ハンナ・アレント『人間の条件』

ハンナ・アレント『人間の条件』[1958=1973→1994]ちくま文庫
・「人間の条件は、人間が条件づけられた存在であるという点にある。いいかえると、人間とは、自然のものであれ人工的なものであれ、すべてのものを自己の存続の条件にするように条件づけられた存在である。」(237)⇔人間には本性があるという考え方。
第一章 人間の条件
◆活動的生活の三類型(19-20)
①労働(labour):人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力
②仕事(work):人間存在の非自然性に対応する活動力。生命を超えて永続する「世界」を作り出す。
③活動(action):モノないし事柄の介入なしに直接人とのあいだで行われる唯一の活動力。多数の人間の間で生きること。
◆必要物に関係なく自由に選びうる生活:アリストテレスの場合
①肉体の快楽を享受する生活。②ポリス(政治体)の問題に捧げられる生活。③永遠なる事物の探究と観照に捧げられる哲学者の生活。(26-27)→これに対してプラトンは、②からの自由として、skholeを主張した。
◆不死(immortarity)と永遠(eternity)の区別(32-)
・【不死】時間における耐久性。この地上とこの世界において死ぬことのない生命。活動の共同体の不死。共同体において名を残すこと。不朽の痕跡を残すこと。
・【永遠】活動を超越して、観照生活に入ること。
第二章 公的領域と私的領域
◆政治的動物の自由
・「政治的であるということは、ポリスで生活するということであり、ポリスで生活するということは、すべてが力と暴力によらず、言葉と説得によって決定されるという意味であった。ギリシア人の自己理解では、暴力によって人を強制すること、つまり説得するのではなく命令することは、人を扱う前政治的方法であり、ポリスの外部の生活に固有のものであった。」(47)
・「家族」という自然共同体は必要=必然(necessity)から生まれたものであり、その中で行われるすべての行動は必然によって支配される。これに対してポリスの活動は、自由の領域である。ポリスは家族内における生命の必然を克服することが条件である。(51)
・【自由】「生活の必要〔必然〕あるいは他人の命令に従属しないということに加えて、自分を命令する立場に置かないという二つのことを意味する。それは支配もしなければ支配されもしないということである」(53-54)「人間の自由とは、つねに、自分を必然〔必要〕から解放しようという、けっして成功することのない企ての中で獲得されるもの」である。(181)
◆社会的なるものの勃興
・「社会的」という言葉はローマ起源のものであり、もともとは「政治的」という意味をもっていたが、しかし人間が動物と共有している部分であって、それだけでは特殊に人間的なものではない。
・「…社会が勃興し、『家族(oikia)』あるいは経済行動が公的領域に侵入してくるとともに、家計と、かつては家族の私的領域に関連していたすべての問題が『集団的』関心となった。現代世界では、公的領域と私的領域のこの二つの領域は、…たえず互いの領域の中に流れ込んでいる。」(54-55)
・「人間の活動力をすべて私的領域にもちこみ、人間関係をことごとく家族をモデルにして作り上げる傾向がどんどん進んで、都市そのものの中に特殊に中世的な職業組織、ギルド、同業者組合が生まれ、さらに、初期の商業会社さえ生まれた。」(56)
・【社会】「ただ生命の維持のためにのみ存在する相互依存の事実が公的な重要性を帯び、ただ生存にのみ結びついた活動力が公的領域に現れるのを許されている形式」(71)
・労働生産性の加速的増大:「労働が公的な分野に入りこんできたために、労働の過程は循環的で単調な反復から解放され、急速に進む発展に変わった。」(72)
◆私的領域の特徴
・私的領域とは、privativeな特徴、すなわち、なにものかを奪われている(deprived)状態を意味している。(60)
・今日、他人によって保証されるリアリティが奪われているので、孤独(lonliness)の大衆現象が現れている。(88)
◆公的領域の特徴
・競技と個性:「公的領域(ポリス)は、激しい競技精神で満たされていて、どんな人でも自分を他人と区別しなければならず、ユニークな偉業や成績によって、自分が万人の最良の者であることを示さねばならなかった。」→公的領域は個性のために保持されていた。(65)
・公的領域は、他者の臨席のもとで卓越性を示しあうような空間である。(73)→これに対して社会的領域は、卓越を匿名化し、それぞれの成果よりは人類の進歩を強調する。
・ 【公的】の二つの意味
①公に現れるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り広く公示されるということ。「リアリティ」は、私たちが見るものを、同じように見る他者が存在することによって確信される。(75-76)⇔「肉体的苦痛」は、公的領域に現れにくい。また「愛」は、公的世界に現れると殺されてしまう。(汝の愛を語らんとすることなかれ)→「愛はその無世界性ゆえに、世界の変革とか世界の救済のような政治的目的に用いられるとき、ただ偽りとなり、堕落するだけである。」(77)
②公的=【世界】:・世界とはテーブルである。「世界の中に共生するというのは、本質的にはちょうど、テーブルがその周りに座っている人々の真ん中(between)に位置しているように、事物の世界がそれを共有している人々の真ん中にあるということを意味する。つまり、すべての介在者と同じように、人々を結びつけると同時に人々を分離させている。」(79)
・【世界】とは、「地上に打ち立てられ、地上の自然が人間の手に与えてくれる材料で作られた人工的な家であり、それは、消費される物からできているのではなく、使用される物からできている。」(197)
・【共通世界】とは、私たちが生まれるときにそこに入り、死ぬときにそこを去るところのもの。このような共通世界は、ただそれが公的に現れている限りでのみ、世代の流れを超えて生き続けることができる。(82)「共通世界の条件の下でリアリティを保証するのは、世界を構成する人々すべての『共通の本性』ではなく、むしろなによりもまず、立場の相違やそれに伴う多様な遠近法の相違にもかかわらず、すべての人がいつも同一の対象に係わっているという事実である。」(86)「共通世界の終わりは、それがただ一つの側面のもとで見られ、たった一つの遠近法において現れるとき、やってくる。」(87)⇔アウグスティヌスの同胞愛:「世界」に取って代われるほど十分に強力な絆を発見することは、初期キリスト教哲学の主要な政治的課題であった。

◆善の無世界性
・「イエスが言葉と行為で教えた唯一の活動力は、善の活動力であり、この善は明らかに、見られ聞かれることから隠れようとする傾向を秘めている。キリスト教は、公的領域に敵意をもっており、少なくとも、初期のキリスト教はできる限り公的領域から離れた生活を送ろうとする傾向をもっている。……なぜなら、善行は、それが知られ、公になった途端、ただ善のためにのみなされるという善の特殊な性格を失うからである。」→善は、外部に現象として明示されてはならないという否定的性質。(105)
・善は、行われた途端に忘れられなければならない。なぜなら記憶でさえ、善の善たる特質を滅ぼしてしまうからである。これに対して思考は、記憶されるものであるから、結晶して思想となる。「善を愛する人が本質的に宗教的な人間となり、古代の知と同じく、善が本質的に非(non)人間的で超人間的な特質をもっているのは、善行に固有のこの無世界性のためである。」→善行を目撃する唯一の想像上の証人としての神を想定する。(108)
第三章 労働
◆労働の特徴
・奴隷や家畜のように自分の肉体をもって生活の必要物に仕える人⇔職人、仕事人(134)
・背後に何も残さないということ、努力の結果が努力を費やしたのとほとんど同じくらい早く消費されるということ。(140)
・もっとも耐久性の低いもの。生命過程そのものに必要とされるもの。それを消費する時間は、それを生産する時間より短い。それは最も世界性がなく、最も自然的である。(151)

・無限に繰り返される循環に拘束されている。その円環は、生命ないし有機体の生物学的過程によって定められている。(154)単調な雑事を日々繰り返すこと。容赦なく反復しなければならないということ。(155-56)
・労働の分業は、二人の人間がその労働力を重ね合わせることができ、「二人があたかも一人であるかのように振る舞う」ことができるという事実にもとづいている。この一者性(oneness)は、協業(corporation)のちょうど反対であり、種の単一性を示している。(184)

・「労働の喜び=快楽」は、額に汗してパンを稼ぐときの快楽ないし消耗にある。それは、努力が調整され、リズミカルに秩序だてられたときに生じる快楽である。(229)
→労働のリズムはたやすく機械化することができる。
・労働は目的と手段の関係を明確にもっていない。労働するために食べ、食べるために労働しなければならぬという、固有の「強制的反復」である。(232-33)「労働は生命過程を決して乗り越えることができない。このような生命過程の内部では、人間は、労働する力を得るために生き、消費するのか、それとも逆に、消費手段を得るために働くのかというような、目的と手段のカテゴリーを前提とする問いを発することは意味がない。」(235)
◆共同労働
・「共同労働においては、労働者の集団は、労働の生物学的リズムによって統合され、各人はもはや個人ではなく実際に他のすべての人たちと一つになっていると感じるようになる。このおかげで、たしかに、労働の労苦と困難は和らげられる。それは、行進で足並みをそろえると一人ひとりの兵士の歩く努力が和らげられるのとまったく同じである。」(341)
◆必然としての労働
・労働に対する軽蔑は、必然〔必要〕から自由になるための猛烈な努力から生まれた。
→古代人の基準では、「自由人の学芸(liberal arts)」とは、政治家の徳である賢明な判断を引き出す能力を用いる職業、建築、医学、農業のような公的重要性をもつものであった。
・「人間の活動力に対する古代人の評価は、いずれも、欲求が必要とする肉体労働は奴隷的なものであるという確信にもとづいている。だから、労働によらない職業でも、自分のためではなく生命の必要物を提供するために営まれる職業は、やはり労働と同じものだと見られた。」(137)
・マルクスによれば、労働は「自然によって押しつけられた必要」である。革命は、人間を労働から解放する。それによって「自由の王国」が「必然の王国」に取って代わる。(160)
・マルクスは、社会化された人間は、労働から自由な時間を「ホビー」という私的で無世界的な活動力に費やすだろうと予見した。(176)
◆労働の生産性
・近代においては、「労働」と「仕事」の区別ではなく、「生産的労働/非生産的労働」の区別、および「熟練労働/未熟練労働」の区別がなされた。近代において労働が上位になったのは、労働の「生産性」にあった。スミスもマルクスも、非生産的労働は寄生的なものであり、世界を富ませないから、この非生産的労働という名称にはまったく価値がないとして軽蔑した。(139-40)
・「古代の理論では、労働が軽蔑され、近代の理論では労働が賛美された。そして一方は、労働者の苦痛の多い努力に不信を抱き、他方は、労働者の生産性を賛美している。」(147)
・労働は生産性をもっている。その生産性は、労働の生産物にあるのではなく、人間の「力」のなかにある。この力は、自分自身の「再生産」に必要とされる以上の「余剰」を生産する能力をもっている。(141)
・マルクスの「労働力」概念:労働それ自体ではなく、人間の「労働力」の余剰が、労働の生産性を説明する。「熟練作業と未熟練作業の区別や、知的作業と肉体的作業の区別が、古典経済学においてもマルクスの著作においても、何の役割も果たしていない…。労働の生産性に比べると、実際、それらの区別は第二義的な意味しかもたない。」→熟練労働の廃止傾向という問題がある。(143)
・労働は短命なものしか作らないが、しかしそれを貨幣に物化することによって永続性を手に入れる。(158)
◆消費財、使用対象物、活動と言語の生産物(148-50)
①消費財:人間の肉体が欲求するもので、肉体の労働が産み出すもの
②使用対象物:仕事の産物。人間の世界を保証する。耐久性をもつ。
→「使用すれば解体は避けられない。しかし、使用にとって、これは付随的なことである。ところが他方、消費にとっては、解体こそ本質的なものである。」(226)
・「耕地」は消費される。耕さないと使えなくなるから。
③活動と言語の生産物:人間関係や人間事象の網の目を構成する。活動と言語と思考は、それ自体では何も「生産」せず、生まず、生命そのものと同じように空虚である。それらが世界のものとなり、偉業、事実、出来事、思想あるいは観念の様式になるためには、第一に、それを見、聞き、記憶する他人が存在し、第二に、触知できるものに変形することによってリアリティを獲得する必要がある。
◆生(bios)、「生命(soe)の幸福」、社会の生命
・生とは、単なる生命現象ではなく、出来事に満ちており、その出来事は、最後には物語として語ることのできるものであり、評伝を作り上げることのできるものである。(153)
・マルクスにとって労働とは、個体の生存を保証する「自分自身の生命の再生産」である。
・「『労苦と困難』によって自分の務めを果たした者は、将来、子孫を残すことによって自分も自然の一部にとどまることができるという静かな確信を抱く。」(163-64)「生命の祝福は、全体として、労働に固有のものであって、仕事の中には決して見いだされないものである。」(164)「苦痛に満ちた体力の消耗と喜ばしい再生という定められた循環の外側に、永続的な幸福はない。……消耗と再生の循環のバランスを崩してしまうものは、たとえそれがどんな生活であっても、生きていることからくる基本的な幸福感を台無しにしてしまうのである。」(165)→苦痛の欠如としての幸福(171)
・「職人でもなく、活動の人でもなく、〈労働する動物〉だけが、『幸福』になることをこれまで要求してきたし、彼らだけが、死すべき人間が幸福になりうると考えてきたのである。」(196)
・労働とは、苦痛の中に現れる「世界喪失」に対応する活動である。「人間の肉体は、…ただ自分が生きることにのみ専念し、自らの肉体が機能する循環運動を超えたり、そこから解放されたりすることなく自然との新陳代謝に閉じ込められたままである。」(172-73)
・個人の生命ではなく社会全体の生命が、富の増大と蓄積の過程の主体として考えられるようになる。→この場合、人間はもはや自分自身の生存にのみかかわるのではなく、「種の一員=類的存在」として、活動する。(174)
◆労働生産物の特徴
・労働生産物は、それが豊かになったからといって、耐久性を増したわけではない。(186)
・「豊か」とは「モノが溢れる」ということ。
・「労働過程の無限性は、たえず反復される消費欲求によって保証されている。生産の無限性が保証されるのは、ただその生産物が使用の性格を失い、ますます消費の対象物になっていく場合だけだからである。」(187)
◆労働の生産社会から消費社会へ
・「すべての真面目な活動力は、それが生みだす成果にかかわりなく、労働と呼ばれ、必ずしも個人の生命や社会の生命過程のためではない活動力は、すべて遊びという言葉のもとに一括されている。」(189)→「生計を立てる」ためにする「労働」と、それ以外の活動という二分法の成立。
・「〈労働する動物〉の余暇時間は、消費以外には使用されず、時間があまればあまるほど、その食欲は貪欲となり、渇望的になる。」(195)
第四章 仕事
◆仕事の特徴
・人間の手による人工物である。
・適切に使用されれば消滅することはない。
・個々の工作物は腐食する運命にあるが、しかし工作物全体は、世代を超えて永続するよ
うな耐久性をもっている。
◆工作人の特徴
・地球全体の支配者、主人としてふるまう。
・その生産性は創造神のイメージで見られる。→自然に対する暴力、破壊を前提とする。暴力の経験は、自己確証と満足を与えることができ、生命を貫く自信の源泉にさえなりうる。(228)
・「〈工作人〉の人間中心的功利主義の最大の表現はカントの定式である。その定式によ
れば、いかなる人間も目的のための手段であってはならず、すべての人間が目的自体である。」(248)
・人間は、目的手段関係の外部に立つ唯一のものであり、一切のものを手段として用いることのできる唯一の目的自体である。万物の尺度としての人間。(252)
◆製作(ポイエーシス)
・製作を導くイメージないしモデルは、単に製作に先行するだけではない。それは製品が完成しても消滅しない。つまり、それは、完成の後にも存続し、製作の無限の継続に役立つ。(231)
・プラトンのイデア論は、その例証を製作の分野に求めた。唯一永遠のイデアが多くの消滅する物に君臨している。(232)
・製作の過程は、目的と手段の関係で完全に決定されている。明確ははじまりと明確に予見できる終わりがある。
・目的が手段を正当化する。目的(end)は、材料を得るために自然に加えられる暴力を正当化する。最終生産物のために、道具が設計され、用具が発明される。(244)
◆功利主義のアポリア(難問)
・すべての目的はある別の文脈では「手段」になるという連鎖が存在する。→「何のために?」製作するのか。分からなくなる。
→有用性(utility)と有意味性(meaningfulness)の区別をする必要がある。「ある目的のために(in order to)」と「それ自体意味ある理由のために(for the sake of)」の区別。(245)
・「功利主義の難問は、それが手段と目的の際限のない連鎖に捉えられてしまい、手段と目的との、つまり有用性そのもののカテゴリーを正当化しうるある原理に到達し得ないという点にある。『ある目的のために』ということが『それ自体意味のある理由のために』ということの内容となっているからである。」→このような世界においては、意味そのものは、目的としてのみ現れる。それがいったん実現されると目的であることをやめる。→無意味性の創出。(246-47)→究極目的を、効用それ自体の主観性に還元することで、無意味性の問題を回避する。これが功利主義の戦略である。
◆交換市場
・【アゴラ】職人たちが自分たちの生産物を陳列して交換する場所。商品が陳列されると同時に、その商品を生産する様子が陳列された。「人目に立つ生産」。(254)
→工作人は、交換市場において、自分の生産物を評価されるという公的領域をもっていた。
・生産物の質に応じて人間を判断するという社会。
・「しかし、労働が高く評価され、労働社会が勃興しはじめると、『人目に立つ生産』とその自負は、『人目に立つ消費』とそれに付随する虚栄に置き換えられ、商業社会は終末を迎えた。」(257)・労働過程で果たす機能に応じて評価する社会。
・使用価値と交換価値の区別(259)
・価値=交換価値は、物が商品として現れる公的領域の評価によってのみ決定される。「価値とは、物が私的領域においては決して所有することはできないが、それが公的に現れる瞬間には自動的に獲得するところの質である。」(259-60)
第五章 活動
◆「始まり」としての行為者の顕現
・「人間は、言語と活動を通じて、単に互いに『異なるもの』という次元を超えて抜きんでようとする。」→「創始」する。(287)
・「活動する」という言葉は、ギリシア語とラテン語において、二つの動詞がある。「創始する」「始める」「導く」「支配する」:archein, agereと、「通り抜ける」「達成する」「終わる」prattein, gerereである。第一が、始まりであるのに対して、第二は達成して終わらせる過程である。「活動」は、創始者が指導し、支配者となる、という意味に転化した。(288,305-06)
・【無限定性】「活動(action)は、それ自体新しい『始まり』である。しかし活動は、人間関係の網の目という環境の中で行われる。この環境の中では、一つ一つのリアクションが一連のリアクションとなり、一つ一つの過程が新しい過程の原因となる。このために、活動の結果には限界がない。」(307)→「このような際限のなさを免れようとすれば、自分が把握できるほどの、限定された環境を設定し、その枠組の中で活動するようにしなければならない。」(308)。
・【不可予言性】活動の結果は予知できない。(309)「活動が完全にその姿を現すのは、物語作者である歴史家が過去を眺めるときだけである。そして実際、いったい何が起こったのかよく知っているのは、つねに、参加者よりも歴史家のほうである。」(310)「人間のエッセンスが現れるのは、生命がただ物語を残して去るときだけである。」(312)
・【意外性】「すでに起こったことに対しては期待できないようななにか新しいことが起こるというのが、『始まり』の本性である。この人を驚かす意外性という性格は、どんな『始まり』にも、どんな始原にもそなわっている。」「人間は一人ひとりが唯一の存在であり、したがって、人間が一人ひとり誕生するごとに、なにか新しいユニークなことが世界に持ち込まれる」(289)
→始まりとしての活動は「誕生」に関係し、言論は「多数性」という人間の条件に対応する。「活動と言論がこれほど密接に関連しているのは、この特殊に人間的な根源的行為が、すべての新参者に問いかけられる『あなたはだれか?』という問いに対する答えを、同時に含んでいるに違いないからである。たしかにこのような正体の顕現は、その人の言葉と行為の両方の中に暗示されている。」(290)「人々は活動と言論とにおいて、自分がだれであるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界にその姿を現す。」(291)→人は他人とともにあるとき、行為と言葉によって自分自身を顕現するという危険に身をさらす。
・姿を現すために必要な「光り輝く明るさ」としての公的領域が必要である。(293)
・このようなことは善行の人にはできない。善行の人は自分自身を無にし、完全に匿名でなければならないからである。(292)
・「あなたはなに(what)であるか」という問いは、特質、天分、能力、欠陥、タイプ、性格などの問題は、隠したりすることのできるものであり、「だれ」ではなく「なに」に係わる。これは「あなたはだれであるか」という問いと区別される。
◆人格の物語的性格と物語を始める勇気
・言論と活動をはじめた人は、物語の主体ではあるが、物語の作者ではない。(299)
・「真実の物語と虚構の物語の違いは、まさに後者が『作り上げられる』のに対して、前者は決して作られるのではないという点にある。私たちが生きている限り関与している真実の物語は、…いかなる作者ももっていない。なぜなら、それは作られるものではないからである。…活動と言論を通じてそれを事後的に触知できるものにすることができる唯一の媒体、それが真の物語なのである。」(301-02)
・「物語が暴露する主人公(hero)は必ずしも英雄的(heroic)な特質をもつ必要はない。『ヒーロー』という言葉の起源はホメロスにあり、それは、もともと、トロイ戦争に参加し、物語の対象となった自由人一人一人に与えられた名称にすぎない。」(302)
・「自分を世界の中に挿入し、自分の物語を始めるという自発性」の勇気。これは「結果を自ら進んで引き受けるという自発性」ではない。「自分の私的な隠れ場所を去って、自分がだれであるかを示し、自分自身を暴露し、身を曝す」勇気である。(303)
・「物語における行為者の触知できないアイデンティティは、一般化できないものであり、物化できないものであるから、ただその活動を模倣して伝達することができるだけである。」(304)
・「ある人の『正体(who)』というのは、その人がなしうることや生産しうるものよりも偉大であり、重要であると信じることは、人間的自負にとって欠くべからざる要素である。」(338)
◆活動の舞台
・ポリス:共に活動し、共に語ることから生まれる人々の組織(320)
・「出現(appearance)」の空間。
・人間にとって世界のリアリティは、他人の存在が、万人に現れてることによって保証さ
れている。(321)⇔暴政:暴君の孤立に依存している。共に活動し、語るという人間に不可欠の多数性の条件と対立する。(326)
◆エネルゲイア(現存性):アーレントが評価する「生」の形態
・目的を追わず、作品を残すことなく、ただ演技そのもののうちにこそ完全な意味があるすべての活動力。(331)・俳優、医師、演奏家、政治家。
◆工作人・労働する動物との比較
・工作人は、公的な活動力を、世界をもっと有益で美しくするという観点から判断する。労働する動物はこれを、生命をもっと安楽でもっと長くするという観点から判断する。(333)
◆平等
・「公的領域につきものの平等というのは、必ず、等しくない者の平等のことであり、等しくないからこそ、これらの人々は、ある点で、また特定の目的のために、『平等化される』必要があるのである。」(342)
・「政治的平等」は、「死の前の平等」(共通の死という運命)および「神の前の平等」(人間本性の罪深さ)の対極にある。
◆活動の特徴(366-67)
①活動している人は自分のしていることをまったく知らない。主人公であって作者ではない。(主人公性)
②彼は自分の意図もせず予見さえしなかった帰結について必ず「有罪」となる。(予見不可能性と有罪性)
③彼の行為の結果は、それを元に戻すことができない。(不可逆性)
④彼が始める過程は、ただ一つの行為や出来事によっては完結しはしない。(未完の過程)
⑤彼の行為の意味は、活動者にとってはまったく明らかではなく、歴史家の過去を見る目にのみ明瞭になる。(他者による意味付与)
◆活動様式を支える価値理念
・活動の「脆さ」を克服するために、工作人・一者支配へと移行するケースが近代。
→これを避けるためには、「許し」と「約束」が必要である。「許し」は、活動の不可逆性の苦境から脱け出さずに、人を救済する。「約束」する能力は、不可予言性に対する救済である。これら二つの救済は、共に多数性に依存し、他人の存在と活動に依存している。一人では許すことも約束することもできないから。(371-72)
・「人間は自分自身に頼ることができない、あるいは自分自身を完全に信じることはできない、…というのは、人間が自由に対して支払う代償である。…人間は自分の行為の唯一の主人たりえず、行為の結果について予め知ることができず、未来に頼ることができないというのは、人間が多数性とリアリティに対して支払う代償であり、万人の存在によって各人にそのリアリティが保証されている世界の中で他人と共生する喜びに対して支払う代償である。」(381)

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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