インド仏教思想史とヨガ
インド人と歴史
うねにいわば、永遠の相の下に立っていて、個々の事件移りゆきを軽視し、それらをなんらかの形でまとめあげて歴史書を作るということをしなかったインド人は、仏教やヨガにおいても例外ではない。後述するように、仏教の創始者ゴータマ・ブッダの年代についても大きく分けて三種類あり、もっとも著名な論師であるナーガルジュナ(龍樹)やヴァスバンドゥ(世親)にも、二種類の説がある。したがって、その年代決定は、インド以外のギリシア・中国その他の間接的な諸資料に基づいて、それらを頼りに順序を立て、そして間接的に思想家や経典・論書を当てはめていく、という手順を踏まざるを得ない。
インドの歴史を専門とする人々は、その点で困惑するところが多くまた論争の華やかである。しかし、大雑把にいって、ゴータマ・ブッダが百年新しくても古くても、実のところ、それほど深刻な問題とはならない。それよりも、思想の変遷を見ることができるならば、それをもっていちおう満足することができるだろう。
インド思想の特徴
インド思想の特徴を他の思想と比較して数え上げていけば、それだけの一冊の本になってしまうので、ここでは仏教思想を学ぶのに必要最小限のことを記しておこう。インド思想は、いわゆる哲学と宗教の間に明確な境界を立てようとしない。一方、体系を築き論理的な組織に立とうとする哲学的な動きと、他方、解脱と救済(あわせてさとり)への道を求める宗教的な欲求とが、たえず交錯し、ときには表裏している。それはインド哲学、インド宗教一般にいわれることであるけれども、ヨガや仏教に関しても同様のことがいえる。
仏教の思想史は、他のインド思想に比べて、比較的ではあるが、宗教に重点をおいた時代、また哲学的関心が高まった時代、あるいはそれぞれの運動がやや明確に区別されうるとはいっても、それでもやはりインドの思想全般の傾向を免れることはできず、哲学的な体系について述べる場合にも、必ずそれは解脱と救済(さとり)とまったく無関係なのではなく、また一途にさとりを志向して、それに専念する場合にも、プラジュニャー(般若)と呼ばれる知恵を掲げている。この知恵は、いわゆる分析的な知識とは区別されるけれども、インテレクチュアルな要素を含んでいることは否めない。
インドにはまた、伝統的に、いわゆる思想の自由があった。思想の自由は、思考・言論・発表・信仰などの自由につながる。どんな異様なものも、ここでは異様でもなんでもなく、珍しくさえない。こうした人間精神の自由を、インド人は当初から現在に至るまで守り続けており、その自由を、他の手段をもって威嚇し弾圧するということは皆無と言って良いほど少ない。すなわち、ここでは、ソクラテスが毒杯をあおぎ、イエス・キリストが十字架に掛けられ、マホメットがヒュジラを余儀なくされたというような例、あるいは焚書や禁書、宗教裁判や宗教戦争といったものも、インド人のあいだには、かつて存在しない。政治体制として、ある時代、ある王朝の国王が、ある宗教をとくに信仰するということはあっても、そのために他の宗教をもやはり奨励しており、それを抑えつけるようなことはありえない。たとえば後述するように、アショーカ王は深く仏教に帰依したけれども、同時に、バラモン教、ジャイナ教、アージーヴィカ教など他の宗教も、厚くもてなしている。
インド仏教史の時代区分
初期仏教(原始仏教)ー部派仏教ー大乗仏教
上の図のうち、原始仏教の名称が親しまれていますが、原始という言葉に価値判断が伴いやすいことと、
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |
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