ヨガ哲学を学ぶ(RYT200)のテキスト
ヨガの世界で最も有名な資格に全米ヨガアライアンスという団体の認定している通称RYTという資格があります。RYTには種類がいくつかあり、RYT200というものやRYT500というものや、それにRYT500Eなどという教授資格がついたものなどがあります。立川発イタリア溶岩ホットヨガでは、この全米ヨガアライアンスに基づいたヨガ資格認定講座を行うべく準備をしています。そのヨガの資格認定講座には、大枠のテキストとして、ヨガ哲学の教科書、アーサナの教科書、指導法の教科書、解剖学の教科書などがあります。こうした教科書作りは私の専門とするところでもあるので、本稿ではヨガ哲学の解説をしながら、RYT200の資格認定講座で用いられるテキストの草稿として書いていきたいと思います。
01 ヨガとは
ヨガという言葉は、サンスクリット語で「(योगः [yogaḥ])」と書きます。サンスクリット語での発音は「ヨーガ」となるので、古式ゆかしいヨガ修練などを行っているヨガスタジオやヨガ行者は、「ヨガ」ではなく「ヨーガ」と表記する方が多いのもそのためです。そして、この「ヨーガ(योग [yoga])」 という言葉の成り立ちは、動詞の原型「ユジ(युज् [yuj])」に、接尾語「ガンニュ(घञ् [ghañ])」を付加して作られました。
この動詞「ユジ」は「つながること」を意味します。なので、「ヨギー」などのヨガ雑誌はもちろん、ヨガの入門書では、ヨガとは「ユジ」である。つまり、ヨガとは「つながること」を意味すると解説させている場合が多いと思います。といっても、この「ユジ」の意味は他にもあり、「心を集中させる」ということや「制御(コントロール)する」というような意味もあり、「心を集中させる」なんていう意味は、現代日本人のみならず、世界中のヨガ好きには「そうだよね!」と納得するような意味ですね。
そして、接尾語「ガンニュ(घञ् [ghañ])」の意味にも三つの通りの意味があり、「~すること」という意味や「それによって~するもの」という意味、そして「~されるもの」という意味があります。そうすると、全部で9通りの意味が作られることになりますね。まあ、大きな意味は異なるわけではないですが、とりわけ前者の「ユジ」をどう捉えるかによって、多少は意味が変わってくると思います。そこで、ヨガ哲学的な解釈を少し見てみましょう。
皆さんもおそらくご存知のヨガの古典『ヨーガ・スートラ』での、ヨーガの定義は「योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः [yogaścittavṛttinirodhaḥ] 」 となっています。「心を集中させること」という意味ですね。まあ、前述したとおり、まさに日本人の一般的なイメージとずれることはないと思います。もちろん、ヨガといえば、後で説明しますが、ハタヨガ的な少しアクロバティックというか奇妙なポーズをとるようなイメージも人口に膾炙しているかと思います。
確かに、ハタヨガは身体修練的なプログラムを用意しており、身体エネルギーの肉体的浄化と安定化のためのさまざまな技法が組み込まれています。そこには、多くの身体的柔軟性と活力を向上させるような体位や時には長時間の瞑想に適した体位など、多くのアーサナ(ヨガのポーズのことですね)はあります。しかし、ハタヨガといえども、単なる体操やフィットネストレーニングにとどまるのではなく、瞑想と忘我を通じた自己実現にその勘所はあるのであり、身体的健康というのは副産物に過ぎません。
話を戻しますが、ヨガの本質というのは、「精神集中による瞑想」にあり、さまざまなヨガの流派は後述しますが、どのヨガにおいても、心の作用をコントロールして、その結果、宇宙の原理や悟りの境位に至ろうとするものであるわけです。もっとも、宇宙の原理とか悟りの境位というと、現代人、とりわけ日本人には胡散臭く感じてしまうのも事実だと思います。しかし、ヨガ自体が、古代インドにおけるバラモン教の反省とてのウパニシャッド哲学に登場しているので、宗教色があることを否定するのは、日本で「お辞儀」などの行為が宗教的背景を持っているのは何も変わりはなく、そう奇異な目で見るべきことではないわけです。そして、それは宗教的であるといよりも、より哲学的であり、ヨガはプルシャ(霊我)と原質(プラクリティ)という、今風にいえば、心と体という心身二元論を立てるサーンキャ哲学に基づいているわけです。
02 ヨガ哲学とは
今、哲学とお話ししましたが、ヨガにはヨガ哲学と呼ばれるものがあります。それは、バラモン教的でもあり、ウパニシャッド哲学的でもあり、仏教的でもあります。実際、古典ヨガから先ほど紹介したハタヨガへ至るまでのヨガ哲学の変遷は、バラモン正当派におけるヨガの歴史的展開と同じような展開が仏教の中でも育っていきました。とりわけ、初期の仏教や初期の大乗仏教(ナーガールジュナ:竜樹が大成した)では、心の作用の死滅を中心としたヨガがおこなわれましたが、七・八世紀以降仏教タントリズム(密教)が盛んになると、精神生理学的なヨガの修練が重視されるようになったのです。これはハタヨガとほぼ同種のもので、密教において大切な曼荼羅は、大宇宙と小宇宙との合一を目的としたヨガの一種でした。
実際、仏教の開祖であるゴータマ・シッダールタが悟りを得たのも一種のヨガであるといわれます。彼はインドでももっとも古いヨガ行者であったわけです。そして、こうして仏教に取り入れられたヨガは、中国、そして日本へと伝わっていきます。スティーブ・ジョブスなどが取り入れることで、有名になった「禅」も一種のヨガです。
さて、それでは、行為としてのヨガとはどういうものなのでしょうか。ヨガ行者は、座ったまま何も語りません。とりわけ、迷走してサマーディ(三昧)に入った者は、まるで死者のようですらあります。実際、今日のインドでは聖者たちの墓あるいは記念碑を「サマーディ」と呼びますが、それは死の状態を「三昧」と表現しているわけです。そういう意味で、ヨガはある意味、死に似た状態を作り出す行為であるといえます。とはいえ、ヨガは決して死ぬことを意味するのではなく、あくまでも生者のみがなしえる行為です。しかし、それは決して安楽なものであはなく、釈迦が厭ったように、常人にはなしえないような熾烈な行為でもありました。
これは言い換えると、ヨガという行為は、それ自体行為であるにも関わらず、行為の止滅した状態を目指しているということです。逆説的な表現となりますが、ヨガとは「無行為のためmの行為」というものを含んでいるわけです。しかし、この矛盾したようなものこそが、ヨガがインドの宗教のもっとも一般的な実践となり得た訳でもあります。「無行為」すなわち「俗なるもの」の否定をもたらすための「行為」(その行為自体は俗なるものであるのですが)という意味でヨガの構造は構成されているわけです。
それでは、ヨガ哲学について少し深くみてみましょう。そもそも、人間は生きている限り行為をするものです。右手を挙げるのも、車をよけて走るのも、すべて行為ですし、仮に何もしないで休んでいるとしても、あるいは眠っていても、それは何らかの行為をしていることになります。行為するというのは、生きていることの証であり、人のあり方の本質であるわけですね。その上で、ヨガ哲学では、人間の行為を次のような三つの要素にわけます。(1)目的(2)現状認識(世界観)(3)手段、です。
そもそも、「行為」には「目的」があるでしょう。サガナが食べたいから魚を釣るわけですし、釣り針と釣り竿を作ったり用意したりするわけですね。とはいえ、「無目的の行為」というのがないわけではありません。たとえば、目的もなくぶらぶら歩いているということもあるでしょうし、子供が無心に遊ぶというような場合も、特定の目的が意識されているわけではないでしょう。とりわけ、西洋の哲学者ホイジンガが説いたように、遊ぶということにおいて、一般に目的意識は低いといわざるを得ません。というのも、目的に縛られることなく、楽しむことそれが遊びの本質だからです。
しかし、このような無目的の遊ぶにおいても、遊ぶこと自体、あるいは遊びのたのしみが目的と考えることができると思います。ぶらぶら歩くこともそうすることが楽しいので、そういう行為を行っているというわけですね。もちろん、こうした場合には、目的と手段の距離は限りなく近づいており、いわば手段の目的化が起きていると考えることもできるでしょう。自己目的化というと、まるでルカーチの物象化理論のようなイメージがあるかもしれませんが、そこに疎外があるわけではなく、完全な目的と行為の差異の消失を意味していると理解してください。そして、ヨガにおいても、この「手段の目的化」がしばしば見られることになります。
そもそも、日常の行為においても、目的が意識されていないことは少なくありません。習慣に従って行為がなされるときには、行為の目的が格別意識されることはないでしょう。しかし、習慣化されたその行為は、いつかなされたその行為の目的の承認に基づいており、前述した三要素がなくなっているわkではないのです。
一般に、人は行為するとき、その目的を意識しています。目的が意識されたとき、我々は自分がいまどこにいるのか。自分のまわりの状況がどのようなものであるのかをおぼろげながらもしっていますし、より一層正確に知ろうともします。もちろん、時間的には現状を認識したのちに、目的が定められるということの方が多いでしょう。しかし、ともかく、我々は、実際の行為にとりかかるまでに、到着地点としての目的と出発地点としての現在の状況との距離を測っているわけです。
自分が今どこにいるのか分からなければ、これからどこへいけばよいのか分かりません。また、現在、何を持っているか知ることは、将来において手に入れるものを考える際に必要でしょう。ある行為によって目的を果たすためには、その前提としての「現状認識」「世界観」といったものが必要であるわけです。
ヨガ哲学を学ぶ(2)
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |