立川はどんな学校の街か。府立二中として生まれ、制服の無いまま百二十年を越えた都立立川高校、90年灯った夜の教室「立定」、夜間部を持っていた国立音楽大学が立川へ来るまで、南極と日本語を学ぶ大学院生がいる緑町まで。学校の公式資料と都の計画でたどる、立川の学び舎の来歴。
立川の伝統校には、制服が無い。
学校のホームページに、そう一行で書いてある。都立立川高等学校には、制服はありません。続けて、華美を競い合うような雰囲気をつくることは厳に慎まねばなりません、とある。自由と、釘。その二つを同じ段落に並べるあたりに、この学校の百二十年が透けて見える。
立川を「学生の街」と呼ぶ人は、あまりいない。駅前を歩いているのは、勤め人と買い物客と、昭和記念公園へ向かう家族連れだ。市内の駅に、大学の名を冠したものは一つも無い。では、この街は学び舎と縁が薄いのだろうか。私はそう思いかけて、学校の沿革をいくつか開いてみた。すると、昼の時間割だけを見ていては見えない学校が、次々に出てきた。夜に始まる教室。夜間部を持っていた音楽大学。南極を研究する大学院生。立川の学び舎は、どうやら時計の針の別の場所にある。
立川の学校の筆頭、都立立川高校──制服の無い百年校
都立立川高校の沿革は、明治33年(1900)5月、東京府第二中学校として設置が認められたところから始まる。開校は翌明治34年(1901)5月。最初の年の生徒は、第1学年が126名、第2学年が27名だった。7月に東京府立第二中学校と名を改める。府立二中、という呼び名はここから来ている。この学校がなぜ立川に置かれたのかは、特集の駅の回で書いた。鉄道で通いやすく、校地の寄付があり、繁華街が無かったからである。
明治38年(1905)4月、第1回の卒業式で送り出されたのは18名。初年度に2年生として入った27人の学年が、いちばん先に卒業したことになる。いまの立川高校が一学年に何百人を数えるのかを思えば、最初の卒業式は、教室ひとつで足りたはずだ。
校歌は明治43年(1910)に定められた。作詞は前田恒樹、監修は土井晩翠、作曲は南能衛。一番は多摩川を歌い、流れて息まぬ水を「無言の訓(さとし)」と呼ぶ。二番は富士山を歌い、こちらは「有形の教」だという。川からは言葉にならない教えを、山からは形のある教えを受け取れ、ということらしい。立川の地形を、そのまま教育方針にしてしまった。校庭から見える二つの風景に、校歌が意味を与えている。
大正13年(1924)4月、この学校は「自学自習による学習方式」を採り入れた。沿革には、昭和3年(1928)まで、と添えてある。どんな授業だったのか、沿革はそれ以上を語らない。だが、生徒が自分で学ぶことを、百年前に一度、学校の方式として試していた。いまの学校案内は、校風を「質実剛健」と「自主自律」と書く。自主自律という言葉の根は、案外このあたりにあるのかもしれない。
昭和9年(1934)に鉄筋コンクリートの校舎の工事が始まり、昭和13年(1938)に新校舎が完成する。戦時中の昭和18年(1943)、都制の施行とともに東京都立第二中学校になり、戦後の昭和23年(1948)に東京都立第二新制高等学校、翌昭和24年(1949)に男女共学になった。昭和25年(1950)1月、いまの名前、東京都立立川高等学校になる。同じ年に定めた校章は、朝日の光「旭光」の中央に「立高」の二文字を置いたものだ。
学校の案内に載る卒業生の言葉には、校則がほとんど無く、のびのびと高校生活を送れた、というものがある。別の卒業生は、立高はよく自由だといわれるが、それは生徒が作り上げていくものだ、と書いている。制服の無い学校の生徒は、自由の説明まで自分でする。
自由の中身は、一年の行事表に出ている。6月に開校記念日と合唱祭、9月に演劇コンクールと文化祭、3月にクラスマッチ。校長のあいさつは、体育祭、合唱祭、演劇コンクール、文化祭を「生徒主体」の行事と書き、この学校は学業一辺倒の進学校とは異なる、と念を押す。進学指導重点校の校長が、勉強だけの学校ではないと自分から断っている。江戸東京博物館には、明治44年(1911)の創立十周年を記念した府立二中の絵葉書が残っていて、講演部、撃剣部、柔道部、野球部の姿が刷られている。部活の顔ぶれで十歳を祝った学校は、百年たっても、行事の数で自分を語るらしい。
施設の一覧を眺めて、私は一つの数字で手が止まった。駐輪場、400台収容。都内屈指の伝統校の施設紹介で、天文ドームや自習室と並んで、自転車の台数が誇らしげに書かれている。平らな武蔵野の台地で、多摩の生徒は自転車で学校へ来る。伝統校の朝は、四百台ぶんのブレーキの音から始まるのだろう。
ただ、この学校の歩みには、海と空の話がもう一つ挟まっている。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
房総の海と、防音の窓──立川高校の昭和
江戸東京博物館に残る府立二中の絵葉書の束には、部活の写真に混じって、明治45年度の「安房富浦水泳之景」という一枚がある。房総半島の富浦の海で泳ぐ二中の生徒たちだ。
多摩の内陸の中学生が、明治の終わりに、もう房総の海で泳いでいた。沿革をめくると、その続きが出てくる。昭和15年(1940)7月、千葉県安房郡西岬に清明寮が完成。昭和56年(1981)に一棟が増築され、平成24年(2012)7月には新築された。いまの学校行事の7月の欄には「臨海教室」の文字がある。学校は臨海教室を、伝統的な行事として挙げている。百年以上、夏が来るたびに、立川の生徒は南の海へ向かってきた。立川には海が無い。だから海の方から、学校の暦に入ってきた。
海の次は、山である。昭和35年(1960)12月に神城山荘が完成し、昭和56年に一棟が増築されている。海辺に寮、山に山荘。校歌が川と山を歌った学校は、施設でも地形を集めているように見える。
昭和の沿革で私がいちばん長く見つめたのは、昭和38年(1963)10月の一行だった。校舎防音改修工事着工、昭和41年3月完成。そのころ、立川の空にはまだ米軍の飛行機が飛んでいた。市の歴史民俗資料館の年表によれば、米軍が立川での飛行停止を発表するのは昭和44年(1969)10月である。窓を閉ざして、エンジンの音を締め出して、授業を続ける。教室の窓ガラスの厚さにも、基地の街の昭和が刻まれている。
昭和45年(1970)1月には、火災で講堂が焼失した。同じ年の3月に体育館が新しく完成している。そして昭和63年(1988)に校舎の全面改修が始まり、平成4年(1992)に創立90周年と新校舎の落成を祝った。
ここで、あのころといまを並べてみる。
あのころ。飛行機の音を防ぐために窓を直し、講堂を火事で失い、夏は房総の寮へ泳ぎに行った。
いま。平成15年(2003)に都の進学指導重点校になり、平成30年(2018)に文部科学省のスーパーサイエンスハイスクールの指定を受け、令和4年(2022)には創造理数科を開いた。校長のあいさつによれば、同じ令和4年度には、国際生物学オリンピックの日本代表になった生徒が出ている。窓の外の空は静かになり、校舎の屋上には天文ドームがある。かつて爆音を締め出した学校が、いまは望遠鏡で空を見上げている。
校長は、目指す学校像として「7つのC」を掲げている。挑戦する心、協働する姿勢、集中力、創造性、自信、批判的思考力、市民としての義務を果たす力。英語にすると、どれもCで始まる。7つ並べてみせるあたり、理数科を持つ学校らしい几帳面さだ。
昼の立川高校の話は、ここまでにしよう。この学校には、日が暮れてから始まる、もう一つの歴史がある。
夜の教室「立定」──90年灯った定時制
立川高校の定時制課程は、昭和12年(1937)、東京府立第二中学校の夜間中学として開かれた。学校のあいさつによれば、地域では「立定(たちてい)」の名で親しまれ、これまでに6,700名を超える卒業生を送り出してきた。

写真: Nyao148 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
授業は午後5時20分に始まる。一日4時間、4年間かけて学ぶ。条件を満たせば、3年で卒業する道もある。1クラス30名、各学年2クラス。全日制と同じ校舎と、同じ広いグラウンドを使う。昼の生徒が自転車で帰っていったあと、同じ教室に別の生徒が座る。
学校の案内には、いくつか印象に残る言葉がある。給食は校内で調理され、温かく、安価で、できたてを食べられる。部活動には全国大会に出る部もある。そして、都では珍しく弁論大会を開いている。自分の主張を全校生徒に伝える大会だという。夜の教室で、温かい給食を食べ、全校の前で自分の言葉を話す。昼の学校が「7つのC」を掲げるなら、夜の学校には夕飯と演説がある。
通ってくる生徒は、さまざまだ。学校は、働きながら通う生徒、ほかの学校を中途で退いて卒業を目指す生徒、外国籍の生徒、不登校を経験した生徒など、事情も年齢もさまざまな生徒を受け入れてきたと書く。さまざまな国にルーツを持つ生徒が在籍し、教科の学習を通して日本語の習得を目指す生徒もいるという。教員12名に、養護教諭、栄養士、司書、スクールカウンセラー、ユースアドバイザーが加わって、生徒を見守ってきた。
その夜の教室が、閉じようとしている。東京都教育委員会の「都立高校改革推進計画」により、立川高校の定時制課程は令和7年度(2025)から生徒の募集を止めた。令和8年度に学んでいるのは、3年生と4年生だけだ。校長は、閉課程に向かう中にあっても、これまでと何ら変わらず生徒に寄り添う、と書いている。最後の4年生が卒業する春、90年近く続いた夜の灯が消える。
同じ錦町で、もう一つの学校が開いた。令和7年(2025)4月、都立立川緑高校が開校した。午前部、午後部、夜間部の三部制で、総合学科と単位制を組み合わせた定時制高校、いわゆるチャレンジスクールである。学校の案内によれば、多摩地区で初めてのチャレンジスクールで、主に不登校や中途退学を経験した生徒が、自分の目標を見つけて挑戦する学校だという。入試では学力検査や中学校からの調査書を使わず、学ぶ意欲を重んじる。
都教育委員会の計画の表を開くと、二つの学校が同じ計画の中に並んでいる。設置の欄に「立川地区チャレンジスクール、令和7年度、旧多摩教育センター敷地」。閉課程の欄に「立川高等学校、夜間定時制課程の閉課程により併置を解消」。同じ町の中で、一つの夜の教室が役目を終え、別の学校が朝と昼と夜に門を開く。どちらがどちらを継いだのか、計画の表は何も書いていない。私に言えるのは、立川では夜に学ぶ場所が、形を変えて残ったということだけだ。
立川緑高校には、マスコットがいる。名前は「COICOI(コイコイ)」。学校がある錦町にちなんで、錦鯉の妖精の姿をしているという。町名から鯉を連れてくる発想は、地名に真面目に向き合った結果だろう。隣には友だちの「WKWK(ウクウク)」もいる。夜の教室の90年が終わる町で、新しい学校は、まず鯉の妖精から始めた。
市の北の砂川にも、時間を選んで通う都立高校がある。都立砂川高校の定時制課程は、三部制と単位制の普通科だ。学校の案内によれば、Ⅰ部は朝8時30分から、Ⅱ部は10時10分から、Ⅲ部は午後2時25分から夜8時40分まで。一日6時間、週5日を基本に、3年で卒業することを勧めている。令和7年度からは、都のダイバーシティ推進校として、海外派遣の研修も始めた。
その砂川高校の案内に、こういう一文がある。制服があります。スカートとスラックス、ネクタイとリボンを選べる、と。百二十年の伝統校には制服が無く、時間を選べる定時制には制服がある。立川の学校は、こういうところで素直に並んでくれない。
立定の最後の学年にも、数字の上の小さな誇りがある。令和7年度の学校経営報告によれば、3年で卒業する三修制を選んだ生徒の卒業の実現率は100%だった。灯が消える前の教室で、目標を一つ、きちんと達している。
夜に学ぶ学校の話は、実は立川の北側にもう一つある。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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