理由2 都心から約30キロ、「ちょうどよい遠さ」
二つ目の仮説は、距離である。
立川と都心の距離について、いちばん印象に残る説明は、2001年に立川商工会議所の専務理事が中央大学の刊行物に寄せた文章にあった。立川は東京の丸の内の都心から約30キロの位置にあり、新宿副都心から時間の距離で約30分の、いわば「準郊外型」の業務核都市だ、と。郊外ではなく、準郊外。この微妙な言い回しに、立川の立ち位置がよく出ている。
この「ちょうどよい遠さ」は、国と都の計画の中で、何度も名指しされてきた。
東京都がまとめた都市づくりの歩みによれば、都は昭和57年(1982)の長期計画「マイタウン東京」で、都心一点集中型の都市構造を正し、業務の機能を副都心や多摩の「心」へ分散させる「多心型都市構造」を目指した。そのとき多摩の「心」として位置づけられたのが、八王子、立川、町田などである。国の側も動いた。日本地域学会の『地域学研究』には、都の都市計画局の次長を務めた東郷尚武が報告したシンポジウムの記録が残っている。それによれば、昭和60年(1985)の国の首都改造計画は、東京の区部への一極依存型から多核多圏域型へ転換する方針を打ち出した。そして立川、八王子、横浜、大宮など九つの業務核都市を、業務機能の受け皿として育てることにした。この考え方は、翌年の第四次首都圏基本計画に組みこまれた。
同じ記録の中で、都の側は多摩の「心」にかける期待を、もう一歩踏みこんで語っている。これらの「心」は、単に業務機能の受け皿として育てられていくだけでなく、広域的な生活の中心地として、商業、文化、情報などの機能が複合的に整備され、多摩の自立を引っぱる牽引車の役割を担ってほしい、と。そのために都は、立川と昭島の地域について総合整備計画をつくり、その実現に努めているとも書いている。役所の文章としては珍しく熱がこもっている。「商業」と「文化」を名指しで期待された街に、のちに百貨店が集まり、東京で最初のシネコンが生まれた。計画が街をつくったのか、街が計画に追いついたのか。たぶん、その両方なのだろう。
都心から30キロという距離は、都市計画の論文でも一つの物差しになっている。平成22年(2010)の『都市計画論文集』に載った近藤愛らの研究は、山手線の中央から半径30キロの範囲にある鉄道の乗り換え駅を調べている。2004年度に1日の乗降が25万人を超えていた駅は、横浜、川崎、立川、大宮といった業務核都市の駅や、放射方向の幹線の駅に多く点在していた、と論文は書く。30キロの輪の上には、首都圏の大きな「次の中心」が並んでいる。立川は、その一つなのだ。
ここからは、私の見立てになる。
都心から30キロの円を地図の上に描いてみると、その輪の大部分は、千葉や埼玉や神奈川の上を通る。東京都の中をこの輪が通るのは、西の多摩だけだ。郊外向けの新しい店が首都圏に入ってくるとき、その最初の店は、たいてい東京の外の郊外に建つ。IKEAの船橋や港北、シネコンの海老名がそうだった。そして同じ業態が「東京で最初の一軒」を探すとき、30キロの輪の上で東京都に属する場所は、多摩しかない。
つまり「東京初」の大型店は、ほとんど構造的に、多摩に来る。東京という行政の境界線が、郊外の「初」を西へ押し出しているのである。都内で最初のコストコが立川ではなく町田に来たのも、この見立てなら説明がつく。町田もまた、多摩の「心」の一つだった。
では、多摩の中で、なぜ立川なのか。そこで三つ目の仮説が要る。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
理由3 多摩の結節点——113.2%と、約427万人の背中
立川市の概要によれば、立川駅にはJRの中央線、青梅線、南武線、五日市線が乗り入れ、多摩モノレールが南北を結んでいる。市はみずから、立川駅を多摩地域の交通の要衝と呼び、多摩地域の商業の中心と書く。2024年度、立川駅の1日平均の乗車人員は15万4,091人で、多摩地域の駅で最も多い。
この駅の背中には、どれほどの人がいるのか。東京都が発表した令和7年(2025)の国勢調査の速報で、東京都の市部の人口は421万7,852人、郡部は5万3,156人。合わせて約427万人。東京都の人口のほぼ3割が、多摩に住んでいる。一つの県にも匹敵する人の数が、23区の西に広がっている。多摩へ初めて店を出す会社が、その入口を探すとしたら、どこを選ぶか。
地理学の答えは、30年以上前に出ている。平成5年(1993)、広島地理学会の『地理科学』に載った山下博樹の論文「東京大都市圏における周辺中核都市の成長」は、上場企業の支店や営業所がどこに置かれてきたかを、1975年と1985年の会社年鑑で比べている。それによれば、1985年には建設業や製造業の支所が、県庁所在地に加えて、さらに下の階層にある地域の中心、立川や厚木にも多く置かれるようになった。論文は、立川は多摩地区における鉄道網の結節地だと書く。金融や保険、不動産の支所でも、大宮に続いて八王子、さらに立川や厚木で中心機能の集積が急速に進んでいた。
この論文には、立川について、少し笑ってしまう一節がある。県庁が所在しないハンディはあるものの、と書いてあるのだ。立川に県庁が無いのは、東京都だから当たり前なのだが、学者の目には、立川はほとんど「県庁所在地になりそこねた中心都市」に見えていたらしい。そして論文は、市場や顧客へのアクセスが支所を展開する必要条件だ、とまとめている。会社が多摩に一軒目を置くなら、多摩の人がいちばん集まりやすい場所に置く。当たり前の理屈が、統計で裏づけられている。
人が集まりやすいことは、昼と夜の人口の差にも表れる。東京都がまとめた2020年の国勢調査の数字で、立川市の昼間の人口は20万7,832人、住んでいる人は18万3,581人。昼夜間人口比率は113.2で、都内の26市でいちばん高い。地域経済の分析システムの数字を紹介した2017年の記事によれば、大型店の出店が相次ぐ前の10年分の集計で、立川に住む人の雇用者所得の総額は4,758億円、立川で働く人の雇用者所得は6,275億円だった。差し引き1,517億円。よその街に住む人が、それだけ多く立川で働いているということだ。昼の立川は、多摩じゅうから人を借りて動いている。
伊勢丹の社史が書いた「三多摩の中心」は、半世紀後の統計でも、そのまま生きていた。広い土地は、ほかの街でも見つかるかもしれない。30キロの距離は、多摩の街ならどこでも持っている。だが、四つの線路とモノレールが交わり、昼にこれだけの人が集まる場所は、多摩には一つしかない。理由3は、立川を「多摩の中の一つ」から「多摩の入口」に変えた理由である。
数字で読む「東京初」の立川
- 23 — 坪。1947年に伊勢丹が立川に開いた最初の売店の広さ。百貨店の第一歩は、文房具の棚だった。
- 453 — ヘクタール。1977年に返された国有地の広さ。「初」が降りてくるための、広い滑走路である。
- 7 — IKEA立川が国内で何番目の店だったか。先輩たちの多くは、スキー場や遊園地の跡地に建っている。
- 37.5 — キロメートル。東京駅から立川駅までの線路の距離。遠すぎず、近すぎない。
- 113.2 — %。2020年の立川市の昼夜間人口比率。都内の26市で1位。昼の立川には、夜より2万4千人ほど多くの人がいる。
- 3 — 「日本初のシネマコンプレックス」を名乗った映画館の数(百科事典が挙げるもの)。初は、ときどき分裂する。
旅人の寄り道クイズ
1947年、伊勢丹が立川駅の南口に開いた最初の売店で、主に売っていたものはどれか。
(A)呉服 (B)文房具や事務用品 (C)米兵向けの土産物
答えは、この記事の終わり近くで明かす。
理由4 外から来る新しいものに慣れた街
最後の仮説は、資料で確かめるのがいちばん難しい。街の気風である。

写真: ブルーノ・プラス / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
立川は、外から来るものを迎えるところから始まった街だ。大正11年(1922)に飛行場ができ、昭和2年(1927)にはソ連の親善機が飛来した。市の年表によれば、それが立川に来た最初の外国機で、その後も外国機の飛来が相次ぎ、立川飛行場は「国際空港」になった。戦後は米軍の基地になり、市の市史編さんの広報紙『たちかわ物語』は、基地の周辺が米国文化の最前線になったと書く。昭和25年(1950)の立川駅のクリスマスの飾りの写真について、同じ広報紙は、駅を飾るサンタクロースと輸送機がそれを象徴している、と書く。
新しい売り方も、外から来た。稲毛屋が昭和31年に取り入れたセルフサービスについて、いなげやの社史は、当時日本に紹介されたばかりの方式だったと書き、その後はアメリカのチェーンストアを手本に店を増やしたと続ける。駅の北には、その手本の国の人たちが働く基地があった。
だが、ここで正直に書いておかなければならない。「外から来るものに慣れた街だから、新しい店が集まる」という説明は、私の見立てであって、会社の発表や論文がそう書いているわけではない。資料で確かめられたのは、その手前までだ。伊勢丹の社史は、米軍基地の存在とそこへ通う人の数を、出店の理由に挙げた。1968年の論文は、立川では中央から進出してきたものが時期的に早く、地元の地主や商人がビルを建て、東京の店がそれを借りる形が多いと書いた。シネマシティは、地元の商店主たちが出資した劇場の店子として始まった。
そこから先は、旅人の推測になる。外から来るものを、地元が大家として迎える。迎えた店が根づけば、次の店も来やすくなる。そうした経験が何十年も重なれば、街の側にも、出店する側にも、「新しいものは、まず立川で試してみる」という勘のようなものが育つのではないか。
もちろん、立川は外から来るものを、いつも歓迎してきたわけではない。基地の拡張をめぐって砂川の町が揺れた歳月があり、基地の町の暗い面からも、市の市史編さんの広報紙は目をそむけずに書いている。迎えることは、いつも楽ではなかった。それでも、迎えたものを自分の街の一部に変えてきた。基地の跡地にIKEAが建ち、弁士だった人が映画館を構えた一帯に東京初のシネコンが建った。その手際のよさは、たしかにこの街の才能だと思う。
東京の西の片隅は、片隅だったのか
最初の問いに戻ろう。なぜ大都会の東京で、西の街に「初」が集まるのか。
資料で確かめられた答えは、こうなる。都心では手に入らない、広く平らな返還地があった。国と都が、都心の働きを分けて受け持つ「多摩の心」「業務核都市」として、立川を名指ししてきた。四つの線路とモノレールが交わり、多摩の約427万人の入口になっている。そして伊勢丹は、三多摩の中心であること、役所の出先が多いこと、米軍基地に多くの人が通うことを理由に、最初の支店をここに出した。
見立てにとどまる答えもある。都心から30キロの輪のうち、東京都に属するのは多摩だけだから、郊外型の新しい店の「東京初」は、構造的に多摩へ押し出されること。外から来るものを地元が大家として迎えてきた街の気風が、「初」を呼びこみやすくしていること。こちらは、読む人それぞれに確かめてほしい。
調べ終えて、私はひとつ、自分の早合点に気づいた。立川市の概要は、立川の位置を「東京都のほぼ中央、西よりに位置しており」と書いている。西の片隅だと思っていたのは、23区の側から地図を眺めていた私の目のほうだった。東京は、立川より西にもまだ長く続いている。多摩から見れば、立川は片隅ではなく、真ん中なのである。
あのころ、伊勢丹の最初の売店は、駅の南口の、トタン張りの23坪の小屋だった。基地へ通う人や学生が、鉛筆やノートを買いに来た。いま、同じ駅の北口のデッキを渡れば、その百貨店の490倍の売場があり、東京で最初のシネコンがあり、10分ほど歩けば東京で最初のIKEAがある。東京で最初だったものを、半日で歩いて回れる街は、そう多くないはずだ。
新宿から中央線で一本。川崎からなら、南武線で乗り換えなしに終点まで来ればいい。週末に一度、東京の「初」が降りてきた場所を、自分の足で確かめに来てほしい。駅の北口に立って見回せば、少なくとも一つ、昔は無かったものが目に入るだろう。
東京の新しいものは、いつも西からやって来たわけではない。ただ、東京へ入るとき、多くのものが、まず立川で一度、降りてみたのである。
寄り道クイズの答え
答えは(B)文房具や事務用品。百科事典が引く『伊勢丹百年史』によれば、昭和22年(1947)10月、立川駅の南口に開いた立川売店は、木造トタン張りの2階建て、延べ23坪で、学生を中心とした客に文房具や事務用品を売っていた。衣料品が増えていったのは、その後のことだ。
訪ねる前に
- 「東京初」をめぐる歩き方: JR立川駅の北口から歩行者のデッキに出れば、伊勢丹立川店は駅とデッキで結ばれている。シネマシティのシネマ・ワンはJR立川駅から歩いて約5分、多摩モノレール立川北駅から約3分(公式による)。そこからファーレ立川の街区を抜けて北へ進むと、IKEA立川はJR立川駅北口から歩いて約10分、多摩モノレールの高松駅から約7分。帰りにモノレールで立飛駅へ行けば、多摩地域で初めてのららぽーとがある。
- 来やすさ: 東京駅から立川駅までは37.5キロ、中央線の特別快速で約40分(立川市による)。神奈川からは、川崎駅と立川駅を結ぶJR南武線で乗り換えなしに来られる。
- IKEA立川(立川市緑町6番): 公式 https://www.ikea.com/jp/ja/stores/tachikawa/ 。公式サイトは周辺の交通渋滞を理由に公共交通機関の利用を勧めている。営業時間は公式で確かめてほしい。
- シネマシティ: 公式 https://cinemacity.co.jp/ (上映時間・料金は公式で)
- 伊勢丹立川店: 公式のアクセス https://www.mistore.jp/store/tachikawa/access.html
- ららぽーと立川立飛: 公式 https://mitsui-shopping-park.com/lalaport/tachikawa/
- 立川の「初」の一行が並ぶ市の年表: https://www.city.tachikawa.lg.jp/shisei/gaiyo/1005930/1005948/1005965.html
- 組み合わせるなら: 午前は北口のファーレ立川で街角のアートを探し、昼から伊勢丹とシネマシティ、午後にIKEAへ歩く。体力が残っていれば、IKEAの先に広がる昭和記念公園で、返還された土地の広さを足で測るのもいい。
「初」を歩いたあとは、立川駅北口で
東京の「初」をたどって北口を歩き回ると、思った以上に足が疲れる。駅の北口から基地の跡地まで、平らな道は思いのほか長い。
立川駅の北口から歩いて1分、立川市曙町2-14-10のエトロワビル3階に、オンザショア立川店がある。溶岩プレートを敷いたスタジオで行うホットヨガのスタジオだ。常温のヨガやピラティス、女性専用のキックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、パーソナルトレーニングもあり、ヨガだけで25種類以上のレッスンがある。
営業は8時から23時30分まで、年中無休で、曜日による違いはない。午前に買い物をすませても、夜の上映のあとでも、寄る時間はある。
ヨガの体験レッスンは税込1,980円。60分のレッスンに、バスタオル2枚、フェイスタオル1枚、ヨガマットのレンタルが含まれる。家具の箱を抱えていない日なら、身ひとつで寄れる。
妊娠中の人は溶岩ホットヨガには参加できないが、常温のマタニティヨガがある。医師から運動を止められている人は利用できない。
料金は https://ontheshore.jp/price/ 、店の案内は https://ontheshore.jp/ 、体験の予約は https://site.locaop.jp/C0aVK?_src=hp で確かめられる。
79年前、この街の駅前で、東京の百貨店が23坪の店から一歩目を踏み出した。最初の一回は、いつだって小さくていい。
冒頭の写真: 夜の立川駅北口。歩行者デッキの先に、明かりの灯る伊勢丹立川店が建つ。(写真: Hector Martin / CC BY-SA 2.0 / Wikimedia Commons)
この記事の情報は2026年10月時点のものです。
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