立川駅南口のラーメンスクエアは、2005年から店主を公募し、優勝者に店を用意してきた「ラーメンのブロードウェイ」。米のとれない台地で麦を育て、婚礼の膳にうどんを盛った立川と武蔵野の小麦文化を、市史と公的資料でたどる。行き方と、あわせて回りたい場所つき。
立川の婚礼で、いちばんのご馳走は何だったか。鯛ではない。白い飯でもない。うどんである。
そう書いてあるのを見つけたのは、立川市の市史編さん室が出している広報紙『たちかわ物語』の、令和7年(2025)9月の号だった。立川では、ハレの日によくうどんを食べた。宴の膳には、うどんを入れるための器まで用意されていた、とある。
正直に言えば、私にとって立川の麺といえば、駅前のラーメンのことだった。麺の街と聞いて最初に浮かぶのは、たいてい中央線の別の駅の名前で、立川はその列の後ろのほうに、黙って並んでいるような気がしていた。だが、晴れの日のご馳走に麺を選んだ土地は、そう多くないはずだ。なぜ立川の人々は、祝いの席でうどんをすすったのか。その問いを抱えて、私はまず、駅の南口の階段を上がることにした。
立川駅南口のラーメンスクエア、駅前の「ラーメンのブロードウェイ」
JR立川駅の南口を出ると、ペデストリアンデッキがそのまま商業施設のアレアレアにつながっている。ラーメンスクエアは、その「アレアレア2」の3階にある。公式サイトによれば、デッキから歩いて1分か2分。駅から最も近い麺の集まり場所と言ってよい。

写真: 多摩に暇人 / CC BY 3.0 / Wikimedia Commons
公式サイトは、この場所を「こだわりの職人たちが味と技を競い合うラーメンのブロードウェイ」と呼んでいる。一歩足を踏み込めば、まるでマンハッタンのラーメン店を訪れているような雰囲気を味わえる、とも書く。比べる物差しを、私は持ち合わせていない。ただ、立川駅の南口から歩いて2分でニューヨークに着けるのなら、運賃としてはずいぶん安い。
いま公式サイトの案内に並ぶのは7つの店で、北海道の味噌、熊本、和歌山、九州、鶏白湯と、看板の地名だけで日本列島の半分ほどを縦断できる。店はときどき入れ替わる。ここで面白いのは、入れ替わり方である。
ラーメンスクエアは2005年から「ラーメントライアウト」という公募を続けている。運営側の募集要項によれば、応募できるのは18歳以上のラーメン店経験者、つまり調理の経験がある人で、年齢も性別も問わない。一次は書類、二次は面接と調理の試食。優勝すれば、既存の店と入れ替わってラーメンスクエアへの出店が約束される。開業祝い金として現金100万円が出る。調理機器はすでにそろっていて、駅前の大型屋外ビジョンで開業を知らせるCMまで流してもらえる。開業は、二次審査の翌年の4月だ。
募集の文面は、ラーメンの食べ歩きで知られる評論家の全面協力のもとで開く、と胸を張り、運営の窓口にはラーメンの情報を扱う会社の名が並ぶ。第1回の2005年には、春に出店する部門と秋に出店する部門があり、それぞれに優勝者が出た。トライアウトという言葉は、もともと野球などで、球団が選手の力を試す入団テストを指す。立川では、それを丼でやっている。試されるのはスープの出来で、契約金の代わりに開業祝い金が出る。要項はこの場所を「立川ラーメンの殿堂」と呼ぶ。殿堂入りの資格を、毎年あらためて客の舌で争うのだから、ずいぶん落ち着かない殿堂である。
なぜそこまでするのか。要項には、立川発の有名店が全国に巣立っていくことを期待して、とある。そして公式サイトは、これまでに20人の店主がここに店を出し、さらに有名店へと成長して「卒業」していったと書いている。
駅前のビルの3階が、20年あまりかけて、ラーメン職人の登竜門になっていた。オーディション番組なら、一度の放送で終わる。ここでは、優勝した人が毎日、本番の客の前に立つ。審査員は、昼休みに並ぶ会社員と、部活帰りの高校生である。これほど手厳しい審査員はいない。
ただ、ラーメンの話はいったんここで置いておく。冒頭の問いは、うどんだった。ラーメンスクエアのにぎわいを背に、私は資料をさかのぼって、立川の宴の席へ向かう。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
婚礼の膳に、うどんが盛られた
『たちかわ物語』vol.20の特集は「ハレの風景にみる共有膳椀 いまむかし」である。冠婚葬祭や講の行事には「人寄せ」、つまり宴会がつきものだった。かつての農村では、宴会は自宅で開いた。村の人が集まって酒を酌み交わし、ご馳走を共に食べる。農作業の合間の楽しみであり、仲間とのつながりを確かめる場でもあった、と広報紙は書く。では、共有膳椀とは何か。婚礼や法事のように大勢が集まる席では、一人ずつに膳を出し、漆塗りの椀で料理を出す。だが漆器は高く、一軒の家で何十人分もそろえるのは難しい。そこで、組や講、親族、親しい者同士が仲間になり、数十人分の膳と椀を共有した。民俗学ではこれを共有膳椀と呼ぶのだと、広報紙は説明する。
その説明のなかに、こういう一文がある。立川では、ハレの日によくうどんを食べた。共有膳椀のなかに、うどんなどを入れる切溜(きりだめ)や、つゆを注ぐ湯桶(ゆとう)がみられることも、この地域の特徴といえる。
うどん専用の器を、村で共同購入していたのだ。ご馳走のために道具をそろえるという話は聞くが、麺のために漆の箱をそろえた話は、私は初めて聞いた。
広報紙によれば、こうした宴の料理は、一人前ずつ膳に飯、汁、菜、香の物をのせて出す本膳料理、つまり日本料理の正式な形で出された。だから漆塗りの膳椀が要った。その正式な膳のどこに、うどんが座るのか。広報紙には、近くの羽村市で行われた民俗調査による、膳の並べ方の図が載っている。婚礼のうどんの膳では、親椀にうどんを盛り、つゆはチョコか親椀の蓋に注ぎ、膳ザラに薬味を置き、平椀にはゆでた菜と千切り大根を盛る。箸は柳の丸箸だ。もう一枚の図は、主に仏事に出す飯の膳である。祝いの日はうどん、弔いの日は飯。少なくともその調査の村では、そう並べ分けていた。
いつごろから、立川の人々は膳と椀を共有していたのか。広報紙の表には、市内の共有膳椀の持ち主と、器に書かれた年号が並ぶ。最も古いのは富士見町の山中講中の木箱で、弘化2年(1845)の銘がある。柴崎町の出口組の器には安政4年(1857)、錦町の下和田組には嘉永5年(1852)とある。柴崎の側で早く始まり、砂川の側では明治7年(1874)の例から続いていく。背景には養蚕の隆盛や、甲武鉄道の開通、立川飛行場の開設がかかわっていたと思われる、と広報紙は見立てる。柴崎村の名主が残した「公私日記」からは、名主の家が自分のために買った膳椀の一部を組に寄贈し、皆で使っていたこともわかるという。
膳椀の買い方にも、土地柄が出る。広報紙が紹介する南関東の例では、家ごとの暮らし向きに応じて四段階に分け、膳椀を買うための拠出金を割り当てた講中があった。豊かな家も貧しい家も、宴の席で差が出ないように。その互助の精神が、この習俗の背景にあったのではないか、と広報紙は見ている。さらに、畑作の村では江戸時代の中ごろから商品作物が広まって経済力が上がり、家々の力も平らになりやすく、膳椀をそろえやすかったといわれる、とも書く。都市の華やかな料理文化が流れ込み、村の農民たちも、格式ばった儀礼と食膳を自分たちのものにできた。そこには、自治と平等の意識が育っていく様子もうかがえる、という。
お金を融通し合う仕組みは、ほかの土地でも膳椀を支えた。広報紙によれば、富山県では輪島塗の商人などのはたらきかけで「椀頼母子講」がつくられ、講で金を回して家ごとに膳椀をそろえた例が多いという。頼母子講とは、仲間で掛け金を出し合い、順に受け取る仕組みのことだ。同じ号には、柴崎村の頼母子講の文書も紹介されている。文久4年(1864)の「甲子講」で、目的は武具や防具を買う費用の確保だった。柴崎村にはもともと近藤勇に剣術を習う者が数名いたが、戦への危機感から多くの村人に稽古をさせるようになった、と文書にはあるという。同じ互助の仕組みで、ある土地は椀を買い、幕末の柴崎は鎧を買おうとした。どちらも、村を守るための買い物ではある。
宴の席で恥をかく家を出さない。そのために皆で器を買う。私はこのくだりを読んで、立川の村々が少し好きになった。そしてもうひとつ、気になる言葉が残った。畑作の村。
江戸の終わりから、およそ百年以上。昭和30年代以降に式場や飲食店が増えると、人寄せの場は外の施設へ移り、膳椀を納めた倉もほとんど見られなくなった。いま、市内の膳椀の多くは、立川市歴史民俗資料館に寄贈されて眠っている。
同じ号の表紙には、幸町の八番組の東の膳椀組合が解散するときに開いた、「結婚式」を模した会食の写真が載っている。昭和56年(1981)のことだ。上座には水引をかけた盃と銚子と角樽が飾られ、まず脚付きの膳に盛られた酒肴、つまり煮物やきんぴらゴボウ、酢の物、刺身が出る。そのあとで、親椀にご飯とうどんを盛って食べた、と広報紙は書く。表紙の写真説明には「うどんを切る組合の男性たち」という一枚まである。祝言を締めくくるのは、男たちが切ったうどんだった。
市内の膳椀組合は、ひとつずつ姿を消していった。西砂町の殿ヶ谷組は平成12年(2000)に解散し、膳椀を組合員に分けた。だが「婚礼用の銚子」や「家内喜多留(やなぎだる)」と名づけた角樽、そして湯桶は分けずに、殿ヶ谷公会堂の飾り棚に説明をつけて並べているという。つゆを注ぐ桶が、村の記念品として残った。
広報紙は、こうした会食の特色を、普段の一汁一菜ではなく、膳の形式でご馳走、つまりうどんをいただく点にある、とまとめている。ご馳走の中身がうどんで、格式を決めるのは膳と器だった。
では、なぜうどんなのか。米をたくさん炊くほうが、よほど簡単だったのではないか。そう考えかけて、私は立川の地面のことを思い出した。答えは、どうやら足元の土の中にある。
米のとれない台地で、麦を育てた
立川市の北部、砂川の古い絵図を、市は文化財に指定している。明治のはじめに計画された水田造成の計画図だ。ところが市の解説は、土地が火山灰土、つまり関東ローム層で水田に向いていないこともあり、実際にはあまり水田は造られなかった、と書いている。計画だけが、絵図の上に残った。
水そのものも乏しかった。『たちかわ物語』vol.5に載った市史編さんの委員の文章によれば、武蔵野台地は地下水位が低いため、玉川上水の分水ができて初めて、人々が継続して住めるようになった。分水は、新田や村の飲み水や生活用水に使われただけでなく、田を潤し、水車の動力にもなった。
立川の南、柴崎の側にも分水がある。国土交通省の京浜河川事務所がつくった多摩川の散策マップは、柴崎分水が1737年に玉川上水から引かれ、長いあいだ柴崎村の水車や生活用水に使われていた、と記している。玉川上水の分水網については、多摩一帯で水車が架けられ、精米や製粉、織物に使われていたと、玉川上水をテーマにした講演の記録にもある。水車が回れば、麦は粉になる。粉になれば、うどんになる。
麦を育てる手仕事は、いまも記録されつづけている。『たちかわ物語』vol.16によれば、市史編さんの民俗・地誌部会は令和5年(2023)の6月初めに、西砂川松明伝承保存会などの協力を得て麦刈りの様子を記録した。7月上旬には、砂川地区伝承民謡保存会による「棒打ち」、昔ながらのクルリ棒を使った脱穀の作業も記録している。その前の号の活動報告には、麦踏みと棒打ちについての聞き書きも載る。
麦踏みとは、芽を出したばかりの麦を、冬のあいだ足で踏んでいく作業だ。踏まれた麦は根を張り、霜で浮き上がるのを防ぐ。北の埼玉では、この麦踏みなどで麦の収量を4〜5倍に増やす栽培法の開発に尽くした権田愛三という人が出た、と農林水産省の郷土料理のページは書いている。麦は、畑で踏まれ、粉になってからまた踏まれる。武蔵野の麦ほど、人の足に縁のある作物もない。市の歴史の本をつくる人たちが、令和の時代に、麦を刈る手元を真剣に撮っている。私はその光景を想像して、少しうれしくなった。歴史は、年表の上だけでなく、腰をかがめた姿勢のなかにも残る。
米がとれないなら、麦を育てる。麦を育てたら、粉にして、こねて、伸ばして、切る。手間をかけられる穀物が、この台地では麦だった。
ここで、さきほどの「畑作の村」という言葉がつながる。水田に向かない台地の村は、畑で暮らしを立てた。広報紙の見立てでは、そういう畑作の村こそ、江戸の中ごろから商品作物で力をつけ、皆で漆の膳椀をそろえることができた。畑でとれた麦がうどんになり、畑で稼いだ金が漆の椀になる。米のとれない村の宴は、米のない分だけ、畑の物で格式を整えたことになる。立川の土は、田んぼには冷たかったが、宴の席には案外気前がよかった。
では、その麦は、まわりの町でどんな姿になったのか。立川の隣町には、国のお墨付きをもらったうどんが二つある。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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