立川の歴史を歩く(出典つき年表) 畑と桑の村は、なぜ百年で多摩の中心になったのか

立川の歴史を、縄文の台地から立川氏と普済寺、江戸の柴崎村・砂川村と玉川上水、明治の立川駅、空の都と呼ばれた立川飛行場、米軍基地と砂川闘争、返還と再開発まで歩くルポ。立川市はいつできたのか(1940年12月1日市制、1963年5月1日砂川町を編入)、名前の由来も。全行に出典つきの年表を添えた。

立川は、明治の半ばまで神奈川県だった。日本で最初の定期旅客便は、羽田ではなく立川から飛んだ。首都が非常の日、国の災害対策本部が最後に移る先も、立川にある。

どれも、立川に住む人でさえあまり知らない。東京の人に立川のことを尋ねても、たいていは中央線の、どこか西のほう、で話が止まる。立川に住む人のほうも、自分の街を語るとき、どこか遠慮がちになる。駅前に百貨店がある。大きな公園がある。それから、と言いかけて、口が止まる。

私もその一人だった。立川について知っていることを紙に書き出してみたら、三行で終わった。モノレール。昭和記念公園。駅が大きい。旅人としては恥ずかしい在庫である。

ところが、市の年表を一行ずつたどっていくと、この街の顔つきがまるで変わって見えてくる。明治の半ばまで、ここは畑と桑と雑木林の村だった。それが、百年あまりのあいだに、多摩地域の交通と商業の中心になった。市の公式の紹介文は、立川駅を「多摩地域の交通の要衝」と書き、駅のまわりを「多摩地域の商業の中心」と書いている。畑と桑の村が、なぜ百年で多摩の中心になったのか。私はその問いを抱えて、時代を一つずつ歩いてみることにした。

先に、いちばん多い質問に答えておく。立川市はいつできたのか。立川町が市制を施行したのは1940年(昭和15年)12月1日である。いまの市域になったのは、1963年(昭和38年)5月1日、北多摩郡砂川町を編入したときだ。ただ、日付だけでは何も分からない。この街が「立川」になっていく本当の物語は、もっと前から始まっている。

立川の歴史は、平らな台地から始まる

立川市の地形を、市は「平坦です」と一言で片づけている。南に多摩川、北に玉川上水。その間に、武蔵野台地の端がほとんど起伏なく広がる。市内でいちばん高い場所は西砂町4丁目付近の124.7メートル、いちばん低い場所は錦町6丁目付近の64.9メートル。差はおよそ60メートルあるが、街を歩いて坂らしい坂に出会うのは、多摩川に向かって段丘が落ちる南の崖のあたりくらいだ。市内の散歩道の案内には、砂川にある高さ10メートルほどの築山が「山」と書かれている。10メートルで山の称号を独占できる街は、そう多くない。

この平らさを、どうか覚えておいてほしい。あとで何度も出てくる。

人の暮らしは古い。錦町と羽衣町にまたがる向郷遺跡では、旧石器時代、約1万3千年前の人の痕跡が見つかっている。縄文時代の集落の跡も、柴崎町の大和田遺跡と向郷遺跡で確かめられている。奈良・平安時代の集落も、柴崎町の大和田遺跡と下大和田遺跡、富士見町の台の下遺跡で見つかった。どれも市の南、多摩川寄りの町である。人は昔から、川の水に近い台地の縁を選んで住んだように見える。北の広い台地は、長いあいだ、人の住めない野原だった。その理由は、もう少しあとで分かる。

文字に残る歴史の最初の一行は、神社である。柴崎町の諏訪神社は、弘仁2年、西暦811年に信州の諏訪から神を迎えたと伝える。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にも、弘仁二年七月二十七日にこの村に鎮座した、と書かれているという。甲武鉄道が立川に駅をつくる、千年以上も前のことだ。建長4年(1252年)には、柴崎町に八幡神社が建てられた。立川の古い時間は、いまの駅の南側、柴崎町に積み重なっている。

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立川という名前の由来は、五つある

中世の立川には、立川氏という武士がいた。武蔵七党の一族とされ、いまの普済寺のあたりに館を構えていたと考えられている。文和2年(1353年)、その立川氏が一族の菩提寺として、鎌倉の建長寺から禅僧の物外可什を招いて開いたのが普済寺だと伝わる。境内には、延文6年(1361年)の銘を持つ六面石幢がある。立川市でただ一つの国宝である。普済寺はかつて「普濟寺版」と呼ばれる経典を刊行し、この地方の仏教文化の中心だったと市は書く。多摩川の段丘の上で、六百年以上前に、ここは本を刷る寺だった。

普済寺にある立川市でただ一つの国宝、六面石幢(2016年撮影)
普済寺にある立川市でただ一つの国宝、六面石幢(2016年撮影)
写真: Nesnad / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

立川の名前は、この立川氏から来たのだろうか。私はそう思い込んでいた。ところが市の公式の紹介を読むと、話はそう簡単ではない。市教育委員会の『立川の地名』には、多摩川を「日の経(たて)の川」と呼んだという「たてかわ説」、普済寺に館(たち)があったからという「館(たち)川説」、多摩川の早い瀬に由来する「湍川(たぎちかわ)説」、東の川を意味したという「東の川説」、そして立川氏が住んでいたからという「立川氏説」が並んでいる。そのうえで市は、こう結んでいる。いずれの説も確証に欠け、正しいことは分かっておりません。

自分の名前の由来を、公式に「分からない」と言い切る市役所の潔さを、私は嫌いではない。五つの説のうち三つまでが、多摩川を指していることにも気づく。この街は名前の段階から、川と台地の上に立っていた。

中世の立川は、戦の舞台でもあった。享徳4年(1455年)と永正元年(1504年)、多摩川の河原で二度にわたり立河原の合戦が起きたと市の年表は記す。天正14年(1586年)の冬には、武蔵野の野火が諏訪神社の社殿と古い記録を焼いた。神社の由緒によれば、本殿が建て直されたのは寛文10年(1670年)である。八十年あまり、神社は焼け跡のまま時を過ごしたことになる。

ただ、そのころの立川はまだ、地図の上の小さな点にすぎない。点が線になるのは、徳川の世になってからだ。

江戸の柴崎村と砂川村、玉川上水がつくった長い村

江戸時代のはじめ、徳川家康は青梅と五日市の両街道を整え、慶長5年(1600年)には甲州街道を起工した。街道が通ると、人と物が動く。いまの立川市の土地には、大きく二つの村があった。南の段丘の上には柴崎村。北の台地には、のちの砂川村である。

南の柴崎村は、普済寺と諏訪神社を中心にした古い村だった。名主は、鈴木家と中嶋家が一年交代で務めたと市は書く。文化6年(1809年)には、幕府の役人で文人の大田南畝が中嶋家の屋敷を訪れている。大欅から普済寺に通じる道には箪笥職人が多く住み、「たんす横町」と呼ばれて柴崎村の中心街として栄えた。諏訪神社の獅子舞も、元禄年間(1688〜1704年)ごろに始まったと市の年表は伝えている。

北は、事情がまるで違う。慶長年間(1596〜1615年)、岸村(いまの武蔵村山市)の百姓、村野三右衛門が砂川新田の開墾を始めた。けれども、台地の上は地下水が深い。市は、地下水位が低くて人が住めなかった武蔵野台地に、玉川上水から多くの分水が引かれた、と書く。さきほど、北の台地が長く野原だった理由はあとで分かると書いた。答えは、水である。

その北の台地を一変させたのが、承応2年(1653年)に玉川庄右衛門と清右衛門の兄弟が掘った玉川上水だった。羽村から四谷大木戸まで約43キロ、標高差約92メートルを、8か月ほどで掘り上げたと市は書いている。上水の開通は翌承応3年(1654年)、そこから水を引く砂川分水が明暦3年(1657年)に通った。

水が来ると、村ができた。砂川村は五日市街道と分水に沿って、敷地が短冊形に並ぶように計画的につくられた。横に細長く延びたその村を、地元の人は「二里八町・長新田」と呼んだと、市史編さんの広報紙は伝えている。砂川という名も、市内を流れる残堀川が砂と石のむき出しになった「砂の川」だったことに由来すると言われる。元禄2年(1689年)の検地では、戸数175戸。畑229町あまりに対して、萱野が73町あまり。まだ半分は野原のような村だった。

可笑しいのは、この村が一時、尾張藩の鷹場だったことである。寛永10年(1633年)、砂川新田は尾張藩の鷹場になった。名古屋の殿様の狩り場が、多摩の台地の上にあった。鷹場役人が見回る道は、ふだん村人が通ってはいけない道だったという。「鷹の道」という名が、役人の横柄さの代名詞に使われたこともあったと、市の散歩道の案内はわざわざ書き添えている。三百年たっても恨みは記録に残る。

享保年間(1716〜1736年)には、徳川吉宗の新田開発の政策で、砂川の周りに新しい新田がいくつも拓かれた。元文元年(1736年)、砂川新田は砂川村になった。翌元文2年(1737年)には柴崎分水も通る。柴崎分水の水は、台地の上の柴崎村では飲み水に、台地の下では田の水に使われた。南の古い村と北の新しい村は、一本の上水でつながった。

明治になっても、砂川は農の村だった。市の資料館は、砂川が明治時代にかけて桑苗の生産や養蚕、機織りを中心に発展したと書く。安政7年(1860年)には、常陸国から養蚕の神を祀る蚕影神社が砂川の阿豆佐味天神社の境内に迎えられている。冒頭で私が「桑の村」と書いたのは、ここから取った。

では、この静かな農村に、何が起きたのか。最初の変化は、鉄の道からやって来た。

明治22年、立川駅ができて、柴崎村は立川村になっていた

明治の初め、柴崎村と砂川村は、いまの私たちが聞くと首をかしげる道をたどる。明治元年(1868年)に韮山県へ、明治4年(1871年)に神奈川県へ編入された。韮山県の役所は伊豆の韮山にあった。三多摩が神奈川県から東京府へ移ったのは、明治26年(1893年)である。立川が「東京の立川」になるまでに、四半世紀で二度、県が替わった。

明治3年(1870年)、普済寺に郷学校が開かれた。いまの市立第一小学校の始まりである。寺が学校になり、やがて役場にもなる。明治14年(1881年)、柴崎村は名を立川村と改めた。理由は年表に書かれていない。ただ、このとき「立川」という名が、初めて村の名として地図に載った。

明治22年(1889年)、甲武鉄道、いまのJR中央線が開通し、立川に停車場ができた。同じ年、市制・町村制が施行され、立川村は独立した村になった。村役場は、普済寺の心源庵を借りて建てたという。千年の寺の一室で、近代の村の行政が始まった。

できたばかりの駅のまわりがどんな場所だったか。手がかりが一首の歌に残っている。明治39年(1906年)、早稲田の学生だった若山牧水が、友人と奥多摩へ旅する途中で立川駅に降り、茶屋で休んだときの歌だ。

立川の驛の古茶屋さくら樹の もみぢのかげに見送りし子よ

駅には、桜の木の下に茶屋があった。その歌碑は、昭和25年、市制10周年を記念して有志が建てたと市は書く。百貨店とデッキの駅しか知らない私には、桜の葉が色づく小さな駅の姿が、ずいぶん遠い国の話のように思える。

鉄道は、一本では終わらなかった。明治27年(1894年)に青梅鉄道、昭和4年(1929年)に南武鉄道、昭和5年(1930年)に五日市鉄道が、次々と立川駅に乗り入れた。市は、立川が多摩地域の交通と経済の中心として発展した理由の一つに、甲武鉄道の開通を挙げている。四方から線路が集まる駅は、それだけで人を呼ぶ。明治34年(1901年)には東京府立第二中学校、いまの都立立川高校が開校した。

それでも、明治の立川はまだ村だった。明治43年(1910年)、砂川の製糸業は閉鎖されている。大正4年(1915年)に立川村に電気が来て、大正10年(1921年)に電話が通じた。大正9年(1920年)からは東京府の農事試験場が中野町から移ってきた。村は少しずつ、東京の西の受け皿になり始めていた。

そして大正10年の秋、ある決定が、この村の行く先をまるごと変えることになる。

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