立川駅北口のファーレ立川アートは、36の国と地域の92人による109作品。見どころと回り方(どこから歩くか・所要時間・地図の入手先)に加え、なぜ車止めや換気口が美術でなければならなかったのか、ドナルド・ジャッドの遺作が立川にある理由まで、公式資料でたどる。
立川駅の北口では、ニキ・ド・サンファルに座ることができる。しかも無料で、閉館時間もない。
それを知っている人は、驚くほど少ない。立川の駅前には何があるのか、と聞かれて、即答できる人は多くない。都内の人なら乗り換えの駅と答え、立川の人でさえ、大きな店が多いと言うくらいかもしれない。
立川駅の北口を出て、歩行者デッキに出る。ホテルがあり、デパートがあり、映画館があり、図書館があり、オフィスビルがある。どこの都市にもある駅前の風景だ。足早に通り過ぎれば、それで終わる。
だが、少し歩く速さを落とすと、妙なものが目に入りはじめる。歩道の端に、人の形をしたものが立っている。車止めにしては凝りすぎた塊がある。ビルの脇の換気口が、どう見ても彫刻のかたちをしている。
ここはファーレ立川と呼ばれる一角で、その作品群はファーレ立川アートと呼ばれる。36の国と地域から集まった92人の作家による、109点の作品が街に置かれている。美術館の壁に掛けられているのではない。車を止め、人を座らせ、地下の空気を入れ替えながら、作品は毎日、街の仕事をしている。
車止めは、杭でいい。換気口は、箱でいい。それなのに、なぜこの街は、そのひとつひとつを美術にしなければならなかったのか。しかも、その中のひとつは、ある作家が病床で仕上げた最後の作品だという。私はその問いを抱えて、ビルのあいだを歩きはじめる。
ファーレ立川アートの見どころと回り方の前に──109作品の街はどう生まれたか
ファーレ立川の公式サイトは、この街が1994年10月13日に、立川駅北口の米軍基地の跡地に誕生したと記している。
立川の飛行場は1922年に陸軍の飛行隊を迎え、1929年には立川と大阪のあいだで日本で最初の民間定期旅客輸送が始まった。戦後は米軍の基地になり、立川市の年表によれば1977年に全面返還された。同じ年に東京都と立川市、昭島市が基地跡地の利用計画をまとめる。跡地は国営昭和記念公園になり、広域防災基地になり、市街地になった。その市街地のひとつが、ファーレ立川である。
アートを担ったアートフロントギャラリーの記録によれば、1992年、当時の住宅・都市整備公団が5社を指名して行ったアートの提案競技で、同社が選ばれた。立川市の年表の1994年の項には「ファーレ立川まちびらき」とある。ホテル、デパート、映画館、図書館、オフィスビルなど11棟が建つ、約5.9ヘクタールの街だ。
多摩都市モノレールの北区間が開業したのは1998年である。ファーレ立川がまちびらきを迎えたとき、今の立川北駅はまだなかった。作品たちは、モノレールが走りはじめる前から、この街に立っていた。
名前の由来も公式サイトにある。イタリア語の「FARE」、つまり創る、創造する、生み出すという意味の言葉に、立川の頭文字である「T」をつけて、「FARET」とした。イタリア語の末尾に、立川がアルファベット一文字ぶんだけ、ちゃっかり乗っている。
昭和52年、1977年まで、ここは金網の向こうの土地だった。1971年に一部返還の合意があり、1977年に全面返還。あのころ駅の北口から見えたのは、フェンスの向こうの基地である。いま同じ場所で見えるのは、デパートの紙袋を提げた人と、その足元の車止めだ。基地の街から、何かを創る街へ。その意志を名前に込めたのだと読むことはできる。だが、創る街の象徴なら、噴水でも記念碑でもよかったはずだ。なぜ100を超える現代美術を、それも車止めや換気口の姿で置いたのか。その鍵を握る人物がいる。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
北川フラムは、街を森に見立てた
この街のアートディレクターは北川フラムである。公式サイトによれば、彼は街を森に見立てた。そして三つのコンセプトを掲げた。「世界を映す街」「機能(ファンクション)を美術(フィクション)に」「驚きと発見の街」。

写真: RuinDig/Yuki Uchida / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons
森という見立ては、歩いてみると腑に落ちる。森を歩く人は、一本一本の木の名前を知らなくても、木々のあいだを歩くことができる。足元に何かを見つけ、立ち止まり、また歩き出す。ここでも作品は一か所に集められていない。ビルの合間、植え込みの中、デッキの壁、歩道の端に、ばらばらに置かれている。歩く人は、それと知らずに作品の脇を通り、ときどき、それが作品だと気づく。
「世界を映す街」という言葉にも裏づけがある。立川市の作品一覧を見ると、作家の国籍の幅に驚く。日本、アメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、スペイン、イタリアに加えて、タイ、セネガル、ナイジェリア、ジンバブエ、ハイチ、レバノン、イラン、ウルグアイ、フィリピン、リトアニア。立川市は、ファーレ立川アートを、20世紀末の世界中のトップアーティストたちの現代美術のコレクションと紹介している。
そして、それは無料で、自由に見ることができる。入館券もなければ、閉館時間もない。基地の金網で囲われていた土地が、誰に対しても開かれた美術館になった。立入禁止の土地が、入館無料の土地になる。この反転こそ、立川という街のいちばん面白いところだ。
では、三つのうち二つ目、「機能を美術に」とは、具体的に何を意味していたのか。答えは、作品一覧の括弧の中にあった。
換気口と車止めが、なぜ美術になったのか
立川市の作品一覧には、作品名と作家名の横に、その作品が担っている機能が括弧書きで添えられている。それを順に読んでいくと、街というものが何でできているのかがわかってくる。

写真: shigen / CC BY 3.0 / Wikimedia Commons
換気口がある。共同溝の入口がある。散水栓のカバーがある。連結送水管のカバーがある。機械の搬入口がある。ゴミ集積所のゲートがある。非常階段の看板がある。駐輪場のネオンサインがある。街灯があり、ベンチがあり、そして、車止めがある。とにかく車止めが多い。一覧の後半は、ほとんど車止めの列である。世界の名だたる作家たちが、立川の駅前でそろって車を止めている。
リチャード・ウィルソンは共同溝の入口と排気口を手がけ、川俣正も共同溝の入口と換気口を手がけた。チャールズ・ウォーゼンの「水瓶」は散水栓のカバーで、一覧を見るかぎり街の中に4点ある。マリナ・アブラモヴィッチの「黒い龍 家族用」は機械の搬入口に、ロバート・ラウシェンバーグの「自転車もどきVI」は駐輪場のネオンサインになっている。フェリックス・ゴンザレス=トレスは非常階段の看板を、國安孝昌の「Stack in Frame」はゴミ集積所のゲートを担う。ゴミ集積所や非常階段の看板にまで世界的な作家の名前がついている街を、私はほかに知らない。
換気口の作品名を拾っていくと、別の景色が見えてくる。新宮晋の換気口は「訪問者」。田中信太郎の換気口は「風の吹く場所」。袴田京太朗の換気口は「17才」。換気口に年齢がある。まちびらきから32年、「17才」は、いまや49歳の換気口である。岡﨑乾二郎の換気口には「イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)」という、ギリシャ神話を思わせる長い名がついている。
車止めも、一つとして同じものはない。関根伸夫の「対話のボラード」、藤原吉志子の「ウサギとカメ」、ホセイン・ヴァラマネシュの「きみはただここにすわっていて。ぼくが見張っていてあげるから」。ヴァラマネシュの作品名は、車止めにつけるには少々長い。運転手が読み終えるころには、車はとうに止まっている。
ヴィト・アコンチの作品は、車止めとベンチを兼ねている。公式サイトの解説によれば、アコンチはここで、舗道そのものが車になるという作品をつくった。それは車社会への疑問にもなっている、と解説は続ける。車を止めるための装置が、車のかたちを借りて、車に問いを投げている。機能を美術に、とはこういうことだ。役目を果たしながら、役目そのものを疑う。
数字で読む ファーレ立川
- 109 — 作品の数。うち何点かは、あなたが知らずに腰かけ、知らずに車を止めている。
- 92人・36 — 作家の数と、国と地域の数。駅前の歩道が、ちょっとした国際会議である。
- 11棟・約5.9ヘクタール — 街の大きさ。作品をすべて見て回るには、思っているより首が疲れる。
- 4 — チャールズ・ウォーゼンの「水瓶」の数。同じ作品に何度も出会うのは、迷ったからではない。たぶん。
- 144 — 宮島達男の「Luna」が同時に数えている数字の数。全部を一度に目で追おうとすると、首より先に目が音を上げる。
- 2万人以上 — 市民のボランティア団体「ファーレ倶楽部」が案内してきた人数。
では、名の知れた作家たちは、この街にどんな作品を残していったのか。そこには、座れるものと座れないものがある。
座れるニキ、座れない肘掛け椅子
ニキ・ド・サンファルの「会話」はベンチである。公式サイトによれば、素材は繊維強化プラスチック。ニキは1930年にパリで生まれ、ニューヨークで育ち、2002年にサンディエゴで亡くなった。1965年ごろから「ナナ」と呼ばれる色彩豊かな女性像を作りはじめ、イタリアのトスカーナに彫刻庭園「タロットの庭」を手がけた。2000年には高松宮殿下記念世界文化賞の彫刻部門を受けている。
その作家のベンチに、駅前で、誰でも腰を下ろすことができる。美術館なら「触らないでください」と札が立つはずの作品が、ここでは座られることを仕事にしている。座っている人の多くは、それがニキだとは知らない。知らないまま、ニキの上で信号待ちの時間をつぶしている。
一方、パトリック・ヴィレールの「人間肘掛け椅子」は、名前に椅子とありながら、植え込みの中に置かれた鉄のオブジェである。高さは2メートルを超える。公式サイトによれば、この作品は、人が人の上に君臨する玉座、つまり権力の象徴という考えから生まれた。座れる椅子より、座れない椅子のほうが、ずっと多くを語っている。
クレス・オルデンバーグの「リップスティック」は、公式サイトの言葉を借りれば、金属板に色を塗っただけの口紅だ。その単純さで、20世紀の都市文明を象徴している。オルデンバーグは身近な日用品を巨大なスケールで作り直してきたポップ・アートの作家で、日本では東京ビッグサイト前の巨大なのこぎりがよく知られている。東京湾のほとりでのこぎりを、立川の駅前で口紅をつくった作家である。
デパートのオープンカフェのテラスは、ジャン=ピエール・レイノーの作品だ。公式サイトは、テラス全体を赤い植木鉢と自然石でつくった鉱物の庭と説明する。ヴェルサイユの園芸学校を出たレイノーは、植木鉢にセメントを詰めて蓋をした、という逸話をもつ。植物を育てるはずの鉢が、植物のいない庭をつくっている。植え込みの中には、アニッシュ・カプーアの鉄の作品「山」もある。1991年にターナー賞を受けた作家だ。
そして、壁がある。ドナルド・ジャッドの壁の彫刻だ。
ここで、冒頭で触れた「最後の作品」の話をしなければならない。公式サイトによれば、ジャッドは病床で立川の制作を進めた。建物の条件が変わって、当初考えていた壁が使えなくなり、新しく壁を用意する必要まで生じた。そして1994年2月、ジャッドは亡くなる。立川の作品が、ジャッドの遺作となった。
ファーレ立川がまちびらきを迎えたのは、同じ年の10月である。ミニマリズムを担った作家は、自分の最後の作品が置かれる街の誕生を見ていない。コールテン鋼と鉄でできた全7点の作品は、作家がいなくなったあとの街へ、まっすぐに引き渡された。
だが、ファーレ立川の面白さは、教科書に載る名前だけでは終わらない。名前を知らない作家の作品の解説を読んでいくと、もっと奇妙な話が出てくる。
換気口のマリリン、ツリーサークルのトンボ
シンガポールの作家タン・ダ・ウの「最後の買い物」は、排気口である。公式サイトの解説によれば、繊維強化プラスチックとステンレスでできている。そこにいるのは、スカートをめくり上げられたマリリン・モンローの像だ。壁にはフライパンが掛かり、醤油やオリーブ、酢などの7つの瓶が並び、竹の葉で包まれただんごが吊るされている。排気口の上で、マリリンがスカートを押さえている。どこかで見た場面だと思ったら、映画の中の、地下鉄の通気口の上の場面だった。もっとも、これは私の連想で、解説はそこまで言っていない。
当初は銅でつくる案だったが、制限によってファイバーグラスになった、と解説は書く。タン・ダ・ウは1943年生まれで、生まれた年はシンガポールが日本に占領されていた時期にあたる。社会の矛盾やそこにひそむ暴力性を、日常品を使って表現してきた作家だという。1999年には福岡アジア文化賞を受け、2007年にはヴェネチア・ビエンナーレのシンガポール代表を務めた。占領期に生まれた作家の作品が、かつての基地の街の排気口にいる。その取り合わせを、解説は語らない。語らないところで、作品が黙って立っている。
街路樹の根元を覆うツリーサークルにも作品がある。長澤伸穂の「トンボヒコーキのメッセージ」だ。鋳鉄でできた直径1.23メートルほどの円盤が7枚、地図で見ると駅に近い緑川通り沿いに並んでいる。題名の由来は公式サイトにある。トンボと飛行機を足して、Dragonplane。作者は幼いころこの地域に住んでいて、その記憶の中のトンボと、立川の飛行場と米軍基地の歴史とを重ねた。飛行機とトンボが互いに変わっていく形を、鉄に刻んだのだという。足元の鉄の蓋の上で、トンボが飛行機になり、飛行機がトンボに戻っている。作者が幼いころの記憶では、この土地の空にはトンボがいて、飛行場があった。いま、その両方が鉄の円盤に収まり、その上を通勤の靴が駅へ急ぐ。
牛島達治の「古典的な交信機器、伝声管」は、高さ1.8メートルのステンレスの管が6本立つオブジェだ。牛島は、役に立たない機械をつくることに喜びを見いだしてきた作家だと解説にある。作品は、風の音は何色かと問いかけてくる。藤本由紀夫の「耳の椅子」はステンレスのベンチで、直径6センチのパイプを両耳にあてると、その場の空気の音が、パイプの共鳴で独特の唸りを帯びて聞こえてくる。街は目に見えるものだけでできているのではない、という考えから生まれた作品だ。藤本は2001年のヴェネツィア・ビエンナーレで日本館の代表を務めている。駅前で、ヴェネツィアの代表作家のベンチに耳を押しあてる。知り合いに見られたら、説明に5分はかかる。それも作品のうちだろう。
篠原有司男の「ケンタウルス・モーターサイクル」は、駐車場のサインである。ブロンズでできた、オートバイに乗るカエル。解説は、それをオートバイの神様と呼ぶ。篠原は1932年に東京で生まれ、1960年代にはボクシングペインティングで知られ、1969年からニューヨークに暮らしてきた。2013年には夫妻の日々を追ったドキュメンタリー映画『キューティー&ボクサー』が、サンダンス映画祭で監督賞を受けた。解説は彼を、気合で生き、気合で仕事をしてきた作家と紹介している。駐車場の入口で、気合のカエルが車を迎えている。
ジョゼフ・コスースの「呪文、ノエマのために」は、車路の壁だ。美術誌『美術手帖』の2019年の記事によれば、石牟礼道子とジェームズ・ジョイスのテキストが、42メートルにわたって壁に刻まれている。車の通り道に、水俣を書いた作家とダブリンを書いた作家の言葉が並ぶ。マリナ・アブラモヴィッチの「黒い龍 家族用」は機械の搬入口だが、同じ記事によれば、作家はこれを、見るだけでなく体を押しつける「安息の場」として設計したと解説している。
奇妙な話は尽きない。次のページでは、時間そのものを相手にしている換気塔に会う。1時間にひとつしか進まない数字を持つ、気の長い換気塔である。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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