KD604雪上車、南極点への5000km
日本の南極観測の歴史を紹介するコーナーに、南極点の往復に使われたKD604雪上車の実車がある。

写真: Toshinori baba / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
館の2014年の解説によれば、第7次隊の大きな目玉の一つが、昭和基地から南極点までの雪上車による調査旅行だった。そのために日本の技術を集めて作られたのが、KD604型雪上車である。観測隊からは、往復5か月の暮らしに耐える居住性など、多くの要望が出た。依頼を受けた防衛庁技術研究本部が各機関と連携して設計し、1966年に1号機が昭和基地に陸揚げされた。そして1968年9月から翌年2月にかけて、同型の4台で、南極点に至る往復5000kmの調査旅行を成し遂げた。
5か月、5000km。口に出してみても、その長さが体に入ってこない。立川駅から科学館までの25分で息が上がる身としては、比べる気にもならない。
同じコーナーには、第1次観測隊が使った防寒着と犬ぞり、歴代の南極観測船の模型もある。雪上車が走った氷の上に、今も人が暮らしている。その暮らしの窓が、館の奥に開いている。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
昭和基地のいまと、オーロラの部屋
「こちら昭和基地」と名づけられたコーナーは、遠い基地を少しだけ近くに引き寄せる。
科学館の解説によれば、昭和基地は1957年、第1次南極地域観測隊によってオングル島に開かれた。南極大陸から約4km離れた島である。1次隊のころ4棟だった建物は、今ではおよそ60棟に増え、様々な観測機器を備えた科学基地になった。ここでは昭和基地のライブ映像とジオラマ、越冬隊員用の個室、越冬隊員の防寒服が見られる。
2015年の解説によれば、隊員用個室の壁は実際の木製断熱パネルだ。昭和基地では、木製断熱パネルによる完全プレハブ方式が日本で初めて実現された。建築を知らない隊員でも整然と組み立てられるように、という工夫だった。日本は昭和基地より6時間進んでいて、季節も逆になる。ライブ映像の光は、立川の窓の外とは時刻も季節も違う。
研究所の記録によれば、昭和基地の標高は28.8m。海辺の基地である。それでも最低気温の記録は1982年9月4日の−45.3℃に達する。開設は1957年1月で、南緯69度00分25秒。数字を並べると、映像の中の穏やかな雪景色が、急に手強いものに見えてくる。
オーロラのコーナーでは、太陽から吹き出すプラズマと地球の磁気のぶつかり合いが、光を生むしくみが解説されている。昭和基地はオーロラがよく見える場所の一つで、観測隊は65年以上観測を続けてきた。昭和基地の大型大気レーダー「PANSY」と、北極の次世代欧州非干渉散乱レーダー「EISCAT_3D」のアンテナの実機も並ぶ。
そして「TACHIHIオーロラシアター」。研究用に撮影されたオーロラの映像を、直径4mのドームスクリーンで見られる。混雑していると立ち見になることもあるという。研究のための映像は、観光の映像とは目的が違う。だが、揺れる光の帯を見上げているとき、その違いはあまり問題にならない。
月の石、火星の石、湖底のコケ坊主
岩石と隕石のコーナーには、南極で採取された岩石のほか、月隕石や火星隕石がある。観測隊や研究者が採ってきた実物を、顕微鏡でのぞいたり、触ったりもできる。科学館の解説によれば、南極には隕石が集まって見つかるしくみがあり、日本の観測隊はたくさんの隕石を採集してきた。
月から来た石と火星から来た石が、立川の一室に並んでいる。宇宙から南極の氷の上に落ち、観測隊に拾われ、多摩の研究所に運ばれてきた。ずいぶんと遠回りな引っ越しである。
生き物のコーナーでは、厳しい環境に生きるコケや地衣類、ナンキョクオキアミを中心とする南極海の生態系が紹介されている。2013年の館の解説には、南極大陸で花の咲く植物は南極半島の2種類だけだとある。コケや地衣類も、1年に1mmも育たない。一方で、雪どけ水のたまった池の底には、コケや藻類、クマムシ、バクテリアからなる生態系がある。コケを中心にできた「コケ坊主」は、1000年かけて高さ80cmまで育つという。
1000年で80cm。1年にならせば0.8mmだ。せっかちな人には、まず務まらない生き方である。
数字で読む南極・北極科学館
国立極地研究所の「数字で見る極地研」から、私が足を止めた数字を拾っておく。
- −18.6℃ — ドームふじ基地でこれまでに記録された最高気温。その基地の、いちばん暑かった日である。
- −79.7℃ — 同じ基地の最低気温の記録。標高3,810mの氷の上である。数字を見ただけで指先がかじかむ。
- 8,760時間 — 研究所の低温実験施設の、2025年度の年間稼働時間。1年は8,760時間なので、止まった時間がない。
- 約17,400点 — 研究所が持つ隕石資料の数。立川は、隕石の多い街でもあったのだ。
- 4,213名 — 第1次から第67次までの南極地域観測隊の参加者の累計。
- 445,217名 — 2010年7月24日の開館から2026年7月1日までの、科学館の延べ来館者数。全員が南極の氷に触ったかどうかは、統計がない。
旅人の寄り道クイズ
南極の昭和基地で、これまでに記録された最高気温はどれか。A −2.7℃ B +10.0℃ C +25.0℃。答えは、この散歩の終わりに。
館を出ると、秋の緑町の空が広い。謎の答えまで、あと少しだ。
南極観測の70年と、研究所街の秋
2026年は、南極観測の節目の年でもある。国立極地研究所は南極観測70周年の記念事業として、科学館で写真展を開いた。1956年に出発した第1次隊から、今昭和基地で越冬している第67次隊までの出来事を、写真と年表で振り返るものだ。
立川から数える南極の70年
研究所の「数字で見る極地研」は、この70年を別の角度から数えている。第1次隊の出発は1956年11月。最初の観測船は海上保安庁の「宗谷」で、第6次隊まで南極へ通った。二代目の「ふじ」は1965年、三代目の「しらせ」は1983年、四代目の新「しらせ」は2009年に就航した。科学館の屋外にあるスクリューブレードは、三代目、つまり初代「しらせ」のものだ。
第1次隊が「宗谷」で出発した昭和31年(1956)、いま科学館の建つ平らな土地は、米軍に接収された飛行場の中にあった。返還は昭和52年。南極観測が始まったころ、立川の子どもはこの土地に足を踏み入れることもできなかった。いま、同じ土地で、子どもが南極の氷に手を当てている。昭和の立川を知る人には、それだけで一つの物語になるだろう。
第67次隊は、越冬隊29名と夏隊84名。第1次から第67次までの参加者は、累計4,213名にのぼる。そのうち女性は250名だ。第67次で昭和基地へ運んだ物資は1,086トン。うち749トンが燃料である。荷物の7割近くが燃料。南極で暮らすとは、まず燃やし続けることなのだ。
南極条約が発効したのは1961年。原署名国は12か国で、その中に日本が入っている。いま南極で越冬観測をしている国は20か国、基地は44にのぼる。その一つ、日本の昭和基地の年平均気温は−10.4℃、年平均の風速は毎秒6.7m。立川で冬に北風が冷たいと感じる日も、昭和基地の平年よりはずっと暖かい。
これだけの数字の束の、事務と研究と準備の中心が、立川の緑町にある。科学館の静かな展示室の裏で、研究所は次の隊を送り出す仕事を続けている。
科学館そのものは、まだ若い。研究所の沿革によれば、国立極地研究所の創設は1973年9月29日。緑町への移転が2009年5月で、科学館の開館は2010年7月である。
隣の統計数理研究所の歴史は、もっと古い。昭和19年(1944)6月、確率に関する数理とその応用の研究を担う、文部省直轄の研究所として設置された。戦争のさなかに、確率の研究所がつくられたのだ。昭和60年には、大学の研究者と共同で研究や設備を使う大学共同利用機関に改められた。
国文学研究資料館は、1972年5月の創設である。1951年に設置された文部省史料館を、その組織に組み入れている。開館式は1977年6月、閲覧サービスの開始は同じ年の7月だった。最初の利用者を迎えるまでに5年をかけている。急がない。それも古典を扱う人たちらしい。
研究所街の季節
緑町の研究所街には、季節ごとの顔もある。国立極地研究所は毎年、一般公開「極地研探検」を開いている。2025年は9月27日に開かれ、2,805名が訪れた。2026年は10月3日で、この日は科学館も16時に閉館し、研究所の駐車場は使えなかった。秋の一日だけ、普段は入れない研究所の中が開く。
研究所は、研究者や隊員経験者が話す「極地研サイエンスカフェ」も開いている。2026年の秋には、北極の観測船での仕事を伝える回が11月6日に、広報隊員が見た南極観測隊の仕事と暮らしを語る回が12月7日に予定されている。南極の話を、立川で直接聞く。冬の入口に、これほど遠い話を近くで聞ける機会はそうない。
国文学研究資料館にも展示室がある。2026年10月1日から11月27日までは、特別展示「江戸・明治の書画と書簡―北野克コレクション―」が開かれる。年明けの1月22日から3月18日には、通常展示「書物で見る 日本古典文学史」が予定されている。一日のうちに南極の氷に触れ、江戸の書簡を眺める。そんな散歩ができる場所を、私はほかに知らない。
さて、最初の謎に戻ろう。なぜ、立川に南極があるのか。
答えの半分は、飛行場にある。大正の陸軍が立川を選んだ理由は、首都に近く、広く平らで、鉄道が通っていることだった。その飛行場が返され、空いた平らな土地に、読む人たちの研究所が集まった。私の見立てでは、飛行機を呼んだのと同じ三つの条件が、八十年余りあとに南極の研究者を呼んだのだ。
防災基地の資料で感じた既視感の正体も、これである。首都から近すぎず遠すぎない。地盤のいい台地。広い空間。大正の陸軍が飛行場に求めた条件を、平成の国は非常時の司令塔に求めた。立川の平らさは、大正から平成まで、国に選ばれ続けてきたのだ。
最初の問いに、もう一度答えておく。立川には何があるのか。南極がある。日本の南極観測の中心がある。官邸が使えない日の、国の予備の司令塔がある。江戸の古典籍と、確率の数理と、日本語の研究もある。地味な街だと思われがちな立川は、実は国の大事なものを、黙って預かっている街なのだ。
ただ、それで謎が全部解けたわけではない。残りの半分は、氷に手を当てた人が、それぞれに持ち帰ればいい。科学館を出ても、手のひらにはまだ南極の冷たさが少し残っている。歩くうちに、それが自分の体温に溶けていく。
クイズの答え
答えはB、+10.0℃。国立極地研究所の「数字で見る極地研」によれば、昭和基地の最高気温の記録は1977年1月21日の+10.0℃である。一方、Aの−2.7℃は、標高2,244mにあったみずほ基地の最高気温の記録だ。南極では、プラスの気温は立派な記録になる。
訪ねる前に
- 国立極地研究所 南極・北極科学館:東京都立川市緑町10-3。多摩モノレール高松駅(立川北駅から1駅)から徒歩10分。JR立川駅北口から徒歩およそ25分。立川バスなら立川駅北口2番か3番乗り場から立川市役所経由のバスで「立川学術プラザ」下車、徒歩1分(公式の交通案内より)。
- 科学館の公式サイト:https://www.nipr.ac.jp/science-museum/ (公式では入場無料と案内されている。開館時間、休館日、臨時の閉館は変わることがあるので、最新は公式で確かめてほしい)
- 交通アクセスの詳細:https://www.nipr.ac.jp/science-museum/access/
- 国文学研究資料館:東京都立川市緑町10-3。展示の会期と展示室の休室日は公式で。https://www.nijl.ac.jp/
- 統計数理研究所:https://www.ism.ac.jp/ / 国立国語研究所(緑町10-2):https://www.ninjal.ac.jp/
- 所要時間の目安:高松駅から徒歩10分、立川駅北口から徒歩およそ25分、「立川学術プラザ」バス停から徒歩1分(いずれも公式の交通案内)。館内の滞在時間の公式の目安は見当たらない。科学館を訪ねた旅の読み物サイトの書き手は、気づくと1時間くらい滞在していた、と書いている。オーロラシアターは混雑時に立ち見になることがある。
- 組み合わせて回るなら:行きか帰りを多摩モノレールにすると、高松駅までの車窓も楽しめる。駅へ歩いて戻るなら、ファーレ立川のアートの間を抜けられる。半日あれば、同じ飛行場の跡地にできた国営昭和記念公園や、立飛の街とつなげて一日の散歩になる。
南極から戻ったら、立川駅北口で
緑町から歩いて駅へ戻ると、北口の人の流れに合流する。改札から徒歩1分、曙町2-14-10のエトロワビル3階に、溶岩ホットヨガスタジオのオンザショア立川店がある。
南極の氷に触れたあとで、温かい部屋に入る。その落差を一日のうちに味わうのも、立川の歩き方の一つかもしれない。ここでは溶岩プレートを敷いたスタジオでのホットヨガのほか、常温のヨガ、ピラティス、女性専用のキックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、パーソナルトレーニングが受けられる。ヨガだけで25種類以上のレッスンがある。
営業時間は8時から23時30分まで。年中無休で、曜日による違いはない。研究所街を夕方まで歩いた日でも間に合う。
初めてなら、ヨガの体験レッスンがある。税込1,980円で、60分のレッスンが受けられる。バスタオル2枚、フェイスタオル1枚、ヨガマットのレンタルも含まれる。妊娠中の人は溶岩ホットヨガには参加できないが、常温のマタニティヨガがある。医師から運動を止められている人は利用できない。
料金は https://ontheshore.jp/price/ に、店の案内は https://ontheshore.jp/ にある。体験の予約は https://site.locaop.jp/C0aVK?_src=hp から。
南極の冷たさと、溶岩の温かさ。その二つが、同じ街の歩いて行ける距離にある。
冒頭の写真: 南極・北極科学館が入る国立極地研究所の建物。灰色の低い壁が、芝の斜面に沿って横に延びる。(写真: Sho Kuroda / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons)
この記事の情報は2026年10月時点のものです。
立川さんぽ特集のほかの記事
- 立川の空襲と戦争の記憶 北口の広場は建物疎開の跡だった。山中坂の壕と13回の空襲
- 立川の紅葉・イチョウを歩く 都が選ばなかったケヤキと、市でただ一本の天然記念物
- 立川 基地の町の文化を歩く ユーミンが歌ったゲートと、コーラの瓶を返せという通達
- 立川基地と砂川闘争の歴史を歩く──広がらなかった滑走路と、返された土地の使いみち
- 立川の銭湯と湯の文化 6円が600円になるまで、市内に残る3軒の湯けむり
- 立川防災館と立川広域防災基地を歩く──首都の予備の頭脳は、なぜ立川にあるのか
- 立川の橋めぐり 「無名橋」から二階建ての立日橋まで、橋の名前が覚えている街の来歴
- 立川シネマシティの極上爆音上映──映画館が消えた街に、東京初のシネコンが立つまで
- 立川の文化施設をめぐる──「国立」音大は立川にあり、美術館は信用金庫の1階にある
- 立川をサイクリング──昭和記念公園の14キロと多摩川へ、飛行場が選んだ平らな街を走る
- 立川の踊りと市民の祭り 立川音頭は4つある、そして「立川はフラフラだ」
- 立川ゆかりの人びと 小澤征爾は立川の小学校に通い、彗星の発見者は立川で生まれた
- 立川ゆかりの有名人 ノッポさんは立川の高校を出て、「ダバダ〜」の作曲家は立川基地で弾いた
- 立川 ファーレ立川アートの見どころと回り方──世界の巨匠が、駅前で車を止めている
- 立川の農業と直売所を歩く 23区の畑の半分を超える町で、一番広く育つのは木だった
- 立川で始まった「日本初」 世界初の量産電気自動車、全国初の女性議長、サザエさん裁判
- 立川の民話と伝説を歩く 残堀川は大蛇の血の跡と伝わり、送り狼には「ごくろうさま」を
- 立川・普済寺と諏訪神社を歩く 国宝の石と千二百年の社、立川という名が生まれた村
- 立川で働く・生まれる仕事の今と未来──昼の人口が夜より2万人多く、開業率は多摩26市で一番の街
- 立川の新しい文化と公演のこれから──バレエの国際予選も「学園都市」の祭りも駅から歩ける
- 立川の緑と環境のこれから CO2を6割減らす街の足湯と、消えては現れる緑
- 立川と外国人観光の今と未来──東京を訪ねた旅人の2.3%だけが知る街へ、羽田からバス1本
- 立川の人口と子育てのこれから 外れた予言より4万人多い未来と、2028年の峠
- 多摩モノレール延伸はいつ? 箱根ケ崎まで7駅、町田へ16km──立川が多摩の背骨の真ん中になる日
- 立川と首都直下地震のこれから──465億円の新しい防災拠点と、競輪場が避難所になる日
- 立川・昭和記念公園のこれから レインボープール跡地に、なぜ誰も手を挙げなかったのか
- 立川駅周辺の再開発とこれから 「ベッドタウンにしない」と決めた駅前の、デッキとグリーン車の未来
- 立川・立飛とGREEN SPRINGSの次の十年 市の25分の1を持つ会社と予測を超えた街
- 立川 GREEN SPRINGSの見どころ 一等地にヤギがいて、屋上に多摩川が流れる
- 立川観光と散歩の総合案内──国宝も南極の氷も砂浜もある、空の都の歩き方
- 立川の地形と坂を歩く 平らな街は、なぜ北から南へ50メートルあまり傾いているのか
- 立川の歴史を歩く(出典つき年表) 畑と桑の村は、なぜ百年で多摩の中心になったのか
- 立川飛行場と神風号 午前2時にロンドンへ発ち、羽田へ帰った国産機と空の都
- 立川は神奈川県だった 明治26年の三多摩東京移管と、賛成の砂川・反対の立川村長
- 立川競輪場(立川けいりん)を歩く──グランプリ発祥のバンクが、街の図書館と学校を建てた
- 立川の子どもの昭和史 駄菓子屋「デモ屋」と、基地のクリスマスに配られた3.5トンの飴
- 立川の航空神社と、羽田より先の「東京飛行場」──空に祈った社はなぜ駐車場の片隅に
- 立川・昭和記念公園のこもれびの里と日本庭園──飛行場の跡に、狛江の名主の家が建っている
- 立川の図書館を歩く──たぬきと招き猫と牛のマーク、図書館の無かった市が全国上位になるまで
- 立川のライブハウスと音楽の街 元キャバレーの舞台と、「TM」が多摩だったころ
- 立川まんがぱーくの見どころと行き方──市役所だった建物で靴を脱ぎ、畳の上の4万冊にもぐる
- 立川の花火大会と祭り 昭和記念公園の五千発は、なぜ打ち上げ場所が秘密なのか
- 昭島散歩 立川から9分、海のない街にアキシマクジラと「島」がある理由
- 福生散歩 横田基地はなぜ横田にないのか、国道16号のアメリカンな街の親は立川飛行場
- 福生の酒蔵散歩 石川酒造と田村酒造場、多摩川のそばで川の水を使わない二つの蔵
- 八王子城跡散歩 立川の武士が仕えた、1日で落ちた山城と日本でただ一つの「桑の都」
- 八王子・高尾山散歩 立川から乗り換えなしで行く「世界一」の山と、首を賭けて守られた森
- 日野散歩 土方歳三と新選組のふるさとへ、立川の岸に「日野の渡し」の碑が立つわけ
- 国分寺散歩 お鷹の道と真姿の池、武蔵国分寺跡を立川から歩く 「はけ」は立川から始まっていた
- 国立散歩 「国立」の立は立川の立──大学通り、一橋大学、谷保天満宮を立川から歩く
- 御岳山散歩 武蔵御嶽神社と御岳渓谷、山の神社は参拝の道順を立川から書き起こす
- 青梅散歩 昭和レトロの街並みと映画看板、青梅線は青梅の人が立川へ引いた線路だった
- 立川・根川緑道から多摩川へ散歩 市名の「川」はどの川か、市も知らない
- 立川・猫返し神社(阿豆佐味天神社)と水天宮──名付け親は宮司ではなくジャズピアニストだった
- 立川の夜景と朝の富士山──冬至の夕日は富士の方角へ沈む、デッキとモノレールの空の時刻表
- 立川の夜を歩く──北口と南口の飲み屋街・横丁の歴史、闇市の広場と10館の映画館
- 立川のラーメンとうどん──ラーメンスクエアと武蔵野の小麦、婚礼のご馳走はうどんだった
- 立川は23区に負けているのか 公園は区部の3倍、富士山は新宿より23キロ近い
- 立川の古い村と史跡を歩く──石碑と井戸ばかり残るのは、村が引っ越し好きだったから
- 立川・オニ公園(錦第二公園)へ子連れで──鬼門を守る赤鬼は方角を45度まちがえたのか
- 立川の公園めぐり 一人あたり都平均の2倍、二百六十の公園と「やり投げの月曜日」
- 立川の町名・地名の由来を歩く 曙町と羽衣町は、なぜ名前を取り替えたのか
- 立川 雨の日の過ごし方と時間つぶし──雨が一番多いのは梅雨でなく9月、駅の二階から歩く
- 立川市歴史民俗資料館の見どころ──国宝は複製、蚕は本物。立川の歴史を預かる小さな館
- 立川の桜・花見の名所を歩く 駅前の「玉桜」から根川の土手、基地の引込線まで、百年の花の地図
- 立川の学校と学び舎の街──制服の無い百年校、夜の教室、鐘の鳴る音大、南極を学ぶ大学院
- 立川のロケ地と作品の舞台を歩く──神様も防衛隊員も、なぜ立川へ「休みに」来るのか
- 立川の養蚕と桑畑の歴史 砂川は桑苗の生産で全国一だった、空の都の下に眠る蚕の村
- 立川はなぜ「なんでもある」のか──商業の街の百年、魚屋のスーパーから都内初のIKEAまで
- 立川・昭和記念公園の見どころを歩く イチョウ並木が四角いのは、空のせいだった
- 立川の姉妹都市サンバーナディノと世界──東京で最初の姉妹市と、国際司法裁判所長になった交換高校生
- 立川のお土産と名物──59品の「立川のたいこばん」と、酒蔵のない街にある東京の地酒の本部
- 立川のスポーツ観戦と走る場所──仮設のアリーナから日本一が二度、滑走路から1万人が走る街
- 立川駅の歴史をたどる 村はずれの停車場は、なぜ多摩でいちばんの駅になったのか
- 立川の夏の過ごし方と水遊び レインボープールが眠る公園で、森は30分ごとに霧になる
- 立川・サンサンロードを歩く──車の入れない幅40メートルの道に、冬は60万の灯り
- 立川・立飛の歴史と見どころ 飛ばなくなった会社は、なぜ「飛」の字を手放さないのか
- 立川の歴史と立川氏 街の名を名乗った武士は去り、700年前の古文書だけが帰ってきた
- 立川・多摩モノレールの景色と車窓 立川の隣の駅で、富士に日が沈む
- 立川と多摩川の水害と橋の歴史 汽車は人より37年早く川を渡った、渡し船と堤防の物語
- 立川の玉川上水と砂川を歩く 散歩の見どころと歴史、江戸の水道はなぜ川の下へ潜ったか
- 立川の名物・名産品、東京うど 地下3メートルで白く育つ野菜は、夏を高原で過ごす
- 立川の鉄道さんぽ 200メートル遠回りする「短絡線」と、横田へ燃料を運ぶ列車
- 立川の水道と井戸 蛇口の水はどこから来るのか、街の下に眠る水源井戸をたどる
- 立川はなぜ「東京初」が多いのか IKEAも伊勢丹の支店もシネコンも、西の街から始まった
- 立川の野鳥と生きもの タヌキは下水管で眠り、ホタルは公園に住み、タカの居場所は書かれない
- 立川・矢川緑地と「はけ」を歩く──真冬も15度の小川と、20年減らない湧き水の謎
- 立川の週末さんぽ 横田基地から青梅線で14分、基地の「親」だった街を案内する
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
2




