立川競輪場(立川けいりん)は1951年に全国59番目の競輪場として開設され、年末のKEIRINグランプリ発祥の地で、開催回数も最多。戦災復興のために生まれ、1,300億円を超える収益で図書館や学校を建てた来歴、400メートルのバンクの特徴、行き方と市民の丘まで、資料でたどる立川さんぽ特集の一編。
立川の中央図書館は、自転車が建てた。柴崎の市民体育館も、いくつもの小中学校の校舎も、ごみ処理施設も、駅の周りの街並みも、少しずつ自転車が建てた。
大げさに聞こえるだろうか。だが、立川市自身がそう書いている。市営の競輪は、開設から平成22年度までに、事業の収益から1,300億円を超える金額を市の一般会計へ繰り出し、それが図書館や体育館や学校になった、と。
立川に何があるのか、と聞かれたら、私はたぶん少し口ごもる。昭和記念公園がある、モノレールがある、と答えたところで、相手の顔に「それで」と書いてあるのが目に浮かぶ。だが、言いそびれてはいけないことがある。年の瀬、全国の競輪ファンがテレビの前で息を詰める一億円のレースは、この街で始まったのだ。
なぜ、焼け跡の市は自転車に未来を賭けたのか。そして、その賭けは街に何を残したのか。私は駅の北口を出て、東へ歩きはじめる。
立川競輪場(立川けいりん)へ、駅から歩いて15分
立川競輪場の住所は、立川市曙町3丁目32番5号である。公式サイトは、JR立川駅と多摩都市モノレールの立川北駅から徒歩15分と案内している。開催日には、立川北駅前から無料バスも出て、こちらは10分ほどだ。西武線の玉川上水駅からも、無料バスで15分ほどで着く。
駅前のにぎわいを抜けて北へ向かうと、商業ビルの背が少しずつ低くなり、住宅の多い街になる。その先に、大きなスタンドの壁が現れる。公式サイトの名乗りは「たちかわ競輪」。ひらがなの柔らかさが、どこか市民プールの看板に似ている。立川競輪場とも、立川けいりんとも呼ばれ、どれでも通じる。
ところで、競輪とは何のための事業なのか。私は長いあいだ、ただの公営の賭け事だと思っていた。法律を開くと、別の顔が出てくる。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
1951年、焼け跡の市は自転車を選んだ
競輪は、自転車競技法という法律に基づいて行われる。その法律は目的として、自転車その他の機械の改良と輸出の振興、体育事業その他の公益の増進に並べて、地方財政の健全化を掲げている。つまり競輪は、はじめから自治体の財布を立て直すための仕組みとして設計されていた。
東京都十一市競輪事業組合と立川市公営競技事業部がまとめた資料によれば、競輪は昭和23年に九州の小倉競輪場で始まった。立川競輪場が開設されたのは、昭和26年、1951年の10月である。全国で59番目だった。小倉から数えて、わずか3年あまりで59番目。戦後の自治体がどれほど切実に財源を求めていたかは、この速さを見ればわかる。
立川の切実さには、理由があった。総務省の戦災の記録によれば、陸軍の飛行場と軍需工場が集まっていた立川は、1945年2月16日から、13回にわたって空襲を受けた。4月4日の空襲では、富士見町を中心に大きな被害が出ている。戦争が終わると、飛行場は米軍に接収された。
立川市の「立川競輪事業の将来像について」(平成23年12月)は、競輪場の開設の目的をこう書いている。戦災復興のため、教育施設、道路、下水道、市庁舎の建設を目的に、昭和26年に開設した、と。学校を建て、道を通し、下水を引き、市役所を建てる。そのための金を、自転車が稼ぐ。それが、この競輪場に最初に与えられた仕事だった。
1951年と言えば、立川の街の真ん中には、まだ米軍の基地があった時代だ。基地が全面的に返されるのは1977年のことになる。基地の金網の外側で、市は自分の力で街をつくる手段を探していた。その手段の一つが、400メートルの楕円だった。
競輪の仕組みは、外から見るより入り組んでいる。立川市の資料の図によれば、国の経済産業省が指導と監督にあたり、公益財団法人のJKAが選手の登録やあっせん、訓練を受け持つ。レースそのものの運営は日本自転車競技会に委託され、選手は日本競輪選手会に属する。その真ん中に、施行者と呼ばれる自治体がいる。立川の場合、それが立川市である。市は、選手と出場の契約を結び、賞金を払い、車券を売る。つまり立川けいりんの主催者は、市役所なのだ。市民税の通知と同じ差出人が、年末の一億円のレースの胴元でもある。
では、その楕円は、実際にどれほどのものを街に返したのか。
1,300億円で、図書館と学校が建った
立川市によれば、市営の競輪は開設から平成22年度までに、1兆6,000億円もの車券を売った。そして、その収益から1,300億円を超える金額を、市の一般会計に繰り出した。前述の組合と市の資料は、令和3年の時点で、一般会計への繰り出しの合計を約1,330億円としている。
使い道も、市は具体的に挙げている。柴崎市民体育館、総合福祉センター、中央図書館、小中学校の校舎や体育館、ごみ処理施設、立川駅周辺や基地跡地の市街地の整備、上下水道。立川で育った人なら、このどれかに一度は世話になっている。体育館の床で転び、図書館で居眠りをし、校舎の窓から校庭を眺めた子どもたちは、知らないうちに、自転車の上の選手たちに借りをつくっていたことになる。私がこの街の図書館で本を借りれば、借りは二重になる。本と、競輪と。
繰り出しの額がいちばん大きかったのは、平成元年度の78億円である。1年で78億円。市の財布に、毎年のように大きな塊が届いていた時代があった。
競輪場そのものも、稼いだ金で自分の姿を整えていった。立川市の資料によれば、本館は昭和41年、中央スタンドは昭和54年、バックスタンドは平成3年に建てられた。競輪の発足当初は競輪場でしか車券を売らず、昭和40年代までは来場者が増え続けた。そこで立川競輪場は、他の競輪場に先駆けて施設の整備を進めたという。早く建てたから、多くの人が来た。多くの人が来たから、さらに建てられた。
人の数も、今の感覚からすると桁が違う。組合と市の資料によれば、立川競輪の入場者数がいちばん多かったのは昭和49年度で、年間152万人。売上の頂点は少し遅れて、平成4年度の1,172億円だった。
昭和の競輪場のにぎわいには、はっきりした理由がある。市の報告によれば、競輪の発足当初、車券は競輪場の中でしか売られていなかった。ほかの競輪場のレースを場外で売る仕組みが一部で始まるのは昭和47年ごろ、電話で車券が買えるようになるのは昭和62年である。あのころ、レースに賭けたい人は、立川駅から曙町の街を抜けて、自分の足でスタンドまで来るしかなかった。開催日の北口から競輪場へ向かう道は、年に何十万という人の、同じ方向を向いた背中が続いていたはずだ。いま同じ道を歩くと、聞こえるのは住宅街の生活の音のほうが大きい。
そのスタンドは、立川市だけのものでもなかった。市の資料によれば、三鷹、西東京、福生、狛江、東大和、清瀬、東久留米、武蔵村山の8市でつくる東京都市収益事業組合が、昭和46年度から平成18年度まで、立川競輪場で毎年5回の開催を受け持っていた。立川のバンクを回った選手の脚は、多摩のあちこちの市の財布も少しずつ温めていたのである。
景気のいい話ばかりに聞こえるだろう。だが、この競輪場の名を全国に知らしめたのは、売上の大きさではなかった。年の瀬の、ただ一つのレースである。その話の前に、選手たちが走る楕円そのものを見ておきたい。
400メートルのバンクと、31度の壁
競輪のコースは、バンクと呼ばれる。公式サイトの施設案内によれば、立川のバンクは1周が平均的な400メートルで、直線の距離は58メートル。直線が長いため、後ろから追い込む選手が有利とされている、と公式は説明する。

写真: Sorani Sh / CC0 / Wikimedia Commons
目を引くのは傾きだ。直線部分の傾斜は2度17分27秒。ところがカーブの中ほど、センター部では31度13分6秒になる。31度。スキー場なら上級者向けの看板が立ちそうな壁を、選手たちは自転車で駆け抜けていく。私なら、止まって立っているだけで滑り落ちる自信がある。
公式の表には、カーブの種類として「レムニスケート曲線」と書かれている。数学の世界で、横倒しの8の字のような形を描く曲線の名前だ。競輪場の案内に、数学の用語がさらりと載っている。賭けの場の楕円は、実は数式で引かれた線でできている。
幅も細かく決まっている。ホーム側が9.66メートル、バック側が8.66メートル、センターが7.70メートル。小数点以下まで並ぶ数字を眺めていると、ここが賭けの場である前に、精密に設計された競技場であることを思い出す。
数字で読む 立川けいりん
- 1951 — 開設の年。全国で59番目。小倉の1号から、たった3年でここまで来た。
- 31度13分6秒 — カーブのセンター部の傾き。分と秒まで刻まれた壁を、選手は数秒で通り過ぎる。
- 58メートル — 直線の長さ。追い込む選手には、この58メートルが永遠にも一瞬にもなる。
- 21 — KEIRINグランプリが立川で開かれた回数。2位の倍を超える。
- 30,600人 — 改修前のスタンドの定員。平成23年ごろ、普通の開催日の入場者は4,000〜5,000人程度だった。一人あたり、だいぶ広い。
- 1,300億円超 — 一般会計への繰り出しの合計。図書館の本の何冊ぶんかは、考えないことにする。
旅人の寄り道クイズ
立川のバンクのカーブ、そのいちばん傾いたセンター部の傾斜は、およそ何度か。
- A 約11度
- B 約21度
- C 約31度
答えは、この記事の終わり近くで。
KEIRINグランプリは、立川で始まった
毎年12月30日、その年に活躍した9人の選手だけが走る一発勝負のレースがある。KEIRINグランプリである。優勝賞金は、今では1億円を超える。
立川市は、このレースを「立川競輪場を発祥の地とした年末恒例のグランプリ」と書く。始まったのは昭和60年度、1985年の12月30日。第1回の舞台は立川で、勝ったのは中野浩一だった。Wikipediaは、このグランプリ’85が突発的に企画された大会で、立川がその開催を引き受けたことから発祥の地になった、と書いている。誰かが急に言い出した年末の大一番を、昭和の終わりの立川が「うちでやろう」と受けた。その引き受けが、40年続く年の瀬の行事になった。
それから40年あまり。デイリースポーツが掲げる歴代の一覧を数えてみると、2025年の第41回までのうち、立川が会場になったのは22回にのぼる。そのうち1989年の第5回は、立川での開催が予定されながら中止になっているから、実際に走ったのは21回。次に多い平塚が10回、京王閣が5回だから、立川は2位の倍を超えて開いてきたことになる。とりわけ1990年代は、1993年から2000年まで8年続けて立川だった。年末の東京の西の端に、毎年、日本一を決める日が来ていた。
21世紀に入ってからの立川のグランプリを、同じ一覧で拾ってみる。2002年、2004年、2007年、2010年、2013年、2016年、2019年、そして2023年。ほぼ3年に一度の割合で、年末の大一番は発祥の地へ帰ってきている。2019年の勝者は佐藤慎太郎、2023年は松浦悠士だった。持ち回りになってからも、立川は最多開催の座を一度も譲っていない。
ほかの大きなレースも、この街は迎えてきた。立川市によれば、皮切りは昭和31年度の第9回関東甲信越地区争覇競輪だった。その後、日本選手権競輪を昭和53年度、59年度、62年度、平成4年度、13年度、17年度の6回、オールスター競輪を昭和56年度に開いている。
グランプリは、市の財布にとっても特別なものだった。平成23年の市の試算では、グランプリを一度開けば4億円から6億円の収益が見込まれた。普段の年の車券の売上が200億円を切った平成21年度の翌年、グランプリを開いた平成22年度は304億円に戻っている。年末の数日が、一年の帳尻を合わせる。どこかの家計簿で見た話だ。桁だけが違う。
ただ、グランプリを開きたい競輪場は、立川のほかにも増えていった。市の資料は、近年は他の競輪場での開催が調整され、数年ごとの開催になったと書いている。発祥の地は、今や持ち回りの一つでもある。
そして、立川けいりんにも、静かな冬の時代が来ていた。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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