立川から中央線で乗り換えなしの高尾山は、年間250万人以上が登り「世界一」とも言われる山。薬王院の1,280年、北条氏照の「竹木を伐れば首を切る」制札、日本一の急勾配のケーブルカー、1,300種の植物、展望台から見える立川の街まで、八王子の山を公式資料でたどる日帰り散歩のルポ。
世界でいちばん人が登るとも言われる山が、立川から乗り換えなしの場所にある。
立川駅から下りの中央線に乗ると、電車はすぐに多摩川を渡る。日野、豊田、八王子、西八王子。5つ目の駅で降りれば、そこが高尾だ。ふだん通勤に使っている線路の、ほんの少し先である。
八王子観光コンベンション協会は、高尾山の登山者を「年間260万人とも300万人とも言われ、世界一の登山者数を誇ります」と書く。東京都の高尾ビジターセンターの数字は、年間250万人だ。標高は599メートル。富士山の6分の1にも届かない山に、毎年それだけの人が登ってくる。
私が気になったのは、数よりも別のことだった。これほど人が押し寄せる山に、なぜ深い森が残っているのか。都心からおよそ50キロ、立川からなら電車でひと息の場所で、ブナの大木やムササビが暮らしていられるのはなぜなのか。調べていくと、答えの半分は、戦国時代の一枚の張り紙に書かれていた。そこには、山の木を伐った者は首を切る、とある。
立川から乗り換えなしの高尾山、「世界一」の登山者数の正体
高尾山は東京都八王子市にある。高尾登山電鉄は、関東山地の東南、都心から約50キロに位置する山だと紹介している。標高は599メートル。八王子観光コンベンション協会によれば、この「599」は高尾山の象徴的な数字で、山麓の博物館の名前「TAKAO 599 MUSEUM」にも使われている。数字が名刺になっている山は、そう多くない。
人気に火がついたきっかけを、協会ははっきり書いている。2007年、フランスのミシュランの観光ガイドで三つ星に選ばれたことだ。薬王院の説明によれば、初の日本版の旅行ガイドで、山では富士山と並んで高尾山が三つ星になった。理由は「大都市近郊にもかかわらず豊かな自然に溢れている」ということだったらしい。日本一高い山と、都心から電車で行ける低い山が、同じ星の数を並べた。審査員はたぶん、標高を測る物差しを家に置いてきたのだと思う。
数字には揺れがある。高尾ビジターセンターと高尾登山電鉄は「年間250万人」と書き、観光協会は「260万人とも300万人とも」と書き、薬王院は「年間の登山者は日本一に輝きました」と書く。「世界一」は、そうした数を並べたうえでの評判として広まった言葉で、世界中の山の登山者を一斉に数えた統計があるわけではないようだ。それでも、私は250万人という一番控えめな数字のほうに驚く。高尾登山電鉄は、登山のマナーの頁でこう計算している。「一人が一本のペットボトルを捨てると、年間250万個のごみの山ができるのです」。山の高さは599メートルでも、ごみの山なら、あっという間にそれを越えてしまう。
人が多いことは、山にとっていいことばかりではない。高尾ビジターセンターは、登山者が多いために土が踏み固められ、草木が生えなくなる「裸地化」が深刻な問題になっていると書き、登山道の階段は裸地化を防ぐ手段なのだと説明する。階段のないハイキングコースはありません、とも書き添えている。高尾山の階段は、楽をさせるためではなく、山を守るために敷かれているのだ。膝の痛みを感じたら、私はそれを森への寄付だと思うことにしている。
では、250万人に踏まれてもなお、なぜこの山には森があるのか。話は、1,280年ほど前にさかのぼる。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
天平16年、行基が開いた薬王院と、飯縄大権現の天狗たち
高尾山の歴史は、近代に入るまでは、ほぼそのまま薬王院の歴史だと観光協会は書く。正式な名前は高尾山薬王院有喜寺という。薬王院の説明によれば、天平16年(744年)に聖武天皇の勅令によって、東国を鎮める祈願寺として、行基が開いた。創建当初、薬師如来を本尊としたことから、薬王院の名がついた。

写真: Tak1701d / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
いまは真言宗智山派の大本山で、成田山新勝寺、川崎大師平間寺と並んで三大本山として知られる、と薬王院は書く。名の知れた2つの寺と、同じ格の寺が、立川から電車で行ける山の中腹にある。成田や川崎まで行かなくても、と書くと叱られそうなので、やめておく。
南北朝時代の永和年間(1375年)、京都の醍醐山から俊源という僧が入山し、八千枚の護摩供養の後、いまの本尊「飯縄大権現」をまつって寺を中興した。飯縄大権現は戦国武将の守護神として崇められ、上杉謙信や武田信玄の兜にもまつられていた、と薬王院は書く。宿敵どうしが、同じ神さまを兜に戴いていた。神さまの側は、さぞ気を遣ったことだろう。
高尾山に天狗の像が多いのも、この本尊とつながっている。薬王院によれば、天狗は飯縄大権現の眷属、つまりお供の存在で、除災開運や招福の力を持つとされてきた。高尾山は修験道の山でもあり、山にこもって修行する山伏の姿が天狗と同一視されることも多かったという。いまも琵琶滝と蛇滝という2つの滝が滝修行の道場として使われ、一般の人にも門戸を開いている。
参道の浄心門には「霊気満山」の扁額が掲げられている。文化庁の日本遺産の頁によれば、豊かな自然に恵まれ、多くの動植物の「生命の力」に満ちた高尾山のことを、先人たちはこの言葉で表したという。浄心門の近くには「殺生禁断」の碑が立つ。薬王院は、あらゆる殺生を厳しく戒めるなど宗教的に保護されてきたことを、高尾山の自然が豊かな理由のひとつに挙げている。
寺が森を守った。ここまでは、よくある話だ。高尾山が変わっているのは、その後、時代ごとの権力者たちが、次々と同じ森の番人を引き受けたことにある。
北条氏照の制札「下草ひとつでも、首を切る」
戦国時代、高尾山は武蔵と甲斐の境に近い要衝だった。薬王院の「成り立ち」によれば、なかでも小田原の北条氏の信仰は篤かった。
まず、北条氏康が妙なことをしている。軍記『北条記』によれば、甲斐と武蔵が戦乱となって国境に関所が置かれ、富士山へ参詣する道がふさがってしまった。困った人々の工夫で、富士の浅間大菩薩を高尾山に勧請し、「富士浅間高尾山へとび給ふ」と披露した。すると関東各地から、富士に行けずにいた参詣者が高尾山に押し寄せ、たちまち繁盛した、という。薬王院は、天文年間に氏康によって富士山信仰と高尾山が結びつけられたと書く。富士山が飛んできた。戦国のころから、高尾山は「近くて行ける名山」だったのだ。
氏康は永禄3年(1560年)、薬師堂の修理のために寺領を寄進し、元亀元年(1570年)には武田信玄との戦いに勝った礼として唐銅製の五重塔を寄進した。その息子で、のちに八王子城を築く北条氏照も、天正3年(1575年)に椚田の地を寄進している。この寄進が、のちに江戸幕府の朱印地として引き継がれ、明治維新まで高尾山の基盤になった、と薬王院は書く。
そして、天正18年(1590年)2月。豊臣秀吉の小田原攻めが迫るなか、氏照の側から薬王院に一通の制札が出された。薬王院が全文を紹介している。八王子の根小屋(城下)にいる者たちが山の竹木を伐ってはならないと前から命じていたのに、ことごとく山を伐ってしまった。今日からは竹や木はもちろん、下草であっても刈った者は、一族ともども首を切る。見つけしだい捕らえて滝山へ引け。薪は武蔵野へ出て取れ。
下草を刈っても首、である。戦の前夜の緊張がそのまま伝わってくる文面だが、私はつい最後の一行に目が行く。薪は武蔵野へ出て取れ。武蔵野とは、高尾の山から東に広がる台地のことだ。立川は、その武蔵野台地の上にある。430年あまり前、八王子の城下の人々は、高尾山の木の代わりに、立川のある方角の野原へ薪を拾いに行くよう命じられていたことになる。武蔵野のどのあたりで拾ったのかまでは、制札は語らないけれど。
薬王院は、この制札を八王子城の防備のための山林保護だったと読み、それが後々まで、高尾山の森に対する統治者の姿勢として受け継がれたと書く。実際、北条氏が滅んだあと、徳川の代官頭の大久保長安も「高尾山は前々より法度の地なので、誰であれみだりに竹木を伐り取れば八王子へ召し連れる」という趣旨の書状を出している。首を切るから、連れていくへ。罰は少しやさしくなったが、森を守る筋は変わらなかった。
その後も、高尾山の森は守られ続けた。明治4年には寺領720余町歩のうち、境内の約10町歩ばかりを残して上地され、帝室御料林となった。戦後は国有林となり、昭和42年(1967年)には明治百年を記念して「明治の森高尾国定公園」に指定された。薬王院は、北条氏、徳川幕府、御料林、国有林、国定公園と、時の権力者や政府によってさまざまな形で保護されてきたと、その系譜を並べている。森の持ち主は何度も替わった。伐るな、という命令だけが替わらなかった。
八王子市の日本遺産の資料によれば、高尾山には樹齢700年といわれるスギの巨樹があり、高尾山のスギは東京都と八王子市の天然記念物になっている。スギ並木は参道の景観をいっそう引き立てている。人々が願いごとがかなった返礼として杉の苗木を奉納する「杉苗奉納」も、江戸時代から続く。森は、命令だけでなく、祈りによっても育てられてきた。
数字で読む高尾山
- 599 — 山頂の標高(メートル)。山麓の博物館の名前にもなった。富士山の約6分の1だが、ミシュランの星の数は富士山と同じ。
- 744 — 薬王院が開かれた年(天平16年)。1,280年あまり、同じ山で祈りが続いている。
- 250万 — 高尾ビジターセンターと高尾登山電鉄が示す、1年間の登山者数。ペットボトルに換算すると山ができる。
- 31度18分 — ケーブルカーの最も急な勾配。高尾登山電鉄によれば、ケーブルカーの線路では日本一。
- 1,300 — 高尾山と周辺に生える高等植物の種類(153科)。登山者の名前を覚えるより難しい。
- 65 — 高尾山特有の植物として原記載され、学会に発表された野草の数。山の名前を背負った草花がいる。
旅人の寄り道クイズ
戦国時代、北条氏照の名で薬王院に出された制札は、山の竹木を伐った者をどう罰すると書いていたか。
(A)罰金として米を納めさせる (B)首を切る (C)一年間、山の掃除をさせる
答えは、この記事の最後のページで明かす。
日本一の急勾配、高尾山ケーブルカーの昭和史
森を守る話から、森を登る話に移りたい。高尾山の麓の清滝駅から中腹の高尾山駅まで、ケーブルカーが通っている。京王線の高尾山口駅から清滝駅までは徒歩約5分だ。

写真: Syced / CC0 / Wikimedia Commons
高尾登山電鉄が公開している構造図によれば、線路は1,000メートル、高低差は271メートル。最も急な場所は31度18分で、同社は「ケーブルカーの線路では日本一の急勾配で、車窓から見下ろす乗客は驚嘆の声を発する」と書く。鉄道会社が自社の線路について、乗客が驚嘆の声を発する、とまで書いている。ここまで自信のある文章は、時刻表ではなかなか読めない。車両の最大乗車人員は135名。運転速度は秒速3.3メートルで、自動制御されている。
安全についての一文が、妙に頼もしい。使っているロープは安全率が10倍以上のものだという。万一切れたとしても、わずか2メートルほど滑っただけで、強力な自動ブレーキがレールを挟んで止まる構造になっている。日本一の急坂を登りながら読むと、この一文がとてもありがたい。
開業は昭和2年(1927年)。同社の年表によれば、昭和19年(1944年)に戦時体制の企業整備令で営業を休止し、戦後の昭和24年(1949年)に、いち早く復活した。昭和43年(1968年)に全自動制御の大型車両を導入し、平成20年(2008年)に新しい車両に入れ替わった。山を登る2台の車両は、戦争で一度止まり、また動き出して、いまも中腹の標高472メートル付近まで人を運んでいる。
ケーブルカーができる前、山の上の薬王院へは、皆が歩いて登っていた。八王子市の「はちおうじ物語」によれば、昭和の初めには、近くに造営された多摩陵に全国から人々が訪れ、あわせて高尾山を訪れる観光客も増えた。昭和42年(1967年)に京王高尾線が開業すると、登山客や参拝客が急増した、と観光協会は書く。高尾山の人気は、2007年に突然始まったのではない。鉄道が延びるたびに、少しずつ山に人が増えていったのだ。
昭和の高尾山、「浅川」から登ったころ
昭和の高尾山を思い出せる人と、知らない人とでは、駅の名前からして話が合わないかもしれない。いまの高尾駅は、昭和36年(1961年)まで「浅川駅」と呼ばれていた。駅のあった浅川町が八王子市に編入されたのは昭和34年(1959年)で、高尾山の住所もそのとき八王子市になった。昭和の半ばまで、高尾山は「八王子の山」ではなく「浅川の山」だったのだ。
立川からの行き来も、昭和に形が変わった。立川市の年表によれば、中央線の電化が立川まで届いたのは昭和4年(1929年)。翌年の暮れには、立川と浅川の間も電化されたとされる。蒸気機関車の煙の向こうにあった山が、電車で通える山になった。
戦後の昭和には、山の上にも新しい乗り物が加わった。高尾登山電鉄によれば、昭和39年(1964年)10月、東京オリンピックの年に、ケーブルカーと並んで一人乗りのリフトが営業を始めた。昭和46年(1971年)9月には、ベルトコンベアー式の乗降装置を採り入れた二人乗りのリフトになり、「ユニークな二人乗りリフト」として高尾山の大きな魅力のひとつになった、と同社は書く。全長872メートル、山上駅まで約12分。足もとに北山台杉が並ぶ。
あのころ、浅川駅で降りて、オリンピックの年にできたばかりの一人乗りリフトに揺られた人がいた。いま、高尾駅で京王線に乗り換え、二人乗りのリフトで並んで山を登る親子がいる。駅の名前も、座席の数も変わった。山へ向かう線路が立川から延びていることだけは、明治から変わっていない。
ただ、登りにケーブルカーを使うのは、少しだけ後ろめたい。250万人の多くが歩いて登る山で、6分ほどで中腹に着いてしまう。せめて下りは歩こう、と決める。膝が賛成してくれるかどうかは、別の話だ。
それでも、ケーブルカーを降りた先の森には、6分の楽をした後ろめたさを忘れさせるだけのものが待っている。東北の山にあるはずの木が、そこに立っているのだ。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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