立川の玉川上水と砂川を歩く散歩ルポ。緑道の見どころ、承応2年に玉川兄弟が掘った43キロの歴史、短冊形に並んだ砂川の屋敷、江戸から続く水道原水の終点・小平監視所、2年だけ通った舟、そして上水が残堀川の下をくぐる理由まで、立川の北半分の来歴を一次資料でたどる。
江戸の水道が、川の下に潜っている。立川の北の縁で、いまも。
立川市の文化財の解説に、玉川上水の見どころを上流から並べた一文がある。石橋供養塔、分水口、舟着き場の跡。その列に、奇妙な五文字が紛れこんでいた。「残堀川下の伏越」。
伏越とは、水路が別の水路の下をくぐる仕掛けのことだ。残堀川の「下」を、上水がくぐる。つまり立川のどこかで、江戸の人が掘った溝と天然の川とが十文字に交わり、溝のほうが川の下へ潜っている。
普通は逆ではないか。川が先にあり、あとから来た溝が遠慮して下を通る。それが道理だと私は思っていた。なぜ立川では、上水が川の下をくぐるのか。その理由を探しに、立川の北の縁を歩いてみることにした。
立川散歩の入口、玉川上水駅から緑道の見どころへ
立川の北の端に何があるか、と聞かれて答えられる人は少ないだろう。市民でも、駅前の繁華街より北は「住宅と畑」で片づけてしまうかもしれない。だが、立川で散歩をするなら、私はまずここを勧めたい。
歩き出すなら、玉川上水駅がいい。多摩モノレールと西武線の連絡駅で、駅の南側を玉川上水が東西に流れている。多摩モノレールの駅の案内は、上水の沿道が緑道になっていて、一年を通じて自然の中の散歩を楽しめると書く。駅の名前が、そのまま行き先を告げている。これほど道案内の要らない駅も珍しい。
駅を離れると、高架の響きが背中へ遠ざかり、足もとの土と落ち葉の音が近づく。上水は思いのほか深い。両岸の土手は切り立ち、水面は人の背丈よりずっと下にある。のぞきこむと、関東ロームの赤茶けた肌がむき出しになっている。
立川市は、この区間を、300年以上の歳月をしみこませた両岸の土肌、と紹介している。役所の文章にしては詩的だ。だが、この堀の主役は水ではなく掘られた土のほうだと思えば、いちばん正確な言い方でもある。
市内を流れる上水路の長さは約5.6キロ。一番町から上砂町、砂川町、柏町、幸町を横断している。地図で見ると、立川市の北の縁に沿って、人が掘った一本の溝がずっと寄り添っている。
この溝は、誰が、何のために掘ったのか。話は370年ほど前、水に困っていた江戸にさかのぼる。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
承応2年、玉川兄弟が掘った43キロ
江戸の水の話は、玉川上水より前から始まっている。東京都水道局の解説によれば、天正18年(1590)に江戸へ入った徳川家康は、城の東側の低地を埋め立てて町の土台をつくったが、海に近い低地や埋立地では井戸を掘っても良い水が出なかった。そこで早くから上水が計画され、江戸の初め、寛永の末ごろまでには、井の頭池に発する神田上水が完成していたと考えられている。南西部では、いまの地下鉄溜池山王駅のあたりにあった溜池も水源に使われた。

写真: Quatrogatos / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
それでも足りなくなった。三代将軍家光の時代に参勤交代の制度が固まると、大名とその家族、家臣が江戸に住むようになり、人口の増え方が加速した。承応元年(1652)、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる計画を立てる。設計書の検討と実地調査の末、工事の請負人に選ばれたのが、庄右衛門と清右衛門の兄弟だった。老中の松平伊豆守信綱、代官の伊奈半十郎忠治らが工事に関わったと伝えられる。
工事は承応2年(1653)4月4日に始まり、11月15日に羽村取水口から四谷大木戸までの約43キロが完成したと、水道局は書く。そして、律儀に括弧書きを添えている。「この年は閏年で6月が2度あるため8か月となります」。4月から11月なら7か月ではないか、と指を折った読者への先回りの答えだ。役所の文章に、ここまで気の利く一行があるとは思わなかった。
羽村と四谷大木戸の標高差は約92メートル。水道局の別の資料は、それを100メートルでわずか約21センチメートルの高低差と言い換えている。駅の階段一段ぶんの高さを、100メートルかけて下りる勘定だ。私なら半日で傾きを見失い、水は一滴も江戸に届かないだろう。土留めもしない素掘りの水路が、武蔵野台地の尾根筋を選んで、自然の流れだけで江戸まで水を運んだ。翌承応3年(1654)6月には、江戸の地下に石樋と木樋の配水管が敷かれ、江戸城をはじめ四谷、麹町、赤坂、芝、京橋の方面へ給水が始まった。
兄弟は褒美として玉川の姓を賜り、200石の扶持米を受け、代々の水役を命じられたと水道局は書く。立川市の解説は、当時は武士にだけ許された姓と、刀を持つことも許されたと添える。8か月の土木工事の報酬が、名字と刀と200石。いまの給与に換算しようとして、やめた。刀の相場が分からない。
ただし、この話には異説がある。水道局によれば、享和3年(1803)に八王子千人同心の小島文平が先祖の言い伝えや地元の伝承をまとめて奉行に出した報告書では、工事は2度失敗しており、松平信綱の家臣で野火止用水を開いた安松金右衛門の設計で羽村に取水口を決め、成功に導いたとされている。開削当時の資料が見つかっていないので、どちらが本当かはわからない。英雄譚に、別の英雄の名が挟まっている。歴史はたいてい、そういう形で残る。
上水は、江戸の水道であると同時に、通り道の台地を拓く道具にもなった。最初の分水は、明暦元年(1655)の野火止用水だ。水道局は、工事の総奉行だった川越城主の松平信綱が、その功績を認められて許されたものとも言われると書く。総奉行への褒美もまた、水だったわけだ。立川市の解説は、享保の改革のころ、地下水位が低くて人が住めなかった武蔵野台地に多くの分水が引かれ、多くの新田村がつくられたと記す。文化庁の文化遺産オンラインによれば、分水施設は江戸時代中期の寛政年間までに33か所に達した。立川市内でも、砂川分水、殿ヶ谷分水、柴崎分水、源五右衛門分水の4本が引かれてきた。
だが、立川の北半分の話は、上水よりも少し前から始まっている。しかも、ひどく水の乏しい名前とともに。
「砂の川」という名の村
砂川という地名は、市内を流れる残堀川に由来すると言われている、と立川市の市史編さん広報紙は書く。かつての残堀川は、大雨のときに氾濫することもあったが、ふだんは砂と石がむき出しの「砂の川」であることがほとんどだった。
水の乏しさが、そのまま地名になっている。豊かさを願って付けた名ではない。目の前の乾いた川床を、見たまま呼んだ名だ。ずいぶん正直な名付けである。
この乾いた川の名を、覚えておいてほしい。冒頭の謎の、もう一方の主役である。
村の背骨になる五日市街道も、上水より古い。立川市の年表は、慶長元年(1596)に家康が青梅と五日市の両街道を整えたと記し、市史編さん広報紙は、江戸城の改修と町の拡大のため、多摩から資材や燃料を運ぶ道のひとつとして五日市街道が整備されたと書く。江戸へ物を運ぶ道が先にでき、あとから江戸へ水を運ぶ堀が来た。砂川は、その二本の線が交わる土地だった。
開拓は上水より古い。立川市の年表によると、慶長年間から、岸村(いまの武蔵村山市岸)の百姓、村野三右衛門が砂川新田の開墾を始め、寛永年間に入って人が住みはじめた。広報紙は、江戸時代の初めの開発は残堀川に沿って進められたと書く。武蔵野台地は火山灰質の土に覆われて田畑にしにくく、水源にも恵まれなかった。そんな中、いまの砂川三番のあたりに、まいまいず井戸と呼ばれる様式の、砂川で最も古い井戸のひとつが掘られ、次第に人が住みつくようになった。村は、一つの井戸のまわりから始まった。
寛永6年(1629)、村の鎮守として阿豆佐味天神社が祀られる。寛永10年(1633)、砂川新田は尾張藩の鷹場となる。承応3年(1654)、玉川上水が通じ、3年後の明暦3年(1657)に砂川分水が開通した。広報紙は、ここで砂川の開発が本格化したと書く。
元禄2年(1689)の検地で、砂川の戸数は175戸。立川市の年表に残る内訳は、畑229町5反余、萱野73町4反余、林39町余で、田の名は無い。立川市の文化財解説も、砂川の土地は火山灰土の関東ローム層で水田に向かなかったと書いている。
畑と萱野と林しかない村が、分水を得て、どんな形に育ったのか。答えは、地図の上に定規で引いたような線として残っている。
短冊形の屋敷と、まっすぐ流れる砂川分水
立川市の散歩コースの解説は、ここで見逃せない一文を置いている。砂川村は五日市街道と砂川分水に沿って、敷地が短冊形にならぶように計画的に作られた。分水は、道沿いにまっすぐに流れる。
一方、元文2年(1737)に松中橋付近から引かれた柴崎分水は、すでに柴崎村にあった屋敷に水を配るため、境界を曲がりながら流れたという。
まっすぐな水路と、曲がる水路。柴崎の水は、すでにある暮らしに合わせて曲がった。砂川の水は、まだ人のまばらな台地に引かれ、暮らしのほうが水に合わせて並んだ。水路が先で、家があと。だから線がまっすぐなのだ。
移り住む人が増えると、五日市街道に沿った土地が順に振り分けられ、集落は東西に長く伸びた。地元の人は、この横に細長い村を「二里八町・長新田」と呼んだと広報紙は書く。二里八町は、ざっと9キロ近い。隣の家へ醤油を借りに行くのはすぐでも、村の端から端までは立派な遠足である。
資料館の刊行物は、砂川の農家の形をこう書く。東西にのびる五日市街道に面して住宅が並び、その背後に耕地や屋敷林を持つ。道に顔を向けた家、その裏に畑、さらに奥に林。細長い短冊の中に、暮らしの全部が収まっていた。街道沿いの木々もまた、この道の顔になっている。五日市街道を歩いた人の旅のブログには、葉の繁る夏の並木道を、まるでもぐらの穴を歩いているようだと書いた一文がある。夏の砂川は、緑のトンネルの中にある。
その名残を見たければ、鷹の道を歩くといい。尾張徳川家の鷹場の役人が村を巡回するための道で、ふだん村人は使えなかったと立川市は書く。いまもその道沿いに、屋敷、屋敷林、畑と区割りされた古い村落の様子が見られるという。市の解説には、「鷹の道」という名が鷹場役人の横柄さを表す代名詞に使われることもあった、とまで書いてある。道の名前が悪口になった例を、私はほかに知らない。
村は一番組から十番組までの組に分かれ、組ごとに道路や水路を管理した。合併後の町名地番整理で町名は変わったが、交差点の標識やバス停には、いまも「砂川○番」が残っている。役所が町名を変えても、人の口はなかなか言うことを聞かない。
組の暮らしの格を建物で見られる場所もある。川越道緑地古民家園には、砂川九番組の組頭を務めた小林家の住宅が移築されている。江戸末期の茅葺の民家で、母屋は砂川には数少ない六間型。北西のオクの間の床の間や違い棚、書院は、当時の武家住宅に匹敵する格式を持つと市は書く。水の乏しい台地を拓いた村の組頭が、幕末には武家並みの座敷を構えていたのだ。
数字で読む玉川上水と砂川
- 43 — キロ。羽村から四谷大木戸まで。これを8か月ほどで掘ったという。
- 92 — メートル。43キロでの標高差。100メートル進んで、階段一段ぶんほど下がる計算だ。
- 33 — 寛政年間までに上水から引かれた分水施設の数。江戸の水は、気前よく途中で配られた。
- 5.6 — キロ。立川市内を流れる区間の長さ。5つの町を、律儀に東西へ横切る。
- 175 — 元禄2年の砂川の戸数。検地の内訳に、田は1枚も出てこない。
- 10 — メートル。後で出てくる金比羅山の高さ。これで立川市の最高峰である。
旅人の寄り道クイズ
明治のはじめ、玉川上水には舟が通った時期がある。その期間はどれくらいだったか。(A)2年(B)20年(C)200年。答えは、この先を歩きながら探してほしい。
短冊の村が整ったあと、村人たちには、もう一つ大事な仕事が回ってくる。上水そのものの世話である。
上水を守った村人たち──持場村、水番人、上水見廻り役
43キロの素掘りの水路は、掘って終わりではなかった。水道局の解説によれば、給水が始まってしばらくは玉川兄弟の子孫が管理や修復を担ったが、やがて幕府が直接受け持つようになった。上水沿いには水番屋が置かれ、水番人と呼ばれる町人や農民が、水の量を確かめたり、芥留と呼ばれるごみ止めを掃除したりした。
沿線の村々にも持ち場が割り当てられた。注意書きを示した高札を管理し、土手の草刈りや堀の掃除、役人の通行の手伝いをした。こうした村は「持場村」と呼ばれたと、水道局は書く。江戸の水道は、通り道の村の手で磨かれていたのである。
面白い記録もある。上水沿いには桜や松などが植えられたが、大木になると落ち葉が増えて上水の管理に差し支えるので、大きくなった木は伐られたという。花見の名所をつくりながら、育ちすぎた木は伐る。いまの緑道で倒木の手入れが続いているのを見ると、350年前から同じ悩みを抱えていたのだとわかる。
上水の管理の仕組みや施設の様子は、寛政3年(1791)に普請奉行の石野広通がまとめた全10巻の『上水記』に記録された。33の分水という数字も、この書物から来ている。
砂川には、上水の見張りを担った家があった。立川市が刊行した『新編立川市史 資料編 近世2』は、砂川地域にかかわる古文書309点を収めている。市の案内によれば、その中には砂川家が務めた「上水見廻り役」や「鷹場預り案内役」に関する史料が豊富にあり、玉川上水の管理や暮らしの実態がわかるという。村は、上水の恩恵を受けるだけでなく、上水を見張る側でもあった。
鷹場の話も、砂川の暮らしに重なっていた。立川市の年表によれば、砂川新田は寛永10年(1633)に尾張藩の鷹場となり、元禄6年(1693)にいったん廃止されたが、享保2年(1717)に再び鷹場となった。村の中を将軍家ゆかりの鷹と役人が行き来し、村人の使えない「鷹の道」が通った。分水の水を引き、上水を見張り、鷹場の役人を案内する。砂川の農家の一年は、江戸の都合とずいぶん深く結びついていた。
分水の水は、飲み水と田畑のほかに、もう一つの仕事をした。水道局は、分水が水車の動力にも使われたと書き、立川市歴史民俗資料館は『立川の水車をさぐる』という小冊子で、江戸時代から玉川上水の分水に多くつくられた水車を紹介している。水路がまっすぐなら、水車も並べやすい。短冊の村の裏手で、水車が回っていた。
そうして守られてきた上水の歴史は、明治に入って大きく動く。謎の入口は、その明治に開いている。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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