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立川駅北口からモノレールの下を北へ延びるサンサンロードは、幅40メートル、長さ約550メートルの、車の入れない「道路」だ。2003年の開通、1,865通の応募から決まった愛称、市の木ケヤキと市の花こぶし、立川よいと祭り、冬のたちかわイルミネーションまで、来歴と歩き方を資料でたどる立川さんぽ特集の一編。
立川駅の北口に、車が一台も入れない、幅40メートルの「道路」がある。
北口を出て、歩行者デッキを渡り、階段を下りる。目の前に、広くて、まっすぐな道が一本、北へ延びている。頭の上をモノレールの軌道が覆い、両側に木が並び、その先は見通せないほど遠い。
広い。大通りが一本まるごと入りそうな幅がある。それなのに、車が一台もいない。歩く人と、自転車を押す人と、ベンチに座る人がいるだけだ。道路を名乗りながら、走っているものが一台もない。
この道の名前はサンサンロードという。立川の人なら誰でも知っている。だが、この道が書類の上では「都市計画道路」であり、番号を持ち、2003年の春に「開通」したことを知っている人は、そう多くない。
駅前の一等地に、車の通れない40メートルの道路をつくる。商いの理屈で考えれば、ずいぶん贅沢な話である。なぜ立川は、そんな道をつくったのか。そして、なぜその道は「サンサン」と呼ばれているのか。その問いを抱えて、モノレールの影の中を北へ歩きはじめる。
サンサンロードとは──幅40メートル、長さ約550メートルの「道路」
まず、この道の戸籍から見ておく。
立川市のまちづくりのパンフレット「たちかわシティ21」によれば、サンサンロードの正式な名前は「立8・1・1号都市軸線」という。緑川通りを起点に、多摩都市モノレールに沿って北へ向かう。幅員40メートル、延長約550メートル。自転車と歩行者のための専用道路として、平成15年、2003年の4月5日に開通した。
数字の並んだ名前には、意味がある。市が2004年にまとめた「都市軸沿道地域まちづくり誘導指針」は、ていねいに解説してくれている。最初の「8」は区分で、「特殊街路=自転車歩行者道」を表す。次の「1」は規模で、「道路幅員=40m以上」を表す。つまり「立8・1・1」とは、立川の、自転車と歩く人のための、幅40メートル以上の区分の、1番の道、ということになる。役所の番号にしては、なかなか誇らしい名乗りだ。
都市軸線というのは、都市計画道路の名前からきた呼び名である。軸。この道は、街の背骨として引かれた線なのだ。ただ、背骨では呼びにくい。そこで愛称が募られた。指針によれば、応募は1,865通。その中から選ばれたのが「サンサンロード」だった。
なぜ「サンサン」なのか。燦燦と降る陽の光なのか、太陽が二つ並んでいるのか。私の調べた資料は、そこまでは答えてくれない。頭の上をモノレールの軌道が覆い、日なたより日陰の多い道に「サンサン」。命名した人は、なかなかの楽天家である。もっとも、冬になると、この名前は別の意味で燦燦と輝きはじめる。その話は後にとっておく。
市のパンフレットは、この道を「市のシンボルロード」と呼んでいる。そして、季節には市の花のこぶしや草花が咲き、市民の憩いや出会いの場になっていると書く。同じパンフレットの巻末の概況を見ると、立川市の花はこぶし、市の木はけやきである。サンサンロードには、ケヤキが並び、こぶしが咲く。市の木と市の花が、一本の道の上でそろっている。
ここまでは道の自己紹介だ。では、この道は、何もない場所にいきなり引かれたのだろうか。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
基地の跡地に、背骨を一本引く
もちろん、何もない場所ではなかった。

写真: Dick Johnson from Tokyo, Japan / CC BY 2.0 / Wikimedia Commons
サンサンロードの両側は、かつて立川飛行場であり、戦後は米軍の立川基地だった。その来歴は、この特集のファーレ立川や昭和記念公園の回で歩いたので、ここでは道に関わるところだけを拾う。
ただ、一つだけ、昭和の北口の景色を置いておきたい。立川市の市史編さんの広報紙『たちかわ物語』には、昭和27年(1952)ごろの曙町二丁目の交差点の写真が載っている。いまのサンサンロードから少し東、ファーレ立川の玄関口にあたる場所だ。そこには米軍立川基地のメインゲートが面していて、米兵に向けた看板が並んでいた、と説明にある。北口の駅前には、「Souvenir Store」と掲げた外国人向けの土産物店も並んでいた。
北口が買い物の街の顔になっていくのも、昭和のことだ。街の来歴をまとめた不動産会社の資料によれば、昭和31年(1956)に伊勢丹立川店が北口で営業を始め、昭和47年度には、駅前の商店街の売り上げの約8割を北口が占めていた。
あのころ、北口の百貨店の先は、米軍の基地だった。交差点には米兵に向けた看板が並び、駅前の土産物店は英語の看板で客を待っていた。いま、同じ方角へ、誰でも歩いて通れる幅40メートルの道が延びている。通れないのは、車だけである。
話を道に戻す。立川市のパンフレットの年表によれば、立川基地が全面返還されたのは1977年11月。その年から、広い跡地をどう使うかの長い話し合いが始まる。
年表の始まりは、返還より1年早い。1976年11月、立川市は国の「第三次首都圏基本計画」で「核都市」に位置づけられた。基地がまだ返っていないうちから、国は立川を、首都圏の中で人と仕事を受け止める街のひとつに数えていたことになる。
年表を順に読むと、この道ができるまでの時間の長さがわかる。1981年11月、国営昭和記念公園と周辺の幹線道路が都市計画決定される。1982年10月、東京都が「多摩都心立川(T.T.T)計画」を発表する。Tが三つ。立川の頭文字と、多摩と、都心とを重ねたのだろう。名前にTを三つも並べるほど、都は本気だったらしい。1983年10月、昭和記念公園が一部開園。1989年7月、立川駅周辺の三つの面整備が都市計画決定され、翌8月には、政府が基地跡地へ自治大学校など国の機関を移すと発表した。
サンサンロードを生んだのは、そのうちの「立川基地跡地関連地区土地区画整理事業」である。市によれば、この事業は、大都市の既成市街地の総合的な再開発のために1981年に創設された「特定再開発事業」の土地区画整理事業として行われた。1995年5月に都市計画決定、1997年3月に事業認可。そのあいだの1994年10月には、すぐ東側でファーレ立川がまちびらきを迎えている。1998年11月、多摩都市モノレールが立川北駅から上北台駅のあいだで部分開業し、2000年1月10日には多摩センター駅から上北台駅までの約16キロが全線開業した。
市のパンフレットには、この区画整理事業の概要が数字で載っている。施行者は都市再生機構。施行区域の面積は約58.8ヘクタール。平均の減歩率は約22.5パーセント。そして権利者の数は、1997年3月の時点で、土地所有者13人。58.8ヘクタールの土地の持ち主が、たった13人である。もとが飛行場であり基地であったことを、これほど短く言い当てる数字はない。ふつうの街の区画整理なら、何百人、何千人の地権者と話をつけなければならないところだ。立川の背骨がまっすぐなのは、たぶん、そのおかげでもある。定規で引いた線が、そのまま街になった。
そして2003年4月、都市軸が開通する。返還から26年後の春である。区画整理事業の換地処分が公告されたのは、さらに3年後の2006年12月だった。
道は、開通したその年から使われている。2004年の市の指針は、都市軸の使い方の例として、平成15年、つまり開通の年の「緑化祭り」の写真を載せている。
市のパンフレットは、モノレールの下の道路空間を、シンボルロードとして都市軸に整備したと書いている。モノレールの軌道の真下は、ふつうなら使い道の難しい場所だ。そこを、車を通さず、人だけが歩ける幅40メートルの帯にした。千葉大学のサイトで公開されている、街の事例を調べた学生の報告は、この道を、モノレールの高架下の空間をうまく使った例として挙げている。
道の両側には、国の役所が来た。サンサンロードの沿道の国有地には、国の地方合同庁舎が建った。近くには、裁判所や、南極の研究で知られる国立極地研究所を含む研究所の一角もある。基地の跡に、背骨が一本引かれ、その背骨に、国と市と街が少しずつ肉をつけていった。
ただし、背骨のまわりが最初からにぎやかだったわけではない。その空白の時代に、市は一枚の設計図を描いている。
2004年の設計図──オープンカフェと「多摩オンリーワン」
開通の翌年、2004年6月に、立川市は「都市軸沿道地域まちづくり誘導指針」をまとめた。この道の両側をどんな街にしたいかを描いた文書である。
指針は、都市軸の位置をこう説明する。南側には多くの買い物客を呼ぶ駅前の大型商業施設があり、東側には業務の街ファーレ立川があり、西側には緑の広がる国営昭和記念公園がある。そのあいだにあるからこそ、にぎわいと緑が調和した街がつくれる、と。指針は、昭和記念公園を年間約255万人が訪れる公園と紹介している。
そして指針は、沿道を二つのゾーンに分けた。にぎわいの「楽しさあふれるゾーン」と、職と遊と住をあわせた「都市型ライフゾーン」である。西側の昭和記念公園では、ちょうど「みどりの文化ゾーン」の整備が進んでいた。楽しさあふれるゾーンについては、業務や商業や文化の機能を入れることに加えて、通り沿いのオープンカフェや、郷土の物産や料理の店、アミューズメントやスポーツの施設の導入を「強く求めます」とまで書いている。オープンカフェの例として載っている二枚の写真は、どちらも渋谷区代官山だ。都市型ライフゾーンの頁には、晴海トリトン、代官山アドレス、恵比寿ガーデンプレイスの写真が並ぶ。立川の役所は、2004年の時点で、代官山を三度も見ていたのである。住宅については、建築デザイナーなどによる「生活を感じさせない景観」への配慮が必要だとも書いている。住む場所なのに、生活を感じさせない。都市計画の言葉は、ときどき禅問答に近づく。
さらに指針は、都市軸の最も奥に、にぎわいの中心となる「立川にしかない多摩オンリーワンのメイン施設」を置くのが有効だと書いた。そのメイン施設の例として挙げたのが、演劇やライブなどが行える集客施設だった。
指針は、土地の売り方まで考えていた。国の土地を、ただ高く買う人に売るのではなく、民間の企業から開発の提案を募り、ビジョンにいちばん合う計画を出した事業者に譲る「事業提案方式」を検討すべきだと書く。先例として挙がっているのは、神戸の六甲アイランド、東京の臨海副都心、横浜のみなとみらい21。売れないときのために、事業用の定期借地や、残った土地の暫定的な使い方まで考えている。その例が、お台場のヴィーナスフォートのような短い期間の流行の商業施設や、「1000days劇場」のような仮設の劇場だった。立川のモノレールの下で、役所は、海辺の埋立地の夢を見ていた。
描いた絵が、すぐに形になったわけではない。市のまちづくりの頁には、沿道の国有地を売る財務省の入札の経過が並んでいる。2008年6月、A・B街区は「不調」。11月、「不調・不落札」。2009年10月、C街区「不調」。2012年2月、「不落札」。2013年2月、また「不落札」。役所の文書に、こんなに正直に空振りが並んでいるのを、私はあまり見たことがない。市は2010年10月に「立川市都市軸沿道地域企業誘致条例」を定めて、企業を呼び込もうとした。B街区の入札が落札になったのは、2015年1月のことである。
その後の沿道の変化は、市のパンフレットが一行でまとめている。大型家具店、病院、専門学校、ホール、ホテルなどの土地利用が進んでいる、と。2020年には、サンサンロードの西側にGREEN SPRINGSが開いた。その中には、多摩地区で最大規模の約2,500席の多機能ホール、TACHIKAWA STAGE GARDENがある。演劇やライブのできる集客施設を、都市軸の先に。2004年の指針が書いた一行は、16年かけて、ほぼその通りの形になった。設計図というものは、ときどき、ちゃんと届くのだ。
道の形はわかった。では、その道の上には、どんな季節がめぐっているのだろうか。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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