立川の週末さんぽ 横田基地から青梅線で14分、基地の「親」だった街を案内する

横田基地は1940年、陸軍立川飛行場の付属として生まれた。福生・牛浜・拝島から青梅線で立川へ。昭和記念公園、南極の氷、ファーレ立川、ラーメンスクエア、猫返し神社まで、横田で暮らす人に立川の週末を案内するルポ。

立川市には、立川市民が誰ひとり訪ねられない住所がある。百科事典の西砂町の項によれば、西砂町七丁目は、その全域が横田基地の敷地の中にある。立川市の番地をもちながら、フェンスの向こうにある一角だ。福生市の資料も、乾いた表で同じことを言う。横田基地の総面積約7.136平方キロメートルのうち、0.29平方キロメートルは立川市が提供している。

ということは、横田で働くアメリカの人たちの何人かは、日によっては、すでに立川にいる。それなのに、横田で暮らす人の多くにとって、立川は青梅線の終点の大きな駅、新宿へ出るときに通り過ぎる場所でしかないらしい。自分の家の裏庭がどこの家の土地なのか、知らずに暮らしているようなものである。

横田基地で働く米軍関係者とその家族の中には、何年も前から立川へ通ってくる人たちがいる。立川の人間として、まだ来たことのない人にも、来ていても理由を知らない人にも、一度この街をきちんと紹介したいと思った。名所を並べるのではなく、まず二つの場所を結ぶ書類を読み、それから週末の歩き方を書く。書類は意外なことを言う。横田は、たまたま立川の隣にあるのではない。立川の子として生まれた、と。

横田は立川にあるのか、0.29平方キロメートルの話

福生市の資料によれば、横田基地は福生市、立川市、昭島市、武蔵村山市、羽村市、瑞穂町の5市1町にまたがる。福生市の提供面積は3.317平方キロメートルで、基地全体の46.5%。立川市の0.29平方キロメートルは基地の4.1%、立川市の面積の1.2%にあたる。小さい。だが、ゼロではない。

立川の分は、市の西の端、西砂町にある。立川市の散歩道の案内に、目立たないが忘れがたい一文がある。中里新田の鎮守として享保3年(1718)ごろに創建された神明社は、もとは中里新田の西の端にあったが、横田基地の拡張によって、いまの場所に移って鎮座した、という。江戸の開墾の村を二百数十年見守ってきた神様が、基地のために引っ越した。隣人とのつきあいに苦労するのは、人間だけではないらしい。

基地の東側には、立川の住所をもつ駅もある。西武鉄道の公式の駅案内では、西武立川駅の住所は立川市西砂町1-21-2。百科事典は、横田基地の第17イーストゲートの最寄りを西武立川駅の北口とし、そのゲートを「サクラフェスティバル入場ゲート」と書いている。春の基地開放に西武線で来た人は、少なくとも駅までは、立川の土を踏んでいる。

地図の上の答えはここまでだ。歴史の上の答えのほうが、ずっと面白い。それは、横田がまだ「横田」と呼ばれる18年前から始まる。

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1940年、横田は立川飛行場の「付属」として生まれた

立川市歴史民俗資料館の解説は、ここに飛行場がつくられた理由を四つ挙げる。帝都に近い。広く平らで人家のない土地がある。鉄道がある。天候がよい。大正10年(1921)の秋に建設が決まり、大正11年(1922)11月に陸軍の飛行第五大隊がやってきた。昭和4年(1929)7月には、立川と大阪のあいだで日本初の民間の定期旅客便が飛んだ。立川が「空の都」と呼ばれた時代である。

都には郊外が要る。東京都の資料「東京の米軍基地」は、横田の生まれをこう書く。昭和15年(1940)、旧陸軍立川飛行場の付属施設、陸軍多摩飛行場として設置され、昭和17年には陸軍航空審査部が置かれて、陸軍の新鋭機や試作機のテスト飛行が行われた。福生市観光協会も同じ年号で書く。1940年、旧帝国陸軍立川飛行場の付属として多摩飛行場が建設された、と。

付属。母屋に付け足された離れのことだ。いまや在日米軍司令部を抱え、福生市が「本土(沖縄県を除く)では最大の米空軍基地」と書く横田は、生まれたときは立川の離れだった。

昭和20年(1945)9月6日、福生市の年表によれば米軍が進駐し、飛行場は接収された。滑走路は約1,300メートルだった。名前は、地図から来た。福生市は、昭和21年8月15日に公式に基地が開設され、米軍極東地図局が作った地図の中の「YOKOTA」から横田飛行場と呼ばれるようになった、と書く。東京都の資料は、その文字の出どころを説明する。昭和20年10月、民有地を接収して滑走路を延長し、当時の北多摩郡村山町、いまの武蔵村山市の地名を取って「横田飛行場」とした。基地は隣村の小字を名乗った。表札に隣の家の苗字を掲げているようなものである。

親のほうも、隠居したわけではなかった。立川基地は、極東で屈指の輸送の拠点になった。市の歴史の冊子によれば、立川基地は米軍の軍事航空輸送部(MATS)の拠点で、昭和31年(1956)からは、それまで羽田で扱っていた軍の輸送も立川のターミナルで受け入れた。百科事典は、最盛期の離着陸を月平均およそ2,300回と書く。昼夜をならせば、約19分に1回。その隣で、横田は滑走路を伸ばしていった。東京都の資料によれば、昭和35年(1960)には3,350メートルの滑走路を完備している。いまも同じ長さだ。

数字で読む〈横田と立川〉

  • 1940 — 多摩飛行場、のちの横田が、立川飛行場の付属として生まれた年。立川の飛行場より18年若い。家族で言えば、遅くに生まれた末っ子である。
  • 0.29 — 横田基地のうち、立川市が提供している面積(平方キロメートル)。地図では見落とすほど小さいが、神社を一つ動かすには十分だった。
  • 3,350 — 横田の滑走路の長さ(メートル)。昭和35年に完備。立川は自分の滑走路を伸ばす計画を最後まで実らせなかった。脚が長く育ったのは、子のほうだった。
  • 約2,300 — 立川飛行場の最盛期の、月平均の離着陸回数。約19分に1回、昼も夜も。
  • 69-54 — 立川の飛行の終わりを告げた、1969年の米軍の発表の番号。国会の答弁書に添付された広報文は、そう多くない。
  • 14 — 土曜の朝の快速で、牛浜から立川までかかる分数(JR東日本の2026年10月の時刻表)。缶コーヒーを1本、ゆっくり飲み終えるくらいの時間だ。

立川の輸送機が横田へ移った、1969年の秋

では、親の飛行機は、どうして子のもとへ行ったのか。この話は、書類がめずらしく正確に残っている。

カナールに沿うイチョウ並木。頭を平らに刈りそろえた木々が、晩秋の黄色に染まる
カナールに沿うイチョウ並木。頭を平らに刈りそろえた木々が、晩秋の黄色に染まる
写真: Kakidai / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

昭和47年(1972)、政府は衆議院で、米軍立川基地についての質問に答弁書で答え、そこに米軍の広報文を添えた。「Release No.69-54」、日付は昭和44年(1969)10月3日。立川基地での飛行業務は、近い将来、大部分の飛行部隊と飛行活動が米国か横田基地に配置転換されたあと、終結を予定している、という。理由は、8月にレアード国防長官が発表した軍事費の削減と、大統領による海外要員10パーセント削減の発表。C-130ハーキュリーズ輸送機をもつ第815戦術空輸中隊は撤退する。エア・アメリカは業務を徐々に横田へ移す。いくつかの中隊は横田に配属される。

福生市の年表は、その結果を一文で書く。昭和44年末、立川基地の飛行活動停止に伴い、空輸部隊(C-130)などが横田へ移駐し、翌昭和45年には米空軍最大の輸送機C-5A(ギャラクシー)が発着を始めた。昭和49年(1974)11月には、府中から在日米軍司令部と第5空軍司令部が横田へ移った。

そして立川は、昭和52年(1977)11月30日、基地の全面返還を受けた。返ってきた土地は、昭和記念公園になり、立川広域防災基地になり、研究所の街になり、図書館と市役所の場所になった。

年号を並べると、ほかの読み方がむずかしい。1940年、立川が離れをつくる。1969年、立川の輸送機がその離れへ移る。1977年、立川のフェンスが消える。親は飛行機を子に託して、自分は公園になった。少し感傷が過ぎるかもしれない。だが、書類がそう並んでいるのだから仕方がない。

旅人の寄り道クイズ

昭和記念公園の「カナール」と呼ばれる水路に沿って立つ106本のイチョウは、上を平らに刈りそろえ、箱のような形にしてある。なぜか。

  • A 臭いギンナンが歩道に落ちすぎないように
  • B 隣の滑走路のための、航空法の高さの制限があるから
  • C 基地時代の格納庫の形をまねたから

答えは、記事の終わり近くで。

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