立川の町名・地名の由来を歩く 曙町と羽衣町は、なぜ名前を取り替えたのか

立川の町名と地名の由来を、市史や地名の資料でたどる。「立川」という名前の五つの説、柴崎村が立川村になった理由、昭和17年に生まれた曙・羽衣・錦・高松・緑・富士見・柴崎の七つの町名、議会で入れ替わったと伝わる曙町と羽衣町、住民のアンケートで決まった砂川の町名までを歩く立川さんぽ特集の一編。

立川駅北口の繁華街、曙町は、本当なら羽衣町になるはずだった。そう伝わっている。

立川駅の北口を出ると、そこは曙町である。南口を出ると、柴崎町になる。駅から南東へ歩けば錦町と羽衣町、北へ行けば高松町と緑町、西には富士見町。

曙、羽衣、錦、高松、緑、富士見。並べてみると、まるで百人一首か着物の柄の名前だ。同じ立川でも、江戸の村の名を受け継いだ柴崎や砂川とは、どこか手ざわりが違う。それもそのはずで、この六つは江戸時代の村の名前ではない。昭和17年、戦争のさなかに、一度にまとめて付けられた名前なのだ。

冒頭の話は、ここにつながる。曙町と羽衣町は、決まりかけた名前を、市の議会で取り替えたと伝わっているのである。夜明けの「曙」と、天女の「羽衣」。誰が、なぜ、名前を取り替えたのか。その謎を抱えて、立川の地図の上を歩いてみることにした。地図を読むのは得意ではない。それでも町名なら、迷っても看板が教えてくれる。

立川の町名の由来を歩く前に、「立川」という名前の謎

まずは、いちばん大きな名前から始めたい。立川そのものである。

立川市の公式サイトの「立川市の概要」には、市の名前の由来という項がある。市の教育委員会が出した『立川の地名』という本には、いくつもの説が紹介されているという。国府の前を東西に流れる多摩川を、日の経(たて)の川と呼んだことによる「たてかわ説」。普済寺に館(たち)があったことによる「館川説」。多摩川の早い瀬による「湍川(たぎちかわ)説」。経の川は東にある川だとする「東の川説」。立川氏が住んでいたことによる「立川氏説」。そして市のページは、こう結んでいる。いずれの説も確証に欠け、正しいことは分かっておりません。

市が自分の名前の由来を「分かっておりません」と書いている。正直である。私はこの一文が、ずいぶん気に入った。

分からないとはいえ、古さだけははっきりしている。立川市の市史編さん広報紙『たちかわ物語』の第2号は、「立河」という地名は鎌倉時代にまでさかのぼることができると考えられている、と書く。戦国時代、このあたりは「立河郷芝崎村」と呼ばれていた。そして同じ号は、「立川」という自治体名は、数百年前からあった地名を受け継いだものなのだ、と記している。

鎌倉時代にまでさかのぼる地名を、そのまま市の名前に持つ。モノレールが空を走り、駅前のデッキを人が二階建てで行き交う新しい街の名前は、じつは街そのものより何百年も年上なのだ。

だが、そうなると次の疑問が湧く。そんなに古い名前があったのなら、なぜ江戸時代の村は「立川村」ではなく「柴崎村」だったのか。

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柴崎村は、なぜ立川村になったのか

江戸時代、いまの立川駅の南側に広がっていた村は、柴崎村といった。立川市の年表によれば、明治14年(1881)、柴崎村は立川村と改められた。

多摩モノレールの柴崎体育館駅。駅名に江戸の村の名「柴崎」が残っている
多摩モノレールの柴崎体育館駅。駅名に江戸の村の名「柴崎」が残っている
写真: Nyao148 / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

なぜ改めたのか。その理由は、意外なほど事務的である。『たちかわ物語』第16号は、立川村について、同じ北多摩郡の柴崎村、いまの調布市にあった村と混同するのを避けるため、柴崎村から改称した、と書いている。明治11年に北多摩郡という郡ができたとき、同じ郡の中に柴崎村が二つ並んでしまったのだ。

郡の役所で書類を扱う人にしてみれば、たまったものではなかっただろう。どちらの柴崎村からの届け出なのか、毎回確かめなければならない。そこで一方が名前を変えた。その新しい名前に、鎌倉時代から伝わる「立川」が選ばれた。

地元の情報サイトに、立川の町名の由来を一つずつ調べた連載がある。その第1回は、調布に柴崎村がなかったら立川は柴崎村のままで、柴崎町から柴崎市になったかもしれない、と想像している。さらに、その場合に砂川町と合併していたら「柴砂市」になっていたかもしれない、とまで書く。柴砂市。口の中で転がしてみると、早口言葉の練習のようだ。調布の柴崎村には、少し感謝してもいいのかもしれない。

では、「柴崎」という名前は消えてしまったのか。そうではない。

『たちかわ物語』第2号は、立川駅の南口に位置する「柴崎町」という町名は、ここが柴崎村の中心地であったことを示している、と書く。改称から半世紀以上たって町名が付けられたとき、村の名前は、かつての村の真ん中の町の名として戻ってきた。

柴崎とは、どういう意味なのか。先の地元の連載は、『立川の地名』を引いて、「柴」は山野に生える小さな雑木、「崎」はものの先端、端のことであり、「柴崎」は小さな雑木の生えている山の先端といった意味ではないか、という見方を紹介している。立川の南には、多摩川がつくった段丘の崖が東西に走っている。雑木の茂る段丘の先。そう思って柴崎町の崖の上に立つと、名前と地形がぴたりと重なる気がする。気がするだけで、証拠はない。地名の楽しみは、たいていこの「気がする」の中にある。

江戸の柴崎村にあった、130の地名

柴崎村の中には、もっと細かい名前がたくさんあった。

『たちかわ物語』第2号の特集「柴崎村の地名をみる」によれば、保坂芳春さんの『立川の地名―立川編―』(立川市教育委員会、1988年)は、江戸時代の柴崎村に、集落を指す30余りの地名と、耕地などを指す100余りの地名があったとしている。130を超える名前が、一つの村の中にひしめいていたことになる。

特集には、享和4年(1804)の「柴崎村絵図」に、それらの地名を書きこんだ図が載っている。その図を眺めていると、声に出して読みたくなる名前がいくつも見つかる。へびかいと。がにがら。かますかいと。蟹田。苅干場。正身塚。富士塚。滝の上、滝坪、滝の下。赤松原。

蛇と蟹と叺(かます)が同じ村の中にいる。田んぼや畑の一枚一枚、道の曲がり角の一つ一つに、こうした名前が付いていた。地図もGPSもない時代、人は名前で土地を区別し、名前で用事を言いつけた。「へびかいとの畑へ行ってくれ」と言われれば、村の誰もがその場所を知っていたのだろう。

同じ特集は、こうした地名の目印になっていた塚や古い道の多くが、大正11年(1922)の立川飛行場の開設や市街化によってほとんど消滅し、昔の地名の位置を今の番地に正確に当てはめるのは難しい、と書いている。そこで古文書だけでなく、古老からの聞き取りも行われ、普済寺や常楽院、諏訪神社、そして富士見町1丁目の富士塚のような古い寺社や旧跡を手がかりに、地名の分布が描き直された。

滝の上、滝坪、滝の下という名前が並ぶのは、段丘の崖から水が湧いていたからだ。『たちかわ物語』の同じ号は、湧水にまつわる地名として「滝坪」「滝の下」を紹介している。富士塚は、富士山を拝むために土を盛った塚のことだ。この二つの言葉を覚えておいてほしい。のちに付けられる新しい町名の謎を解く鍵が、ここに隠れている。

130の名前のほとんどは、いまの住所には残っていない。では、それに代わって、いまの町名はいつ、どうやって生まれたのか。舞台は昭和の戦時下に移る。

昭和17年、七つの町名が生まれた

立川市の年表の昭和17年(1942)の項に、短い一行がある。富士見・柴崎・錦・羽衣・曙・高松・緑の各町丁名が設定される。

この七つの町が覆う範囲は、偶然ではない。『たちかわ物語』第2号によれば、立川村は、いまの柴崎町、富士見町、錦町、曙町、羽衣町、高松町、緑町までを範囲としていて、このあたりが明治14年までは柴崎村と呼ばれていた。つまり、江戸時代の柴崎村一つが、昭和17年に七つの町に切り分けられたのだ。

背景には、急な膨張がある。『たちかわ物語』第16号によれば、明治22年に1,920人だった立川村の人口は、飛行場ができた大正11年には5,303人、翌年には6,895人に増え、大正12年に町に、昭和15年(1940)12月に市になった。市になった年の末の人口は3万4,693人。飛行場と軍の施設、工場に人が集まり、昔ながらの小字と地番では、もう街を言い表せなくなっていた。立川市の年表は、昭和19年(1944)に地番改正が行われたことも記している。

立川は当時、「空都」と呼ばれていた。『たちかわ物語』第16号は、飛行場の開設によって立川村は空都、軍都として発展しはじめた、と書く。七つの町名のうち、柴崎は村の名を受け継ぎ、富士見は昔からの眺めをそのまま名前にした。地元の連載が『立川の地名』を引いて紹介するところでは、富士見町のあたりは西を昭島市に接し、段丘の端に立つと西の方に富士山が美しく見える、富士見という町名がぴったりの地域だという。柴崎村の地名にも、富士塚があった。富士を見る土地の記憶は、江戸から昭和へ、塚から町名へと引き継がれたことになる。

残る五つ、曙、羽衣、錦、高松、緑は、古い村の名前でも、昔の小字の名前でもない。まったく新しく考え出された名前である。そして、その中の二つが、決まりかけたところで入れ替わったと伝えられている。

曙町と羽衣町は、なぜ名前を取り替えたのか

地元の情報サイトの連載は、『立川の地名』を引いて、こんな経緯を紹介している。最初、「曙町」という名前は、いまの羽衣町の地名として選ばれていた。ところが昭和16年(1941)6月12日の市議会の全員協議会に「町名設定の件について」という案件が出され、羽衣町と曙町が入れ替わった。

なぜ入れ替えたのか。連載は、二つの話を伝えている。

一つは、軍部からの物言いがあったという説だ。当初は、飛行場に隣り合う、いまの曙町のあたりが羽衣町になるはずだった。ところが軍部から「羽衣は落ちる」から縁起が悪い、という声が出たという。飛行機の街で、空を舞う天女の衣を名乗る。そこまではよかった。だが、羽衣伝説の天女は、羽衣を失って地上に降りる。羽衣が落ちれば、天女も落ちる。飛行機の隣の町に、それは困る。ただし連載は、軍部云々の真偽のほどは定かではないようだ、と念を押している。

連載によれば、羽衣という名前そのものも、羽衣町に羽衣伝説のような伝承があったわけではないらしい。制定された昭和17年、立川は空の都と呼ばれていたので、空を飛ぶ連想から羽衣になったのではないかといわれている。空の連想で選んだ名前が、空の連想で引っこめられた。縁起というものは、ずいぶん融通がきく。

もう一つは、もう少し穏やかな話だ。連載は『立川の地名』を引いて、いまの曙町3丁目あたりは以前、朝日町と呼ばれていたこと、そして『枕草子』の冒頭の「春は曙」から、「朝日」を「曙」に言い換えたのではないか、という見方も紹介している。朝日を清少納言に言い換えさせた。そう考えると、なかなか粋な仕事である。

連載の筆者は、曙といえば東に位置する羽衣町になるのが普通だろう、とも書いている。夜明けは東から来る。最初の案は、地図の上の理屈に合っていた。それがひっくり返り、いま「曙」は、市のまんなか、駅の北口を中心に北へ広がる繁華街の名前になった。

どちらの説が正しいのか、手元の資料では確かめられない。だが、ひとつだけ確かなことがある。昭和17年に付けられた七つの名前は、八十年あまりたったいまも、すべて地図の上に生きている。羽衣町は羽衣のまま落ちず、曙町では毎朝、駅の北口から人が吐き出されている。

旅人の寄り道クイズ

昭和45年(1970)、旧南砂川を中心に新しい町が生まれたとき、町名を決めるアンケートで1位になった名前はどれか。

  • A 青葉町
  • B 栄町
  • C 美園町

答えは、この記事の終わり近くで。

錦の旗、赤松の林、草の緑

残る三つ、錦、高松、緑にも、それぞれ物語がある。

立川市錦町1丁目の交差点の街並み。2013年5月に撮影されたもの
立川市錦町1丁目の交差点の街並み。2013年5月に撮影されたもの
写真: moonwalker76 / CC BY 3.0 / Wikimedia Commons

錦町について、地元の連載は、『立川の地名』が『錦六会のあゆみ』という地元の記録を引いて紹介している由来を伝えている。大正元年、大正天皇が統監した陸軍特別大演習がこの一帯と多摩川原で行われ、府立二中、いまの立川高校の仮の御座所から多摩川の崖の上の御野立所まで、錦の御旗を先頭に、いまの五丁目、六丁目のあたりを進んだ。そのとき拝した錦旗にちなんで錦町と名付けられた、といわれている。町名が付く30年前の行列が、名前になって残ったと伝わるのである。

錦町には、もうひとつ数字の顔がある。立川市の概要によれば、市内でいちばん低い場所は錦町6丁目付近で、標高64.9メートル。錦の旗が進んだと伝わる多摩川寄りの町は、市でいちばん低い町でもある。

高松町はどうか。連載は『立川の地名』を引いて、町名の由来は定かではないと断ったうえで、昭和の初めごろまでは高松町から曙町にかけて山林もあり、赤松の大木がかなり見られた、と紹介している。立川の発展とともに山林は宅地になり、赤松の大木も姿を消していった。その失われた松林のイメージが、町名を選んだ人々の中にあったのだろう、というのである。

昭和の初め、いまの曙町のあたりにはまだ山林があり、赤松の大木が立っていた。駅の北口を出て少し歩けば、松の幹と下草の匂いのする林に入れたことになる。いま同じ曙町を歩けば、目に入るのは百貨店とデッキとビルの窓である。松を探すなら、町名の看板を見上げるほうが早い。

ここで、柴崎村の地名の一覧を思い出してほしい。江戸の柴崎村には「赤松原」という地名があった。それが高松町の場所だったのかどうかは、私には確かめられない。ただ、赤松の原っぱの記憶が、江戸の小字にも、昭和の人々の頭の中にもあったことになる。松は、名前の中でだけ生き延びた。

緑町の話がいちばん面白い。地元の連載は、『立川の町名』の中の一節を引いている。町名が付いた当時、緑町は陸軍飛行第五連隊を中心に陸軍の施設が並ぶ地域だった。戦後、宅地の開発や団地の造成で、各地に「緑町」や「緑ヶ丘」のような抽象的な色の地名が生まれたが、戦前としては珍しい例だろう、と。そして、立川飛行場が春先になって草が芽吹き、一面に青々とした情景から、おそらくこの「緑」の発想が生まれたのだろう、と結んでいる。

軍の飛行場の草はらを見て、「緑」と名付けた人がいた。滑走路の脇の、ただの芝生である。その芝生の色に町の名前を託すのは、戦時下としてはずいぶんのんびりした感性だ。

その飛行場の跡は、いま国営昭和記念公園になり、春になれば広い原っぱが一面に青々となる。80年前に誰かが草の色から付けた名前に、土地のほうが後から追いついた。緑町は、名前が予言になった町である。

数字で読む立川の町名

  • 130余り — 江戸の柴崎村にあった地名の数。集落が30余り、耕地などが100余り。郵便配達の人がいなくてよかった。
  • 7 — 昭和17年に一度に生まれた町名。一つの村が、七つの名前に分かれた。
  • 9 — 立川市と合併した砂川町で、昭和45年から58年までに生まれた町名。13年がかりの名付けである。
  • 16 — いまの立川市の町の数。全部言えたら、たぶん立川市民の上級者だ。
  • 124.7メートルと64.9メートル — 市内の最高地点(西砂町4丁目付近)と最低地点(錦町6丁目付近)の標高。差はおよそ60メートル。立川は平らだと思っていたが、測ってみると高層ビル一棟分の坂がある。

ここまでは、立川駅の周り、もとの柴崎村の話だった。ところが今の立川市の地図を広げると、その北に、もっと広い土地がある。そこは、もう一つの村だった。

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