立川はなぜ「なんでもある」のか──商業の街の百年、魚屋のスーパーから都内初のIKEAまで

立川は「なんでもある」と言われる。人口で上回る八王子や町田ではなく、なぜ多摩でここに百貨店や駅ビル、IKEAが集まったのか。駅前の魚屋から生まれた都下最初のスーパー、1970年の大型店の年、そごうが来なかった南口、オタクの聖地と呼ばれた雑居デパート、基地の跡地の都内初のIKEAまで、商業の街・立川の来歴を資料でたどる。

立川に住む人に、自分の街のいいところを尋ねてみるといい。たいていの人は少し考えてから、こう答える。なんでもある。

褒め言葉のようで、どこか頼りない。名物はと聞かれれば口ごもり、観光地はと聞かれれば昭和記念公園の名前を挙げて、それきりになる。自慢のつもりで言った言葉が、言った本人の耳にも少し寂しく響く。なんでもある街というのは、裏を返せば、これといって何もない街のことではないのか。私もずっとそう思っていた。

だが、数字を並べてみると、話は少し違ってくる。東京都が令和2年の国勢調査から計算した「昼夜間人口比率」で、都内26の市のうちいちばん高いのは立川市である。夜に住んでいる人より、昼にいる人のほうが15%以上多い。毎日、街の外から人が来ている。

人口なら、多摩には八王子がある。町田もある。どちらも立川よりずっと大きい。それなのに、なぜ百貨店や駅ビルや、都内で最初のIKEAまでが、この人口18万人ほどの市に集まったのか。その問いを抱えて、私は駅の北口のデッキに立った。

立川は「なんでもある」と言われる。その中身を数える

まず、「なんでもある」の中身を数えておきたい。

立川市は、自分の街をこう紹介している。JR立川駅の周辺には歩行者専用のデッキが整備され、有名デパートや大型スーパーなどが数多くあり、多摩地域の商業の中心となっている。自治体の文章にしては、ずいぶん胸を張った言い方だ。

実際に指を折ってみる。駅の北口には駅ビルのルミネ立川があり、南口には駅ビルのグランデュオ立川がある。改札の内側にはエキュート立川がある。デッキを渡れば百貨店の伊勢丹立川店と、全館が専門店になった立川髙島屋S.C.。地元の資本で建った商業ビルのフロム中武、再開発でできた立川タクロス、南口の大型商業ビル。少し離れて、家具のIKEA立川、モノレールで北へ二駅のららぽーと立川立飛、公園のような新街区のGREEN SPRINGS。百貨店、駅ビル、専門店ビル、郊外型の大型店。日本の買い物の場所の型が、ひとつの駅のまわりにほぼ全部そろっている。「なんでもある」は、文字どおりの意味だったのだ。

胸を張るだけの根拠はある。東京都がまとめた令和2年国勢調査の昼間人口の報告によれば、市部の昼夜間人口比率は立川市が115.4でいちばん高く、武蔵野市の110.1、多摩市の101.4がそれに続く。立川の昼間人口は21万1,798人で、市部では八王子、町田、府中に次ぐ4番目だ。住んでいる人の数では4番目に届かないのに、昼になると順位が上がる。ここは、人が「来る」街なのだ。

買い物の量も、人口の割に大きい。最後の商業統計となった平成26年の調査で、立川市の小売業の年間商品販売額は約2,381億円。都の市部では八王子市の約4,883億円、町田市の約4,301億円に次いで3番目にあたる。八王子の人口は、令和2年の国勢調査で立川のおよそ3倍。その八王子の半分ほどを、立川は売っている。

散歩好きの人が立川を紹介したブログには、駅の近くに大型の商業施設が集中し、その規模は「23区以外では随一の規模といっても良いだろう」という一文がある。地元の人の実感としても、そう大きく外れてはいないらしい。

では、いつから、どうしてこうなったのか。手がかりを探して資料をめくっていくと、話は百貨店からではなく、一軒の魚屋から始まる。

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駅前の魚屋の向かいに、百貨店がやって来た

明治33年、1900年のことだ。

いなげやの社史にあたる「いなげや物語」によれば、川崎と稲城の境あたりの農家に生まれた猿渡波蔵という人が、まだ一寒村にすぎなかった甲武鉄道の立川駅前に住まいを構え、大八車を引いて周りの町や村に塩干物を売り歩いた。客の多くは農家で、そのうち砥石を持ってきてくれ、鎌がほしい、と注文が増えていく。波蔵は物々交換で持ち帰った野菜や卵を自宅の戸板に並べ、やがて住まいを改築して「稲毛屋魚店」を開いた。屋号は、生まれた土地を鎌倉時代に治めた稲毛三郎重成にあやかったものだという。千葉の稲毛とは関係がない。私はずっと関係があると思っていた。立川のスーパーの名前を、千葉の地名だと思い込んで半生を過ごした人は、たぶん私だけではない。

店は伸びた。昭和の初めには、当時としては珍しい60坪あまりの売場になり、社史は「多摩地区随一の繁盛店」だったと書く。私がたどれたかぎり、いまに続く立川の商業の物語は、駅前の一軒の魚屋から始まっている。

戦後の1948年、稲毛屋は株式会社になる。初代社長は物不足の時代に、リュックサックに現金を詰めて単身樺太へ渡り、身欠きニシンや昆布を買いつけて貨車で運び、翌日には九州へ干物と海苔を買いに向かった、と社史は伝える。立川の魚屋の行動半径は、北は樺太、南は九州だった。

その初代社長が、1955年に43歳で急逝する。そして、ちょうどそのころ、「都心に本店をもつデパート」が稲毛屋の向かいに開店した、と社史は書いている。

名前は伏せてあるが、時期と場所はひとつの百貨店と重なる。伊勢丹である。三井住友トラスト不動産が立川の古写真と年表をまとめた「このまちアーカイブス」は、1956年に伊勢丹の立川店が営業を始め、当時の店舗は北口にあったと記す。事典の記述によれば、伊勢丹は1947年に立川駅の南口近くに文具などを扱う小さな売店を開き、1952年に北口へ移り、1956年4月、曙町の鉄筋コンクリートの店舗で百貨店としての本格的な営業を始めた。立川店は、伊勢丹にとって最初の支店だったと伝わる。

大黒柱を失ったところへ、目の前に百貨店。普通なら、ここで話は終わる。魚屋の物語としては、これ以上ない幕切れの条件がそろっていた。

ところが二代目の社長は、日本に紹介されたばかりのセルフサービス方式を取り入れた。いなげやの沿革には、1956年の項に「立川北口店にセルフサービス方式を導入」「都下では最初のスーパーマーケットを開始」とある。このまちアーカイブスも、稲毛屋が1956年にセルフサービスを採用し、都下で最初のスーパーマーケットになったと書いている。百貨店が本格的に店を開けた年に、向かいの魚屋はスーパーになった。

客にかごを持たせて、好きなものを自分で取らせる。いまでは当たり前のこの仕組みが、多摩で最初に試されたのは、立川駅北口の百貨店の向かいだったのだ。百貨店に客を取られまいとして、店のほうが形を変えた。立川の商業の性格は、たぶん、この年に決まっている。大きな店が来ると、小さな店が新しいことを始める。

稲毛屋はその後、アメリカのチェーンストアを手本に店を増やし、1959年の多摩平店からチェーン展開を始めた。1976年には、生鮮食品の鮮度を保証する表示「オープン・デイティング・システム」を日本で最初に採り入れた、と沿革は書く。いつ加工した品なのかを、客に見える形で示す仕組みだ。駅前の魚屋の子孫は、スーパーのやり方そのものを、ひとつ先へ進めたことになる。1984年に社名を平仮名の「いなげや」に改め、翌年、本部を東大和市から創業の地である立川市へ戻している。2024年には上場を廃止し、別の持株会社の完全子会社になったが、本社はいまも立川市栄町にある。

百貨店と魚屋の向かい合わせ。それが立川の商業の第一幕だとすれば、第二幕の舞台は、焼け跡と寄り合いのデパートである。

寄り合いのデパートと、焼け跡の第一デパート

戦後の北口のにぎわいは、基地の街のものだった。このまちアーカイブスは、終戦後、立川飛行場が米軍に接収されると北口には露店やヤミ市が並び、1950年に朝鮮戦争が始まると、米兵相手の商売で好景気になったと書く。南口には1952年に丸井が開業している。基地の街の歴史そのものは、この特集の別の一編に譲る。ここで追いたいのは、その後に地元の人たちが建てたデパートのことだ。

1962年、北口に中武デパートが開業する。このまちアーカイブスは、これを「寄合百貨店」と呼ぶ。ひとつの会社がすべての売場を持つのではなく、地元の商店がそれぞれの区画に入って、ひとつの建物を百貨店のように見せる。2007年のニュース記事は、中武と第一デパートを、もとは地元の地権者が中心になって建てた小さなデパートだったと説明している。

第一デパートの生まれ方は、もっと劇的だ。このまちアーカイブスによれば、1964年1月、立川駅で無人のタンク車が衝突する事故が起き、銀座通りの一帯が燃えた。その焼けた商店の跡地に建てられたのが第一デパートで、1966年に開業した。焼け跡から、デパートが立ち上がった。もっとも、2007年のニュース記事は第一デパートの創業を1961年と書いていて、同じ年には北口に「立川銀座デパート」も開業している。会社ができた年と建物が開いた年がずれるのか、記録のほうが揺れているのか、手もとの資料では決めきれない。同じ記事は、天井が低く床の一部が剥げているなど、建物も古いと遠慮なく書いている。古いことを隠さない雑居ビルだった。

翌年、そこに一軒の玩具店が入る。事典によれば、模型やフィギュアで知られる壽屋は、1947年に立川で玩具店として創業し、1967年6月から第一デパートに店を構えた。立川の雑居デパートは、のちに思いもよらない名前で呼ばれることになるのだが、それは少し先の話だ。

その前に、立川の駅前には、ひとつの「大爆発」が起きる。1970年である。

1970年、立川に大型店が並んだ年

このまちアーカイブスの年表で、1970年の行はひときわ混み合っている。2月、丸井が北口へ進出。9月、伊勢丹が新しい建物へ移転。そして、立川髙島屋がオープンする。

立川髙島屋の建物を見上げる。壁面に髙島屋の看板と紋が見える
立川髙島屋の建物を見上げる。壁面に髙島屋の看板と紋が見える
写真: ITA-ATU / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

伊勢丹の移った先は、曙町の金辰ビルという建物で、事典によれば売場面積は1万3,332平方メートル。1956年の本格開店のときが3,560平方メートルだったから、14年で4倍近くになった。その間にも店は背を伸ばしていて、1959年には6階を増築して「展望食堂」を設けている。まだ高い建物の少なかった立川で、百貨店の最上階からの眺めは、それ自体がごちそうだったのだろう。伊勢丹は1975年に、入っていた金辰ビルそのものを買い取った。借りた建物を、気に入って買ってしまう。百貨店にも、そういう惚れ込み方があるらしい。立川髙島屋は1970年に立川駅前で開業した、とファッションのニュースサイトは書く。翌1971年には、東急ハウジングセンターも開業している。

1970年という年は、日本中が大阪の万博に浮かれていた年でもある。立川の駅前でも、看板の大きな店が一斉に扉を開けた。駅前の年表を見るかぎり、立川の人々にとっての1970年は、大阪の万博会場より、曙町の交差点のほうが忙しかったはずだ。月の石は来なかったが、百貨店は来た。

大型店が並んでも、地元のデパートは消えなかった。中武デパートは1984年に全面改装して「フロム中武」と名を改めた。立川駅の北口に駅ビルが開業したのは、その2年前の1982年のことで、名前は「WILL」だった。それが「ルミネ立川」と名乗るようになるのは1992年である。駅の物語は別の一編に詳しいので、ここでは、駅の上にも買い物の場所ができた、とだけ書いておく。

数字で読む商業の街・立川

  • 1900 — 年。駅前に稲毛屋魚店が開いた年。立川の商業の物語は、魚の匂いから始まる。
  • 1956 — 年。伊勢丹が百貨店の本格営業を始め、向かいの稲毛屋が都下最初のスーパーになった年。同じ年に、同じ場所で。
  • 115.4 — 令和2年の立川市の昼夜間人口比率。都の市部でいちばん高い。夜より昼のほうが、この街は混んでいる。
  • 36 — 2001年、商工会議所の幹部が数えた市内の大型店の数。数えた人もたぶん疲れた。
  • 91 — %。同じころ、市内の小売の売場面積に大型店が占めた割合。残りの9%で、小さな店が踏ん張っていた。
  • 1,500 — 台。IKEA立川の駐車場。それでも公式サイトは、公共交通での来店を勧めている。

旅人の寄り道クイズ

1956年、立川駅北口の魚屋から始まった稲毛屋が、「都下で最初」に始めたものは何だろう。(A)百貨店(B)スーパーマーケット(C)駅ビル。答えは最後に明かす。

1970年で大型店の陣形は整った。ところが、そこから20年ほどたって、立川には国から新しい役目が降ってくる。商業の街に、もうひとつの顔がつけ加えられるのだ。

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