立川は23区に負けているのか 公園は区部の3倍、富士山は新宿より23キロ近い

なぜ立川の人は「23区じゃないから」と言ってしまうのか。三多摩・都下・三多摩格差の来歴をたどり、都の統計で立川と23区を比べる。ひとり当たりの公園は区部の約3倍、富士山まで約73キロ、昼夜間人口比率は多摩26市で1位、住み続けたい市民は92.4%。引け目を誇りに変える数字のルポ。

「都内へ行ってきます」。

立川にある新聞社の支局で、同僚の記者は23区へ取材に出かけるとき、そう言って出ていくのだという。2025年の秋、読売新聞の立川支局に着任して数か月の記者が、記事の書き出しにそう書いた。そして、すぐあとにこう続けている。立川も都内なのに、と。

私はこの一行を読んで、笑い、それから少し黙った。立川で暮らす人なら、似た言い回しに覚えがあるはずだ。「東京に出る」。「都心まで行く」。住所の頭には東京都と書いてあるのに、自分の街を東京の内側に数えていない言い方が、口からするりと出てくる。「立川です。まあ、23区じゃないんですけど」。聞かれてもいない但し書きを、つい添えたくなる気分も、私には分からなくはない。

なぜ立川の人は、「23区じゃないから」と言ってしまうのだろう。この引け目は、どこから来たのか。そして、それは数字で確かめても、引け目のままなのか。

この特集では、立川の公園も川も、飛行場の来歴も、東京で最初の店のことも書いてきた。今回は少しだけ意地の悪い問いを立てて、東京都の統計表を開いてみる。23区と立川を、同じ物差しで並べたら、何が見えるのか。先に言っておくと、23区を下げるつもりはない。23区には23区の良さがある。ただ、立川にあって都心に無いものを、私は数えてみたかった。

「立川は23区じゃないから」——三多摩、都下、042という呼び名

引け目の正体を探すには、まず呼び名から始めるのがいい。人は呼ばれ方で自分を知る。

百科事典の多摩地域の項によれば、立川を含む東京の西半分は、多摩地域、多摩地区、三多摩、ときには都下と呼ばれる。三多摩という言葉は、かつての武蔵国多摩郡が明治のはじめに東西南北の四つに分けられ、そのうち北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡の三つの郡からなることに由来する。立川は北多摩郡の村だった。三つの郡は明治26年(1893)まで神奈川県に属し、その年に東京府へ移された。このいきさつは特集の別の回に詳しく書いたが、一つだけ書き添えたい。立川市の市史編さん広報紙『たちかわ物語』によれば、移管が帝国議会で争われていた明治26年2月、反対の陳情書が出された。署名したのは南多摩・西多摩のすべての町村長と、北多摩郡の5人の町村長である。その一人が、立川村長の井上善次郎だった。一方で、北多摩の村々の多くは、甲武鉄道の開業で東京とのつながりが深まったことから、移管に賛成へ回った。賛成の陳述書の筆頭に名を書いたのは、砂川村の砂川源五右衛門である。いまの立川市をつくる二つの村が、東京入りをめぐって賛成と反対に分かれていた。23区に憧れるどころか、立川村の村長は、東京に入ること自体に反対していたのだ。

その甲武鉄道、いまの中央線が新宿と立川のあいだに開通したのは、明治22年(1889)4月。立川は東京府に入る4年前から、新宿と線路でつながっていた。それでも、この街は東京に「あとから来た」土地として数えられてきた。

都下という言葉も、なかなかの曲者だ。字面だけ見ると、都の下。立川市の公式の年表を読んでいくと、昭和40年(1965)の欄に「都下で初の立川交通相談所開所」とある。昭和31年(1956)に北口のスーパーが始めたセルフサービスについても、いなげやの社史は「都下では最初」と書く。都下で初、都下で最初。誇らしい出来事を書くときにさえ、街は自分を「下」と呼んでいた。市役所の年表の書き手に悪気があったとは思えない。当時はそれが、ふつうの言い方だったのだ。悪気のない言葉ほど、長く残る。

電話の番号にも線が引かれている。同じ百科事典によれば、多摩地域の市外局番は、狛江市の大半と調布市・三鷹市の一部が23区と同じ03で、残りの大部分は042にまとめられている。立川も042だ。名刺の電話番号の最初の三桁を見ただけで、23区の内か外かが分かる。その042を、逆に看板にしてしまったラジオ番組もある。多摩出身の音楽家が多摩を盛り上げると宣言して司会を務める番組で、題名に「東京042」と入っている。引け目の数字を、旗に書いたわけだ。

多摩だけで県をつくる「多摩県」の構想も、明治のころから浮かんでは消えてきた。百科事典によれば、明治28年(1895)には内務省が「東京都制および多摩県設置法案」を出したが、成立しなかった。令和になっても、2020年に多摩の独立を構想する研究会が活動を始めたと、先の読売新聞の記事は伝えている。研究会の中心の一人の分析では、多摩の総生産額は、都道府県別に並べると千葉県や北海道と肩を並べ、10位以内に入る水準だという。引け目を抱えるにしては、ずいぶん大きな街の集まりである。

呼び名だけなら、気にしなければ済む。だが、引け目には、もう少し重たい根っこがあるように思える。かつて、その差には名前がついていた。

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「三多摩格差」の時代——引け目には、根拠のあった頃がある

東京都が平成29年(2017)にまとめた『多摩の振興プラン』は、多摩の歩みを率直に書いている。

昭和30年代から40年代、高度経済成長の時代に、鉄道の沿線に沿って爆発的な人口増加と急速な都市化が進んだ。多摩地域の人口は、昭和30年(1955)の100万人から、昭和50年(1975)には300万人へと急に増えた。20年で3倍である。人が先に来て、道路や下水道があとから追いかける。行政のサービスが追いつかず、住民生活の利便性の面で、区部との格差が言われるようになった、とプランは書く。百科事典は、東京都が発足したときから、道路や公共施設の整い方に区部と三多摩で大きな差があり、「三多摩格差」の語が生まれたと記している。

昭和50年(1975)の都と市町村の協議会で、「三多摩格差8課題」が設けられた。以後、都と市町村が協力して、格差をなくすことに取り組んだ。格差を八つの課題に数え上げて、片づけにかかったのである。役所の仕事は地味だが、ときに執念深い。

あのころの立川を、引け目だけで語るのは公平ではない。特集の駅の回で調べたとおり、1960年代の立川には映画館が10館あった。昭和31年(1956)には伊勢丹が北口に鉄筋の店を構え、この地区ではまだ珍しかったエレベーターを2基そなえて客の話題を集めた。3年後の昭和34年(1959)には屋上の塔屋に展望食堂ができ、その眺めが評判になった。映画を見るにも、百貨店のエレベーターに乗るにも、多摩の人は立川へ出てくればよかった。道路や下水道が人の増え方に追いつかない時代にも、立川の駅前には東京の灯りがあった。格差の時代の立川は、多摩の側から見れば、いちばん近い都会だったのだ。

いまはどうか。同じプランは、三多摩格差8課題について、平成12年(2000)の段階でかなりの部分で解消された、というのが当時の都と市町村の共通認識だったと書く。そして以後は、区部と多摩の格差をならす一律のやり方ではなく、多摩の地域の特性を踏まえた振興へと方向を変えた、と。

つまり、格差という言葉は、役所の書類の上では26年前におおむね役目を終えている。それでも言い回しのほうは残った。冒頭の読売新聞の記事で、多摩を盛り上げる先のラジオ番組の司会者は、多摩には自然や歴史など魅力的なものがたくさんあるのに、弱点は住民の「23区への強い憧れ」だと答えている。

格差がほぼ消えたあとも、憧れと引け目だけが残ったのだろうか。だとすれば、確かめる方法は一つしかない。都がつくった同じ統計表で、立川と23区を並べてみることだ。最初に開いたのは、公園の表だった。

立川の公園の広さ——ひとり当たり9.08平方メートル、23区のどの区よりも広い

東京都建設局は、毎年、都内の区市町村ごとに公園の面積をまとめた表を出している。令和8年(2026)4月1日現在の表を開いて、私は自分の目を一度疑い、電卓を二度叩いた。

国営昭和記念公園の「みんなの原っぱ」。飛行場の跡地に広がる芝生
国営昭和記念公園の「みんなの原っぱ」。飛行場の跡地に広がる芝生
写真: Kakidai / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

立川市の都市公園の面積は、市民ひとり当たり9.08平方メートル。区部、つまり23区全体では2.93平方メートル。立川は区部の約3.1倍である。念のため23区を一つずつ見ていくと、いちばん広い江戸川区で5.31平方メートル。立川の数字は、23区のどの区よりも大きい。都市公園の面積が市の面積に占める割合も、立川は6.97%で、区部の4.65%を上回る。

もちろん、種明かしはある。立川の数字のうち約63%は、国営昭和記念公園の立川市側の面積、107.8ヘクタールだ。国の公園を除いて計算し直すと、ひとり当たりは3.32平方メートルになる。それでも区部の2.93平方メートルより、まだ少し広い。国の公園に下駄を履かせてもらっているのは事実だが、下駄を脱いでも背は低くない。

昭和記念公園の大きさを、23区の物差しで測ってみる。公園の総面積は約180ヘクタール。新宿御苑は約58.3ヘクタールだ。昭和記念公園には、新宿御苑がほぼ三つ入る。三つの御苑を、西立川の駅から歩いて回る休日を想像してみると、少し気が遠くなる。その真ん中には、南北約400メートル、東西約300メートルの「みんなの原っぱ」がある。芝生に寝転ぶと、視界の端から端まで空しか無い。

この広さの出どころも、はっきりしている。内閣府の資料によれば、昭和52年(1977)、立川飛行場は全面的に返還され、このとき返された国有地は453ヘクタールにのぼった。飛行機が離着陸していた平らな土地が、そのまま人間の昼寝のための土地になった。

広さは、人の混み具合にも表れる。同じ表に載っている人口密度は、立川市が1平方キロメートルあたり7,675人、区部は15,883人。立川は23区のほぼ半分の密度で暮らしている。駅前の雑踏を知っている人は首をかしげるかもしれないが、数字のうえでは、立川の人は23区の人のおよそ倍の「ゆとり」を分け合っている勘定になる。満員電車の中で、この数字を思い出すのは難しいが。

公園の広さは、地面の話だ。ところが立川には、地面より上にも、都心に無いものがある。それは見上げたほうがよく分かる。

立川の空の広さと富士山——新宿より23キロ近い

立川の空が広い、と言う人は多い。気分の話に聞こえるが、少しは数字にもなる。

2021年の元日、昭和記念公園から望んだ富士山の見える眺め
2021年の元日、昭和記念公園から望んだ富士山の見える眺め
写真: Nishifutsu / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

まず、日の当たる時間。立川市の中には気象庁の観測点が無いので、いちばん近い府中の観測点の平年値を借りる。1991年から2020年の平年値で、府中の年間の日照時間は1,986.2時間。都心の東京の観測点は1,926.7時間。府中のほうが、1年でおよそ60時間長く日が照っている。府中の1月の日照時間は201.3時間で、1年のどの月よりも長い。冬の多摩は、よく晴れる。

次に、建物の高さ。駅の北の旧基地の土地にできた街区の、開発に関わった人たちの対談で、ある関係者は敷地の近くに横田飛行場と自衛隊の立川飛行場があり、航空法で高い建物を建てられない制限があったと語っている。開発する側にとっては足かせだったが、歩く側にとっては、頭の上に空が残る。超高層の谷間から切り取られた空ではなく、地平の近くまで降りてくる空。立川の空が広く感じられるのは、たぶん気のせいだけではない。

そして、富士山である。

私は地図の座標から、立川駅と富士山の山頂までの距離を計算してみた。およそ73キロ。同じ計算で、新宿駅からはおよそ95キロ。立川は新宿より、富士山に約23キロ近い。東京駅から立川駅までの線路が37.5キロだから、その6割ほどぶん、立川の人は富士山の側に寄って暮らしている。富士山の側から見れば、立川は東京の玄関先である。

国土交通省の関東地方整備局が選んだ「関東の富士見百景」には、立川の多摩川緑地が入っている。南西の方角、丹沢と秩父の山並みがぶつかり合うあたりの背後に、悠然とそびえる富士山。とくに天気の良い冬によく見える、と選定の文は書く。市の南西部には、富士見町の町名まである。段丘の端から西に富士山が見えることに由来する、と地元の地名の連載は伝えている。

地元の人の書き残しも、いくつか見つけた。立川近辺の夜の街歩きを何千回と書き継いでいるブログには、雪の翌日の寒い夕方、西武立川駅の連絡通路の少しでも高いところから、山脈が横に広がり、その上に富士山が頭を出す風景を見た、という一文がある。わざわざ山に登らなくても、駅の通路でいい。それが立川の富士山との距離感だ。

冬至のころには、もう一つの見ものがある。国立天文台の暦によれば、冬至の日の入りの方角は真北から241度あまり。立川から見た富士山の方角は、私の計算で239度ほど。冬至のころの夕日は、立川から見て、富士山とほぼ同じ方角に沈んでいく。多摩モノレールは、冬至の前後のおよそ2か月半、多摩センター駅から立川南駅のあたりで、富士山の山頂に夕日が重なる「ダイヤモンド富士」が見えると案内している。立川では、晴れていれば、通勤のモノレールの窓に勝手に富士山が入ってくる。入場券は要らない。

空と富士山は、見上げるものだ。だが、立川の人がいちばん得をしているのは、たぶん足もとのほう、駅のホームの上である。

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