立川で南極に触れられる。日本の南極観測の中核を担う国立極地研究所の南極・北極科学館は入場無料で、南極の氷、南極点を往復したKD604雪上車、オーロラシアターが見られる。見どころと行き方、飛行場跡に研究所と国の防災拠点が集まった立川緑町の来歴をたどる。
立川で、南極の氷に触れることができる。入場料はいらない。
そう聞いて、すぐに信じる人はいないだろう。私も信じなかった。立川には何があるのか、と聞かれて「南極」と答える人も、まずいない。
南極は、とにかく遠いところだと漠然と思っている。氷と風と、ペンギンの国。それが東京の西の、モノレールが頭上を走る街の一角にある。展示の写真ではない。実物の氷に手を当て、南極点まで往復した雪上車を見上げ、昭和基地の今をライブ映像で眺める。それで無料。これほど安い南極は、地球上のほかのどこにもないだろう。
それにしても、なぜ立川なのか。東京には、博物館の集まる街がほかにもある。今回の散歩は、この一つの謎を追う旅になる。手がかりは、この街の北側の、やけに平らな土地にある。そして答えを追ううちに、私はもう一つ、立川の思いがけない顔に行き当たることになる。
立川で南極に会える理由は、北の平らな土地にある
科学館までは、公式の案内で立川駅北口から徒歩およそ25分。多摩モノレールなら、立川北駅から一駅の高松駅で降りて10分ほどだ。

写真: 国土交通省 / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons
歩いて向かうと、まず駅前の再開発の街を抜けることになる。国土交通省の資料によれば、立川基地の跡地を使った「ファーレ立川」には、世界各国からの109のアート作品が街と一体になって置かれている。ビルの足元に、彫刻やベンチや車止めの形をした作品がふいに現れる。急ぎ足の人は気づかない。私も最初は気づかなかった。
立川の北側は、かつて飛行場だった。立川市の散歩コースの案内は、立川が飛行場の用地に選ばれた理由を三つ挙げている。首都に近いこと。広大で平坦な土地があること。鉄道が通っていること。そして大正11年(1922)、完成した飛行場に、岐阜県の各務ヶ原から陸軍の飛行第五聯隊が迎えられた。
「空の都立川」という呼び名は、ここから来ている。市史編さん広報紙『たちかわ物語』は、飛行場の発達とともに立川が「空の都」として急速に発展したと書く。昭和5年(1930)には「立川小唄」が作られた。当時の立川の様子をふんだんに歌い込み、お座敷で踊りとともにうたわれ、宴会でも広く親しまれたという。
空の都を、座敷で踊る。最先端の飛行場を、いちばん古風なやり方で祝っていたわけだ。この歌を伝える記念碑は、かつての飛行場の正門前、今の多摩信用金庫本店のそばに建てられている。
立川市の年表をめくると、飛行場の町の浮かれぶりがよくわかる。大正12年(1923)に立川村は町になった。その翌年、町制施行を記念して開かれたのは、飛行場での自動車レースだった。記念行事に滑走路を使う。この町の祝い方は、最初から少し規格外である。
昭和2年(1927)には、ソ連の親善機が立川飛行場に飛来した。これが最初の外国機で、以後外国機の飛来が相次ぎ、立川飛行場は国際空港になったと年表は書く。昭和12年(1937)には、朝日新聞社の神風号が立川を飛び立ってロンドンまで飛び、飛行時間の世界記録を作った。立川の飛行場が、国際空港と呼ばれた時代があった。この一行だけでも、立川の人は少し胸を張っていい。
内閣府の資料によれば、飛行場は昭和20年(1945)9月に連合国軍(米軍)が接収し、空軍の飛行場として使った。全面返還は昭和52年(1977)11月。返された国有地は453haにのぼる。
返還までの道は一直線ではなかった。市の年表によれば、昭和47年(1972)、自衛隊が米軍立川基地へ移駐した。隊員127人、ヘリ5機である。返還後の昭和57年(1982)には、新しい滑走路の運用が始まり、年表はそれを「新立川飛行場」と呼んでいる。飛行場の街の記憶は、滑走路ごと消えたわけではなかった。国営昭和記念公園の公式案内は、この公園を米軍の立川飛行場跡地につくられた総面積180haの国営公園と説明している。広い土地には、広い土地になった理由がある。滑走路が要った。格納庫が要った。返されたあと、その広さは別の使い道を待った。公園になった部分があり、防災の基地になった部分がある。
そして、研究所がやって来た部分がある。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
緑町、研究所が引っ越してきた一角
国土交通省の資料によれば、立川基地跡地関連地区には、閣議決定によって文部科学省と総務省の研究・研修機関の5機関が移った。国立国語研究所、国文学研究資料館、自治大学校、国立極地研究所、統計数理研究所である。その後、同じ一角に東京地方裁判所などの合同庁舎が、隣には立川市役所が移ってきた。同じ資料は、2011年の時点で5機関の職員を合わせて345名と数えている。

写真: Haruhiko Okumura / CC BY 2.0 / Wikimedia Commons
各機関の公式な沿革を並べると、この一角が数年のうちに組み上がったことがわかる。国文学研究資料館は2008年3月に、緑町の現在地へ移った。国立極地研究所は2009年5月。統計数理研究所は2009年10月に、港区南麻布から越してきた。
いちばん早く来たのは、国立国語研究所だ。研究所の沿革によれば、移転は2005年2月。この研究所の来歴は、引っ越しの歴史でもある。1948年に生まれたとき、庁舎は聖徳記念絵画館の一部を借りていた。1954年に神田一ツ橋の一橋大学の建物へ、1962年に北区西が丘へ移り、そして立川に来た。日本語を研究する国の機関が、絵画館の間借りから始まっていた。言葉の研究は、場所を選ばない。
市の年表は、その後の一角の変わりようも記録している。2003年に自治大学校の立川校舎が開校した。2009年には東京地方裁判所や家庭裁判所の八王子支部などが緑町へ移り、2010年には立川市の新庁舎が業務を始めた。飛行場の跡が、十年足らずで国と市の機関の街になった。
住所を見比べて、私は小さく笑った。国立極地研究所と統計数理研究所と国文学研究資料館は、住所がそろって「立川市緑町10-3」なのだ。隣の国立国語研究所は「緑町10-2」。南極の氷を調べる人。確率の数理を考える人。江戸の古典籍を読む人。日本語を調べる人。それがほぼ同じ番地で働いている。昼休みの雑談がどのくらい噛み合うのか、部外者としては少し気になる。
氷の層を読むこと。数字の揺らぎを読むこと。和紙の上の筆跡を読むこと。どれも、目の前の物から見えない過去を読み取る仕事ではないか。飛行場だった平らな土地に、読む人たちの建物が並んだ。
世界の統計学者が知っている名前
統計数理研究所の構内には、「Akaike Guest House」という宿泊施設がある。研究所の記念サイトによれば、2010年6月に使われ始めた。名前の主は、統計学者の赤池弘次である。
赤池は1952年に統計数理研究所に採用され、1986年に所長になった。1974年に発表した論文で示した情報量規準は、AICと呼ばれる。2006年には、この「情報量規準AICの提唱」によって京都賞を受けた。2017年11月5日、生誕90年の日には、Googleのトップページのロゴが赤池を記念する絵になった。
ゲストハウスの説明には、正直な一文がある。立川への移転で、都心型の好アクセスから郊外型になった。その問題を解消するために建てた、というのだ。研究者が泊まる場所が要るほど、ここは遠い。そう書かれると、立川の住人としては少し複雑だろう。だが、世界の統計学者が知っている名前の宿が、立川の研究所街に建っている。その事実のほうが、ずっと大きい。
国土交通省の同じ資料は、国立極地研究所の役割を、南極観測事業の中核的な実施機関と書いている。つまり、日本の南極観測を動かす中心は、立川にある。昭和基地へ向かう観測隊の仕事は、この緑町の一角とつながっているのだ。立川市民が人に話していい事実の、たぶん筆頭である。
国の「もう一つの司令塔」
緑町には、もう一つ、あまり知られていない顔がある。研究所街の隣に広がる立川広域防災基地だ。内閣府の資料によれば、所在地は立川市緑町3567、面積は約118ha。東京消防庁や警視庁、災害医療センター、海上保安庁、陸上自衛隊の施設が集まっている。
その中に、内閣府の災害対策本部予備施設がある。大きな災害が起きると、国の緊急災害対策本部は総理大臣官邸、内閣府、防衛省の順に置かれる。平成15年(2003)の閣議了解である。では、その三つがすべて使えなくなったら。資料の答えは短い。立川の予備施設へ移る。
政府の防災白書も、この基地をはっきり書いている。平成13年版の防災白書は、広域防災基地の整備の項で、最初に立川広域防災基地を挙げた。災害対策本部予備施設のほか、警察、海上、消防、自衛隊航空、医療の防災施設を持つ、とある。国の白書に、立川の地名が非常時の拠点として載っている。
私は資料の「立地のメリット」の欄で、しばらく目を留めた。都心から約30km。比較的地盤の良い台地。余裕のある空間。どこかで読んだ理由に似ている。この既視感の正体は、最後に明かすことにしたい。
では、研究所の一つ、南極を読む人たちの館は、どんな顔で旅人を迎えるのか。
南極・北極科学館の扉の前で
科学館の交通案内は、高松駅からの道を八つの手順で説明している。改札を出て右へ進み、地上へ下りる。玉川上水の方へ50mほど進むと、「高松駅北」の信号がある。渡らずに左へ曲がる。右上のモノレールの線路は本線ではなく、車庫への引き込み線だ。それに沿って100mほど進み、「裁判所前」の信号を渡って左へ。裁判所の駐車場を過ぎてすぐ、科学館への遊歩道がある。小さな道標が目印だ。
これほど丁寧なのは、それだけ迷う人が多いからだろう。方向感覚に自信のない私は、手順を読んだだけで半分たどり着いた気になった。気になっただけである。
入口には大きな岩がある。南極の昭和基地から持ち帰った「蜂の巣岩」だ。表面に穴がたくさん開いている。科学館の解説では、昭和基地の周辺に広く分布する黒雲母片麻岩だという。風化や塩類の溶解と析出によって穴ができた。強い風が、もろくなった岩肌をへこませ、飛んできた砂がそこをさらに削った、という研究者の説明も残っている。
立川の歩道の脇に、南極の風が彫った岩が置かれている。それだけで、25分歩いた甲斐があった気がした。
館外には、ほかの顔ぶれもある。モニュメント「極光」は、1912年に白瀬矗の率いる探検隊が日本人として初めて南極大陸に上陸してから、100年を記念したものだ。DNAと同じ二重らせんの形をしている。南極観測船の初代「しらせ」のスクリューブレードもある。
初期の南極観測で活躍したカラフト犬のブロンズ像も立っている。もとは東京タワーの入口に置かれていた。東京タワーへ行ったことのある人なら、見かけているかもしれない。それが2013年、公益財団法人日本動物愛護協会から国立極地研究所に寄贈されたという。東京タワーの足元から、立川の研究所の庭へ。犬たちにとってこれが栄転なのか、私には判断がつかない。ただ、南極の話が通じる仲間は、こちらのほうがずっと多い。
扉を開けると、最初に待っているのは、触ってもいい南極である。
南極の氷と、3035mの円柱
導入の展示では、南極と北極の違いが地図と模型で紹介されている。そこに、南極の氷がある。直接手で触れることができる。
南極の氷床は、降った雪がとけずに長い時間をかけて積み重なってできている。科学館はそれを、過去の地球を物語る「タイムカプセル」と呼ぶ。旅の読み物サイトで科学館を紹介した書き手も、南極の氷に直接触ったり雪上車を近くで見たりできることを、真っ先に挙げていた。誰が来ても、まず手が氷に伸びるらしい。手のひらに伝わる冷たさは、ただの冷たさではない。遠い昔に降った雪が、押し固められて氷になったものなのだ。
隣のコーナーには、氷床掘削ドリルの実機がある。2013年の館の解説によれば、南極大陸は厚さ3000m以上の氷床に覆われている。そこには地球環境の情報を持つ物質が数十万年にわたって積み重なり、過去の空気も閉じ込められている。日本の観測隊は内陸にドームふじ基地を建て、氷床を表面から底まで掘り抜いた。そして直径94mm、長さ3035mの円柱状の氷床コアを取り出した。展示のドリルは、そのときに使われたものだ。
1回に掘れるのは約4m。ケーブルでドリルを上げ下ろしし、それを繰り返す。掘った孔が狭まらないよう、不凍液を満たした中で掘る。そのため、3000mの深海と同じほどの耐圧が求められたという。
3035mを1回4mずつ。単純に割り算すれば、ざっと760回の上げ下ろしになる。私なら10回目あたりで、回数を数えるのをやめているだろう。その気の遠くなる仕事の道具が、目の前で静かに横たわっている。そばには自動気象観測装置や、海に沈めて観測する係留系の実機も並ぶ。
ところで、そのドームふじ基地は、どれほど寒い場所なのか。答えは、少し先の数字の枠にある。その前に、館でいちばん大きな展示物の前を通らなければならない。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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