第十回 メリッソス
ゼノンと同じくパルメニデスの徒とされる。しかし、彼だけはパルメニデスやゼノンと異なり、小アジア沿岸冲のサモス島に生まれている。彼がどのようにしてパルメニデス(の思想)と出会ったのかなどについては一切不明である。彼の生涯についてはサモス海軍を指揮してアテナイの艦隊を撃破したことが伝えられている。
メリッソスの思想はほぼパルメニデスの思想を踏襲しているのであるが、ただ一点だけ彼とは異なる点があり、その点が重要である。というのは、パルメニデスにとって「あるもの」は限界によって限られている球体のようなものであったが、メリッソスはまさにこの点を批判するのである。なぜならば、それがもし限界付けられているのであれば、何ものかがその限界の外に想定されてしまうからである。そして、そうした何ものかの存在を認めるなら「あるもの」は一つではなくなってしまうわけだ。
したがって、メリッソスにとって「あるもの」が「一」であるためには「あるもの」は空間的に無限でなければならない。と同時に、この「あるもの」は時間的にも無限である。生成も消滅も有り得ない以上、「あるもの」は始まりもなく終りもない時間的にも無限のものでなければならないからだ。
ところで、このメリッソスにおいてはじめて「空虚(kenon)」が明確に概念化され、これがしっかりと否定されている(「いかなる空虚も存在しない。空虚はあらぬものだから。あらぬものはありえないのだ(断片7)」)。これによってパルメニデスの運動否定の説はより確固たるものへとなった。
このように見てみると彼の説は現代のビックバン仮説などに対するわれわれの素朴な疑問などを彷彿させてくれる。つまり、「ビックバンがあったとしてそれじゃあそれ以前は何があったの?」であるとか「宇宙の外は何があるの?」といった素朴な疑問である。
それでは、以下彼の断片を見てみよう(断片の番号はすべてDiels-Kranz,Die Fragmente der Vorsokratikerの指定による)。
「あったものは何であれ、つねにあったし、またつねにあるだろう。なぜなら、もしそれが生じたのであるなら生じる前には、それはあらぬものでなければならぬことになるからだ。だが、それがあらぬものであったとすれば、あらぬものから何かが生じてくることはまったく不可能で在るからだ」(断片一)
「だがそれ(あるもの)が永遠にあるように、それの大きさもまた永遠に無限でなければならない」(断片3)
「始めと終りを持つものは、何であれ決して永遠でも無限でもない」(断片4)
「それゆえ、もし空虚がないなら、それは充実したものでなければならない。それゆえ、それが充実しているなら、それは動かない」(断片10)
第十一回 エンペドクレス
エンペドレクス(Empedokles AC495-435)です。エンペドクレス以前にパルメニ デスとヘラクレイトスという人物がいました。そして、前者は世界を「不変 不動」と捉えたのに対して、後者は世界を「生成流転」として捉えました。 両論真っ二つに対立するわけですが、両方ともそれなりの説得力をもってい たわけです。まあ、その具体的な中身に関してはHPの方を参考にして欲し いですが。
ところで、こうした対立が対立としていつまでもそのまま残されているよう じゃ西洋哲学の名折れです。西洋哲学が東洋哲学と一番異なるのは、その批 判精神にあるといっても過言ではないでしょう。東洋哲学が師匠の教えを守 ったり解釈に終始するのに対して、西洋哲学はいきなり師匠の教えを批判し て乗り越えようとします。もっとも、エンペドクレスはパルメニデスやヘラ クレイトスの弟子ではありませんが、彼らが自らの師匠であったとしても彼 はそうした問題を批判的に乗り越えようと取り組んだことでしょう。
さて、エンペドクレスはどのようにして、この対立の克服をはかったのでし ょうか?それは「リゾーマタ(rizomata)」という概念によって克服されよう と試みられました。この「リゾーマタ」というのが「根っこ」という程度の 意味ですが、この「根っこ」というのが現代風にいえば「元素」のようなも のです。そして、万物の究極の構成要素たるこの「元素」を彼は四つの元素 から捉えました。すなわち、地水火風の四元素です。
これがどうして上で述べられた対立の克服になるかというと、この究極の構 成要素たる「四元素」は「不変不動」の存在です。そして、万物はこのそれ 自体としては不変不動のこの四元素が分離したり混合したりしてさまざまに 構成されていくと考えられたわけです。まあ、今風にいえば、まさに元素と 化学変化ですべてを説明しようとしたわけですが、このようにして、上で述 べらられた両説の調停を行っているわけです。
それだけではありません。四元素が分離したり混合したりするためには、そ れが分離したり混合するための原因、すなわち「動力因」が必要です。この 動力因をエンペドクレスは「愛(フィリア)と憎しみ(ネイコス)」という 概念で説明しようとしました。まあ、こんな風にいえば、随分とまあ擬人的 であると笑われる方もいらっしゃるかもしれませんが、引力と斥力で説明す る近代風のやり方と基本的な発想は何も変わらないことに驚きましょう。
しかも、物事の説明に対して、このように「動力因」というものを打ち据え たのはこのエンペドクレスが哲学史上、ということはすなわち、全学問上、 はじめてのことになります。アリストテレスがこの点を高く評価してもいる のも当然のことといえるでしょう。
ちなみに、このエンペドクレスはその人生自体も興味深く、彼は魔法使いで あったとか、自分を神と僭称していたとか、「神は死んだ」と高らかに宣言 したとか逸話に富んでいます。また、ドイツの詩人ヘルダーリンやこのML のもともとのネタでもある哲学者ニーチェがその伝記を描こうとして製作途 中に両者とも発狂したりしていることでも有名です。