立川・曙町にあった航空神社は、天神さまに航空殉職者を合わせて祀ったと伝わる社だ。戦後は太陽神社と名を変え、いまは駐車場の片隅の小さな祠になっている。新橋・所沢・京都の空の神社、「東京飛行場」と呼ばれた立川の空、今も飛ぶヘリコプターまでを資料でたどる立川さんぽ特集の一編。
空の安全を祈る神社が、駐車場の片隅にいる。
立川の地図アプリを開くと、航空神社という名の印が出る。飛行機で大きくなった街に、空の神社。これほど話の早いことはない、と最初は思った。
ところが、その場所を調べていくと、話は少しも早くなくなる。鳥居の写真が見つからない。社務所の電話番号も、例大祭の日取りも、御朱印の案内も出てこない。代わりに出てくるのは、昭和記念公園の南、曙町一丁目の住宅地にある駐車場と、その片隅に置かれた小さな祠の話だ。戦後は「太陽神社」と名を変えた、とも書かれている。
なぜ空の神社が、そんな場所にいるのか。なぜ「航空」が「太陽」になったのか。そして、この社に祀られたはずの人々は、いまどこにいるのか。手もとの資料と、先人たちが残した記録を頼りに、その小さな祠までの道のりをたどってみることにした。たどった先には、羽田より先に「東京飛行場」を名乗った、もう一つの立川が待っていた。
立川の航空神社はどこにあるのか──地図の上の小さな印
まず、場所である。神社や寺を紹介するいくつかのサイトは、航空神社の所在地を立川市曙町の一丁目としている。立川駅の北口から西へ歩き、昭和記念公園のあけぼの口の前を過ぎて、公園の南の縁に沿って進んだあたりだ。かつての立川飛行場の、南のはずれにあたる。
神社を歩いて記録している個人のサイトは、この祠の来歴をこう書いている。もとは、この土地を持っていた板谷家が、鬼門除けとして京都の北野天神から勧請した天神さまを祀ったものだった。昭和の初め、立川飛行場を拠点とする陸軍の飛行第五戦隊などの求めで、航空の殉職者を合わせて祀ることになり、その時に「航空神社」と名を改めたと伝わる。戦後は「太陽神社」と改められ、一時は結婚式場として使われていたようだ、とも書く。そして、一帯はいま駐車場になり、片隅に小さな祠が残っている、と。
百科事典の「航空神社」の項目も、立川市曙町の社について、ほぼ同じ一行を載せている。もともとは地元の有力者が鬼門除けとして京都の北野天満宮を勧請したもので、陸軍飛行第五戦隊の要望によって航空殉職者を合祀したことにはじまると伝わる、と。
面白いのは、記録している人たちの書きぶりだ。先ほどの個人のサイトの書き手は、本来なら「太陽神社」と書くべきかもしれないが、地図アプリに合わせて「航空神社」を採ったと断っている。戦跡を歩いて記録している別のサイトは、昭和4年(1929)4月に立川陸軍飛行場に接して航空神社が創建されたと書きながら、今の祠がその名残だという点については確証が取れていない、と正直に添えている。飛行場の跡をひと回りする散策記を残した人は、駐車場の奥に航空神社とされる祠があり、位置としては戦前の航空神社があったあたりだと書く。そして、一般の家の駐車場なので迷惑をかけないようにしたい、と結んでいる。
三つの記録が、そろって慎重なのだ。地図アプリだけが、迷いなく「航空神社」と言い切っている。人間が謙虚で、機械が自信家。逆であってほしい並びである。
ここで書けることも、先人たちの慎重さの範囲を出ない。だから最初に断っておく。この祠は、案内板のある史跡ではない。人の家の土地の中にある。私は、ここへ読者を連れて行こうとは思わない。代わりに、この祠がどんな流れの中から生まれたのかを、確かめられる資料でたどる。そのほうが、祠にとっても静かでいい。
最初の手がかりは、名前の前半にある。航空神社は、もとは天神さまだったという。学問の神さまが、なぜ空の神さまになったのか。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
天神さまが、空の神になるまで
天神さまといえば、受験の神である。一月の境内で、合格祈願の絵馬が重なり合って鳴っている、あの神さまだ。京都の北野天満宮の公式サイトは、菅原道真を祀る全国およそ1万2000社の天満宮と天神社の総本社だと名乗っている。創建は天暦元年(947)。平安京の北西、天門と呼ばれる方角を守る北野の地に、道真を祀ったのがはじまりだという。
だが、同じ公式サイトは、天神さまのもう一つの顔も書いている。雨を降らす雷を、古代の人は天神として崇めてきた、と。天神とは、もともと天の神、つまり空の神だった。百科事典の天神信仰の項目は、もっとはっきり書く。天神信仰とは、雷神に対する信仰のことだという。清涼殿に雷が落ちた事件をきっかけに、道真の怨霊は、北野に祀られていた火雷神と結びつけて考えられるようになった。
そうだとすれば、話はつながる。天神さまは、学問の神である前に、空から雷を落とす神だった。空を飛ぶ人の安全を、空の神に祈る。昭和の初めの立川の人々がそこまで考えていたかどうかは、わからない。ただ、鬼門除けの天神さまに航空の殉職者を合わせて祀ると読んだとき、私は少しも突飛だとは思わなかった。雷の神の隣に、空で命を落とした人々が座る。席次としては、これ以上ない。
勧請した家についても、少しだけ書いておく。記録のサイトは、それが板谷家であり、江戸時代に勧請したと書く。立川の古い家が、自分の屋敷の鬼門、つまり北東の方角の守りとして、京都から天神さまを迎えた。北野天満宮そのものが都の北西を守る社だったことを思うと、方角の守り神が、時代を下って、別の家の別の方角を守っていたことになる。
だが、それは畑の中の屋敷の話だ。その屋敷のすぐそばに、ある日、飛行場ができた。大正11年(1922)、立川に陸軍の飛行第五聯隊がやってくる。立川市の散歩コースの案内は、「空の都立川」と呼ばれたのは、ここに飛行第五聯隊が置かれていたからだと書いている。屋敷の天神さまは、気がつけば、日本でもっとも新しい乗り物の、すぐ隣にいた。
ここで、一つの疑問がわく。航空の殉職者を祀るなら、国にはもっと大きな社があったはずだ。なぜ、飛行場のそばの小さな天神さまだったのか。
靖国に入れなかった人たち──各地に航空神社が生まれた理由
答えのかけらは、百科事典の短い一文にあった。飛行機が発明されてから航空事故が相次ぎ、軍隊をはじめ多くの殉職者が出た。だが、その御霊は靖国神社には祀られなかった。だから、各部隊や学校で慰霊し、功績をたたえるために、各地に航空神社がつくられた、と。

写真: たてしょ / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons
戦ではなく、訓練や試験の飛行で落ちた人たちだ。戦死ではないから、靖国には入らない。その人たちを誰が祀るのか。その問いに、それぞれの土地が、それぞれの答えを出した。
いちばん大きな答えは、東京の新橋にある。日本航空協会の公式サイトによれば、昭和6年(1931)8月1日、帝国飛行協会の理事会が航空神社をつくることを決めた。明治神宮を造営したときの残りの木を譲り受け、協会の飛行館の屋上に社を建てた。同じ年の11月7日に鎮座祭が行われ、このとき合わせて祀られた航空殉職者は325柱だった。社は今も、新橋の航空会館の屋上にある。航空功労者も加えた霊璽簿の総数は、6,367柱になるという。
公式サイトには、思わず二度読んだ一行がある。航空業界への就職を目指す人をはじめ、空の安全、すなわち「落ちない」にあやかって、受験の合格祈願にも参拝してもらっている、というのだ。空の安全と受験の安全は、たしかに同じ一語で祈れる。ここでもまた、空の神さまと受験の神さまが、手を結んでいる。天神さまの来歴を読んだばかりの私には、偶然とは思えなかった。例大祭は毎年、9月20日の空の日に行われている。
抄史には、もう一つ見落とせない記録がある。昭和49年(1974)9月20日、航空神社の神霊は、靖国神社の境内の鎮霊社に仮に移され、それから8年のあいだ、例祭はその社の前で行われた。靖国には祀られなかった空の殉職者たちが、ひととき、靖国の境内の小さな社に身を寄せていた。昭和58年(1983)8月、航空会館の屋上に新しい社殿が建ち、神霊はふたたび屋上へ戻った。
もう一つの答えは、隣の埼玉にある。所沢の北野天神社の公式サイトによれば、所沢の航空神社は昭和12年(1937)、日本で初めて公式の飛行に成功した徳川好敏の宿願によって、所沢陸軍飛行学校に建てられた。陸軍航空隊の殉職者と戦没者、4,956柱を配祀している。社殿は、伊勢神宮と武蔵一宮氷川神社の御用材でつくられた。
徳川好敏の名は、日本の空の歴史の最初のページに出てくる。百科事典の項目によれば、明治43年(1910)12月19日、代々木練兵場で行われた公式の飛行の記録会で、日野熊蔵とともに飛行に成功し、これが日本で最初の動力飛行として認められた。日本の最初の公式飛行に名を残した人が、のちに、空で命を落とした人々のための社を願った。最初に空へ上がった者には、あとに続いて落ちた者たちの顔が見えていたのだろう。
この社の流転は、そのまま日本の空の戦後史になっている。昭和20年(1945)9月3日、入間の陸軍航空士官学校にあった航空神社は、進駐軍の接収を避けて、所沢の北野天神社の境内へ移された。北野天神社の宮司は、大正6年(1917)にはすでに所沢飛行場で航空殉職者の慰霊祭の斎主を務めていたと、祝詞から分かっているという。昭和40年(1965)11月3日、軍関係の霊位牌や霊名簿は奈良の航空自衛隊幹部候補生学校へ移され、昭和63年(1988)には入間基地の修武台記念館へ移った。そして令和6年(2024)、御霊は北野天神社の航空神社に戻り、例祭がふたたび行われるようになった。
所沢でも、空の神社の世話をしたのは天神さまだった。所沢は北野天神社、立川は北野天満宮から勧請したと伝わる天神さま。ふたつの飛行場の殉職者が、どちらも菅原道真の社に身を寄せている。一つなら偶然で済む。二つ並ぶと、偶然という言葉のほうが頼りなく見えてくる。
さらに古い答えが、京都の八幡にある。国土交通省の観光庁がまとめた多言語の解説文によれば、飛行神社は、日本の航空の先駆者、二宮忠八(1866〜1936)がつくった。忠八は明治24年(1891)、ゴム動力の模型飛行機「烏型」を飛ばし、明治26年(1893)には「玉虫型」をつくった。実物大の機体の製作を進めていたが、明治36年(1903)、ライト兄弟の成功の知らせが届く。
百科事典の二宮忠八の項目は、もう少し人間くさい話を伝えている。忠八は兵役中の野外演習の昼食どき、羽ばたかずに滑空するカラスを見て、翼で風を受けとめれば飛べるのではないかと考えた。模型のプロペラを回すゴムには、陸軍病院に勤めていた忠八が、聴診器のゴム管を流用したという。日本の空の最初の一歩は、聴診器から始まった。忠八は軍に飛行機の研究を上申したが、取り上げられなかった。軍がその研究を評価し、忠八を表彰したのは、大正11年(1922)のことだ。立川に飛行場ができた、その年である。飛行の時代が来て、事故で命を落とす人が増えていくことに、忠八は心を痛め続けた。そして大正4年(1915)、この神社を建てた。
解説文によれば、飛行神社は国籍を問わず、世界中の航空事故の犠牲者を祀っている。本殿には三つの座があり、中央は空の神である饒速日命、右は空の犠牲者と航空の先駆者たち、そして左は、日本の製薬業の功労者だという。忠八は若いころ叔父の薬の店で働き、のちに資金をためるために薬の仕事に就いた。空の神社に、薬の神さまも同居している。人生で世話になった相手を、全員招いたのである。義理堅いにもほどがある。
京都の1915年、新橋の1931年、所沢の1937年。空の殉職者を祀る社は、二十年ほどのあいだに、あちこちで生まれていた。立川の航空神社が生まれたと伝わる昭和の初めは、ちょうどその真ん中にあたる。では、そのころの立川の空は、どんな空だったのか。そこには、この街の人がほとんど知らない名前が一つ、隠れていた。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。




