立川市の名の由来になった中世の武士、立川氏。鎌倉の正月に弓を引いた一族、田を買い集めた妻、2,000人が死んだ立河原の合戦、八王子城の落城と水戸・常陸太田・埼玉への離散、そして2000年に常陸太田の子孫から帰ってきた立川文書まで。「立川流」との関係を市史の専門家が調べた結論も含め、市史と一次資料でたどる立川の中世。
立川市の名の元になった一族は、もう立川市にいない。
立川氏である。鎌倉時代、この土地を本拠にして「立川(立河)」を名乗った武士の一族だ。街の名と名字が同じ字を書く。ところが、いまの立川市をどれだけ歩いても、その子孫の家には出会えない。名付け親が、名付けた街の中に見当たらないのだ。
彼らはどこへ行ったのか。調べていくと、話は思いがけない方角へ延びていった。茨城の水戸、常陸太田、そして埼玉の岩付と鴻巣。立川氏は戦国の終わりに散り散りになり、その家に伝わった鎌倉時代の古文書だけが、平成12年(2000)、常陸太田に住む子孫の手から立川市へ戻ってきた。およそ700年前に書かれた紙が、名字の地へ帰ってきたのである。
もう一つ、地元の人もまず知らない話がある。中世に「邪教」と呼ばれた密教の一派「立川流」は、名前のとおり立川の生まれなのか。立川市の市史編さんの専門家たちは、平成28年(2016)からこれを調べ、ある結論を出した。その結論は、この記事の真ん中あたりで明かす。まずは、市の名を背負った一族の顔を見にいこう。
立川の名の由来と立川氏──市の名を名字にした武士たち
立川市の市史編さん広報紙『たちかわ物語』は、最初にこう書いている。立川市の市名は、鎌倉時代の立川郷(立河郷)に由来する。この立川郷を名字の地として本拠に定めた武士が立川氏である、と。市の名と一族の名は、同じ土地の名を分け合った兄弟のようなものだ。

写真: Nesnad / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
ただし、地名の由来そのものには諸説がある。市は、多摩川の流れや館や早瀬に由来するという説などを並べ、どれも確証に欠けると書いている(その話は、この特集の「立川の歴史」の記事で書いた)。ここで追うのは、地名ではなく、その名を名字にした人間のほうである。
立川氏は、日奉(ひまつり)氏の出だ。『たちかわ物語』第5号で、市史編さんの古代・中世部会長、鎌倉佐保氏はこう説明する。日奉氏は、もとは太陽神をまつる祭祀の集団として中央や地方に置かれた日奉部に由来する。武蔵の日奉氏は11世紀後半に武蔵国に土着し、国府の役人となり、武士団として育っていった。
太陽をまつる家から武士が出た。その一族が多摩川沿いに広がり、いわゆる武蔵七党の一つ、西党と呼ばれるようになる。西党の名の由来も一つではない。百科事典は、国府(いまの府中市)の西に住んだからという説、日奉の「日祀(ひまつり)」を音読みしたという説、多摩郡を東西に分けた「多西郡」の西からという説の三つを挙げている。名前の由来に諸説あるのは、どうやら立川の地元の伝統らしい。
一族は枝分かれしていった。馬の牧場、由比牧を本拠にした宗弘の子孫が、田村、土渕(いまの日野市)、立河、由井を名字とする家に分かれた。系図では、宗時から立河を名乗ったことがわかり、時代はおそらく12世紀の末ごろと推定されている。同じ西党からは、一ノ谷の戦いで熊谷直実と先陣を争った平山季重も出ている。立川氏は、源平の合戦の有名人と親戚筋だったことになる。
読み方にも、小さな驚きがある。百科事典によれば、中世には「立河」と書くことが多く、読みも「たてかわ」としていたようだという。いまの立川市は「たちかわ」と読む。鎌倉時代の立川さんに「たちかわさん」と呼びかけたら、少し怪訝な顔をされたかもしれない。
では、その「たてかわ」の人々は、鎌倉で何をしていたのか。手がかりは、幕府の正月の行事にあった。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
鎌倉の正月に弓を引いた男──吾妻鏡と御的日記の立河氏
鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』に、立河基泰という名が出てくる。系図では、立川経光の弟の職泰にあたる人物だ。兄の経光のほうは、宝治元年(1247)、幕府の有力御家人だった三浦氏が滅んだ宝治合戦で活躍したと系図に書かれている。経光は後に出家して西信と名乗り、弘安7年(1284)に所領を譲った文書が残っている。
鎌倉氏の解説が面白いのは、ここからだ。当時の御家人は、一族の中で鎌倉に仕える者と、所領を経営する者とを分けていたことが知られている。立川氏もおそらく、兄の経光が立川郷で土地を切り盛りし、弟の基泰が幕府に出仕していたのだろう、という。兄は地元、弟は都心勤め。700年後の立川からも、毎朝たくさんの人が都心へ通っている。分業の形は、案外変わっていない。
もう一人、立河彦太郎重行がいる。鎌倉幕府の正月の弓始めの記録『御的日記』に、正和5年(1316)から嘉暦3年(1328)までのあいだ、射手として名前が見える。弓始めは、年の初めに的を射る儀式だ。参加者のほとんどは、北条氏の本家、つまり得宗家の家来だった。重行は得宗の家来として幕府に仕えた、立川氏を代表する人物だったことになる。
十年以上、鎌倉の正月に的の前に立ち続けた立川の男がいた。私はこの一行がいちばん好きだ。正月の空気の冷たさと、弓の弦の鳴る音が、記録の向こうから少し聞こえる気がする。
ただ、立川氏は一枚岩ではなかった。立川氏に伝わった古文書には、系図に出てこない人物が何人も登場する。その中でいちばん目立つのは、一人の女性だった。
田を買い集めた妻──文保2年の関東下知状と藤原氏
立川氏の末裔が大切に守ってきた古文書を、立川文書という。市の資料によれば、原本と写しを合わせて14通が確認され、その年代は貞応元年(1222)から応永24年(1424)に及ぶ。室町時代の1通を除けば、すべて鎌倉時代に書かれたものだという。
そのうち9通に、ある夫婦と子が関わっている。立河彦四郎重清と、その妻の藤原氏、そして子と考えられる得王丸だ。重清は正和4年(1315)に土渕郷の田を買い取り、幕府からその領有を認められた。妻の藤原氏も、文保2年(1318)から元応2年(1320)ごろにかけて、土渕郷や立川郷、小河郷の田を次々に買い取り、そのたびに幕府の承認を受けている。
一通を読んでみる。文保2年(1318)12月10日に鎌倉幕府が出した関東下知状だ。末尾の署名は、相模守平朝臣、つまり当時の執権北条高時と、武蔵守平朝臣、連署の金沢貞顕である。中身は、藤原氏が土渕郷の田9段、およそ9,000平方メートルと、在家(農民の家とそれに付く田畑)2宇を買い取ったことを、幕府が確かめて認めたものだ。
手続きは几帳面だった。藤原氏は10月20日、土渕五郎貞重からこの田と家を永代に買った。幕府は申請を受けて事実を確かめ、11月12日には売り主の貞重から「売ったことは間違いありません」という返答書を取った。さらに、その土地が幕府から与えられた恩給の地ではなく、売り買いのできる私領であることも確かめたうえで、藤原氏の領有を認めた。不動産の登記に、執権の名が並ぶ。立川の田んぼ9段のために、鎌倉幕府のいちばん偉い二人が署名している。
それでも揉めごとは起きた。藤原氏が貞重から別に買った在家1宇について、のちに貞重のほうから「押領している」と訴えが出され、嘉暦4年(1329)にあらためて売買の事実が確かめられている。売った本人が、後から文句を言ってきたのだ。
なぜ、この家族は土地を買い集めたのか。鎌倉氏は、売り手の多くが土渕氏や立川氏、小川氏など日奉氏の一族だったことに目を向ける。当時の御家人には、蒙古襲来に備えた警固の負担が重くのしかかり、銭を工面する必要に迫られていた。一族の外へ土地が流れるのを防ぐため、一族の中で売り買いをしたのかもしれない。そして、買うたびに幕府の承認を求めた藤原氏の側にも、土地を集める積極的な意図があったとうかがえる、と鎌倉氏は書く。元寇の波は、多摩川のほとりの田んぼの持ち主まで、静かに入れ替えていたのかもしれない。
重清は文書の中で「芝崎」とも名乗っている。立川郷の中心である芝崎、いまの柴崎町を押さえていたと考えられている。市の資料によれば、この立川文書は「立河」や「芝崎(柴崎)」という地名が初めて出てくる資料でもある。駅の南口から歩いて行ける柴崎町の名は、700年前のこの紙の上に最初に現れた。
数字で読む立川氏
- 1222 ── 年。立川文書でいちばん古い文書の年。承久の乱の翌年である。
- 14 ── 通。確認されている立川文書の数(原本と写しの合計)。市の宝が、封筒14通ぶん。
- 9 ── 段。藤原氏が文保2年に買った土渕郷の田。およそ9,000平方メートル。執権と連署が二人がかりで認めた。
- 2,000 ── 人。永正元年の立河原の戦いで、負けた側が出した戦死者の数とされる。当時の戦いでは稀な多さだった。
- 1768 ── 年。水戸藩に仕えた立川氏が、追放処分を受けて絶えた年。
- 700 ── 年。立川文書が書かれてから、だいたいの歳月。紙は、人よりずっと辛抱強い。
旅人の寄り道クイズ
平成12年(2000)、鎌倉時代以来の立川文書が立川市に寄贈された。その古文書を代々伝えてきた立川氏の末裔は、どこに住んでいただろう。(A)茨城県の水戸(B)茨城県の常陸太田(C)埼玉県の鴻巣。答えは最後に明かす。
几帳面な一族の土地は、しかし、静かなままではいられなかった。15世紀、立川の河原は、関東の戦国時代の幕開けと、その最大級の決戦の舞台になる。
立河原の戦い──多摩川の河原で関東の戦国が始まった
立川市の年表は、享徳4年(1455)と永正元年(1504)に、二度の立河原の合戦があったと記している。
一度目は、関東の戦国時代の始まりと重なる。享徳4年の正月、鎌倉公方の足利成氏の軍と、関東管領の上杉氏の軍が、府中の分倍河原で衝突した。百科事典によれば、1月21日、上杉軍の先鋒だった上杉憲秋は、手前の立河原で敵の手にかかり、致命傷を負った。家臣に救い出されたものの、のちに自害したと伝わる。この戦いをきっかけに享徳の乱が始まり、その勃発をもって関東の戦国時代の始まりとされる。
関東の戦国時代は、府中と立川の河原から幕を開けた。歴史の教科書で応仁の乱を覚えた人は多いが、その少し前、関東では多摩川の河原で血が流れていたのだ。
二度目は、もっと大きかった。永正元年(1504)9月27日、今の暦では11月13日。山内上杉氏の上杉顕定と古河公方の足利政氏の連合軍と、扇谷上杉氏の上杉朝良に駿河の今川氏親、伊勢盛時(のちの北条早雲として知られる人物)が加わった連合軍とが、立河原でぶつかった。
百科事典が伝える経過は、こうだ。午前8時ごろ、扇谷上杉・今川・伊勢の連合軍が多摩川を渡って立河原に上がった。それを知った山内上杉の軍が駆けつけ、両軍がにらみ合い、正午ごろから戦いが始まって夕方まで続いた。川を渡らせてしまった山内上杉の側は苦戦し、ついに崩れて逃げた。死者は2,000人と、当時の戦いでは稀な数にのぼり、名のある武将も討たれた。顕定は北武蔵の鉢形城へ命からがら逃れたという。
ここまでなら、勝者の話で終わる。ところが話には続きがある。勝った今川氏親と伊勢盛時は、10月4日には何事もなかったように鎌倉へ引き揚げ、熱海の温泉でともに静養したあと、盛時の韮山城で戦死者の法要を営んだらしい。一方、敗れた顕定は越後から援軍を得て反撃に出る。翌永正2年(1505)、兵が足りずに持ちこたえられなくなった上杉朝良は降伏した。勝った側の援軍は温泉へ行き、勝った当人は翌年に降伏した。戦国の勝ち負けは、河原の上で決まるものではなかったらしい。
戦の名残は、立川の中にいまも残っている。市史編さんの古代・中世部会は、永正元年の立河原合戦の戦死者を供養するために作られた銅の鉦鼓を、市内で調査したと報告している。鉦鼓は、念仏のときに打ち鳴らす金属の打楽器だ。多摩川の河原で死んだ人々のために、誰かが鉦を鳴らした。その金属が、500年以上たったいまも市内にある。
では、合戦のあいだ、立川氏はどこにいたのか。実は、それがよくわからない。市の解説によれば、立川文書は応永24年(1424)で途切れ、戦国時代の文書は伝わっていない。一族の動きが見えなくなったまま、立川の河原は大軍に踏まれた。名字の地で決戦があったのに、主人公の立川氏の姿が記録に見えない。歴史には、ときどきこういう空白がある。空白を埋める手がかりは、記録ではなく、地面の下と、遠い土地の家の中に残っていた。
普済寺と立川氏館跡──土塁の下に眠っていたもの
一族の暮らした場所の手がかりは、柴崎町の普済寺にある。文和2年(1353)、立川氏が一族の菩提寺として開いた禅寺で、境内には国宝の六面石幢が立つ。その来歴はこの特集の「普済寺と諏訪神社」の記事で書いたので、ここでは寺の地面の下の話をしたい。

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普済寺の地は、立川氏の館の跡と考えられている。平成7年(1995)の火災で本堂などが焼けたあと、寺の再建に合わせて発掘調査が行われ、報告書『立川氏館跡』が何冊も刊行された。平成12年(2000)の報告書の記録を見ると、中世の層から、土塁、空堀、掘立柱の建物、門、井戸、地下式の穴が見つかっている。出てきた品には、中国から渡ってきた青磁や白磁、瀬戸や常滑の焼き物、素焼きの器であるかわらけ、銭、板碑の破片が並ぶ。
輸入の青磁で茶や酒を飲み、門を構え、堀と土塁で囲った屋敷。土の中から、武士の暮らしの道具立てが少しずつ立ち上がってくる。同じ報告書は、江戸時代の末に庫裡を建て直したとき、小石に経文を書いて埋めた礫石経が出てきたことも記録している。この寺の地面は、時代ごとの祈りを何層にも抱えこんでいる。
もっとも、報告書の中には「伝立川氏館に関する検討」という一章がある。「伝」は、そう伝えられている、という意味の一字だ。発掘を担った側が、ここを立川氏の館と言い切らずに書いていることになる。普済寺ははじめ別の場所にあり、立川氏が衰えた後にいまの場所へ移ったとみる見方も、百科事典は紹介している。確かなことを言うのは、まだ早いらしい。
旅行記サイトには、訪ねた人の「本堂前に高く盛り上がったところがあります」という短い報告が残っている。土塁の名残を見つけた人の、少し得意げな一文に読める。見に行くなら、寺の境内であることを忘れず、静かに歩きたい。
普済寺のある柴崎町は、昭和に入っても長く「駅の南の古い町」だった。市史編さんの広報紙には、その南側の昭和の手ざわりを伝える小さな話が載っている。昭和6年(1931)、まだ飲食店の少なかった立川駅の南口に一軒の蕎麦屋が開き、大繁盛した。戦後、その店の主人は商いを広げ、昭和40年(1965)、柴崎町3丁目に建った東京都農業会館新館の地下に、洋食のレストランを開いた。計画段階の献立には、ペパロニやアンチョビをのせた本格的な「ピッツァ」が6種類並んでいた。ところが、どんな料理なのか知られていなかったため注文があまり無く、開店まもなく提供をやめて「幻のメニュー」になったという。広報紙によれば、そのころの東京では、うどん1杯がおよそ50円、カレーライスがおよそ100円だった。
あのころ、柴崎町の地下には、誰も頼まないピザが6種類あった。いま、駅の南口でピザの店を探すのに苦労する人はいない。60年前のコック長は、少しだけ時代より早かったのだ。そう思うと、柴崎町の坂がいくらか親しく見えてくる。
寺のほうも無事ではなかった。三井住友トラスト不動産の地域史の紹介によれば、天正18年(1590)の豊臣軍の攻撃で普済寺も兵火に遭い、大半の建物と寺宝を焼失したという。同じ年、立川氏そのものが大きく揺らぐことになる。その話の前に、立川の名を世に広めた、もう一つの「立川」に寄り道しておきたい。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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