八王子城跡散歩 立川の武士が仕えた、1日で落ちた山城と日本でただ一つの「桑の都」

八王子城跡の曳橋城山川に架かる木の橋の奥に御主殿へ続く石垣が見える 立川駅徒歩1分年中無休の溶岩ホットヨガスタジオ

城下の市が街になる、八日市から八王子十五宿へ

落城のあと、関東は徳川家康の領地になった。八王子市によれば、家康の代官大久保長安によって、新たに甲州道中の八王子宿(八王子横山十五宿)が置かれ、もとの八王子のあたりは「元八王子村」と呼ばれるようになった。八王子市の「はちおうじ物語」は、長安が、北条氏照が八王子城下に築いていた城下町、横山・八日市・八幡の三宿と領民を、現在の中心市街地に移して、新たに八王子宿として整備したと書く。

ここで、さっき覚えておいてもらった「八日市」が戻ってくる。永禄12年の氏康の手紙に出てきた由井の八日市は、八王子城の城下を経て、徳川の宿場の中心にまで引っ越してきたのだ。文化庁の日本遺産の頁も、八王子織物の起源といわれる、織物の取引が行われた滝山城下の市が八王子城下にも引き継がれ、さらに江戸幕府が整備した八王子宿にも、氏照が築いた城下町や市が移された、と書く。城は滅んでも、市は滅ばなかった。人が集まって品物を売り買いする場所は、殿さまよりしぶとい。

その市は、決まった日に開かれた。八王子市の「八王子織物の歴史」によれば、江戸時代には八王子十五宿が開かれ、毎月4と8の日に市が立って、周辺の村々から繭や生糸、織物などが集まるようになった。この地方では、真綿から紡いだ糸を染めて縞模様に織ったものが多く、当地の織物は縞物、織物市は縞市などと呼ばれた。17世紀のはじめに成立した『毛吹草』には、武蔵の特産として「瀧山横山紬嶋」の名が見えるという。滝山と横山。城下の地名が、そのまま織物の名前になって、江戸の本に載っていた。

八王子宿の西には、千人同心が置かれた。八王子市によれば、武田氏の旧臣などからなる千人同心は、甲州との国境の警備や、八王子城落城後の地域の治安回復などにあたり、のちには日光東照宮周辺の火の番を幕末まで務めた。地理学や蘭学に優れた文化人も多く出した、と市は書く。江戸時代の八王子は、市の立つ商いの町であり、侍たちの学問の町でもあった。

宿場は大きくなり、甲州道中最大の宿場町へと発展した、と文化庁の頁は書く。そしてこの町は、やがて一つの美しい呼び名を手に入れる。

初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。

体験レッスンを予約体験専用 03-6665-0898LINE

日本でただ一つの「桑都」、西行の歌と絹の道

八王子市の「はちおうじ物語」は、八王子が「桑都」と呼ばれるようになったわけを、一首の歌に求めている。西行が詠んだという「浅川を渡れば 富士の雪白く 桑の都に青嵐吹く」。この歌は江戸時代後期の随筆に記録されており、このころ栄えてきた八王子宿の織物市のにぎわいを背景に「桑都」と言い習わされてきた、と市は書く。そして、こう続ける。「日本で「桑都」と称されるのは八王子だけです」。

養蚕の盛んな土地は、日本中にいくらでもあった。文化庁の日本遺産の頁も、絹産業は国内各地で営まれてきたが、その中で唯一「桑都」と称されたのが八王子だと書く。桑の都を名乗れるのは、日本で一つの町だけなのだ。

その絹が、海を越えた。安政6年(1859年)の横浜開港によって、八王子に集められた輸出用の生糸は、浜街道を通って横浜へ運ばれた。この道は後に「絹の道」と呼ばれるようになった、と八王子市は書く。横浜に住む西洋人たちもこの道を通り、考古学者のハインリヒ・シュリーマンや写真家のフェリックス・ベアトが、八王子宿や養蚕の様子を旅行記や写真に残しているという。トロイの遺跡を掘り当てたあのシュリーマンが、八王子の蚕を見に来ていた。立川から電車でひと駅ずつ西へ行った先に、世界的な考古学者の足跡がある。

明治に入ると、八王子は苦い経験もしている。八王子市によれば、明治10年代、輸入された粗悪な化学染料をむやみに使ったために品質が落ち、「八王子織物一切取扱不申」と市場から締め出されたことがあった。これに奮起した仲買商や機業家が、明治19年に八王子織物組合をつくり、翌年には染色講習所を開いて、当時の日本の染色の第一人者を招いた。締め出しから立ち直るまでの筋書きは、そのまま産地の底力の物語になっている。

織物業の躍進に支えられ、八王子は大正6年(1917年)に東京府下で2番目に市制を施いた、と市は書く。東京市に次ぐ2番目だ。立川市が市になったのは昭和15年(1940年)で、立川市の説明によれば、東京府では東京市、八王子市に次いで3番目だった。多摩で最初の市が八王子、2番目が立川。市の順番でも、立川は八王子のすぐ後ろを歩いてきた。

立川駅徒歩1分年中無休の溶岩ホットヨガスタジオ

桑の都と桑苗の村、八王子と立川をつなぐ糸

桑の都の東隣で、立川の村は何をしていたのか。立川市歴史民俗資料館の手引き「砂川の桑苗」を読んで、私は少し胸を張りたくなった。多摩地域は、かつて桑苗の一大産地だった。なかでも砂川村は、大正時代には桑苗の生産量が全国一だったこともあり、桑苗の特産地として特に有名だった、と市は書く。

桑の葉は、蚕のえさだ。市の手引きによれば、養蚕には葉が大きく肉厚な桑がよいとされ、良い桑の葉は蚕の食いつきもよく、繭も多く収穫できた。砂川はすでに江戸時代の享保年間(1716〜1736年)に桑の産地として知られ、幕末から明治にかけて接木による生産が確立すると、大量生産が可能になり、毎年のように新しい品種が生まれたという。桑の都・八王子が「都」なら、砂川は、その都の街路樹を育てる苗床の村だったと言えるかもしれない。八王子の市に集まった繭の何割が砂川の苗から育った桑を食べたのか、それを示す資料には行き当たらなかった。ただ、同じ絹の経済のなかで、二つの土地が別々の持ち場を受け持っていたことは確かだ。

立川の農家は、機も織っていた。市の手引き「養蚕と機織り」によれば、立川の養蚕は江戸時代中ごろから盛んになり、昭和の初めころまで農業の中心を占めた。砂川地区では江戸時代末期から「砂川太織り」が織られ、明治になると村山地方の「村山がすり」の影響を受けて、生産の中心は村山がすりに移った。明治22年に砂川村で行った調査では、村内の農家の85%にあたる500戸で機織りが行われていた。10軒のうち8、9軒から、機を織る音がしていたことになる。

同じ明治22年(1889年)、立川市の年表によれば、4月に甲武鉄道の新宿と立川の間が開通し、8月には立川と八王子の間がつながった。桑の苗の村と桑の都が、一本の線路で結ばれた年でもある。

昭和の桑畑と、「ガチャ万」の機音

昭和の話をしよう。年配の読者なら、思い出せる景色があるかもしれない。

八王子では、戦争が織物の町を一度焼き尽くした。八王子市によれば、昭和20年(1945年)8月2日の空襲で市街地の90パーセントが焦土となり、終戦時に残った工場は、昭和16年のわずか約20パーセントにすぎなかった。それでも町は立ち直った。戦後の衣料不足で織物の需要が高まり、昭和20年代半ばには、ガチャンと機を織れば万という金がもうかるという意味で「ガチャ万」と言われるほどの好況を迎えた、と市は書く。昭和30年ごろに生まれた紋ウールは、40年代にかけて売れ続け、戦後の八王子織物の最大のヒットになった。

同じころ、立川の北の砂川では、まだ桑の苗が育っていた。市の手引きには、昭和36年(1961年)に上砂町でトラックで桑苗を出荷する写真と、昭和54年(1979年)に砂川にひろがる桑畑の写真が載っている。昭和の終わりが近づいても、立川には桑畑が残っていたのだ。

あのころ、八王子の町には機の音が響き、砂川の畑には桑の葉が揺れ、その間を中央線が走っていた。いま、八王子は国内有数のネクタイの産地として知られ、伝統の技は昭和55年(1980年)に国の伝統的工芸品に指定された「多摩織」として受け継がれている、と八王子市は書く。立川では、養蚕が衰えたあと、昭和20年代から東京うどの栽培が始まった。織機の音も桑畑も目の前からはほとんど消えた。それでも、立川の駅を行き交う人の首もとのネクタイが八王子で織られたものなら、そこには桑の都から続く糸が、まだ一本通っている。

八王子城の落城から430年あまり。立川の武士が仕えた殿さまの城は山の上で森に還り、その城下の市は町となって、日本でただ一つの桑の都になった。桑の苗を育てた立川の村は、いまはJRの乗車人員が多摩でいちばん多い駅を持つ街になった。山城の石垣を見上げたあと、乗り換えなしの電車で立川に帰る。その道のりはそのまま、ひとつの糸をたぐる散歩になる。

教科書の戦国は遠い。だがこの城跡は、新宿から中央線で立川を過ぎ、高尾でバスに乗り継げば届く場所にある。週末に一度、落城の日のまま森に眠っていた石垣の前に立ってみてほしい。

寄り道クイズの答え

答えは(A)ベネチア産のレースガラスの器。八王子市によれば、御主殿跡から出土したベネチアのレースガラス器は、日本国内での出土は八王子城のみで、大変貴重なものだという。出土品は八王子市郷土資料館で展示されている、と日本遺産の申請資料は書く。

訪ねる前に

  • 立川駅からの行き方: JR中央線の下りで高尾駅まで乗り換えなし(立川から日野、豊田、八王子、西八王子の次)。高尾駅北口1番バスのりばから西東京バス「高尾の森わくわくビレッジ」「宝生寺団地」「恩方ターミナル」「大久保」「陣馬高原下」「グリーンタウン高尾」「美山町」行きで「霊園前・八王子城跡入口」下車、徒歩約20分。土曜・日曜・祝日のみ、同じ乗り場から「八王子城跡」行きのバスが出る(八王子市による)。所要時間は列車とバスの時刻表で確かめてほしい。
  • 都心・神奈川から: 立川までは、新宿からJR中央線快速で30分台、川崎からはJR南武線で乗り換えなしの約1時間。立川で高尾行きの下りに乗り継ぐ。
  • ガイダンス施設: 東京都八王子市元八王子町3-2664-2。開館は午前9時から午後5時まで、年末年始(12月29日から1月3日)は休館。日本100名城のスタンプはガイダンス施設の館内にあり、管理棟には無い(八王子市による)。
  • 駐車場・管理棟の利用は午前9時から午後5時まで。夜間・深夜の来場は、近隣に住む人の迷惑になるため固く断られている。
  • 熊に注意: 八王子市によれば、令和8年(2026年)5月30日に御主殿の滝付近でツキノワグマの目撃情報があった。最新の注意喚起を市の頁で確かめてから出かけたい。
  • 歩き方: 管理棟から本丸までの登山道は整備されているが、整備されていない場所には立ち入らないように、と市は呼びかけている。八王子神社までは登山道入口から徒歩25分程度、山道なので歩きやすい靴で(八王子市による)。オフィシャルガイドは現在臨時休止中と市は書いている。
  • 公式: 八王子市「八王子城跡」 https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kurashi/kyoiku/005/bunkazaikanrenshisetsu/p005201.html /「八王子城跡ガイダンス施設」 https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/005/p005205.html /日本遺産「霊気満山 高尾山」 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story088/
  • 組み合わせるなら: 同じ高尾駅から、北条氏照が手厚く守った高尾山へも行ける(この特集の「八王子・高尾山散歩」の記事)。城の山と祈りの山を、一日で歩ける。
yogaのレッスン前の様子生徒の足もとにあるヨガマット 立川駅徒歩1分年中無休の溶岩ホットヨガスタジオ

帰り道に、立川駅北口で

山城の坂を上り下りして立川に戻るころには、脚に心地よい重さが残っているだろう。秋から冬なら、城山の木陰の冷えも、少し体に連れて帰ってきているかもしれない。

立川駅の北口から徒歩1分、立川市曙町2-14-10のエトロワビル3階に、オンザショア立川店がある。溶岩プレートを敷いたスタジオで行うホットヨガのスタジオだ。常温のヨガやピラティス、女性専用のキックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、パーソナルトレーニングもあり、ヨガだけで25種類以上のレッスンがある。

営業は8時から23時30分まで、年中無休で、曜日による違いはない。午前に城跡を歩き、午後に八王子の町なかを回ってから立川に戻っても、寄る時間はある。

ヨガの体験レッスンは税込1,980円。60分のレッスンに、バスタオル2枚、フェイスタオル1枚、ヨガマットのレンタルが含まれる。歩いた帰りに、身ひとつで寄れる。

妊娠中の人は溶岩ホットヨガには参加できないが、常温のマタニティヨガがある。医師から運動を止められている人は利用できない。

料金は https://ontheshore.jp/price/ 、店の案内は https://ontheshore.jp/ 、体験の予約は https://site.locaop.jp/C0aVK?_src=hp で確かめられる。

立川の武士が仕えた城から、立川の駅前へ。四百年あまりの距離を、一日で往復できる。

冒頭の写真: 八王子城跡の曳橋。城山川に架かる木の橋の奥に、御主殿へ続く石垣が見える。(写真: Mocchy / Public domain / Wikimedia Commons)

この記事の情報は2026年10月時点のものです。

立川さんぽ特集のほかの記事

立川さんぽ特集の一覧

初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。

体験レッスンを予約体験専用 03-6665-0898LINE

💬 ご質問がある場合はこちらからどうぞ

オンザショアのチャットで質問する(24時間受付)

レッスン内容・料金・体験のご予約など、気になることをお気軽にお尋ねください。

1

2


Warning: Attempt to read property "show_author" on false in /home/c1531448/public_html/ontheshore.jp/wp-content/themes/heal_tcd077/single.php on line 165

関連記事

PAGE TOP
ご体験予約