戦国の立川を治めた立川氏は、八王子城主・北条氏照の配下だった。わずか1日で落ちた日本100名城の山城、国内でここだけのベネチアのレースガラス、城下の八日市から生まれた宿場、日本でただ一つ「桑都」と呼ばれた織物の町、桑苗日本一だった立川・砂川との縁まで、八王子を公式資料でたどる日帰り散歩のルポ。
立川という地名を背負った武士がいた。中世の立川を治めた立川氏である。その一族が戦国時代の終わりに誰に仕えていたのか、私は長いあいだ知らなかった。答えは、立川市歴史民俗資料館の見学の手引きに一行で書いてある。この時代、立川氏は八王子の北条氏照の配下となっていた。
北条氏照の城は、高尾の北の山の中にあった。八王子城という。天正18年(1590年)6月23日、豊臣秀吉の軍勢に攻められ、八王子市の言葉を借りれば「わずか1日で」落ちた。その落城が決め手となって小田原城が開城し、北条氏は滅んだ。立川氏も、主家とともにその憂き目にあった。
その城跡を歩いてみたくなった。ところが調べ始めると、話は城だけでは終わらなかった。城の山の名前が、そのまま「八王子」という市の名前になっていた。城の麓に開かれた市が、山を下りて宿場になり、織物の町になり、やがて日本でただ一つ「桑の都」と呼ばれるようになった。そして、その桑の都の東隣で、立川の村は桑の苗を育てていた。一つの山城から、どうやって一つの街が生まれたのか。立川から中央線で西へ向かう。
八王子城跡散歩の入口、立川の武士が仕えた北条氏照の山城
八王子城は、小田原に本拠を置いた北条氏の三代目、氏康の三男にあたる北条氏照が築いた山城だ。八王子市によれば、築城の時期ははっきりしないが、天正年間に築城が始まり、氏照が滝山城から移ったのは天正12年(1584年)から天正15年(1587年)の間とする説が有力だという。市の文化財課のパンフレットは、天正10年(1582年)ごろに築城が始まったと書く。
城の大きさは、数字にするとよくわかる。八王子城跡ガイダンス施設の案内によれば、国史跡としての指定面積は約159ヘクタールに及ぶ。八王子市の「はちおうじ物語」は、小田原北条氏の支城として最大級の城郭だったと書く。日本遺産の申請資料は、もっとはっきり「小田原北条氏最大の支城」と言い切っている。
なぜ氏照は、住み慣れた滝山城を離れて山の上へ移ったのか。八王子市は、最も大きな理由を、天下統一へ向けて軍事力で従わない大名を制圧していた豊臣秀吉への備えだったと見る。氏照は北条氏を代表する戦上手で、情報通でもあった。秀吉と戦えば最後は本城の小田原で籠城戦になる。そう考えれば、各地の支城はできるだけ少ない人数で守れなければならない。防御線が広く、守るのに多くの人数が要る滝山城より、高低差が大きく攻めにくい山城の八王子城を選んだのだろう、と市は書く。文化庁の日本遺産の頁は、もう一つの理由を挙げる。向かい合う高尾山を天然の要害とみたて、甲州から八王子へ入る峠道を押さえられる場所だったことだ。氏照が峠道を見張るために置いた「富士関」は、江戸時代には甲州道中で最も堅固な関所といわれた「小仏関」に引き継がれた。
城は大きく3つに分かれる、と八王子市は説明する。城下町にあたる「根小屋地区」、城主氏照の館があった「御主殿跡」などの「居館地区」、そして戦いのときに要塞となる「要害地区」だ。要害地区は深沢山、いまの城山の地形を巧みに利用してつくられ、頂上に本丸、周りに「曲輪」と呼ばれる平場が配置されていた。戦国の山城の姿をよく残していることなどから、平成18年(2006年)4月に、日本城郭協会の「日本100名城」に選ばれた。
その山城が、立川の歴史と細い糸でつながっている。立川市歴史民俗資料館の手引き「中世立川氏と立川氏文書」によれば、立川氏は武蔵七党の西党に属した日奉氏を祖とする武士で、平安時代の末ごろから立川市域に定着したと考えられている。鎌倉時代には幕府の御家人として活躍した。南北朝から室町にかけては史料が少なく、わからないことが多い。そして戦国時代の末、天正14年(1586年)には、立川照重の内女おねねが作らせたとされる八幡神社の本地仏像が、柴崎町の諏訪神社に伝えられている。この時代の立川氏は、八王子の北条氏照の配下だった。
天正14年といえば、氏照が八王子城へ居城を移していたころにあたる。立川の武士の家の女性が、野火で焼けた八幡神社を立て直そうと仏像を奉納していたちょうどそのころ、西の山の上では、主君の新しい城が普請の音を立てていた。立川氏と柴崎の八幡神社の話は、この特集の「普済寺と諏訪神社」と「立川の古い村」の記事でも歩いた。
では、その城の山は、そもそもなぜ「八王子」と呼ばれていたのか。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
「八王子」という市の名前は、城の山から生まれた
八王子市の公式の頁に、市の名前の由来がくわしく書かれている。八王子という地名は、牛頭天王と8人の王子をまつる信仰の広がりの中で、全国に生まれた。私たちの八王子の起源も、今、八王子城跡に鎮座する八王子神社だ、と市は書く。

写真: Mocchy / Public domain / Wikimedia Commons
その由緒が、なかなかの怪異譚である。延喜13年(913年)の秋、京都から来た妙行という学僧が、深沢山の山頂の岩屋で修行を始めた。夜がふけると強風が吹き、雷鳴がひびき、妖怪が群れをなして現れた。今度は大蛇が降りてきて、妙行の周りでとぐろを巻いて眠ってしまった。妙行が如意棒で頭を打って「目を覚ませ」と言うと、大蛇は消えた。夜が明けると8人の童子を連れた神が現れ、自分は牛頭天王で、連れているのは八王子だと名乗った。延喜16年(916年)、妙行は深沢山を天王峰とし、周りの8つの峰を八王峰として、牛頭天王と八王子をまつった。これが八王子信仰の始まりだと伝えられる。
大蛇の頭を如意棒で叩いて起こす僧。市役所の公式の頁で読むと、妙に味わいがある。
八王子神社の周りが、いつから「八王子」と呼ばれ始めたのかははっきりしない。八王子市によれば、今のところ最も古いのは、永禄12年(1569年)5月8日付の北条氏康の書状で、そこには「八王子方面」の意味で「八王子筋」という言葉が使われている。武田信玄の軍勢が「八王子筋」へ攻め込んでくるという知らせを受け、氏康が家臣に、滝山城へ移って由井の八日市へ着陣するよう命じた手紙だ。ここで、もう一つの大事な言葉が出てくる。八日市。この市の名前は、のちに八王子の町の中心になっていく。覚えておいてほしい。
その後、天正10年(1582年)をすぎたころ、氏照は八王子権現がまつられている深沢山に新しい城を築き、八王子権現を城の守護神とした。そのため城は「八王子城」と呼ばれるようになった、と市は書く。山の神の名前が城の名前になり、城の名前が、のちに市の名前になった。立川の地名の由来は、市自身が「いずれの説も確証に欠け」と認めるほど謎に包まれているが、八王子の名前は、一つの山の上でこれほどはっきりと生まれている。隣の市の名付け親が、山の上の小さな神社だと思うと、少しうらやましい。
御主殿跡と、国内でここだけのベネチアのレースガラス
八王子城跡の麓には、ガイダンス施設がある。外観は「八王子」の「八」をイメージした八角形だという。駄洒落のような話だが、本当にそう書いてある。ここで城の歴史と全体像を見てから、管理棟の先へ進むのが順路だ。

写真: Mocchy / Public domain / Wikimedia Commons
城山川に沿って歩き、木の橋を渡ると、氏照の館があった御主殿跡に着く。この橋は曳橋という。八王子市の解説によれば、敵が攻めてきたときには壊すなどして、渡れないようにする橋だ。橋を渡った先の虎口、つまり曲輪の出入口は、石垣や石畳を当時のものをなるべくそのまま使い、できるだけ忠実に復元された。平成2年(1990年)、落城から400年の節目に整備されたものだ。
なぜ遺構がよく残っていたのか。八王子市によれば、八王子城の周辺は江戸時代には徳川幕府の直轄地、明治になってからは国有林となっていたため、あまり人の手が入らなかった。城の時間は、落城の日で止まったまま、森の下で眠っていたのだ。
御主殿の発掘調査では、2棟の大型建物跡や、池を配した庭園の跡が見つかった、と市のパンフレットは書く。建物跡は、氏照が政務を行った主殿と、客をもてなす会所と考えられている。遺物は7万点を超えた。それを6年かけてつなぎ合わせた結果、2,436個体になったという。7万の破片を6年かけて2,436にする。気の遠くなる作業だが、ジグソーパズルとしてはたぶん世界有数の難度だ。
その中で注目されるのが、ベネチアで作られたレースガラスの器だ。日本国内での出土は八王子城のみで、大変貴重なものだ、と市は書く。文化庁の日本遺産の頁も、ベネチア産のレースガラス器をはじめ多くの舶来品や茶器が出土し、戦国武将の文化的、芸術的な素養を感じることができると書いている。
同じ頁には、氏照の人柄を伝える話も並ぶ。氏照は横笛の名手で、領地で五穀豊穣を祈って舞われる獅子舞を好み、家臣とともに月夜の宴を催したと伝えられている。八王子市内には9つの三匹獅子舞があり、その一つ「狭間の獅子舞」は、氏照から獅子頭を拝領して始まったと伝えられる。武田とも上杉とも渡り合った戦国の名将が、山の上の館で、イタリアのガラスの器を前に笛を吹いていたのかもしれない。
江戸時代の『桑都日記』には、氏照が城下の景勝地を選んで詠んだとされる「八王子八景」が記されている。そのひとつ「八王子城の秋月」には、城山から見た秋の月が、領地一帯を照らす様子が詠まれている、と文化庁の頁は書く。月の光が届く範囲のどこかに、立川の村もあった。
数字で読む八王子城と桑都
- 159 — 国史跡・八王子城跡の指定面積(ヘクタール)。東京ドームで数えかけて、やめておいた。
- 1 — 天正18年6月23日、豊臣軍に攻められてから落ちるまでの日数(八王子市による)。
- 70,000 → 2,436 — 御主殿で見つかった遺物の数と、6年かけてつなぎ合わせた後の個体数。
- 916 — 妙行が深沢山に牛頭天王と八王子をまつったと伝わる年(延喜16年)。市の名前の始まり。
- 4と8 — 江戸時代の八王子十五宿で、毎月市が開かれた日。縞の織物が集まった。
- 1 — 日本で「桑都」と称される町の数。八王子市によれば、それは八王子だけ。
旅人の寄り道クイズ
八王子城の御主殿跡から出土し、日本国内では八王子城でしか見つかっていない舶来品は何か。
(A)ベネチア産のレースガラスの器 (B)オランダ製の望遠鏡 (C)ポルトガル製の時計
答えは、この記事の最後のページで明かす。
天正18年6月23日、わずか1日の落城と御主殿の滝
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻めた。八王子市によれば、6月23日、八王子城は前田利家と上杉景勝の軍に攻められて落城した。城主の氏照は、このとき本城の小田原に籠城していて、八王子にはいなかった。

写真: じゃんもどき / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
城を守ったのは、氏照の家臣たちだった。市のパンフレットは、曲輪ごとに守り手の名前を記している。山頂の本丸は横地監物吉信が守ったといわれる。中山勘解由家範らは松木曲輪のあたりを守り、奮闘したが、多勢に無勢で防ぎきれなかった。小宮曲輪は狩野一庵が守っていたが、上杉軍に攻められ、ここの陥落が引き金となって、山頂の曲輪が次々に破られた、と市は書く。
中山家範については、こんな話が残る。攻め手の前田利家は、家範の武勇を惜しんで助命を申し入れたといわれる。その後、遺された家範の子息は徳川家康に仕え、水戸徳川家の付家老になった、と市のパンフレットは書く。城は1日で落ちたが、守り手の家は、新しい時代の中で生き延びた。
御主殿の奥に、小さな滝がある。御主殿の滝という。市のパンフレットは、落城のとき御主殿にいた北条方の武将や婦女子らが滝の上流で自刃して次々に身を投じ、その血で城山川の水は三日三晩赤く染まったと伝えられる、と書く。いまは木々に囲まれた静かな滝で、水音だけが聞こえる。ここでは冗談は書かないでおく。
八王子市は、この八王子城の落城が決め手となって籠城を続けていた小田原城は開城し、北条氏は滅亡したと書く。開城のあと、氏照は兄の氏政とともに城下で切腹した。高尾山薬王院の「成り立ち」は、氏照は7月11日に兄とともに自決し、年齢は51歳だったと記している。
主家が滅んだとき、立川氏もまた、その憂き目にあった。立川市の手引きの記述はそこで終わり、その後の一族の行方は書かれていない。立川を治めた武士の物語は、西の山の上の、ある夏の1日で、ひとつの区切りを迎えたことになる。
では、主を失った城の麓の町は、どうなったのか。町は、消えなかった。山を下りたのだ。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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