展段階として考えるならば、植民地の政治制度の発展も非常に類似した過程を辿る。植民地にはイギリス国王の代理人として総督が置かれた。総督は行政府の長であり、初めのうちは立法権も付され、強大な権力を持っていた。そこから、総督の権限行使を補佐する機関が文化した。これは行政評議会executive councilと呼ばれ、植民地政府の各省相で構成された。この機関に総督が指名する数人が加わった機関が立法評議会legislative councilであり、さらに選挙で選出された議員で構成される立法議院legislative assemblyを設け、総督、立法評議会、立法議院で議会を構成した。この制度を代表制度representative governmentと言う(斎藤憲司「英国型政治制度はなぜ普及したか」国立国会図書館調査及び立法考査局)。その後、イギリス本国で国王と議会が対立したように、植民地では総督と議会が対立した。本国においては、議院内閣制を確立することで議員優位の方向へ進んだが、政治制度の発展の仕方は各植民地で異なっていた。ここで取り上げたいのは責任政府授与という対応策である。初めに総督と議会の権力関係が問題になったカナダでは、本国政府が「ダラム報告書」としてカナダ議会の不満をまとめ、改革を提案した。「内政はカナダに任せ、カナダにおいて内閣は選挙された議員の中から選ばれ議会に責任を負うこと、総督は内閣の助言に従うこと」が勧告された。これが責任政府responsible governmentである。南アフリカについては、ケープ植民地は1854年に代表制度が確立し、1871年に責任政府が授与された。ナタール植民地では、ケープに遅れて1893年に責任政府が授与された。トランスヴァールとオレンジは、南アフリカ戦争以前はボーア人共和国として支配されていたが、戦後、イギリス直轄領Crown Colonyとして編入された。両国に責任政府が授与されるのは1907年のことである。これらの4植民地は、選挙で選出された議員から内閣や各閣僚が選ばれ、政府は議会と有権者に説明責任を負っている 。責任政府制である植民地では、誰に対して政治の責任を負っているか、つまり、選挙権をもつ者が誰であるかということが重要な問題であった。また、責任政府制をとっている植民地は有権者と議会に責任を負っているため、国王や本国議会の介入を受け付けない。植民地省の記録では、「責任政府をもつ植民地に対しては、国王は法律の不許可の権利しか保持しておらず、植民地省相は総督以外の官僚を統制できない(The colonies possessing responsible government, in which the Crown has only reserved the power of disallowing legislation and the Secretary of State for the Colonies has no control over any public officer except the Governor.)[Colonial Office List v. i. 633]」とされている。責任政府の授与は実質的な自治政治self-governmentを意味する。イギリス帝国が本国だけでその防衛費を賄うことが困難であるなどの経済的事情からも、このような植民地の自立化の動きは今後推進されていく。
前述の通り、ナタール植民地は1893年に責任政府の地位を得た。このことは、ナタールが議会を持ち、選挙で議員が選ばれることで議会と内閣は有権者にその責任を負うことを意味しており、イギリス帝国に対して一定の自治を有するということである。この節では、人頭税導入をきっかけに起こった散発的な蜂起へのナタール政府の対応に対するAPSの批判を分析することで、帝国の権限が委譲されていく中で人道主義と帝国の関係がいかに変化していったか考察する。まず、蜂起の概要について説明する。この論文では事件を三つの段階にわけて考える。事件の第一段階は、リッチモンド地区で起きた、人頭税を拒否した先住民と警察との衝突である。第二段階は、バンバダによる大規模な蜂起である。第三段階は、ズールー王国の王族の子孫であり、ズールー人の中では首長より上位に位置づけられていたディンズール
ーの逮捕である。これら一連の事件は、「バンバダ蜂起」と総称されるが、計画的に行われたというよりも、各々散発的に起こった 6 。しかし、ズールー人に蓄積されていた不満が1905年の人頭税導入を機に現れたという点、ナタール白人のズールー人へ対する恐怖感が暴虐的な蜂起の抑圧に繋がったという点は共通している。本節では特に、第一段階の衝突に焦点を当て、イギリス帝国の先住民保護と植民地自治について考える。1905年、ナタールでは課税による先住民への締め付けがさらに過激になる。1905年8月9日にナタール議会で成立した法案では、既存の年14シリングの小屋税や犬税に加えて、「すべての成人男性に£1の人頭税」が課されることとなった 7 。APS理事のフォックスボーンは、翌年1月の請願書で、「国王特権を行使して、ナタールでの人頭税の法案を不許可にしてほしい」と要請する 8 。議会の返信は「先住民だけに税を課しているわけではないため、国王に不許可を求めるのは正当ではない」と述べながらも、植民地省相のエルギン伯爵はナタール知事とこの件に関して連絡を取ると約束した 。これに対して、フォックスボーンは、2月に書いた議会への手紙で、「人頭税は植民地歳入への貢献として公平に支払われる金額をはるかに超えており」、「外部の労働力需要にこたえるために先住民に例外的な負担を強いるべきではない」と繰り返し批判を述べている。このように、APSは、人頭税の導入が先住民にとって危機的な状況を呼び起こすと考えており、この導入に反対した。これに対して現地の状況としては、1906年1月にはすでに人頭税に対する抵抗が見られた。しかしこれらは人頭税の支払い拒否など非暴力的抵抗passive resistanceに留まった。ナタール政府はこれらの抵抗運動に注意を払わないばかりか、人頭税の撤回は植民地での白人の優位性に傷がつくとすら考えていた。人口の9割を占める先住民をどのように支配するかは常に彼らの中で重要な問題であり、先住民の要望を安易に聞き入れることが彼らの発言力の増大につながるのではないかという恐怖を抱えていた。政府に要望を無視された先住民たちは、自分たちはどのような行動を取るべきかをディンズールー求めた。ディンズールーは、滅亡したズールー王国の王族の子孫であり、王国崩壊後もズールー人に対して一定の権威を維持していた。ディンズールーは人頭税を支払うことに決めた。ナタール植民地の白人の間では、ディンズールーは白人を皆殺しにするべきだと考えていると噂されていたが、彼の行動はその正反対であったといえる。ディンズールーの決断に関わらず、いくつかの部族は人頭税の支払い拒否を継続した。1906年2月、人頭税の支払いを拒否した村に対して、ナタールは警察を送り、徴収にあたらせた。最初の事件はそこで起こった。2月8日、リッチモンド地区で、先住民と警察の衝突が起こり、2人の警察が殺された。これは事前に計画されていたものではなく、突発的なものだった。しかし、ズールー王国崩壊以前からの彼等への恐怖感情や、ナタール植民地には予てから、ズールー人が白人に対して大規模な蜂起を企てているという噂があったこと、さらに、ズールー人が南アフリカ戦争を通して鹵獲したライフルを大量に所持しているという憶測(実際には使用するにはあまりにも古く、1906年の散発的な蜂起ではほとんど使われなかった)が、大規模な蜂起を予感させ、ナタール白人は過剰に恐怖した。その結果、翌日には戒厳令が発布される 。戒厳令は一種の無法状態であった。戒厳令では、総督が「誠実にin good faith」状況対処へあたり、どのようなものであれ、鎮圧に従事する司令官、指揮官の行動は議会によって正当化されることになった。公然と武力行使が行われるようになり、クラールを焼き払ったり首長を連行したりと、先住民の生活は破壊された。例えば、スワイマナswaymana族は50人、メシニ族messiniは100人の男性を軍隊に差し出すように要求された。最終的に、リッチモンド地区の「蜂起」に関わったと見られる27人が連行され、2人は銃殺刑、他の容疑者は鞭打ちと強制労働へ従事させることが決定した。ナタール総督のマッカラム(SirHenry McCallum)は、これらの令状に自身の責任でサインし、執行の前日に植民地省に知らせた。これに対し、本国植民地相のエルギン伯は、これらの処刑をいったん中止するべきであると電報を送った。前述の通り、自由党は…(先住民への公正な統治)であり、処刑中止の要請は戒厳令下でのナタール政府による先住民への暴虐や処刑の極端さに対する忌避と先住民保護への意志の現れであった 。しかし、ナタール政府は本国政府のこの指示に強硬に反対する。ナタール人警察官二人を殺害した罪で12人の先住民たちに刑を言い渡したのは、ナタールの公式の軍法裁判の下で下された判決の結果であり、これは総督に適切に承認されていた。これに本国政府が反対するのは内政干渉であった。本国政府の電報を受けて総督はナタール首相に処刑の延期を提案したが、ナタール首相はそれを拒否し、内閣は辞職した。以下は、1906年3月29日のTimesに掲載されたナタール大臣の発言である。
「最近の重大な局面において政府の構成を維持することの重要性という観点から、そして、責任政府制を享受している行政評議会に対する干渉という憲法上の問題の観点から、各省庁の大臣たちは、自分たちが政府に辞表を提出する必要に迫られていると感じた。」
ナタールが責任政府を授与される際に発行された1893年7月の特許状第9条は、植民地内でどんな犯罪が起きたときも、ナタール総督は彼が適すると思うなら執行猶予を付与することができると決められている。総督はイギリス王室の代表であり、本国政府の意図として執行猶予を付ける権限を持っている。しかし、合法的でもあるように見える本国政府の処刑延期の電報は、ナタール内閣の辞職という形で拒否された。そして、このような強硬的行動は、ナタール植民地全体から歓迎されたばかりか、南アフリカ植民地全体から支持された。このように、植民地が極端な反応を示すほどに内政干渉を嫌うのには理由がある。1906年3月30日のTimes紙で指摘されているのは二点である。一点目は、植民地政府権力の正当性が内政干渉によって疑われることの危険性である。ナタールで特にその人口構成のバランスの悪さが顕著に見られるように、少数の白人が人口の上で圧倒的に多数派を占める先住民を統治する構造をもつ南アフリカにおいて、植民地の白人政府の権威を示すことは重大事項であった。潜在的な先住民による反乱の危険性に対して白人の共同体の支配的な地位を維持するには、反乱がおこった段階で直ちにそれを罰する特権と権力、能力があることが必須であった。ナタールだけでなく、南アフリカ全体にとって最も危険なことは、先住民が、自分たちを統治している政府は実質的な権力をもっておらず、先住民の味方として同情を寄せ、白人入植者に対峙するような、より高次の権力が存在し、(植民地)政府はその権力からの干渉を受け従属しているのだと考えることであった。二点目は、
ナタールは責任政府制を享受した自治植民地であるということである。エルギン伯の認識するように、先住民12人の処刑は重大な事項であるが、自治植民地の権利と自治を侵害しないためには、帝国全体に影響を与えるような問題以外には干渉するべきではないと述べる。Timesの記述を参考に南アフリカ白人の感情を整理すると、Mark(1980)の研究でも指摘されていたように、先住民への恐怖感情というものが切実な問題であったことがわかる。Marksの研究では、ズールー戦争の記憶や、それに起因する恐怖によって「ズールー人たちが大規模な反乱の準備を進めている」という噂があったことなどが指摘されていた。本国政府の内政干渉に対しても、責任政府制度の構造上や憲法上の問題と同時に、先住民統治における植民地政府の地位の低下を恐れていたことがわかった。植民地での白人生活の実際的な要請が、責任政府制の自律性の理論を感情面から強固に支えたのである。このような自治政府は内政干渉を受けるべきではないとTimesは述べる。1906年3月のナタール植民地の内閣総辞職という強硬的な反応と、他の責任政府制をとる植民地からのナタール支持と本国政府批判は、本国政府が植民地の先住民を保護する政策を実行することをより困難にさせた。ナタールにおける戒厳令の下での暴虐の実態がロンドンへ知れ渡り、ナタール政府の対応は本国世論においても批判されるようになる。これを受けた下院の質疑応答では、本国政府の責任と対応の必要性が問われた。しかし政府の回答は、「この状況に対処するために、本国政府がナタールへ介入することが得策だとは思わないHis Majesty’s Government do not feel that they can with advantage interference with the responsible government of Natal in dealing with the situation.」というものだった。この一件を通して政府は、先住民保護を目的として植民地の責任政府に介入することに消極的な姿勢を取るようになったのである。このことは、植民地の先住民を白人入植者から守るために帝国政府の介入や政策を要請し、バストランドのような、帝国政府の直接的な統治の下で先住民が白人入植者の生活圏と分離した保留地で伝統的生活を営むということを究極的な理想としているAPSの戦略や言説に大きな影響を与えるものであった。次に、ナタールでの先住民蜂起をめぐる展開に対するAPSの反応を整理する。APSは、ナタール先住民の蜂起が、人頭税だけでなく、長い時間をかけて先住民に蓄積した不満も原因の一助を担うと論じた。土地の共同所有の禁止や、奴隷化、税支払い拒否に対する財産の差し押さえの実態などに触れ、政府が適切に介入しなければ大規模な反乱の可能性があると示唆する。また、戒厳令下の状況に関しては、「人頭税を課すこと、その徴収や不払いへの罰則の実施を支える戒厳令にどんな正当性があったとしても、ナタール当局とすべての兵士は、忠誠心のあるなしに関わらず、先住民を迫害していることに加担している」と批判した。こういった状況に対して、APSは帝国政府の責任を主張する。Aborigines Friendsの1906年4月号では、「今、国王陛下の政府には、ナタール行政の手から事態の管理を取り上げ、さらなる危険と実際の危機を回避するために、可能な限りのことを行うか、可能な限りのことを行うことができる主張することが義務である時が、完全に到来したのではないでしょうか?Has not the time now fully arrived when it is incumbent on His Majesty’s Government to take the management of affairs out of the hands of the Natal Administration, and to do all that is possible, or insist on all that is possible being done, to avert further dangers and actual exils?」と呼びかけた。これはAPSのいままでの方針と同じように、植民地の先住民に対する危険や暴虐に対して帝国の保護を求める論理である。しかしAPSは、政府が1905年9月に人頭税の法案を不許可にできなかったことや、戒厳令の禁止と12人の処刑の延期をナタール政府に強制できなかったことを踏まえて発言しており、ナタールが投票者と議会に説明責任をもった責任政府制を採用し、それに対する介入への本国政府の懸念を理解しているものと考えられる。介入はナタールの責任政府制と自治権を損なうことになると懸念する政府に対して、同じく4月に議会に送られた手紙には、最終的な責任は本国政府にあるのだから、干渉を避けることはかえって危険や痛ましい弊害を招くと述べる。処刑延期と戒厳令解除をめぐるナタール政府と本国政府の衝突は、帝国の責任を免除するものではないと論じ、こ
こから、APSが帝国の義務や責任を政府自身が考えるよりも大きく重大なものと捉えていることがわかる。APSは一貫して、先住民に対する帝国の責任を主張した。APSは、下院議員の間で5月に非公式会議が行われた後も、行動に移さない政府に対して介入の必要性を主張し続けた。上述のようにAPSは帝国政府の責任を主張し、究極的にはバストランドのように、王室の直轄領として先住民を統治し、その中で先住民自治が営まれることを理想としていた。しかし、言説には変化が見られるようになる。帝国政府の義務や責任に言及するだけでなく、特に緊急時においての政府の介入の必要性が強く主張されるようになった。そして、ナタールの責任政府制と自治の権利を侵害することをためらう政府に対して、緊急時の介入は平時における植民地の自治権に影響を及ぼさないと説得するのである。それは例えば、以下の5月7日の議会への手紙に現れる。APSは、ナタール当局が現在の紛争に対処するためにとった措置に干渉しないという本国政府の決定を遺憾に思うと同時に、現在返信している書簡およびそれに続く4月24日付の書簡で示唆したのは、平時における植民地の自治権を害することなく、現在蔓延している戦争状態を可能な限り早期に終結させることができるよう、先住民に対する訴訟手続きの管理について、国王が直接管理することを主張することだけであったことを指摘したい。
この引用は、議会が介入の用意はないとAPSの手紙の返答で述べたことに対する、その返信の文章である。ここでの目的は、「戦争状態の終結」にあり、「平時の自治権を侵害すること」を要請しているのではない。これは、第一章でみたようなAPSの理想とする「帝国政府による先住民統治」とは異なる主張である。また、戒厳令下での先住民に対する判決の暴虐性を受けて、国王が先住民に対する訴訟手続きを管理するよう要請している。これも、普段APSが先住民に対する政治全般を担うことを理想としていることと比較すると、大きく焦点が絞られている。緊急時において、APSは理想を追求するよりも、眼前の先住民虐待を止めるために、政府が受け入れやすい、より現実的な要請を行ったとも考えられる。また、APSは介入を要請するにあたって、現地の先住民の声を届ける役割も果たしている。Aborigines Friendsにはズールー人からの請願が掲載された。請願では、「戒厳令の布告と植民地内の部族に対して行われた軍事行動は、パニックに陥った白人を安心させることを目的としており、先住民の狼狽と困惑は増大している」と先住民の目線からの現地の実情が伝えられた。請願書によると、バンバダの例を除いて、先住民の反乱や報復は起こっておらず、イギリス政府はナタール総督によって提出された証拠によって戒厳令を認めたが、先住民がそれに反対する証拠を出す権限を認めてほしいと要請している。また、南アフリカ先住民会議 the South African Native Congressは、本国政府の介入が得られないことに対して、イギリス帝国が先住民問題を気にかけなったことを残念に思うと声明を出し、APSはこれも掲載した。APSは、自説に即した現地の声を掲載することで要請に説得力を持たせると同時に、現地の声を届けることで、先住民にとって必要なことを政府に認識させようとしたのである。しかし、議会からの応答は「APSの主張に共感するが、APSが提案するような介入を行うことはできないHis Lordship (エルギン伯) has had under his consideration the representations
of the APS regarding the state of affairs in Natal. […] He cannot, however, admit that the present emergency justifies the proposal of the Society that His Majesty’s Government should assume direct control of native affairs in Natal, with the Government of which colony it rests, under self-governing institutions, to deal with such matters.」というものだった。この事件を通して、自由党政府は先住民保護へ消極的になっていく。それは、先住民の保護を帝国の政策や介入によって達成するというAPSの戦略に大きく影響するものであった。
責任政府制をとる植民地において、選挙権問題が重要であることに触れた。南アフリカでは、各植民地において選挙権付与の条件が異なる。この章では、各植民地における先住民の政治的状況について説明する。トランスヴァール植民地とオレンジ植民地に責任政府を授与する際や、南アフリカを統合する際に、先住民の選挙権をどのように扱うかが問題になった。これについては後の記述で触れるが、APSは以下で説明するケープ植民地の選挙制度を他植民地も採用するべきであるという意見であった。ケープ植民地の選挙権問題を考えるにあたって、先住民の人種構成と、ケープ植民地の拡大によってより多くの先住民を包摂していく過程を概観する。ケープ植民地は、15世紀にオランダ人が入植する前からコイ人・サン人が居住していた。また、ケープ東部には白人入植者が「カフィール」と呼んだバンツー系アフリカ人がいた。コイ人・サン人はオランダ系入植者に奴隷として扱われた。バンツー系アフリカ人の一つであるコーサ人は、17世紀になると白人と領土争いを繰り広げ(フロンティア戦争)、激しく抵抗するものの、イギリス入植後になるとコーサ人の居住地は「トランスカイ領土」としてケープに包摂されることになる。これらの先住民と白人入植者の混血であるカラードも多く居住している。オランダ人入植当初は、白人入植者の数が少なかったため、オランダ東インド会社は先住民との婚姻を積極的に奨励し、その結果、カラードの数が増えていった。このカラードの中には、ケープの植民地社会から逃れて独自の生活を送るものもおり、彼らはグリカ人と呼ばれた。加えて、「ケープ・マレー」という、オランダ東インド会社に奴隷として連れてこられたマレー半島などのオランダ植民地出身の人々もいた。彼らと白人の混血も、同様にカラードと呼ばれた。以上のように、ケープ植民地は、多様な先住民やオランダ系・イギリス系の二つの系統の白人、その混血であるカラードやアジア系が居住し、人種関係が入り乱れた状況にあった。このような人種状況で、ケープ植民地は「自由主義的」な独自の政策を行った。奴隷として使役されていたコイ人・サン人の解放 20 や、強引に併合したクイーン・アデレード地域の返還 21 など、ケープ植民地は初期から比較的先住民の窮状に同情的な政策を遂行した。
選挙制度については、1848年に代議政府representative government 22 が置かれた後、「年あたりの価値で£25以上の財産を所有しているか、£50以上の年収があるか(To qualify for the franchise it was necessary to occupy, for twelve months, property valued at £25 or to earn a salary of £50, or a salary of £25 if board and lodging was provided.)」 23 を条件に、白人・非白人を問わず
参政権が付与された。これは当時としてはとても敷居の低い制限であり、当てはまるカラードもかなりいると考えられた 24 。この参政権付与の基準は、ケープ植民地に責任政府が授与された後も残された。しかし、後のケープ植民地の人口構成の変化は、選挙権にも影響を与えた。前述のように、ケープは人種構成が複雑なことに加え、周辺の先住民を次々と征服していった 25 。その結果、1860年代は18万人の白人に対して31万人のアフリカ人という人口構成であったのに対し、1890年代初頭には、白人が37.6万人に増加したものの、アフリカ人は114.8万人にまで増えた 26 。このことは、白人を圧倒する人口をもつアフリカ人の発言力が増し、白人の優位性がゆらぐことへの危機感を入植者たちに抱かせた。そのような人々は、アフリカ人有権者の増加に反対したが、後のケープ首相であるスプリッグは、「議会が先住民投票によって傷つくことはない」とアフリカ人の参政権を擁護した。しかしスプリッグは、その発言とは正反対に、先住民の参政権を制限する法律を作成する。この方針転換に大きく関与したのは、アフリカーナー団体だった。彼らは、先住民有権者の増加に強硬に反対し、大きな政治力を持つようになっていた。1887年の投票者制限法(Voter’s Registration Act)では、共有地や部族の土地は、所有として認められないと定められた。先住民の多くは私有地ではなく共有地制度を採用しており 27 、この法律によって土地の共同所有が、「年あたりの価値で£25以上の財産を所有しているか」という条件を満たすものでなくなると、多くの先住民が選挙権を失う結果となった(※要出典※)。加えて、政治的思惑でアフリカーナー団体が背後にいるセシルローズがケープ植民地首相になると、選挙資格はさらに厳しく制限されることになった。一つ目は、所有財産の価値が年£25と定められていたところを、£75へ変更したことである。二つ目は、リテラシー
テストの導入である。当時の識字率は、カラードは26%、先住民は11%であった。この要件により、約9割の先住民が選挙権資格から排除された。三つ目は、グレン・グレイ法による土地所有の制限である。ケープ植民地での選挙権の制限は、先住民をターゲットに据えていたとは言え、人種や肌の色を基準とした排除を行うものではなかった。このやり方は、イギリス帝国植民地において頻繁に用いられるものであり、表向きは人種差別的条項でないが、実質的に差別的に働く、という方式が採用された 28 。このようなケープ植民地の選挙権制限については多くの批判がある。このような批判は妥当であり、ケープ植民地は手放しに自由主義的であるとは断言できないのは確かであるが、同時代の南アフリカや他のイギリス帝国植民地と比べれば明らかにリベラルな傾向をもった政策を採っており、APSもこの点でケープ植民地の先住民政策を認めていた。
ナタール植民地は、ケープ植民地と比較せずとも先住民に対して抑圧的な姿勢をとった。大きな理由としては、ナタール植民地とケープ植民地の人口構成の違いが挙げられる。ケープ植民地ではコイ人・サン人の元奴隷やカラードが有色人種の中でも影響力を持ったが、ナタールで重要な有色人種はバンツー系の先住民たちであった。ナタール北東部に位置するズールー人の居住地では、ボーア人がナタールに入植する以前の1820年代から部族同士の争乱が起きていた。だが、1839年にズールー王シャカの跡を継いだディンガネと、グレートトレックで北進したボーア人たちが衝突する。ディンガネがこの戦いに敗れると、混乱を避けてアフリカ各地に離散していた先住民がこの地に次々と帰還し、1838年から1843年でズールー人の人口は五倍になり、五万人に達した。この後、イギリスとズールー人の戦いによりズールー王国が崩壊するまで、ナタールの白人たちは彼らからの軍事的攻撃に怯えて過ごしていた。しかし、有色人種と白人の人口比率は依然としてケープ植民地よりもアンバランスであり、圧倒的大多数の先住民に対してどのように白人の優位性を保つかが重要な課題となった。加えて、1860年からはインド人年季奉公人の輸入が始まる。彼らは、五年の年季が明けたら、インドに戻るか小土地を与えられ留まるかを選択できるという契約の下にいた。これにより、インド人の流入や定着も相まって、大多数の人口を占める非白人への恐怖が、代議制政府の参政権問題へ影響している。
ナタール植民地の政治体制は、ズールー人たちの居住するズールーランドと、それ以外のナタールで大きく違う。ズールーランド以外のナタールにおいて、導入されたのはシェップストン体制(Shepstone System)である。この体制は、「ロケーションlocation」と「先住民法native law」の二つに支えられている。まず、ロケーションとして、白人が所有していない土地を先住民に割り当てる。これらの土地は非常に貧しく痩せていて、富裕な先住民の影響力を削ぐ目的があった。また、先住民を一か所に集めることで、ある程度の自治を認める代わりに先住民に行政費を負担させることも目的だった。そして、このような先住民居住地に「先住民法」を適用した。先住民法はナタール法律第19号として制定されたものであり、先住民だけに適用されるという特徴を持つ。先住民の慣習を法律としてまとめ、それを守らせるものであった。
この先住民法の適用対象であるものは、参政権を認められなかった。先住民には全く政治的権利が認められなかったが、1864年には私有地を持ち、識字能力があり、王冠に忠誠を誓うものは「先住民法」から抜けることができると定められた。また、翌年の先住民参政権法(The Native Franchise Act)では、①12年以上ナタールに住んでいる、②先住民法から抜ける、③三人の白人の推薦、④総督代理(lieutenant governor)の許可、などを条件に投票権が与えられた。しかし、白人の有権者は2万4千人居たのに対し、これらの制度で有権者として認められた先住民は1903-1905年の間で3人、1907年で6人だけだった。
また、1890年代に人口が急増したインド系住民に関しては、先住民法には入れることができないため、「選挙権法修正条項(the Franchise Law Amendment Bill)」が制定された。この法律では、「議会政治の下での参政権の行使という習慣がないアジア系には選挙権を与えない」ということが示され、すでに投票権をもっていたインド系住民からの権利の剥奪は見送られたものの、これ以降新たにインド人に参政権を認めることはしなかった。この法律は、アジア系住民を露骨にターゲットにするものであると本国植民地相のチェンバレンからの指摘を受け、直接的に特定の人種を排除するような基準をやめて、「すべての移民にリテラシーテストを受けさせる」という選別方法に切り替えられた(移民制限法 The Immigration Restriction Act)。以上のような政策により、1907年のナタールでは23686人の有権者の構成は、白人は23480人、インド系住民は150人、先住民は6人であった。
次に、ズールーランドの制度について説明する。ズールーランドは、1897年にナタールに合併し、ズールーランド行政区(Province of Zululand)が置かれた。同年のナタール法律第44号で、ナタール総督がすべての先住民に君臨する最高首長(Supreme Chief)の地位に就くことが定められ、独裁的な権限を持った。大首長は、既存の部族の首長やその慣習法の上からの管理を行うため、間接統治体制をとった。
第一次ボーア戦争で独立を認められたトランスヴァール共和国とオレンジ自由国は、すべての白人男性に参政権を認めた一方、先住民には政治的権利を一切認めなかった。トランスヴァール共和国にも多様な先住民が混在していた。マタベレ人と呼ばれる、ズールー
同士の争乱を逃れて北方へ入植した人々や、ズールー人、スワジ人、バスト人、シャンガナ人、マグワンバ人などがトランスヴァール北部・東部に居住しており、首長のもとで独自の生活を営んでいた。この時期のトランスヴァール共和国には、これらの先住民を取り締まる法律は存在していなかった。しかし、トランスヴァール憲法では「『教会』でも『国家』内においても『白人』と『黒人』とは平等ではない」と規定していた。
また、オレンジ自由国は、まずグリカ人を征服し土地を奪い、その後国境東部のバスト人と領土を争って肥沃な農業地域を手に入れた。他にも多くの先住民が混在し、フィンゴ人、ベチュアナ人、バロロン人、バスロコア人、コランナ人、コイ人・サン人がいた。オレンジ自由国も、トランスヴァール共和国と同様に統一的な先住民政策はなかったが、これらの先住民には選挙権が認められていなかった。
先住民の権利問題が議論に登るのは南アフリカ戦争の講和条約においてである。イギリスは、この二つのボーア人国家を植民地として編入するにあたって、先住民の政治的権利に関する規定を作ろうとした。ところが、両国は先住民への参政権付与を強固に拒否した。そのため、戦争終結を優先したイギリスはそれを受け入れる。戦争の講和条約として結ばれたフェレーニヒンフ条約の第八条には、「両国に自治政府が導入されるまで、先住民問題に結論は出されないこととする。The question of granting the Franchise to Natives will not be decided until after the introduction of Self-Government.」と定められ、選挙権問題は先送りにされた。
南アフリカ戦争後、総督兼高等弁務官であったミルナーは、教育・言語政策やイギリス人移民を奨励してボーア人に対するイギリス優位を確立しようとした。このようなイギリス化政策はボーア人の反感を買い、戦費分担金問題をめぐる鉱山と総督府の癒着、独裁は批判を受けた。ボーア人はボータやスマッツといった南アフリカ戦争を戦った将軍たちを中心に集会を開き、オランダ語と英語の平等や教育の自主性を訴えて大衆の支持を獲得していった。中国人労働者輸入が決定されるとこの運動は政治運動の色を強め、人民会議Congressの設立が宣言された。加えて、イギリス系住民もミルナー主義から分裂する。雇用をめぐって鉱山会議所と対立するイギリス系の白人労働者や鉱山会議所で発言力の強い深層掘金鉱会社と対立した新興会社や露天掘金鉱会社は、責任政府期成同盟を結成し、総督府と鉱山会議所の政治組合である進歩党に対立した。この責任政府期成同盟は連携したボータらは、政治結社ヘット・フォルクを結成する。現地の政治的安定を図るには、独裁的な総督府に代わって現地代表が参加する責任政府制を導入するほかなかった。1905年2月、トランスヴァール植民地に責任政府を認める勅許状が公布され、自身の計画が失敗に終わりミルナーは辞任した。
APSはトランスヴァールへの責任政府授与をどのように捉え、何を問題とし、理想としたのか、再びAborigines Friendと年次報告書をもとに分析する。全体的な主張の概要は、Aborigines Friend1906年3月号で責任政府制と先住民の権利を扱った章に見ることができる。この章には、フォックスボーンがウエストミンスターに宛てて執筆した手紙が掲載されている。そこには、「トランスヴァール植民地とオレンジ植民地の白人に政治的権利を与える際に、本国政府が非白人住民や、必要とされる労働力との競合やその補充のために、イギリス帝国によって占領された国から連れて来られた外国人の正当な主張に対しても、同様に配慮するように望んでいる」ことが記されている。フォックスボーンは、トランスヴァール植民地やナタール植民地に、当時最も自由主義的な状況であったと言われていたケープ植民地を上回る程に、政治的権利を行使する程度や範囲を求めているのではない。しかし、非白人が権利を与えられることを妨げられるべきではないと論じている。また、移住してきた非白人が、その他の帝国の植民地で認められていた政治的権利を、トランスヴァール植民地に入ったことで取り上げられるべきではないとも主張している。
加えて、フォックスボーンは、このような先住民選挙権の枠組みをつくることよりも重大な問題として、植民地における「劣等人種so-called inferior race」の保護者としての王室の至上の権利と義務を効果的に擁護することの必要性に言及する。このような権利は、理論的には行使が保障されているものである。植民地政府の条例は、総督を通して正式に表明された王室の承認を得るまでは法の効力を有することはできない。また、2年以内であれば、王室は植民地政府の法律を不許可とすることが可能である。しかし実際には、抑圧的な法律であるナタールの人頭税を王室は許可し、フォックスボーンは、この事例において王室は権利と責任を放棄したと見なした。責任政府制を与えられた植民地は内政である先住民政策に干渉されるべきではないという観点において、王室はその特権を失うと危惧されている。
フォックスボーンの手紙に見られる以上三つの要点、文明化した非白人へ政治的権利を認めることと、他植民地で政治的権利を享受してきた非白人から権利を剥奪しないこと、王室の介入の権利を擁護することは、APSの一貫した主張であった。
ここで、APSの先住民統治に対する基本姿勢を再び確認しておきたい。トランスヴァール植民地に責任政府を授与するという論点を超えて包括的に、APSが主張する先住民統治の理想形態は以下の通りである
文明化されていない地域とその住民の統治の過程は、もし彼らに文明がもたらされ、白人の体制を彼らが受け入れるなら、彼等には白人の隣人としての市民権を共有する資格があり、また、これらの体制が彼らにとって合わないものであるならば、距離を置き、彼らの秩序ある行動を条件として、彼らの排他的使用のために確保された十分かつ適切な地域内で、原始的な生活様式を継続する権利があるというAPSの基本的な主張を再確認する。
先住民の文明化の状態によって統治策は使い分けられている。つまり、APSは、文明化が達成された先住民には白人と同等の政治的権利が与えられ、政治に参加することが可能とされるべきであると考えている。そして、「未開」の先住民には、土地や労働力を搾取されることなく自分たちの生活を継続する権利があると主張している。加えて、これらの先住民のために保留地を作り、植民地に住む白人から隔離して、本国政府が統治するべきであるとも主張している。
ここでAPSの先住民統治に対する基本原則を参照したのは、APSが先住民の普通選挙権を望んでいるわけではないということを示すためである。APSはケープ植民地の先住民選挙権の条項を他の南アフリカ植民地に適用するように提案したように、先住民が選挙権を得るためには識字力テストや所有財産資格において一定の基準を満たす必要があることに対して無批判である。APSは先住民の文明化の程度によって、異なる処遇を描いているのである。
以上のことに鑑みて、フォックスボーンの手紙に現れたトランスヴァール植民地に責任政府制を授与する際の先住民の処遇に対するAPSの意見を振り返ると、政治的権利の承認は文明化された先住民を対象とした要求であり、王室特権の不十分さへの警戒は特に、自らの意見を反映させることのできない先住民にとって重大な問題であるといえる。次は、トランスヴァール責任政府授与にあったって先住民問題を考える際、APSが王室の特権よる保護と、先住民保留地の導入の主張を行った背景について分析する。
Aborigines Friends1906年4月号では、これらの問題に対する下院での議論が報告されている。バイルスByles氏は、「南アフリカ植民地において、平等な政治的権利から排除されたすべての人種の保護、奴隷的状態の労働からのすべての移民の保護、およびバストランド、ベチュアナランド、およびその他の部族国家および居留地における自由を保持したまま、少なくとも現在の地位を先住民族に保証することに対する帝国の責任を認めること」を望むとした上で、トランスヴァール植民地に「入植した白人の契約なき慈悲に、大勢の先住民を委ねるべきだろうか」ということを問題にしている。憲法に先住民保護や王室の介入を明記せずに、先住民問題を白人入植者にすべて委ねることを警戒していることがわかる。さらに、南アフリカに白人が入植してからのイギリス系移民とボーア人による先住民の虐待の歴史を振り返り、イギリス系移民、ボーア人を問わず白人入植者の先住民保護に対する適格性や、鉱山資本家による先住民への搾取についても不信感を述べる。
このような鉱山労働問題に関わるトランスヴァールへの不信感は別の議員の発言にも表れる。ブラントン・ガードン卿Sir Brampton Gurdonは、トランスヴァール責任政府に授与される憲法に関して、「どのような憲法も、奴隷制は奴隷制を模した徒弟制度は許容されない」と主張した。彼は1906年のAPS年次総会では議長を務め、「私たちは先住民やあらゆる種類の有色人種の労働者の扱いなどの問題を自分たちの手で解決しておくべきだ」と述べた。また、ロバートソン氏Mr. J.M. Robertsonは政治的権利以前の、先住民の身体的福祉の重要性ついて指摘し、鉱山労働を取り巻く状況を批判している。また、当時植民地省副大臣だったウィンストン・チャーチル氏は、南アフリカの労働条件については自治に委ねる準備がある一方で、道徳的な配慮が必要な場合は本国政府が考慮する必要があり、「イギリスの自由な基本原則が侵害されると考えられる法案any legislation which we consider infringes the fundamental principles of British liberty.」に関しては、王室の拒否権を行使することを躊躇わないと主張し、先住民に対する労働搾取に警戒している。
加えて、1906年の年次総会の記録においても、先住民の搾取に対する警戒感が語られた。チャールズ・ドレーク氏(議員)は、鉱山労働の構造に対する批判と是正策を提案している。現在、先住民は白人雇用主から保護されておらず、労働者の自律性や権利は守られていない。先住民を労働に追い込むための課税の強化や、土地の剥奪などが行われる中で、ドレークが提案するのは、APSの基本方針の一つである先住民居留地の設立である。ドレークは、バストランドの事例を参照し、「南アフリカにおける最良の労働力とは、事実上独立した領土からやってくる自尊心の高い先住民が、労働力の中心地へ自由に移住することによって得られるものである」と述べる。先住民保留地を作ることで、労働者である先住民を保護する環境を整えることが可能になり、その結果進んで労働に従事するようになるという主張である。
彼らは進んで働きに行き、一定の月数働く間、高い賃金を受け取り、そして帰国する。彼らは毎年出稼ぎに行き、ナポリ人やシチリア人の労働者が南米に一時期出稼ぎに行って帰ってくるのと同じように、熱意と能力を持って働く。長い目で見れば、労働の観点から(単に博愛主義の観点からではなく、国の開発と呼ばれる観点から)、南アフリカの将来にとって、先住民の居留を奨励することほど良いことはないだろう。そのような労働者層は貴重である。選挙権付与や間接的な手段によるどんな進歩よりも、その種の大きな貯蓄を将来的に創出し、強固なものにすることの方がもっと良いだろう。南アフリカでは、それが最も希望に満ちた政策のように思える。
ドレークは、選挙権付与以前の問題として鉱山の労働力不足が引き起こす先住民への構造的な暴虐や搾取を取り上げる。三章で検討した問題群はいまだ解決されておらず、先住民保留地の導入によって先住民を鉱山資本家の搾取から守ることが主張される。しかし、それは先住民を労働それ自体から引き離すものではなく、むしろ良き労働者として植民地の発展に寄与させることを想定している。この意味で、APSは帝国主義的であると批判されることは避けられない。鉱山資本家や植民地政府による管理ではなく、本国政府の管理のもとで先住民が保留地で虐待から逃れ自由に暮らすことが、南アフリカ植民地の発展につながると論じるのである。
また、フォックスボーンは自身の手紙で、もし国王特権が自由に行使できていたとしても、「鉱山経営と直接的に関わり、かなりの公的な支援を受けている白人共同体の支配的なグループの明白な努力が中国人労働者を供給しただけでなく、戦争以前も終結後もカフィール労働力供給を増やす政策を統制していたトランスヴァールにおいて、王室の拒否権の保持だけでは先住民の利益を守ることにおいて不十分」であると述べている。そのため、責任政府授与にあたって、非白人の扱いに対して「適切かつ人道的な取り決め」を行い、その実施を規定する「疑いのない権利」を規定することが必要だと主張する。
以上検討したように、トランスヴァール植民地に責任政府が授与されるにあたって沸き上がった議論の中には、鉱山労働に関する先住民の労働問題と密接に関わる問題提起、提案があった。長年に渡って繰り返されたイギリス系移民とボーア人による先住民への虐待に加えて、三章で言及したような、強大な権力をもつ鉱山による先住民の構造的搾取、身体的虐待が、トランスヴァール植民地に先住民問題を委ねる際の不信感や警戒感を呼んだ。この悪感情が、先住民保留地の導入や王室の介入の権利の保持を提案するに至る背景の一つにあった。本国政府が先住民を直接統治したり、王室の介入の余地を残したりすることで、白人入植者や鉱山が先住民に対して暴虐的に振る舞うのを抑制しようとしたのである。
次に、王室特権をはじめとする本国政府の介入の余地の議論の展開について検討する。前章で見た通り、ナタールの事例からもわかるように、責任政府制を与えられた自治植民地の先住民問題に本国政府が介入することは、内政干渉とみなされ、自治植民地の反発を呼んだ。
APSは基本的には植民地への人道的介入を肯定する立場である。1906年の年次総会では、議長であるブラントン・ガードンSir Brampton Gurdonは、チェンバレン前植民地相が、責任政府を授与された植民地は本国の許可を得なくても自由な政治を行うことが許されるべきだという発言を批判し、「そのような植民地と外国との違いがわからない」と発言している。反対に、チャールズ・ドレークは、「自治権をもつ植民地の問題に大きく干渉しようとすることは望ましくなく、不適切であり、賢明ではないというチェンバレンの意見に大きく反対する気はない」と述べた。しかし、ドレークは介入をやめるべきであると言っているのではない。ここで彼は、トルコやコンゴ自由国の問題の例を取り上げる。このような事例をもとに、「私たちは常に、そしてすべての列強も、人道的な状況によって必要とされる場合には、外国に介入する権利を有すると主張してきた」と述べ、「外国に対する干渉の権利と自国の植民地に対する干渉の権利は同程度である」として、自治植民地への人道的介入を擁護している。
以上のように、APSは以前からの白人による先住民の虐待、特に鉱山労働に伴う重税や鞭打ちなどから植民地の白人を信用しておらず、本国政府がトランスヴァール植民地への指導や監督などの介入する余地を保持するだけでなく、さらに拡大することを望んだ。自治植民地への介入の是非はAPS内で意見がばらつくこともあったものの、自治植民地だけでなく外国に対しても人道的に必要とされる場合には介入する権利があると擁護している。これは自由党の方針と相いれないものであった。
結局、トランスヴァール植民地に責任政府制が成立した後に導入された男子普通選挙は白人だけを対象としたものだった。選挙権に関してAPSの提案や理想は何一つかなえられなかった。しかし、自由党政府はトランスヴァール植民地の責任政府が鉱山資本家の影響力を脱することができるように、新政府に多大な金銭的援助を行った。王室特権の拡張は実現しなかったものの、自由党政府は本国の役割を一定程度認識していたといえる。
ナタール蜂起で本国政府が介入に消極的になり、フェレーニヒンフ条約の順守という観点からトランスヴァール植民地とオレンジ植民地での先住民選挙権の導入を本国政府が主導できず、帝国の権限が明らかに後退する状況下で、南アフリカは現地の白人によって統合され、本国の手を離れようとしている。
トランスヴァール植民地とオレンジ植民地に責任政府が授与され、南アフリカ連合の創出への動きが加速した。ボータとスマッツは植民地相互の連帯を目指し、協力関係を築いていった。アフリカーナー同盟の支援を受けて政権を取ったケープ植民地のメリマン首相は反帝国主義的であり、ナタール植民地のムーア内閣は植民地間の政治同盟に積極的であった。南アフリカのボーア人たちは、白人コミュニティを強化し帝国の干渉を排除するために手段として統一に期待を寄せるようになった。
APSは、このような南アフリカの統合の動きに反対するのではなく、むしろ「南アフリカの福祉と将来の発展のためには、その地にいくつかあるイギリスの植民地が、グレート・ブリテン及びアイルランド王国の下で、一つの法制による一つの政府によって統合されることが望ましい」と述べている。そして、以下の引用のように、南アフリカの統合に際して先住民政策が見直されることを期待している。
植民地がイギリス帝国の分家branchesとしての彼らの地位を保持しようと望む限り、帝国のドミニオンの本質的な条件であり、そうであるべき正義と自由の原則を尊重することが必要である。このような理由から、植民地人自身の要請により、イギリス領南アフリカ連邦または連合として結集し再編成するために与えられた機械は、国王陛下の政府によって公正に利用されることが極めて重要であると思われる。
南アフリカ統合後の先住民保護政策として注目されているのは、トランスヴァール植民地に責任政府が授与された時と同じく、国王の特権による介入の問題と先住民選挙権問題である。国王の特権に関しては、支配権の強化と留保の必要性を繰り返し主張している。選挙制度に関しては、具体的な構想を提示しているのでこの項では主にそれを分析する。
APSの選挙制度構想を分析する前に、南アフリカ先住民問題委員会(South African Native Affair Commission;以下、SANAC)の提案した先住民選挙権の条件を参照したい。SANACは、帝国政府の強力な指導の下、1903年9月23日に発足した。南アフリカ戦争後、高等弁務官であったミルナーの下で開かれたブルームフォンティン会議では、南アフリカ各植民地の将来の連邦化federationを視野に入れて、先住民と先住民行政に関する問題について正確な情報を収集し、先住民政策の諸問題に関する共通の理解に達することを目的として、SANACを制定することが決議された。ケープ植民地、ナタール植民地、トランスヴァール植民地、オレンジ川植民地から二名ずつ、ローデシア、バストランドから一名ずつの代表が選出され、G. ラグデン卿が委員長に任命された。SANACは、先住民の土地制度、税制、部族制度など幅広く調査し、その調査報告書は1905年に発行された。
SANACは、先住民の首長制を軸とした政治体制が、いくつかの専制的な例外を除いて、民衆からの信頼や人気、功績に基づいて選出された評議員の会によって概ね統制されていたことを指摘し、先住民の政治的賢明さへの一定の信頼を示している。SANACは、先住民が投票権を持つことに賛成する立場をとる。各地域の先住民選挙権の導入に関して、
ローデシアでは法律はケープ植民地と同じであり、そのため、対処されているが、現在51人しか先住民の投票者はいない。ナタールでは、長年に渡って名目上の選挙権が認められてきたが、2人の先住民投票者しか名簿に載っていない。トランスヴァール植民地およびオレンジ川植民地では、共和政の下、先住民は投票権を持たなかった。委員会の勧告の目的のひとつは、これらの植民地においても、先住民にこれまで与えられていなかった代表権を、やがて確保することである。この点については、彼らが文明の規模において台頭してきていること、多くの場合、土地の所有を含めて物質的な豊かさを増していること、鉱山ではよき労働者となり、他の産業では多かれ少なかれ熟練した労働者となっていること、直接・間接税において歳入に貢献していること、彼らの労働力は南アフリカの貴重な経済的要因であること、これらの理由から、彼らの利益は国の立法機関に代表されるべきであり、そうでなければ、そのような利益は、表明と宣伝の不足のために不当に苦しめられるだろう。
と主張し、先住民への選挙権拡大を擁護している。
しかし、SANACは選挙において白人の優越性を崩すことには同意していない。教育の普及や鉱山をはじめとする労働によって所有財産の資格を満たす先住民が増え、先住民人口における投票権を持つ人口の割合が増加することで、先住民の声が大きくなると、白人の利益を守ることができなくなると危惧する。そのため、白人と先住民が同一の選挙に参加するケープ植民地の選挙制度を批判する。
ヨーロッパ人有権者に対する対抗心や敵意の精神で選挙権を使用することが許され、政党間の激しい選挙競争において組織された先住民票が決定者になり、先住民投票者が増加するにつれて、国の特定の地域でヨーロッパ人の数を超えることができるようになるような、ケープ植民地に存在している制度の下で先住民が選挙権を保持することは、確実に耐えがたい状況を生み出し、愚かで危険なことであるとの結論に委員会は達した。
一方で、委員会は、すでに選挙権を持っている先住民から選挙権を取り上げることは不必要で非現実的であり、必要なことは行使される方法を変えることであると認識している。先住民が過去にどんな投票権も立法府の代表選出の形態も持たなかったところでは、彼らに南アフリカの他の地域と同等の特権を与えることが、国にとって利益となる上、彼らの満足を導くだろうと思われる。ただし、先住民に攻撃的な意味での政治的権力を与えたり、国に責任を持ち政府の重荷を支える支配人種の比類のない優越と権威を弱めたりすることなく行うことができる場合に限る。
そして、白人投票者は白人を代表する候補者への投票、先住民投票者は先住民を代表する候補者への投票をそれぞれ別個に行うことを提案する。
委員の間で完全に一致しているこの体系の中心的な考え方は、国の立法府において他の議員と同等の地位をもつ先住民を代表する固定された人数の議員だけに対して先住民選挙人が投票するという分離投票である。そのような議員になることの出来る人数や資格は各立法府で決められる。人数は、先住民の視点や彼らの不満を表明するのに十分な手段を提供する以上に多くなってはいけない。先住民の投票数の強さによって制限されてはいけない。先住民はヨーロッパ人を代表する候補者や議員の選挙に投票してはいけない。すべての南アフリカの植民地と所有地は、自治が開始されたらこの計画を採用すること。
つまり、SANACの提案する投票制度は、白人と非白人の住民に対し、同じ基準で投票資格を与えた後、白人による選挙と非白人による選挙を、互いの票が互いの選挙に影響しないように分離して行うというものであった。これを踏まえて、APSの選挙制度構想を分析する。
選挙制度構想には原則としてAPSの先住民統治の基本的な考え方が繰り返されている。つまり、文明化した先住民には平等な権利を与え、「未開」の先住民にはいままでの彼の生活を保障するというものである。
当協会の論点は、文明国が文明化されていない地域を占領するすべての場合において、特に侵入された先住民の数が白人入植者を大きく上回り、常に上回っていたにつがいない南アフリカでは、先住民は、白人の享受する政治的・社会的権利と特権を平等に共有し、新参者の要求に彼ら自身を適応させるか、先住民の必要をすべて満たした地域で、明らかに彼らの利益を導くのではないすべての介入を受けずに、原始的な制度を維持するか、自由で完全な選択を行うべきである。
この「文明-非文明」の分類という基本構造の上に、それぞれにどのような代表されかたが適しているか議論される。APSは、文明化した先住民に白人と平等な選挙権を認めると同時に、「非文明」の先住民の利益をも代表できるような制度を以下のように提案する。
完全な市民権を獲得し、白人にも非白人にも同等の政治的権力を与える先住民の権利を認める現在のケープの選挙権に干渉することなく、そのシステムを他の自治植民地に拡大しながらも、ニュージーランドの前例を、まだ市民権を認められておらず、また、そのような認可に含まれる義務へ憤慨する可能性すらある、他のはるかに多くの先住民の場合へ適用することで、利用することが望ましいだろう。
ニュージーランドの前例とは、白人投票者は白人の利害を代表する候補者に投票し、先住民投票者は先住民の利害を代表する候補者に、互いの票が互いに影響しないように選挙を分離させて行う投票形式のことである。APSはこの投票形式を参考に、文明化されていない先住民の利益を代表する選挙を別個に用意することを提案している。
文明化されていない先住民によって占められている広大な各地域に、1人以上の直接代表を先住民問題のために分離された評議会や彼らの利益に影響する問題を審議する植民地議会に送ることが認められれば、白人と黒人の住民が共同体全体の福祉のために共に働くことのできる理想的な南アフリカの着実な発展のための準備ができただろう。
これは先ほど検討したように、SANACの提案する選挙制度に通ずる考えである。SANACがレポートを発行した当初、ニュージーランドの例では、分離式投票制度のもとで70人以上の白人議員に対しマオリ族議員は4人しかおらず、形だけの先住民選挙権であるとAPSはSANAC案を批判していた。また、APSは南アフリカ統合に際して選挙制度の異なる4植民地の制度を統一する場合に、先住民を抑圧するような方針で政策が決定されることを恐れている。「やがて実現するだろう南アフリカ連邦では、国の一部の地域で黒人とカラードの住民に与えられていた、わずかで不完全な権利が最も反動的な植民地の水準にまで引き下げられるという重大な危険に晒されている」と述べ、特にケープで行われている先住民に比較的寛容な政策が、南アフリカが統合することで失われ、南アフリカ全体として先住民に対して抑圧的な政策をとるようになることを警戒している。APS案ではケープの選挙制度を残すような設計がなされ、そこから零れ落ちた先住民にも利害を政治に反映する機会を与えていることから、先住民の発言権を増大させることを目指していると考えられるだろう。
1908年5月に開催された植民地連絡会議は四つの議会に対して、南アフリカ統一のための憲法を準備する全国会議に代表を派遣するように求めた。会議は8月にダーバンで開かれた。スマッツは憲法草案を携えて会議に臨んだが、この憲法草案はすでにヘット・フォルク、進歩党だけでなくケープ植民地とオレンジ川植民地の指導者からも同意を取り付けており、1909年には各植民地議会で承認された。南アフリカ連合Unionは四つの州をもち、地方機関の上に最高機関として中央政府が据えられた。イギリス本国と同じように、行政府は下院the House od Assemblyの多数派に責任を負い、間接選挙で選出される上院Senetは権限が弱かった。
南アフリカ連合へ授与される憲法の草稿に対する1909年のAPS年次総会での意見の記録を検討する。APSは、南アフリカの植民地の統合は喜ばしいものであるとしながらも、「APSが70年以上にわたって見守ってきた先住民の権利は守られているのか」批判的に憲法草稿を検討する。
選挙制度に関しては四つの植民地で大きく違う法律を統一しなくてはならなかった。トランスヴァール植民地とオレンジ川植民地では白人だけが選挙権と被選挙権を有しており、ナタールでは少数の例外を除いて非白人は選挙から排除されていた。資格を満たした非白人に選挙権を認めているケープ植民地代表は、ケープの選挙制度をモデルとした制度の全国一律の適用を提案したが、他の三植民地は頑強に反対した。その結果、国会議員は白人男性だけに限定されることがきまった。議会を代表する権利について、憲法草稿の第25条および第44条には、上院議員、下院議員はヨーロッパ人の子孫であるイギリス臣民a British subject of European descentでなければならないと規定されている。これに対してAPSは、精神的または道徳的資質に関わらず人口の7分の6を占める先住民に議員となる資格がないことを批判する。先住民や彼らの子孫から、故郷である土地で、自分たちの属する国家における政治から締め出されるのは非妥当的であると主張し、憲法草案で提案された議員の資格要件は不適切であると糾弾した。
また、各植民地の選挙制度は各州で効力を持ち続けることになった。先住民選挙権を抑制したい反面、ケープ代表の反対や、建前上逆行的な政策を採用しづらいという点で、結局、統一は叶わなかったのである。第35条には、ケープ植民地における先住民の選挙権権の保護について書かれている。APSが警戒を示すのはこの条項に付言された、「いかなる法律も、法案が第三読会at the third readingにおいて、両院の総議員の3分の2以上の賛成を得なければ、その資格を喪失させることはできないno such law shall disqualify any person…unless the Bill…at the third reading be agreed to by not less than two-thirds of the total number of members of both Houses.」という文言である。裏を返せば3分の2以上の賛成で権利を剥奪することができるのであり、APSは『バストランド・スター』紙を引用して「ケープの両院議員が先住民の政治的権利の保持に賛成票を投じたとしても、他の植民地の議員を併せれば、3分の2以上の賛成を得るのは容易である」と論じる。APSは、「ケープの先住民選挙権は絶対に取り消しできないものでならなければならない」ことに加え、両院の過半数の賛成で参政権を撤回することの出来るナタールの先住民に対しても、選挙権を守る条項が付け加えられるべきであると主張した。
以上の分析から再度確認できるように、APSは南アフリカが統合されることで、すでに先住民が享受している政治的権利がはく奪される可能性が生じること、先住民が自分たちの政治を代表できないことを批判している。特に注目すべき点は、先住民選挙権を撤回するための規定が連邦議会に与えられていることである。責任政府制の仕組みを考慮すると、議会の決定に本国政府が介入することは内政干渉だと見なされるため、この規定によって先住民選挙権の存続は南アフリカ連邦議会に委ねられてしまったといえる。加えて、その連邦議会の両院において、ヨーロッパ人の祖先をもたない先住民は議員になることができず、彼らの利益や意見を政治に反映する力は制限されている。このような条項を規定する憲法草案の下で南アフリカが統合され本国の手から離れると、現地白人による先住民に対する抑圧的な政策を改善することができなくなるばかりか、いままでの成果も失われることになりかねない。
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