アダム・スミス『道徳感情論』

アダム・スミス『道徳情操論』The Theory of Moral Sentiments [1759→17906th ed.=1969]米林富男訳、未来社、上・下

第二部 功績と罪過とについて、あるいは褒賞と処罰の対象について

第一部 行為の道徳的適正感について

第三部 自分自身の情操と行為に関するわれわれの判断の基礎について、

ならびに義務の感覚について

第四部 是認の情操に及ぼす効用性の影響について

第五部 是認ならびに否認の情操に及ぼす慣習と流行の影響について

第六部 有徳の性格について

第七部 道徳哲学の諸学説について

■ 1-1.同情について

・「人間というものは、これをどんなに利己的なものと考えてみても、なおその性質の中には、他人の運命に気を配って、他人の幸福をみることが気持ちいい、ということ以外になんら得るところがない場合でも、それらの人たちの幸福が自分自身にとってなくてはならないもののように感じさせる何らかの原理が存在することは明らかである。」(41)

・【同類感情(fellow feeling)の根源:想像】:「想像のはたらきによって、われわれは自分自身を他人の立場に置き換え、自らすべての同じ拷問に苦しんでいるかのごとくに考え、いわば他人の身体に移入して、ある程度までその人間と同じ人格になって、その上でその人間の感じに関する何らかの知識を得、程度こそ幾分弱いが、その人の感じた感覚とまったく異なっているとも思えないある種の感覚をすら感ずるようになる。」(42)

・「他の人間の脚または腕をねらって、まさにその上に一撃を加えようとする光景を見た場合、われわれは知らず知らずに身をすくめて自分の脚または自分の腕を後ろに引っ込める。そして、その一撃が打ち下ろされるや、われわれはある程度までその打撃を感じて、受難者と同様に苦痛を訴える。」(43)

・憐憫、同憂→他人の悲しみに対してわれわれが抱く同類感情(44)

・【怒りへの同情は起こりにくい】:「幸運または不運に関する一般的な知識は、かような幸運または不運に直面している人に対してある種の関心を生ぜしめるけれども、しかし怒りの挑発に関する一般的な知識は、かような挑発を受けた人の怒りに対してなんらの同情も起こさせない。思うに、自然はわれわれに対して、かような情感に陥ることを警戒するように教え、その原因が分かるようになるまでは、むしろこれに対して反対の立場に立つように教えているもののようである。」(46)

・「同情は情感を見たために起こるというよりも、むしろかような情感を刺激した状況を知ったために起こるといった方がいい。」(46)

・【死者に対する同情】:「われわれが自分の生きた魂を死者の生気なき亡骸の中に宿らせて、そうした場合にわれわれはどんな情緒を味わうであろうか、と想像することから起こる。われわれ自身の身体が解けてなくなるであろうという考えがわれわれにとって非常に恐ろしかったりするのは、……このような空想から起こる錯覚の結果である。そして、この点から、死の恐怖という、人生における最も重要な原理の一つが成立する。これは幸福にとっては非常に大きな害毒となるかもしれないが、人類の不正を防ぐこのうえなき抑制作用であり、それはあるいは個人を悩まし、苦しめるかもしれないが、社会を防衛し、保護する作用をもっている。」(50)

・【快楽や苦痛は、利己心に基づくのではない】:「快楽や苦痛はいずれも通常極めて瞬時にこれを感じ、しかもしばしば非常にくだらぬ動機から起こるので、したがってこの二つのいずれの感情も何らかような利己的な打算から起こりうるものではないことは明白であるように思われる。」(51)

・「同情は喜びを増し、悲しみを軽減する。同情が喜びを増すのは、それかがある新しい別の満足の源泉を供給するからであり、同情が悲しみを軽減するのは、われわれの心がその瞬間に感受しやすくなっているところのほとんど唯一の好感をわれわれの中に植え付けてくれる。」したがって、「不愉快な情感に同情してくれたときのほうが、愉快な情感に同情してくれたときよりも一層満足を得」る。(53)

・【道徳的に適正な判断としての同情】:「あることがらの主たる当事者の原本的な情感が見物人の同情的情緒 (sympathetic emotion) と完全に一致する場合、それらの原本的感情はこの見物人にとって必然的に正当であり、適正であり、それらの情感の起こった動機に適合しているものと考えられる。これに反して、その見物人に詳しい事情が分かった結果、それらの情感が彼の感ずるところと一致しないということが明らかになると、それらの情感はその見物人にとって必然的に不正であり、道徳的に不適切であり、かような情感を引き起こした原因に適合していないものと考えられる。」(57)

・「他人の意見を是認するということは、その人の意見を採用することであり、他人の意見を採用するということは、それらの意見を是認することである。」(58)

・【心の情操を二つの側面から考察する】

(1) 情操/性向を刺激する原因、または情操/性向を起こさせた動機について

(2) 情操/性向の目指す目的、またはこれらが生み出す結果について

→「性向が、かような性向を発動させた原因、もしくは目的に対してよく適合しているかどうか、または釣り合いがとれているかどうか、ということのうちに、その結果起こる行為の道徳的適正または不適正、行儀正しさまたは不作法が存する。」(61)

・【情操を必要としない道徳的判断】:われわれにとっても当人にとっても、その情操の原因が、特別な関係を持っていない場合。例えば、平原の美、建築物の装飾、論文の綴方、など。「われわれはいずれもそれらのものを同じ観点から眺め、そしてわれわれの間にこれらの現象に関してもっとも完全な情操ないし性向の調和をもたらすために、なんらお互いに同情する必要もなく、またかような同情を発生させるために、お互いの立場を想像上で交換する必要もない。」(64)

・【他者の情操に導かれるケース】:それらの情操がわれわれ自身の情操に一致するばかりでなく、われわれ自身の情操を指導したり指揮したりする場合。私たちはその情操をたんに是認するのではなく、「感嘆(admiration)」したり「称賛(applause)」したりする。(64)

→「繊細な鑑識眼」は、学問や芸術における「智的美徳(intellectual virtues)」を判断するための、偉大な指導者である。(65)

・【有用(utility)説に対する批判】:「われわれが他人の判断を是認するのは、その判断が何かに役立つからではなくて、それが正しく確かで、真理と現実に合致しているからである。……趣味は本来それが役立つから是認せられるのではなくて、それが正しく、繊細で、その目的にぴったり合致しているがゆえに是認せられるのである。」(65)

・【理論上の対立と同類感情の対立の区別】:「たとえ理論上の問題に関して諸君の判断が私の判断と対立したりしても、私は容易にこの対立を見逃すことができる。……しかしもし諸君が私の当面している不幸に対してなんら同類感情を持たなかったりすれば、……われわれはお互いにとってそれぞれ我慢しきれない存在になってしまう。私は諸君と友情関係を維持することはできない……。」(66-67)

・【同情の限界】:「想像による立場交換は、単に一瞬の出来事にすぎない。」(67)→「同情的情操を生み出すところの立場交換が、想像の上で行われるにすぎないという胸中に秘められた意識は、その情操の強度を低下させるばかりでなく、ある程度までその種類を変化させ、その情操はまったく異なった性質を与える。しかし、これら二つの性質が、社会の調和を維持するために必要な程度においてお互いに一致しうるということは明らかである。」(68)

・【反省的な同情】:見物人と被害者の立場交換による苦痛の軽減:「見物人は自分たちの同情のおかげで、ある程度まで被害者の目をもって受難者の立場を観察することができるのと同様に、被害者はまた自分の同情のおかげで、特に見物人が目前に現れていてそれらの見物人の注視のもとに行動するような場合には、ある程度まで見物人の眼をもって自分の立場を眺めることができる。」(69)→この「反射された情感(reflected passion)」は、原本的な情感に比してはるかに弱いが、公平無私な眼で見始める以前において、彼自身の感じたところの激烈さを必然的に和らげるものである。(69)

・【社交と会話の効用】:「単なる知人の出現は、友人の出現に比較して、われわれを落ちつかせる程度が大きい……」。それゆえ、「社交と会話は、人の心が何かの機会に不幸にしてその平静を失った場合に、かような人の心に平静を取り戻すもっとも強力な救済手段であり、同時にまたそれは、自己満足ならびに享楽のために必要欠くべからざるところの、同調子でしかも幸福な気質を維持する最良の予防法でもある。家にいて、深い悲しみまたは報復感にいつまでもくよくよ思い煩っている引っ込みがちな思索的な人は、しばしばはるかに人間愛に満ち、はるかに寛大で、はるかに繊細な徳義心を持っているかもしれないが、しかし、世故に長けた人々にきわめて共通にみられるところの気質の平等というものは、ほとんどこれを持っていない。」(70)

・【同情に基づく想像上の立場交換から、二つの美徳が成立】

(1) 愛すべき美徳、腹蔵のない謙譲の美徳、寛大な人間愛の美徳(71)

(2) 畏敬・尊敬すべき美徳、自己否定・自己統制の美徳、情感の支配という美徳

・【偉大なる自然の戒律:われわれが隣人を愛する以上に自分自身を愛してはならない】

・「かの内気な、黙った、荘重な悲しみを、われわれは尊重する。」(72)

・われわれは、「自然に、公平無私なる見物人 (impartial spectator) の胸中に起こさせやすい正々堂々たる憤怒をもって報復しようとする高貴な、寛大な報復感を嘆賞する。」「かくして、他人のために大いに感情を動かし、自分のためにはほとんど感情を動かさないということ、われわれの我慢を抑制して、われわれの仁愛に満ちた性向を自由に発動させるというということが、完全なる人生を成就させるに至る。」(73)

・【二つの「完成」=美徳】非難/称賛の基準として。

(1) どんな人間も到達できないような「完成」(75)

(2) 大部分の人間の行為が普通それに到達することのできる程度の完全性

■ 1-2.道徳的適正に矛盾しない諸種の情感の程度について

・【私的感情への感情移入の困難】:「情感の調子があまりにも高すぎたり、あるいは低すぎたりすると、見物人はその情感に移入することができない。たとえば、自分だけの私的な不幸や危害に対して感じられる深い悲しみや報復感は、すぐにその調子があまりに高すぎるようになりやすいもので、これは大部分の人間に通用する事実である。」(77)

・【身体に起因する感情への感情移入の困難】:「身体のある状態または傾向のために発生する情感を、あまりに強く表現することは失礼である。」(79)

・「われわれが他人のうちに身体から起こる欲望を見る場合、これらの欲望に対して特に嫌悪の情を感ずる真の原因は、われわれがかような欲望の中に入り込んでゆくことができないからである。」(80-1)

・「かような身体に起源をもつ欲望を支配することのうちに、本来の意味での節制(temperance) の美徳が存立する。これらの欲望を、健康や財産の点を考えて規定せられた一定の範囲内にとどめておくことは、慎慮 (prudence) の一部である。」(81)

・「われわれが肉体的な苦痛に対してほとんど同情を感じ得ないということは、われわれが肉体的苦痛を毅然として忍耐強くこらえることを道徳的に適正であるとみなす上における根本的な基礎である。」(85)

・【恋愛感情への特殊な同情】:「われわれの想像力は、恋する人の想像の方向と同じ方向に向かって働くわけにゆかないので、恋愛する人の情緒の熱烈さに移入するわけにゆかない。」(87)「われわれは恋する人の愛着に適切に移入するわけにはいかないけれども、その恋する人が恋愛からロマンチックな幸福を得ようとする期待の念には容易に移入する。」(89)

・【非社会的情感:憎悪と報復感】:あらかじめ常に引き下げておかねばない一群の情感が

存在する。憎悪と報復感である。「このような情感に対しては、われわれの同情は、このよ

うな情感を感ずる人と、このような情感の対象になる人との間に分割せられる。これら両

者の利害関係は直接相反している。」(94)

・「人々をお互いに引き離すところのこのようなヨリ粗笨(そほん)な、ヨリ憎むべき情感

が他人に伝達しにくいということは、……自然の意志であるように思われる。」(100)

・「憎悪や憤怒は善良な人の幸福にとって最大の害毒である。それは、……幸福には欠くこ

とのできない心の落ち着きと静けさを徹底的に破壊する。」(101)

・【公平無私な見物人の同情に、最も注意深く訴える必要のある情感】「報復感の満足を気

持ちのいいものにし、見物人をして徹底的にわれわれの行なう復讐に対して同情させるた

めにはいかに多くの事柄が必要であることか。」「人間の心が感ずることのできる情感の中

でも、その正しさに関してわれわれがこれほど疑問を持たなければならぬ情感、それに耽

溺(たんでき)する上においてこれほど注意してわれわれの本来の道徳的適正感に訴えて

みなければならぬ、ないしは冷静な公平無私の見物人がいかに感ずるであろうかというこ

とをこれほど骨折って顧慮しなければならぬ情感は、ほかには見当たらない。」(101-102)

・【社会的情感】:「寛大・人間愛・親切・同憂・相互友情・尊敬などは、すべてそれが顔つ

きまたは行動に表現された場合、たとえその相手がわれわれと特別の間柄にない人であっ

ても、……公平無私なる見物人に好感を与えるところの社会的な、仁愛に満ちた性向であ

る。……通常われわれは、仁愛の性向に対しては、もっとも強く同情したい気持ちに誘わ

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れる。」(104)

[メモ]「たとえその相手がわれわれと特別の間柄にない人であっても」という点が重要

他者の幸福追求に同情を拡張して重複させること。

・【社会的に優雅な情感と非社会的情感の中間にある情感】(例えば悲哀 grief、歓び joy)

・度が過ぎている場合に報復感のような不快感を感じることはないし、また、その対象に

もっとも合致している場合でも、正しい仁愛のように気持ちのいいものではないもの。例

えば「出世」は、最大の功績であるとはいえ、一般に不愉快なものであり、通常嫉妬の感

情のために、われわれは心から同情するわけにはいかない。(108-109)

(1)「喜び」:「日常生活における些細な出来事」に関して、ささやかな快楽を得ること。若

さに恵まれた人の眼に映る、快い情緒への同情(感情移入)。(110)

(2)「悲哀」:「小さな不平はなんらの同情をも起こさせないが、しかし深い苦悩は最大の同

情を呼び起こす。」(111)

■ 1-3. 悲しみではなく喜びを共有する社会

・【悲しみよりも喜びへの同情】:「悲しみに同情しようとするわれわれの心的傾向は非常に

強力であるにちがいないが、歓びに同情しようとするわれわれの志向は非常に薄弱である

にちがいない…。/しかしながら、こうした偏見が存在するにもかかわらず、なんら嫉妬

心の作用しない場合には、われわれが喜びに同情しようとする傾向は、悲しみに同情しよ

うとする傾向にくらべてはるかに強力である、と私は断言したい。そして、快い情緒に対

する同類感情の方が、苦しい情緒に対して抱く同類感情よりも、当事者が自然に感ずると

ころの生々しさにはるかに近接しやすいといわざるをえない。」(118)

・「われわれが人々の面前で笑うよりも泣くことを一層恥ずかしがらねばならない理由はそ

もそも何であろうか。…われわれは常に見物人が苦しい情緒よりも楽しい情緒の場合にい

っそうわれわれに共鳴しやすいことを感じている。」(120-121)

・「自然はわれわれにわれわれ自身の悲しみの重荷を背負わせているので、それだけで十分

であると考え、したがって他人の悲しみに関しては、どうしてもそれを救済せざるを得な

い気持ちにわれわれを駆り立てる以上には、われわれをしてあまり深く立ち入って関係し

ないようにさせているのかもしれない。/非常な悲しみの真っただ中にあって落ちつき払

っていることが、常に神々しいまでに優美に見えるのは、他人の煩悶に対する感受性がこ

のように鈍いことにもとづくのである。」(122)

・【他者の不幸に感情移入することの困難】:「何か自分自身に不幸なことが起こったために

悲しんだり落胆したりする人は、常にある程度までみすぼらしくかつ卑劣に見えるもので

ある。われわれはそのような人のために、その人自身が何を感じているかということをみ

ずから感じるように仕向けることは不可能であり、またおそらくもし自分がかれの立場に

おかれたなら、どんな感じがするであろうか、ということを考えてみる気になれないであ

ろう。それ故に、われわれはそのような人間を軽蔑する。」(125)

・【富貴の喜びへの同情(共感)】:「われわれが自分の富貴を誇示し、貧困を隠そうとする

のは、世間の人々がわれわれの悲しみに対してよりもわれわれの喜びに対していっそう完

全に同情しやすい傾向があるからである。」(130)

・【虚栄に基づく富獲得の必要性】:「競争心」はどこから発生するかといえば、それは「虚

栄」からであって、「安楽とか快楽とかではない。しかるに、虚栄は自分自身が他人の注目

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と称賛の的になっているとの信念にもとづくのが常である。富者が自分の巨富を自慢する

のは、かような巨富のために世間の人々が自然に彼に注意を払うこと、またその有利な境

遇のもとでかれがしかく容易にひたることのできるあらゆる気持ちのいい情緒によろこん

で参加できる性質が本来人類に具わっていることを、かれ自身が感ずるからである。」(131)

・【貧乏人は同類感情をひきつけない】:「これに反して、貧乏人は自分の貧困を恥ずかしが

る。貧困のためにかれが世間の人々の視野の外に置かれるか、あるいは、かりに世間の人々

がかれに注目するとしても、しかしおそらくかれらは、彼自身の苦しんでいる悲惨・不幸

に対してはほとんど同類感情をもたないことを、彼自身感づいている。」(131)

・【幸福=高貴な人々の境遇=特別の同情を獲得】:「身分の高い高貴な人は世間のすべての

人々から注目せられる。すなわちすべての人々は熱心にかれを注視し、その境遇上自然に

その人の心の中に湧き起こるあの喜びと大得意とを、すくなくとも同情によってうかがい

知ろうとする。その人の諸行為は公衆の注目の的となる。その人の発する一言一句、その

人の行なう一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)といえども、まったく無視される

ようなことはほとんどありえない。」(132)→こうした「高貴な人の境遇」は、「完全の状態

ならびに幸福の状態に関するほとんど理想的な観念を代表するように思われる。かような

境遇こそは、われわれの欲望がめざす究極の目的そのものであり、われわれが常に夢と現

実のうちに、また空想をたくましくして自ら描いて来たところのものである。それゆえに、

われわれはかような境遇にある人々の満足に対しては特別の同情を感ずる。」(133)

・【富者への共感によって社会秩序が確立】:「富者や権力者の抱くあらゆる情感と同じ情感

に常にひたりたいというこの人類の性情を基礎として、身分の差別や社会の秩序が確立せ

られるのである。われわれが自分たちよりもすぐれた人々に対して阿諛(あゆ)追従する

のは、かれらの好意に訴えて何らかの恩恵にひそかに預かろうと期待するためではなくて、

むしろかれらの有利な地位に対してわれわれが心から讃嘆を惜しまないからである。」

(134)

■ 1-3-3.富者や偉人を賛美し、貧困者を軽蔑する社会の道徳的頽廃について(第 6 版へ

の加筆部分)

・【富者崇拝の弊害】:「富者や権力者を讃嘆するばかりでなくこれをほとんど崇拝し、貧者

や下賤の者を軽蔑するのでなければ、すくなくともこれを無視するこの性向は、たとえ身

分の差異と社会の秩序を設定し、かつそれを維持する上に必要欠くべからざる要素である

とはいえ、それはまた同時にわれわれの道徳情操を頽廃せしめる大きな、そしてもっとも

普遍的な原因でもある。」(149)

・【「富・権力」と「知識・美徳」:二つの手本】:「われわれは世間の人々が賢人や聖人に対

してよりも、富者や偉人に対していっそう強い尊敬の眼を投ずるのをしばしば見受ける。

われわれはまた権力者の悪徳や愚昧よりも、無力者の貧困と薄弱の方がはるかに強く軽蔑

せられる事実にもしばしば遭遇する。人類の尊敬と讃美とに価し、かつそれを獲得し、享

楽することは、野心と競争心(emulation)との一大目標である。そして、この非常に望まし

い目標達成に向かっていずれも同様に開かれている二つの異なる道がわれわれの前に横た

わっている。そのひとつは、知識の探求と美徳の実践とによる方法であり、他は富と権力

の獲得による方法である。かくてわれわれの競争心には二つの異なる性格があらわれる。

すなわちそのひとつは、高慢なる野心と飽くことを知らない貪欲との性質であり、他は控

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え目な謙譲と公正なる正義の性質である。われわれの眼前にはこの二つの異なる標本、二

つの異なる絵手本がぶら下がっており、それにならってわれわれは自分自身の性格と行動

とを陶冶することができる。」(149-150)

・【富者と権力者の虚栄心の肯定】:「大多数の人々にとっては、富者や権力者の自尊心や虚

栄心の方が、貧者や賎者の真摯な堅実な功績よりもはるかに称賛に価する。…功績と美徳

のともなわない単なる富貴や権勢がわれわれの尊敬に価するというのは、決して気持ちの

いいことではない。しかしながら、事実上富者や権力者がほとんど常に尊敬をかちえてい

ることをわれわれは認めねばならない。」(151)

・【中流以下は堅実な生活をすべし】:「中位の、あるいは下層の生活状態にあっては、美徳

への道と、少なくともかような生活環境にある人たちが当然到達できると期待していいよ

うな幸運への道とは、幸いにも大概の場合にほとんど一致している。すべての中流あるい

は下流の職業にあっては、真摯な堅実な職業的才能は、用意周到な、正しい、しっかりし

た、節度ある行為と共に、成功するためにきわめて間違いのない要素である。」(151)「正

直は最善の処世術である、という古いしかし適切な格言は、[中層・下層の]境遇にある人々

にとっては、ほとんど常に完全に真理として妥当する。」(152)

・「すぐれた生活条件の下では、不幸にして、事情は常に必ずしも[これ]と同様であるとは

限らない。王族の宮廷において、貴人の接見室において、成功と昇進とは知識のすぐれた

教養豊かな同輩の人々の表かにもとづくのではなくて、無知な、自惚れの強い、高慢な支

配者の抱く気紛れなたわいのない好意に左右せられる。すなわちそのようなところでは、

またしはしば阿諛(あゆ)と虚偽とが功績や能力などにくらべて有力である。かような社

会では、人を喜ばす能力の方が、人に奉仕する能力よりもいっそう高く評価される。」(152)

■ 2-1.功績と罪過の感覚について

・「功績(merit)」:褒賞(reward)に価する人間の諸性質(163)

・「罪過(demerit)」:処罰(punishment)に価する人間の諸性質

・「最も迅速かつ直接的にわれわれを促して褒賞せしめる情操は感謝(gratitude)であり、最

も迅速かつ直接的にわれわれを促して処罰せしめる情操は報復感憤りであ

る。」(165)

・「褒賞するということは、受けた善に対して善をもって償(つぐな)い、酬(むく)い、

返すことである。」(165)

・【「感謝」は、それをもたらした側の「動機」がつまらないものであれば、「同情」に価し

ない】:「一方の人が他方の人の幸運をもたらした単なる原因であるからといって、後者が

前者に感謝するとしても、前者が後者に幸運をもたらした動機に対してわれわれが完全に

共鳴しない以上、われわれは後者の感謝の気持ちに対して徹底的にかつ心の底から同情す

るようなことはない。」(177)

・「行為の道徳的適正の感覚が、行為する人の情緒ならびに動機に対する私のいわゆる直接

的同情から起こるように、行為の功績に関するわれわれの感覚は、いわば行為される人の

感謝に対する私のいわゆる間接的同情から発生する。」(180)

・【刑罰の適正な基準は「理性」ではなく「本能」によって与えられる】:「人間には自然に

社会の安寧と存続とを希望する欲望が具わっているけれども、しかも自然の創造主は、あ

る特定の刑罰の適用がかかる目的を達成するための適切なる方法であることを、人間の理

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性に訴えてかれに分からせるようにはしておらず、むしろかかる目的を達成するに最も適

切なる刑罰の適用そのものを、直接かつ本能的に称賛するような素質を人間に与えておい

たのであった。」(185)

・【人類繁栄のための手段は、理性よりも本能に導かれる】:「自己保存(self preservation)

と種族増殖(propagation of the species)とは、自然がすべての動物を創造する場合に策定

しておいた二大目的である。人類はこれらの目的を追求するための欲望と、かかる目的に

反するものに対する反感とを装備されている。すなわち人類は生命を愛し、死を恐れ、ま

た種族の存続と永久性とを欲し、所属を完全に消滅せしめるような思想に対しては、反感

をもつような素質が与えられている。しかしながら…これらの目的を達成するための適切

な手段を発見するに際しては、われわれの理性の緩慢にしてしかも不正確な決断に頼るよ

うにはなっていない。自然はわれわれが原本的かつ直接的な本能によってこれら大多数の

目的に向かうように仕組んでいる。飢渇・両性を結ぶ情感、快楽を愛し苦痛を恐れる心は、

すべてそれらのために必要な手段を、それらの手段自体のために講ずるようにわれわれを

促し、自然の偉大なる支配者がそれらの手段によって生みだそうと企てているかの慈愛あ

ふれる目的を、はたしてそれらの手段が実現する可能性があるかどうかに関しては、われ

われに何ら考慮を払わせないようにできている。」(186)

■ 2-2.正義と仁恵について

・【処罰と動機】:「道徳的に不適正なる動機から発し、有害なる結果をもたらす行為だけが

処罰に値するように思われる。なぜなら、かような行為だけが、誰でも認める報復感の対

象であり、いいかえるならば、見物人の同情的報復感を刺激する。」(189)

・【仁恵(beneficence)】:権力を持って強制することはできず、その欠如は刑罰の対象には

ならない。

・【防衛としての報復感(憤り)】:「報復感は防衛のために、そしてただ防衛だけのために、

自然がこれをわれわれに与えてくれたように思われる。それは正義の安全弁であると共に

また罪なき人に対する安全保障でもある。それはわれわれを促して、われわれに加えられ

ようとした危害を払いのけさせ、またすでに加えられた危害に復讐させるようにする。」

(191)

・【正義(justice)】:権力によって無理に強制することができる美徳。それに違反すること

は報復感と刑罰の対象となる。(191)

→強制力の行使に対して、最大の道徳的適正と全人類の是正とが与えられる。(192)

・【「好意を尽くす」という道徳を伴う統治】:「文明国民の法律は、両親をしてその子供を

扶養するように、また子供たちをしてその両親を扶養するように義務づけており、そのほ

か人々に多くの他の仁恵の義務を課している。行政官吏は不正を禁止することによって公

安を維持する権力を委ねられているばかりでなく、良い規律を確立し、あらゆる種類の悪

徳と道徳的不正とを挫折せしめることによって国家の繁栄を促進すべき権力を与えられて

いる。それゆえに官吏は同胞市民たちの間で互いに危害を加え合うことを禁ずる規則を制

定するばかりでなく、ある程度まで互いに好意を尽くすように命令するところの規則をも

制定するはずである。……これをまったく無視するならば、それは国家を多くの著しい混

乱と驚くべき大罪悪に曝すことになり、またそれをあまりに過度に重視するならば、それ

はすべての自由・安全・正義を危殆に瀕せしめることになる。」(194)

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・【正義と仁恵】:「仁恵」は、非常に大きな美徳になるが、仁恵の欠如は処罰されない。こ

れに対して、正義を守ることはなんら褒賞に値しないが、正義に違反することは処罰され

る。(195)

・【仕返し(retaliation)】=各人がなせば、それと同じ行為をそれらの人になすこと。こ

れは自然がわれわれに命じている偉大な法則である。(195)

・【自分の幸福を追求する自然な行動原理 vs 公平無私なる観察者の共鳴による行動原理】:

「すべての人には他人の幸福よりも自分の幸福のほうを優先的に重んずるという自然の性

向があるが、他人を犠牲にしてまでかような性向を恣いままにしたりすることに対しては、

公平無私なる見物人は到底これに共鳴しえない」(197)

・【フェア・プレー】:「公平無私なる見物人が彼の行動原理に移入しうるように行動したい

と思うならば、……自分の利己心(self-love) の高慢の鼻をへし折って、他の人間がこれに

共鳴しうる程度まで引き下げなければならない。その限りにおいて見物人は、彼が自分自

身の幸福を他の人々の幸福よりもいっそう強く心にかけ、いっそう熱心に精出して追求す

ることを許すであろう。……富、名誉ならびに高い地位を目指して行われる競争において、

彼は自分のすべての競争相手を追い抜くためにできるだけ一生懸命に走り、あらゆる神経、

あらゆる筋肉を緊張させるであろう。だがしかしもしかれが相手の一人を踏みつけて走っ

たり、あるいは引き倒したりすれば、見物人は大目に見る態度を完全にやめてしまう。そ

れはフェア・プレーを犯すことであり、見物人はそれを許すことはできない。」(199)

・【紐帯で結ばれた社会】:「人間社会のすべての成員は、お互いに助力を必要とする立場に

あると同時に、同様にしてお互いに危害を加えられる危険に曝されている。必要欠くべか

らざる助力を相互に愛情・友情・尊敬などに基づいて与えあうようなところでは、その社

会は繁栄し幸福である。そのような社会におるすべての異なる成員は、愛情とか愛着とい

うような快い紐帯 (agreeable bands of love and affection) で結ばれており、その結果い

わば相互的好意の一つの共同中心に向かって引っ張られているのである。」(203)

・【仁恵の推奨】:「社会はあたかも異なる商人たちの間におけるように、異なる人々の間に

おいて、なんら相互的愛情とか愛着とかがなくとも、お互いのもつ効用(utility) の感覚か

ら存立することができる。」(203)「しかし、社会は不断に相互に傷つけあい、害しあおう

と待ちかまえているような人々の間では存立することは不可能である。」(204)「自然は、

仁恵を怠った場合に相当の処罰が加えられるという恐怖心を抱かせることによって、仁恵

の実行を監視したり、強請したりする必要があるとは考えなかった。それは社会という建

築物を飾りたてる装飾品ではあるが、それを支える土台石ではない。したがってそれは推

奨すれば足りるので、決して強いて課する必要はない」(204)

■ 全体を考慮せずに全体を統治する

・「われわれが生まれつきもっている行動原理(衝動)に促されて、洗練され、啓発された

理性がわれわれに推薦するところのあの諸目的を達成するような方向に導かれる場合、わ

れわれはその理性を、かかる目的を達成するために作用する諸情操や諸行為の作用原因と

みなそうとする傾向が非常に強く、また実際において神の英知であるところのものを人間

の英知であるかのように想像したがる傾向が非常に強い。」(206)

・「人間は社会に対して自然の愛着を持っており、人類の結合はその人間自身はそのような

結合のために何等の利益も得られないにもかかわらず、そうした結合自体のために存続せ

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られねばならぬと希望するもののようにいわれてきた。」(207)

・「しかしながら、一般に、あらゆる放縦な習慣が社会の安寧を破壊する傾向のあることを

見分けるのにそれほど大した鑑識眼を必要としないにもかかわらず、最初にわれわれを促

してかような悪習慣に反対させるものがかような社会的な考慮であることは滅多にない。

すべての人間は、最も頭の悪い、最も考察力の鈍い人間ですらも、詐欺や不誠実をひどく

嫌い、詐欺や不信や不正を働く人間が処罰されるのを見て嬉しがる。しかるに社会の存立

のために正義の必要なことがいかに明白にわれわれの目に映じようとも、かような必要を

殊更反省してみるような人間はほとんどいないはずである。

個人に対して犯された犯罪の刑罰に関し本来われわれに関心を持たせるものが、社会の

保存に対する顧慮ではないということは、一連のはっきりした反省を加えてみればこれを

明らかにすることができよう。個人の運命や幸福に対して抱くわれわれの関心は、普通の

場合にあっては、われわれが社会の運命や幸福に対して抱く関心から発生するものではな

い。」(209-210)

・「全体に対するわれわれの関心は、その全体を構成しているそれぞれ異なる個体に対して

われわれが感ずる特定の関心から合成され、できあがっている。」(210)

・「ある場合には、われわれは単に社会の一般的な利害関係の観点から、それ以外の方法で

はその安全が保証できないと考えて罰したり、あるいは刑罰を是認したりすることもまた

事実である。いわゆる市民警察制度とか、あるいは軍隊的規律とか称せられているものに

違反したために加えられる処罰は、すべてこの種類に属する。」(211)

・「社会の秩序は現世における不正の処罰以外の方法をもってしては維持できないにもかか

わらず、われわれは単に社会の秩序を維持するために不正が必ずしもこの世の生活におい

てのみ罰せられねばならないとは考えていないという事実、自然はわれわれにかかる不正

があの世の生活において罰せられることを期待するように教え、そして宗教はわれわれの

このような期待を正当と認めている事実は、十分注目するに値する。」(213)

■ 2-3.情操の不規則性(irregularity)→行為活性化の原理

・【行為に対する非難と称賛の判断】:(1) 行為を生じさせた意図・性向から判断。(2) 性向

が発現の機会を与えたところの身体の外部的行為・運動から判断。(3) 行為・運動が実際

にもたらす結果から判断。(217)

→しかし、(2)と(3)は、称賛・非難の基礎とはなり得ない。

・行為者の責任:「究極において心の意図または性向、したがってまた計画の道徳的適正ま

たは不適正、その慈善性または有害性に基づいて判定せられたものでなければならない。」

(218)

・しかし、行為のもたらす偶然的結果は、行為の功績と罪過に対するわれわれの情操を左

右する。われわれの情操を完全に制御できることはほとんどない。

→「情操の不規則性」の原因と影響範囲は何か。自然の創造主がこのような不規則性を設

けることによって意図しているように思われる効果は何か。(219)

・【苦痛は報復感を刺激し、快楽は感謝を刺激する】:「苦痛と快楽の諸原因は、それがいか

なるものであろうと、あるいはいかにそれが作用しようと、すべての動物にあっては、感

謝と報復感という二つの情感を直接刺激する対象物であるように思われる。」(220)

・「われわれは、自分が自分自身を評価するのと同じように自分を評価してくれ、われわれ

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が自分自身を他の人と区別するときに働かせる注意力と同じ注意力を働かせてわれわれを

他のすべての人から区別してくれる人を見いだすと嬉しく思う。その人の心の中にこのよ

うな気持ちのいい、そして人を褒めようとする情操をいつまでも維持させることが、われ

われがその人に返そうと欲する返報の主たる目的の一つである。」(223)

・「われわれの敵をして逆に苦痛を感じさせるばかりでなく、かれがかかる苦痛を感ずるの

は過去における自分の行為のせいであることを悟らせ、かれをしてその行為を後悔させ、

彼が危害を加えた人物は、そのような方法で取り扱うにはふさわしくないことを感じさせ

るにある。」(223)

・感謝と報復感は、まず、快楽と苦痛の原因でなければならず、そのような感覚を感じる

感受性を前提としたうえで、かかる感覚を造出するものでなければならない。そしてその

ような感覚の造出には一定の目標がなければならず、その目標は否認・是認されなければ

ならない。(224-225)→自分の意図した善または悪を造出できない場合、運が左右する。

(225)

・【運の影響】:「運の与えるかような影響の第一の結果は、人々の行為が(かような影響のた

めに)自分の予期した効果を収めることができなかった場合、最も称賛すべき意図、ある

いは最も非難すべき意図から生ずるそれらの行為の功績または罪過に関するわれわれの感

覚を減退させる、ということである。第二の結果は、それらの行為が偶然に異常の快楽ま

たは苦痛を起こさせる場合には、それらの行為を行わせる動機または性向に相当する程度

以上に、それらの行為の功績または罪過に関するわれわれの感覚を増大させる、というこ

とである。」(228)

・【怠慢 (negligence)】:たとえ損害を与えないとしても、何らかの懲罰に値すると思われ

る怠慢。石を、どこに落ちるか考えないで投げる場合。(237)

(1) 何等の不正も含んでいない怠慢(239)

(2) 別種の怠慢:われわれの行為によって生ずるあらゆる可能な結果に対して、最大限の

細心の注意を払うべき小心と慎慮とを単に欠いているようなもの。

・【行為とその結果に対する判断の必要性】:「世間は結果によって判断し、計画によって判

断しないという事実は、いつの代にも不平の種であり、美徳の力を大いに阻喪せしめる原

因である。」(243)

・「自然が人間の胸中にこのような不規則性の種を植え付けるにあたっては、それは他のす

べての場合におけると同様に、種族の幸福と完成とを意図していたように思われる。」(244)

→もしも「悪い欲望、悪い見解、悪い計画」といった邪悪性のみがわれわれの報復感を刺

激する唯一の原因だとすれば、「最も罪のない、最も慎重な行為にとってすら何ら安全も保

障されないであろう。」そこで、「われわれが直接恐怖を抱くような動作だけを、自然の創

造主は人間の刑罰と報復感にとっての唯一の適切にして是認された対象となしたのであっ

た。」

・【不規則性としての運ゆえに、人間は全力で活動する】:「人間は自分を不活発にするよう

な恩恵に満足してはならず、あるいは単に自分の心の中で世界の繁栄を希望するからとい

って、自分自身が人類の味方であると自惚れてはならない。人は目的実現のために、――

そうした目的を達成させるようにすることが人間存在の使命である――自分の魂の全精力

を傾倒し、全神経を緊張させるばかりでなくて、それとともに人間は現実にその目的を実

現しない以上は、かれ自身のみならず世間の人々もまた決して彼の行為に充分に満足する

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こともできなければ、あるいはその行為に十二分の称賛を与えることはできない、という

教えを自然は人間に与えている。」(245)

■ 3-1. 自分の情操と行為を道徳的にする方法

・【自分の行為の是認方法】:他人の行為に関する是認/否認は、その人の行為を支配した

情操や動機に対して同情できるかどうかによって判断する。これと同様に、自分の行為に

対する是認と否認は、他人の立場から自分の行為を眺めることによって判断する。(253)

・「私が私自身の行為を検討しようとするとき、私が私自身に対して判決を下そうとすると

き、……私はいわば自分を二つの人物に分割する。試験者として、裁判官としての私は、

その行為が吟味され、裁判される人物としての私とは異なった性格を示している。」(257)

・【美徳】:「美徳は、それがそれ自体の愛情の対象であるとか、あるいは感謝の対象である

とかいうことのために愛されるのではなくて、それが他の人々におけるそれらの情操を刺

激するがゆえに、愛すべきものと称せられるのである。」(258)

■ 世俗社会の肯定:「神に対する責任」vs「地上の同胞に対する責任」

・「責任をもつ存在」とは「自分の行為のために、ある他の存在に対して責任を持つ存在で

あり、したがって自分の行為をかかる他人の判断に遵じて規制しなければならない存在で

ある。人間は神に対して責任を負い、また人間はその仲間のものに対しても責任を負って

いる。人間はまず第一に神に対して責任を負っていることは明らかであるとしても、しか

し時間の順序からすれば、彼はまずもって必然的に彼らの仲間のものに対して責任を感じ

た上でなければ、神の観念またはかの神聖なる存在が彼の行為に関して裁判をする場合に

準拠とするところの基準の観念を作り上げることはできない。……」(260)

・「偉大なる宇宙の審判者は、その最も賢明なる理由に基づいて、人間の理性の薄弱なる眼

と神の永遠なる正義の王座との間にある種の蒙昧と暗黒との幕を張っておくことのほうが

正しいということを発見した。……全知全能の神が、神の意志に従うもののために準備し

ておいた永遠の褒賞ならびに神の意志に逆らって行動したもののために規定しておいた無

窮の刑罰を、われわれがお互い同士の間で期待し合うようなくだらぬ現世的な返報と同様

に正確に知覚することができるならば、弱い人間は、かれらの認識力よりもはるかに勝っ

ているかの巨大なる視力のために徹底的に圧倒されてしまうであろう故、彼は現世の下ら

ぬ出来事に対しては何等の注意を払うことができなくなり、そして人間がすでに自分たち

に与えられているよりももっと明瞭に神の意志の啓示を感ずるとすれば、社会の諸事業は、

これを継続していくことがまったく不可能となるであろう。」(260)「それゆえに、自然の

創造者は人間を人間に対する直接の裁判官となしたのであり、すなわち……こうした関係

においても自然の創造者は人間を自分の肖像に似せて造ってくれたのであり、また人間を

地上における神の代理人として任命したのであり、そのために人間は自分の同胞の挙動を

監視するのである。」(261)

・「しかし、……地上の法廷の威信というものは、それほど大きくはないかも知れないので、

――人間が何らかの場合に自己の下した決意のために自然が確立しておいたかの原理や原

則と対立し、しかもそうした決意によって自己の判断を左右しようとする場合、人々は彼

がかような不正なる判決に対して召喚を受け、より上級の法廷に控訴せられるように感ず

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るのである。」(261)

■ 3-2.自分の行為をさらに美徳あるものにする方法

・【称賛に価することを欲する存在】:「人間は自然に愛されたいと欲するばかりでなく、愛

すべきものになりたいと欲する。あるいは愛の自然にして適切なる対象であるところのも

のになりたいと欲する。……人間は称賛 (praise) を欲するばかりでなく、称賛に価する

こと (praise-worthiness) を欲する、あるいは、誰からも称賛されないとしても、しかし

称賛の自然にして適切なる対象であるところのものになることを欲する。」(265)

・「非難 (blame) 」についても同様。

・【競争心の道徳的基礎】:「競争心、すなわち自分自身がぬきんでたいと思う熱心な願望は、

本来われわれが他人の優越性を感嘆することにその基礎がおかれている。……満足を得る

ためには、われわれは自分自身の性格と行為に対する公平無私なる見物人にならなければ

ならない。われわれは自分の性格や行為を他の人々の目をもって、あるいは他の人々がそ

れらの行為や性格を眺めたがるようにして、観察するように努力しなければならない。…

…彼らの称賛は、われわれ自身が称賛に価することに関する自己の感覚を必然的に強化す

る。」(266)

・【虚栄】:根拠のない賛辞に喜ぶという、皮相な軽薄さ、ないし弱さ。(267)

・【称讃がなくても称賛に価する行為に自己満足できる】:「無智な、根拠のない称賛は、何

ら真実の喜びを与えることができず、またいかなる厳密な検討にも堪えられるような満足

を与えることができないのに反して、実際上われわれに何らの称讃も与えられないとして

も、しかしわれわれの行為を反省してみて、それが称讃に価するようなものであったよう

に考えられ、またあらゆる点において、称讃ならびに是認を自然にかつ普通に与える場合

に用いられるかの規準や規則に適合していたように考えられるならば、それはしばしば真

の慰めを与えてくれるのである。」(268)

・【自然と人間の秩序の徳性】:「自然は人間に、是認されたいという欲望ばかりでなく、当

然是認されねばならないものになりたいという欲望、いいかえるならば、かれ自身が他の

人間の場合にそれを是認するようなものになりたいという欲望を与えておいたのであった。

前者の欲望だけでは単に人間をして社会に適するような外観を装いたいと希望させうるに

すぎなかったであろう。後者の欲望は、人間をして真に社会に適応したいと切望させるた

めには、必要欠くべかざるものであった。前者はわずかに人間を促して美徳を気取らせ、

悪徳を隠させることができたにすぎない。しかるに、後者は、人間に美徳に対する真の愛

情を鼓吹し、悪徳に対する真の嫌悪を吹き込むためには必要欠くべからざるものであっ

た。」(270-271)

・【感受性の鋭い人 vs 賢明な人】:「苦痛はほとんどすべての場合において、それとは正反

対のしかもそれと同じ程度の快楽に比べてはるかに刺激性が強烈である。苦痛はほとんど

常に、普通の幸福、いいかえるならば自然の幸福の状態よりもはるかに低い水準へわれわ

れを沈潜せしめることは、快楽が常に普通のまたは自然の幸福の状態より以上にわれわれ

を昂揚せしめる比ではない。感受性の鋭い人は、正しい称賛をうけていい気になるよりも、

正しい非難を受けてしょげる傾向の方がはるかに著しい。[これに対して]賢明な人は、あ

らゆる場合に不相応な称賛を軽蔑して退ける…。」(278)

・【自分で自分を称讃する規準に自信が持てない場合】:「われわれは、自分自身が抱く情操

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の道徳的適正に関して、またわれわれ自身が下す判断の適確性に関して、多少なりとも自

分で確信が持てない場合には、そのあらゆる場合において、確信のもてない程度の大小に

正確に相応して、他の人々の情操と判断の双方がわれわれ自身の情操と判断に一致するか、

あるいは一致しないかということが、われわれにとってあるいは非常に重要であったり、

あるいはそれほど重要でなかったりする、ということを認めないわけにはゆかない。」(280)

・【数学者の場合】:「その発見の真理性のみならずその重要性の双方に関して最も完全なる

確実性をもつと思われる数学者は、しばしば彼らが公衆から受ける賛辞に関してきわめて

無関心である。」(282)

・【人々の差異】:「ある人は自分自身の心の中で自ら称賛に価する域に達したことに完全に

満足する場合、現実の称賛に関してまったく無関心であるように思われる。また他の人々

は(現実の)称賛に関して熱心なのに比べると、称賛に価することに関しては、ほとんど

関心を持たないもののように思われる。」(287)

・【仲間たちのあいだでの判断】:「全智全能の自然の創造主は人間に、自分の仲間が自分の

行為を是認する場合には、多少とも喜びを感じ、また彼らがそれを否認する場合には多少

とも心を傷めるというふうにして、仲間の情操と判断とを尊重するように教えた。自然の

創造主は、いわば人間を直接の裁判官に作り上げたのである。そして他の多くの点におけ

ると同様に、この点においてもまた創造主は人間を創造主自身の影像に似せて創造し、人

間をしてその同胞の行動を取り締まられるために、地上における創造主の代理人に任命し

たのであった。」(288)

・【二つの法廷】

(1) 第一審法廷=仲間同士による現実の称讃と判断。これに依拠するのは「外部的人間(the

man without)」。(288)

(2) 上級の「良心の法廷」=想像上の公平無私にして博識精通の見物人の法廷。これに依

拠するのは「内部的人間(the man within)」

・【死後の世界の意義】:「来るべきあの世の生活に対するつつましやかな希望と期待……は、

深く人間の本性に根ざしており、かような希望と期待だけが人性自体の尊厳という非常に

高尚な観念を維持することができ、また人性が不断に死期に近づいているという味気ない

予想に明るい希望の光を投じ、この世の生活に秩序のないために、時によると人性の直面

するかもしれないすべての最も重大な災厄(さいやく)のもとにあっても、なお人性の快

活さを維持させることができるのである。……来るべき世界があるという教説は、あらゆ

る点において弱者にとっては非常に尊い、非常な慰めとなる教説であり、また人性の尊厳

を非常に尊重する教説でもある。」(291)

■ 3-3.自分の行為を道徳的にするための感情

・【高貴なるものへの愛情】:「われわれに自分自身ならびに自分自身に関係するすべての事

柄が実際にくだらぬものであるということを教えるのは、この公平無私な見物人だけであ

り、この公平無私な見物人の眼だけが利己心の自然に陥りやすい誤った考え方を矯正する

ことができるのである。寛容の道徳的適正ならびに不正の醜悪性、すなわち、われわれ自

身の最大の利益を、もっと大きな他人の利益のために放棄することの道徳的適正、ならび

にわれわれ自身が最大の利益を得るために他人に対して最小限度の危害を与えることの醜

悪性を、われわれにはっきり示してくれるのもこの公平無私なる見物人である。多くの場

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合、このような神々しい美徳を実行するようにわれわれを促すものは、隣人に対する愛情

でもなければ、人類全体に対する愛情でもない。そのような場合に一般に生ずるものは、

もっと強い愛情であり、もっと強力な性向である。すなわちそれはあらゆる尊敬すべきも

の、高貴なるものに対する愛情であり、われわれ自身の性格のもつ雄大、威厳ないし優秀

性に対する愛情である。」(302)

・【自己統制と人間愛】:「最も完全な美徳をそなえた人、われわれが自然に最も愛し、かの

最も尊敬する人は、自分自身の生得的な諸感情ならびに利己的な諸感情を最も完全に統制

する上に加えて、他人の生得的な諸感情ならびに同情諸感情の双方に対しても最も繊細な

感受性を示す人である。」(328)

・「人間愛というやさしい美徳を最もすなおに要請することのできる境遇は、自己統制

(self-command)という厳格な美徳を形成するに最も適した境遇と決して同一ではない。自

ら困難に直面している人は、最も速やかに自分自身の諸感情に注意をはらい、これを統制

することに気づく人である。掻き乱されるおそれのない平静というのどかな日向において、

気持ちの散らない、学問するにふさわしい閑散という静かな片田舎において、人間愛とい

うやさしい美徳は最も栄え、最も著しい改善を受けることができるのである。しかしなが

ら、そのような境遇においては、どこ統制という最も偉大な、最も高貴な努力を鍛錬する

ことはほとんど不可能である。戦争とか党派争いとか、あるいは大衆の暴動とか混乱とか

いうような荒れ狂う嵐の空の下では、自己統制という逞しい厳格さは最もよくこれを発揮

でき、最もうまく養成できるかもしれない。しかしながら、そのような境遇の下では、人

間愛という最も力強い衝動はしばしば抑制せられ、もしくは無視されるにちがいない。」

(329)

■ 3-4.公平な観察者に代わる「一般規則」の重要性

・「われわれがわれわれ自身の行為を検討し、それを公平無私なる見物人が観察しようとす

るのと同じ見方でもって観察するのに、二つの全く異なる場合が存する。そのひとつはわ

れわれがこれからまさに動作を起こそうと思う場合であり、他はわれわれがすでに動作を

してしまった場合である。」(341)「動作が済んでしまって、その動作を促した情感が鎮ま

った場合には、われわれはいっそう冷静に公平なる見物人の情操に移入することができ

る。」(342)

・「自己の行為の道徳的適正に関する人類の見解は、…非常に不公平」である(343)。→「…

人類のもつこのような致命的な弱点は、人生における諸混乱のおそらく半数がそこから発

生する源泉である。もしもわれわれが事故を観察するのに他人がわれわれをみるような見

方を採用するとか、あるいは他人がわれわれに関してあらゆる知識をえた場合にわれわれ

をどう見るか、という見方を採用するならば、一般に改革は避けがたいであろう。」(344)

・「しかしながら、自然は――これは非常に大切なことであるが――人類のこの弱点をまっ

たく救済の余地のないものとしてはおかなかった。…われわれが絶えず他人を観察してい

るうちに、われわれはいかなることがこれをなすのに妥当であり、道徳的に適正であるか、

あるいはいかなることがこれを回避しなければならないかということに関して、知らず知

らずのうちに自らある種の一般原則(general rules)を作り上げるようになるものである。」

(344)

・「行為に関するこのような一般原則を思い浮かべることが習慣となり、このような原則が

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われわれの心の中に固定されてしまった場合には、これらの原則は、われわれの生活して

いる特定の境遇において何がこれを行なうに妥当であり、かつ道徳的にも正しいか、とい

うことに関して、利己心が与えてくれる誤った考えを矯正する上に、非常に役立つのであ

る。」(347)

■ 3-5.自分の道徳的能力の命令に従えば、人類は幸福になる

・「これらの道徳的能力が明らかに人間の本性に対する支配原理となるように形造られてい

る以上、これらの能力が規定した諸原理は、神の命令ないしは戒律とみなされるべき」で

ある。(358)

・「われわれは自分自身の道徳的能力の命ずるところに従って行動するならば、それは必然

的に人類の幸福を促進するための最も効果的な手段を追求していることになるのである。

したがってそれはまたある意味において、神に協力することにもなり、われわれの力の及

ぶかぎり神慮にもとづく計画を推進することになるかもしれない。」(359)

・「勤勉・慎慮ないし用心深さを鼓舞するに最も適した褒賞はいったい何であろうか。それ

はあらゆる種類の仕事における成功である。では全生涯を通じてこのような美徳は仕事を

成功に導きうる可能性があるであろうか。富と外面的な名誉とはかような美徳に対する適

正なる報償であり、それはまたこのような美徳が獲得し損なう可能性のほとんどない報償

である。では、誠実・正義ならびに人間愛の実行を促進させるに最も適した褒賞はいった

い何であろうか。それは、われわれが共に生活している人々が受ける信頼・尊敬・愛情で

ある。」(359-360)

■ 3-6.「一般原則」と「道徳的命令」に従え

・【利己的個人 vs 一般原則に従う個人】:「行為者だけの私的な利益をもたらす目的物の追

求は、あらゆる普通の大して重要でない日常の場合にあっては、目的物自体を求める何ら

かの情感にもとづくよりも、むしろそうした行為を規定する一般原則に対する考慮にもと

づいて行なわれなければならない。」「そのような節約をしたり、精勤(せいきん)を励ん

だりする個々の特定の努力は、それぞれの特定の貯蓄または利得に対する配慮にもとづい

て行なわれるよりも、むしろ彼のためにそうした行為の方針を最も厳重に規定している一

般原則に対する配慮にもとづいて行なわれなければならない。」(372)

・【「追求すべき重要な利己心に従え」という命法】:「もっと特別な、もっと重要な利己心

の対象物に関しては、事情はまったく異なる。このような利己心にとって非常に重要な対

象物を、それ自体のためにある程度の熱心さをもって追求しないような人物は、卑劣な人

間にみえるものである。…平民紳士が何ら卑劣な行為もしくは不正な行為を行わないまで

も、相当の財産もしくは相当の官職をすら手に入れられることのできる場合に、そうした

財産もしくは官職を手に入れようとして自ら努力しなければ、われわれはおそらくそのよ

うな紳士に対してほとんど尊敬を払わないであろう。…商人さえいわゆるすばらしい儲け

仕事にありつこうとして努力しなかったり、あるいは稀有の利益を得ようとして努力しな

ければ、その近所の者から卑怯者とみなされる。このような元気と熱心とが、企業欲の旺

盛な人間と元気のない平凡な人間とのあいだに差異を設けるのである。損するかあるいは

得するかによって全くその人の身分を変えてしまうような利己心の偉大な対象物は、適切

に野心と呼ばれる情感の対象物である。すなわちこの情感は慎慮と正義の範囲をさえ超え

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なければ、常に世間から感嘆され、時によるとそれは常識をもって判断できないある種の

破格の偉大さすら帯びてい」る。(373)

■ 4-1.手段的な効用性の欺瞞に導かれた社会発展

・「効用性(utility)が美の主たる源泉の一つであることは、なにが美の本質を形作っている

か、ということに対して何らかの注意を払って考察したことのあるあらゆる人がこれを認

めている。家屋が便利にできておれば、それは家屋が均斉のとれているのと同様にこれを

見る人に快感を与え」る。(385)

・【「便宜」よりも「便宜を促進する事物の配置」の促進】:「何らかの便宜または快楽が獲

られるように諸々の手段を厳密に調整することの方が、しばしば便宜もしくは快楽そのも

の…よりも重要視せられる」(386)。例えば、「この機械[懐中時計]に関して非常に鋭敏な人

が常に必ずしも他の人々にくらべていっそう几帳面に時間を守るとは限らず、あるいは何

か別の理由のために、一層熱心にいまが何時であるかを正確に知ろうと努めるとは限らな

い。彼が興味を抱くのは、この種の知識を得ることよりも、むしろこのような知識を与え

ることのできる機械の完全性である。」(387)

・【富貴権勢と事物の配置】:非社会的な人は、富や権勢よりも、身体の安楽もしくは精神

の落ち着きを確保するための「玩具箱・小道具箱」を愛好するだろう。これに対して、社

会のなかで生活する人にとっては、そうした比較は問題にならない。かれらは、「見物人の

情操に対していっそう注意を払い」、「かれの境遇が他の人々の眼にどう映るであろうか、

ということを問題にする。」(390)「…何故に見物人が特に富貴権勢の人の境遇を感嘆の念

をもって眺めるかということを検討するならば、それはかれらが享受すると想像されるす

ぐれた安楽とか快楽とかのためではなくて、むしろこのような安楽とか快楽とかを促進す

る無数の人為的な精緻な諸工夫のためであることにわれわれは気がつくであろう。見物人

はかれらが他の人々よりも実際幸福であると想像さえもしない。しかしながら、見物人は

かれらがはるかに多くの幸福になる手段をもっていると想像する。そして見物人の感嘆の

念が湧き起こる主たる源泉は、かような手段がそれらの手段によって達せられるべき目的

に対して巧妙かつ精緻に調整せられている点にある。」(391)

・【哲学的観点からの軽蔑 vs 富貴・権勢の快楽】:「もしわれわれがすべてこれらの事物が

真の満足を促進するのに適するように配置せられたその配置の美しさから引き離されて単

にそれだけでもってわれわれに与えることのできる真の満足を考えるならば、それらのも

のは常に最高度に軽蔑すべきもの、とるに足らぬものにみえるであろう。しかしながら、

われわれがそれらの事物をかような抽象的な、哲学的な観点から眺めることは滅多にない。

われわれは自然にわれわれの想像の中において、それらの事物を秩序とか、組織体の規則

正しい調和のとれた運動とか、それらの事物を産み出した機械または経済制度とかと混合

する。富貴・権勢のもたらす快楽は、このような複合的観点から考察せられる場合には、

何かしら雄大なもの、美しいもの、高貴なものとして、想像に浮かんで来、かような快楽

を得るためにわれわれは自ら進んであらゆる苦労と心配を払いたがる傾向が非常に強いの

である。/自然がこのような具合にしてわれわれを瞞着しているのは結構なことである。

このような欺瞞こそ人類の勤勉を発動させ、それを不断に働かせるところのものである。

このような欺瞞こそまず最初に人類をして土地を耕作させ、家を建てさせ、都市や国家を

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建設させ、人間生活を高尚にし、美化するあらゆる学問や芸術を発明させ、改良させると

ころのものである。」(392-393)

・【同情よりも整然とした制度への愛】:「…整然たる組織を愛すること、またこれと同様に

して秩序の美、技巧の美、考案の美に心を奪われることがしばしば公共の安寧を促進する

諸制度の制定を勧告する上に役立つ。一人の愛国者が公衆の行政における何らかの部分を

改良するために挺身する場合、その愛国者の行為は常に必ずしもそうした改良の恩恵を享

受すべき人達の幸福に対する純粋なる同情からのみ起こるものとは限らない。公共心に富

んだ人が街道の改修を勧奨するのは、通常は運送屋や荷馬車引きに対する同類感情のため

ではない。」(395)「ある種の組織体を愛する精神から、ある種の技巧ならびに考察を愛す

る精神から、われわれはしばしは目的よりも手段のほうを高く評価するように思われ、わ

れわれの同胞が何を苦しみ、何を楽しむかということに関する何らかの直接的な感覚また

は感情にもとづくというよりも、むしろある種の美しい整然たる組織体を完成し、改良し

ようという見地からわれわれはかれらの幸福を増進させることに熱中するようにおもわれ

る。」(395-396)

■ 4-2.同情と効用(有効)の区別

・効用性にもとづく有効/有害の観念は、同情(共感)にもとづくわれわれの是認/否認

の最初の源泉とはならない。同情による美徳の是認は、有効性から生じる美によって強化

されるものではない。美徳の是認は、「上手に設計された建築物を是認する情操と同じ種類

の情操」ではない。(402)有用性は、「われわれが是認を与える場合の最初の根拠たりえな

い」。「是認の情操はつねにそのうちに効用性の知覚とはまったく性質を異にした道徳的適

正の感覚を含んでいる。」(403)

・最も有用な性質:「理性(reason)」「悟性(understanding)」「自己統制(self-command)」

(403)

・「人間愛、正義、寛容、奉公の精神は他人に対して最も有用な諸性質である。」(405)

・「…われわれは…行動の効用性にもとづいて感心するというよりも、むしろそれらの行動

のもつ思いがけない、したがってそのためにまた偉大な、高貴な、そして崇高な道徳的適

正にもとづいて感心するのである。ひとたびわれわれが効用性を考慮するようになると、

この効用性がそれらの行動にある新しい美を賦与することはたしかであり、そのためにな

おいっそうそれらの行動をしてわれわれがこれを承認するにふさわしいものとするのであ

る。しかしながら、この新しい美は、主として省察する人々ないし思索する人々によって

はじめて知覚されるのであって、それは決して最初からそのような行動を、大多数の人類

のもつ自然の情操に対して推薦することのできる性質ではないのである。」(409)

■ 5-1.美の本質は慣習に依存するか

・「美の本質に関するこの学識豊かな俊敏たる神父の学説」にしたがえば、「あらゆる美の

魅力は、それぞれの特定の種類に属する事物に関して慣習が想像力に印象づけた諸習慣に、

このようにしてその美がぴたりと一致することから発生するように思われる、という。し

かしながら、私は外部的な美に関するわれわれの感覚でさえ、完全に慣習にもとづくもの

であると信ずる気にはなれないのである。すべての形態の効用性すなわちその形態が、そ

れの意図せられた有用な目的に対して適当であるということが、慣習とは関係なしに、あ

橋本努講義レジュメ

19

きらかにその形態をわれわれに推薦し、われわれにとってそれを気持ちのいいものにする

のである。」(424)→ただしスミスは、慣習を離れても快感を与えるくらい美しい外部形態

が、めったに存在しないことも認めている。(425)

■ 5-2.風習にもとづく判断の危険

・「われわれは慣習によって、異なる職業ならびに異なる生活状態の下では、それぞれ異な

る風習を是認するように教えられているのであるが、しかしこれらの異なる風習は最大の

重要性をもつ事柄とは無関係である。…慣習によってわれわれがそれぞれの職業に貴族さ

せるように教えられている性格のうちにも、慣習とは無関係に道徳的適正が存在するもの

である、ということをわれわれに示す、ある種の気がつかない事情が存在する。それ故に、

この場合われわれは自然の情操が非常にはなはだしく歪曲されているからといって、不平

を言うことはできない。…未開人に必要な大胆さはかれの人間愛を軽減させ、そして文明

民族に必要な繊細な感受性は、おそらくある場合には、男性的な性格の堅固さを壊すかも

しれない。」(443)しかし、「これらの原理が判断を最も著しく歪曲させるのは、性格ならび

に行動の一般的な型に関してではなくて、ある特定の習俗が道徳的に適正であるか、ある

いは不適正であるかに関してである。」(442-443)「人々の道徳情操が、これらの諸民族の

示すように、非常に著しく歪曲されているからといって、不平を言うわけにはゆかないの

である。」(444)

■ 6.有徳の性格について

・ここで扱う事柄は、個人の性格が、(1)その個人自身の幸福にいかに作用するか、(2)他の

人々の幸福にいかに作用するか、という問題。(451)

■ 6-1.当人自身の幸福だけに作用を及ぼす個人の性格と慎慮

・【身体の保全と健康状態】:自然が個人に注意を払うように勧奨する目的である。(453)

→「教訓の主要な目的は、いかにすれば危険な道へ足を踏み入れないですむかをその個人

に教えること」である。

・【慎慮(prudence)】がおこなうもの:個人の健康・財産・身分ないし名声に対する配慮=

現世におけるその人の安楽と幸福を規定する諸事実にたいする配慮。(454)

・「安全」は、慎慮の第一の主要目的である。(455)

・「慎慮の美徳」が推賞する「財産増殖法」は、「何らの損失とか危険を伴わない方法」で

あり、すなわち職業上の真の知識と手腕、勤勉努力、節倹である。(455)

・【慎慮ある人】:誠実。話をする場合には遠慮がち。非情に敏感に友情を感ずることがで

きる。友達を選ぶ場合には、謙譲・思慮分別・善行にたいして抱く厳粛なる尊敬の念を指

針とする。社会におけるあらゆる既存の礼儀作法を尊重する。(456-457)

⇔ソクラテス、アリスチップス、スウィフト博士、ヴォルテールなどのすばらしい才能と

美徳を備えた人(457)

→「慎慮な人はその間断なき努力と勤勉の点で、またはるか将来の、しかしはるかに長い

期間持続するよりいっそう大なる安楽と享楽とがおそらく得られるであろうという期待の

下に、現在の瞬間における安逸と享楽とをがまんして犠牲にする点で、つねに公平無私な

る見物人である胸中の人間の全面的な称賛を受けることによって支持されるとともに褒賞

20

せられる」。(457-458)

→自分の収入の範囲内で生活している。冒険的ではない。(458)

→自分に関する事柄にかぎって従事する。政争の争いに介入したがらない。陰謀を憎み、

高尚な野心には耳を傾けない。「彼は心の底では、野心の成功に伴うあらゆるはかない華や

かさばかりでなく、最も偉大な、最も高潔な行動を行うことに伴う真実にして充実せる栄

光よりも、むしろ安全なる心の落ちつきを誰からも乱されないで、心ゆくまで享楽するこ

との方を選びたいと考えている。」(459-460)

→「要するに慎慮は、……最も愛すべき美徳の一つであると考えられず、……しかしそれ

は何ら非常に熱烈な愛情あるいは感嘆を受けるだけの資格はないように思われる。」(460)

・【上級の慎慮】:偉大な将軍、偉大な政治家、偉大な立法者などの慎慮

・【軽挙 (imprudence)】:自分自身の世話をする能力の単なる欠如。→軽蔑の対象(461)

■ 6-2-1.愛着心の社会的拡張

・ストア派が言うように、「すべての人間は他人の世話を焼くよりも自分自身の世話を焼く

ことの方があらゆる点において適しており、また一層上手である。」(467)

・【同情の親密圏】:同情と愛着心 (affection) は、「両親に対するよりも、子供に対して一

層強く感ぜられ、一般に子供に対する彼の愛撫は、両親に対する彼の尊敬ならびに感謝よ

りも一層積極的な行動原理であるように思われる。」(468)

・【習慣的同情】:愛着心の対象である人間の幸福・不幸に関心を持ち、幸福を増進し不幸

を防止したいと願うのは、この習慣的同情そのもの、ないしその感情から起こる必然的結

果である。「通常血縁者は、こうした習慣的同情を自然に発生させるような境遇に置かれて

いる」(469)。

・慣習的同情を欠く場合、相手の気性・性向に容易に自ら適応することはできない。(471)

例えば、幼少の頃から別居していると疎遠の間柄に陥る。そのような人々にとっては、一

般原則に対する尊重は、せいぜい表面だけのお世辞にすぎない。→遠くの有名な学校で教

育することは家庭の幸福を破壊する。(472) 家庭教育 (domestic education) は自然の制度

であり、学校教育は人間の発明である。(473)

・【愛着心の減退と文明化】:「法律が常にその国家における最も賎しい人間をも完全に保護

するに十分な権威をもっている商業国にあっては、同じ家族から別れて出た諸分家は、右

のようにして一箇所に固まるための動機を何らもっていないので、利害関係もしくは性向

の命ずるままに、自然を分離し、四散する。」(474)→遠い血縁関係者に対する配慮は、文

明状態が続くほど減退する。(スコットランドよりもイングランドのほうが、文明的であ

る。)

・大君主たちの親類関係の間柄:この記憶は、家族的自尊心を昂揚する。しかしこれは虚

栄のために保持される記憶である。(475)

・【愛着心の社会的拡張】:「いわゆる自然的愛着心は、親子の間における推定的な生理的結

合の所産であるよりは、むしろ道徳的結合の所産である。」(475)「気立てのいい人々の間

にあっては、お互いに仲良くすることの必要と便宜が同じ家で生まれ育った人々の間に起

こるような友人関係を成立させる場合が非常に多い。役所における同僚、商売における協

力者はお互いに兄弟と呼び合っている。そしてしばしばお互い同士があたかも実際に兄弟

であるかのように感じている。かれらのすばらしい協力一致ぶりは、すべての人々にとっ

21

て有利である。したがってもしもかれらが相当理性のすぐれた人々であれば、かれらは自

然に協力一致する傾向がある。」(476)

・自分の情操・原理・感情を、一緒に生活していく人たちの情操・原理・感情にできるだ

け調和させ同化させようとする自然の性向:賢明な人・有徳の人と交わる場合、放蕩者や

道楽者と交わる場合、それぞれ感染の原因となる。(476-7)

・「個人に対するあらゆる種類の愛慕のうちでも、まったくその個人の善い行為ならびに善

い行動に対する尊敬と是認だけを根拠として、しかも豊富な経験と長い交際とによって裏

付けられた愛慕こそは、何にたとえようもない最も尊敬すべきものである。」(477)→美徳

と幸福と安全のむすびつき。(478)

■ 格差社会の擁護

・「身分の差別、社会の平和と秩序は、われわれが前者[富者ないし権力者]に対してはらう

尊敬の念に基づくことが大である。人間の不幸の救済と慰籍はまったく後者[貧民ないし賎

民]に対するわれわれの同憂(compassion)の念に基づいている。社会の平和と秩序とは、悲

惨な人々の救済よりもはるかに重要である。したがって、偉人に対するわれわれの尊敬は、

その過度のために人々を怒らせる傾向が最も強く、貧困者に対するわれわれの同類感情は、

その欠如のために人々を怒らせる傾向が最も強い。道徳家たちは慈善と同憂とをわれわれ

に鼓吹する。それに反して、かれらはわれわれがあまりに偉人の偉大さに幻惑されないよ

うに警告する。事実、このような幻惑は非常に強力なので、富者と権力者の方が賢者や有

徳の士よりも一層尊重される場合の方が非常に多い。自然は賢明にも、身分の差別、社会

の平和と秩序が目に見えない、そしてしばしば不確実な知性と徳性の差別に基礎をおくよ

りも、平明な触知することのできる門地[家柄や門閥のこと]と財産の差別にその基礎をお

くことの方が一層安全であると判断したのであった。」(479-80)

[メモ]ここでは、有徳な人々の不確実な知性と徳性に依拠した結果として社会秩序が不安

定になることを避けるために、有徳な人があまり目立たないように社会が編成される、と

いうことが述べられている。

■ 6-2-2.愛国主義とその克服

・【国家】:「国家ないし独立主権国(sovereignty) は、通常、われわれの善行・悪行がその

幸福または不幸に対して甚だしい作用を及ぼすことのできる最大の社会である。」→「この

社会の安全のため、あるいはこの社会の虚栄的な栄誉のためにさえ自分の生命を捧げる愛

国者は、最も厳密な道徳的適正をもって行動するもののように見える。そのような愛国者

は公平無私なる見物人が自然にしかも必然的に彼を眺めるような見方でもて自分自身を眺

めているように思われる。」(485)

・【下品な愛国主義】:「われわれは自分の国民に対する愛情のために、しばしば最も悪意に

満ちた嫉妬と羨望とを抱いて、すべての他の隣接国民の繁栄と生長とを眺めようとする傾

向がある。」(486)

・【高尚な態度】:「…諸改良の点において各国民は自ら他に抽んでようと努力しなければな

らぬばかりでなく、人類愛にもとづいて、これらの点における近隣の国民の優越を妨害し

ないで、かえってこれを助長するように努力しなければならない。このような諸改良はす

べて国民間の競争の適正なる対象」である。(487)

22

・【祖国愛と人類愛の矛盾】:「われわれは、自分の国を単に大人類社会の一部として愛しな

い。すなわちわれわれは祖国を祖国自体のために愛する…。自然界におけるあらゆる他の

部分の体系と同様に、人間における性向の体系を工夫考案した叡知は、大人類社会の利益

は、各個人の諸才能ならびに個人の理解力の届く範囲内において最大限をしめるところの

大人類社会の特定の部分に向けさせることによって、最もよくこれを促進することができ

る、と判断したもののように思われる。」(488)

・【二つの祖国愛】:(1) 現在制定されている政治の原則または形態に対する尊重・畏敬。

(2) 同胞市民たちの生活状態をできるだけ安全に、立派に、幸福にしてやろうという熱烈

なる願望。(490)

→大衆が不平を抱き、党派争いをしている場合には、これら二つは乖離する。(491)「対外

戦争と内乱は、奉公の精神を発揮するために最もすばらしい機会を与えてくれる二つの境

遇である。」

■ 「体系の人(man of system)」vs「人間愛と仁愛」

・「内乱の騒擾(そうじょう)、混乱の真っただ中にあって、ある種の体系の精神 (spirit of

system) は人類愛にもとづく…公共心と融合する傾向が強い。この主義の精神は普通には

より温和な公共心の指導権を握り、常にそれを鼓舞し、しばしばそれに点火して狂気じみ

た狂信の炎をさえ燃え上がらせる。」(492)→「しばしば、憲法を新たなる型に当てはめ作

りなおし、その下に大帝国の人民が過去数世紀にわたっておそらく平和と安全とそして栄

誉すら享楽してきた政治体制を、その最も本質的なある種の部分において変革することを

提案する。」「これらの指導者たち自身は、…最も愚かな者と同様に、この偉大なる改革に

夢中になってしまう。」

・【体系の人】は、「非常な賢人ぶりを発揮したがるもので、しばしば自分の理想的な統治

計画を夢に描いてそれに陶然とするあまり、その計画のいかなる部分といえどもすこしで

もそれから逸脱することに我慢ができないことがある。」(494)

⇔【人間愛と仁愛とにもとづいて公共心を発揮させる人間】:「かれが民衆の胸深く根ざし

ている偏見を、理性と説得とによって征服しえない場合には、それを実力に訴えてまで屈

服させようとは試みない」。「かれは彼の社会政策をできるだけ固定した人民の習慣と偏見

とに調和させるであろう。」(493)

・「政策ならびに法律の完成に関する一般的な、しかも整然たる体系をさえもつある種の観

念は、政治家の見解に方向を与える上に必要かくべからざるものであることは疑問の余地

がない。しかし、そのような観念が要求すると思われるあらゆる事柄を一時に、しかもあ

らゆる反対を押し切って遂行しようと主張するのは、しばしばこの上もない傲慢な越権の

沙汰といわねばならない。それはその人自身の判断を正邪に関する最高の標準として設定

することになる。それは彼自身が国内における唯一の賢明な人間であり、価値ある人間で

あると想像することができ、かれの同胞市民は当然かれに調子を合わせるべきで、かれが

かれらに調子を合わせるべきでない、と考えることである。あらゆる政治思索家のうちで

も、主権を持った君主たちがとびきり最も危険であるというのは、このような理由に基づ

くのである。」(494-495)

■ 6-2-3.普遍的仁愛 (universal benevolence)

23

・「われわれの効果的な世話 (good-offices) は、われわれの国土を基盤とする社会よりも広

いいかなる社会へも滅多に広がることはできないかもしれないが、われわれの好意 (good

will) は、これを取り囲むなんらの垣根もなくて、広大無辺の宇宙を抱擁することができ

るであろう。」(497)

・「その仁愛と知性は、未来永劫にわたって、常にできるだけ多量の幸福を生み出すように、

宇宙という巨大なる機械を考案し、運転しているという、このような神聖なる存在の観念

は、たしかに人間の迷走のあらゆる対象のうちでも何にたとえようもなく最も崇高な対象

である。」(500)

・「しかしながら、宇宙なる偉大なる組織体の統治、あらゆる理性的な、ものわかりのいい

存在の普遍的幸福に対する配慮は、神の任務であって人間の任務ではない。人間に割り当

てられているのははるかにくだらない部門であるが、しかし人間の実力の弱さやその理解

力の狭さにとっては、はるかにふさわしい部門であり、すなわちそれは自分自身の幸福に

対する配慮、自分の家族、自分の友人、自分の祖国の幸福に対する配慮という仕事である。」

(500)

■ 6-3. 虚栄の自己嘆美を動員する社会

・【われわれ自身の功績を評価するための二種類の標準】:(1)「われわれの理解しうる範囲

における最も厳密なる道徳的適正と完全性との観念」。(2)「普通世間において到達するこ

とのできる、そしてわれわれの大部分の友人や同僚や競争者や敵が現実に到達したことの

ある、右の観念にほぼ近い程度」。(518)

→「賢明にして有徳の士は、自分の主たる注意を第一の標準…に向けようとする。…それ

は行為の偉大なる裁判官であり、調停者である胸中(きょうちゅう)に住む偉大なる神人

の緩慢な、漸進的な、しかも進歩的な作業である。」(519)

→これに対して「自分のほとんどの注意を第二の標準、すなわち普通他の人々が到達する

ことのできる尋常の程度の卓越性に向ける人々の中でも、一部の人々は、自分がそのよう

な標準をはるかに越えていることを現実に、しかも正当に感じていて、またあらゆる聡明

にして公平無私なる見物人もそうであることを認めている。しかしながら、そのような人々

の注意は常に主として理想の標準には向けられないで、尋常の完成度の標準に向けられる

ので、かれらは自分の弱さや不完全性をほとんど感じない。すなわちかれらはほとんど節

度を守らず、しばしば不遜の態度をとり、尊大で、自惚れが強く、また自分自身の絶大な

る嘆美者であると同時に、他人の絶大なる軽蔑者でもある。かような人々の性格は一般に

はるかに不適正で…あるけれども、かれらは自分自身の過度の自己称讃もとづいて、過度

の自負心を有しているために、かような自負心は一般大衆を眩惑し、しばしば一般大衆よ

りもはるかに優れた人々をさえも瞞着することがある。」(523)

・【過度の自己嘆美の必要性】:「この世における偉大なる成功、人類の情操や意見を支配す

る偉大なる権威は、ある程度までこうした過度の自己嘆美をもたないでは、滅多にこれを

獲得することはできなかったのである。最もすばらしい性格、最も輝かしい行為をした人、

…これらの人々の多くは、かれらの功績そのもののために有名になったというよりも、む

しろそのような偉大な功績そのものにとってさえまったくつり合いのとれないくらいの程

度の自負心と自己嘆美とのために有名になったのである。このような自負心はおそらくか

れを駆り立てて、より真面目な心の持ち主ならば決して考えなかったにちがいない諸事業

24

に従事させる上に必要であったばかりでなく、そのような事業においてかれらの従属者が

かれらを支持するように自由にその服従ないし従順を支配するためにもまた必要であった

のである。」(524-525)

・【公平無私の見物人も騙される】:「公平無私なる見物人がややもすると右のような人々の

過度の自己評価ならびに自負心に対して抱こうとする讃美に関しては、事情はまったく異

なっている。事実、かれらが成功している間は、そのような見物人はしばしば完全にかれ

らに征服され、圧服せられる。成功が彼の眼を遮って、かれらの計画における大きな軽挙

ばかりでなく、しばしば大きな不正さえも見えないようにしてしまう。」(527)

・【過度の自己評価は元気がある】:「われわれは世間の人々における尋常の水準以上の偉大

な、卓越した優秀性をそなえているように見える輝かしい性格の示す過度の自己評価に対

しては、しばしばこれを許すばかりでなく、徹底的にこれを移入し、同情する。われわれ

はそのような性格を元気があり、高潔であると呼ぶ。」(531)

・「虚栄心の強い人間は高貴な身分や巨大な財産に対していかに尊敬が払われたかをよく知

っており、そのような尊敬とともに有能の士や有徳の士に対してはらわれる尊敬をも自ら

これを僭取しようと考える。したがって、彼らはその衣服、その装備具、その生活法等す

べての手段を用いて現実にかれが有している身分や財産よりもはるかに高い身分、はるか

に大きな財産をもっているかのように世間に知らせようとする。」(533)→「われわれは自

負心の強い人を、このような愚昧のゆえに責めることは、ほとんど不可能であろう。」(534)

・「しかしながら、あらゆるかような根拠のない虚勢にもかかわらず、虚栄はほとんど常に

威勢のいい、陽気なそしてまた温和な情感である場合が非常に多い。自負心は常に重苦し

く、陰気な、劇烈な情感である。虚栄心の強い人間の吐く虚言でさえも、他人を引き下げ

るためではなくて、自分を引き上げるための罪のない虚言である。」(536)

・【自負心ではなく虚栄心が必要】:「自負心の強い人間は普通あまりによく自分に満足して

いるので、自分の性格が何らかの修正を要するとは考えない。自ら完全無欠であると感じ

ている人間は、自然にあらゆるそれ以上の改善を無視しようとする。」これに対して「虚栄

心の強い人間にとっては、しばしば事情は全くこれと趣を異にする。他の人々から尊敬し

てもらいたい、あるいは讃美してもらいたいという欲望は、それが尊敬と讃美の自然にし

て適正なる対象であるところの諸性質ないし諸才能にもとづいている以上は、真の栄光を

実際に愛することにほかならない。…虚栄心はいまだそれだけの栄光に価しない前に、早

熟的にそのような栄光を奪いとろうとする一種の試みにすぎない場合が非常に多い。…教

育の偉大なる秘密は虚栄心を指導して適正なる目標に向かわせることにある。」(539)

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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