立川の花火大会と祭り 昭和記念公園の五千発は、なぜ打ち上げ場所が秘密なのか

立川まつり国営昭和記念公園花火大会の歴史と見どころを公式資料でたどる。1954年に日野橋のほとりで始まり通算65回、一晩で74万5千人が集まる立川の花火は、どこから打ち上がるのか。芸協玉、60トンのごみ、行き方の注意、秋のよいと祭りと冬のイルミネーションまで、立川の祭りの一年を歩く。

「打ち上げ場所非公開」。

立川の花火大会の実行委員会が報道向けに出した資料の、会場の欄にそう書いてある。メイン観覧場所、国営昭和記念公園みんなの原っぱ。そのすぐ後ろの括弧の中で、肝心の発射地点だけが伏せられている。花火大会の資料には、ふつう、どこの河原から、どこの沖合から上がるのかが書いてある。それがなければ、見物する側は場所を選べないからだ。

一晩に5,000発を上げ、前の年には74万5千人が見に来た大会が、その5,000発の出どころを明かさない。秘密の発射台というと、なんだか物騒な響きがある。私はこの括弧書きが気になって仕方がなかった。

立川の夏の夜空に上がる花火は、いったいどこから来るのか。その答えを探して、私は立川の祭りの来歴をたどりはじめた。資料をめくっていくと、花火の向こうに、この街の70年あまりが見えてくる。答えは、ある年の「中止のお知らせ」の中にあった。

立川の花火大会は、日野橋のほとりから始まった

公式サイトの大会紹介は、始まりをこう書いている。昭和29年(1954)に日野橋のほとりの多摩川の河原で行われた「第1回 立川納涼花火大会」。それ以来60年以上にわたって、立川の夏の風物詩として、立川市民だけでなく多摩地域で暮らす多くの人々に愛されてきた花火大会だという。

多摩川に架かる日野橋。日野市と立川市を結ぶ橋で、2019年10月の撮影
多摩川に架かる日野橋。日野市と立川市を結ぶ橋で、2019年10月の撮影
写真: MosaMint / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

日野橋は、甲州街道が多摩川を渡る橋で、大正15年(1926)に架けられた。その橋のたもとの河原が、最初の会場だった。いまの会場である昭和記念公園から見れば、ずっと南、川べりの話である。

その年の立川がどんな街だったのか、立川市の統計年報で確かめてみる。昭和29年の人口は5万9,548人。いまの立川市は令和8年(2026)の1月1日現在で18万7,440人だから、3分の1にも満たない。同じ年の年表には、北隣の砂川村が町制を敷いたことも記されている。砂川町が立川市と一緒になるのは、まだ9年先のことだ。合併する前の立川市の数字ではあるけれど、それにしても小さな市の、河原の納涼の花火から、すべては始まっている。

その年の立川は、基地の街だった。市の市史編さん広報紙『たちかわ物語』をめくると、昭和29年の4月、基地の滑走路の西側にあった映画館で、西部劇の『草原の追跡』が上映されている。映画館の建物は、もとは陸軍の航空技術研究所が飛行機の空力実験に使っていた風洞実験棟で、それを米軍が改装したものだった。飛行機に風を当てるための箱の中で、カウボーイが馬を走らせていたことになる。その2年前の夏には、市の教育委員会と米軍の「共同作戦」で、基地のバスが周辺の子どもたちを海まで運んだ。作戦名は「海岸作戦(Operation Seashore)」。海のない街の子どもの夏休みには、軍の作戦名がついていた。冬になれば、立川駅をサンタクロースと輸送機が飾った。1950年の写真が、いまも市に残っている。

河原の納涼花火は、そういう街の夏に始まった。名前のとおり、暑い夜に川風に吹かれて涼をとり、そのついでに花火を見る。主役は涼しさのほうで、花火は添え物だったのだろう。いまの立川の花火を見に来て「涼しかった」と言う人は、たぶんいない。

その花火は、川べりからどうやって公園まで移ってきたのか。そして、なぜ今は打ち上げ場所を明かさないのか。その前に、ひとつ、計算の合わない数字がある。

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通算65回、引き算が合わない

令和8年(2026)の公式チラシの隅に、短い一文がある。立川の花火大会は、昭和二十九年の第一回立川納涼花火大会以来、本年で通算六十五回目。

ここで、私は指を折った。1954年から2026年まで、毎年開いていれば73回になる。65回とは8回足りない。立川の夏は、少なくとも8回、花火のないまま過ぎたことになる。

公式サイトは、その理由をひとまとめにしている。長い歴史の中では、天候や様々な理由で開催することができなかったこともあった。

その「様々な理由」のひとつは、はっきり文書に残っている。平成23年(2011)の4月7日、実行委員会は「中止について」という一枚の告知を出した。差出人の欄には、当時の構成団体として、立川市、立川商工会議所、立川観光協会、立川市商店街振興組合連合会、立川青年会議所、そして公園緑地管理財団の昭和管理センターが、それぞれの代表の肩書きとともに並んでいる。いまの顔ぶれとほとんど変わらない。街の主だった団体が、15年たっても同じ机を囲んでいる。告知の中身は、こうだ。3月11日の東日本大震災で東北と関東の広い範囲が被災し、電力の供給も十分ではない。自衛隊や警察、消防が復旧活動に全力を注げるように。協賛している企業や事業所には、協賛金を義援金に回して支援してほしい。そういう思いから、今年度の花火大会の中止を決めた、と告知は結んでいる。花火をやめることが、そのまま、ひとつの支援のかたちになっていた。

令和の初めにも、花火のない夏が続いた。新型コロナウイルスが広がった時期である。立川市の年表の2023年の項には、一行だけ、こう書かれている。「立川まつり国営昭和記念公園花火大会が4年ぶり開催」。2020年、2021年、2022年。三つの夏の空白が、その「4年ぶり」という言葉に畳み込まれている。

これで4回。それでも8回には届かない。残りは、もっと古い時代の空白に沈んでいる。花火大会の歩みをまとめた百科事典の記述によれば、花火の会場は交通量が増えたために日野橋の河畔から米軍立川基地の敷地を借りる形に移り、革新市政のもとで米軍や自衛隊との共催をめぐって市政が揉めた1972年のように、開けない年もあった。そして1982年に「立川まつり花火大会」として復活し、その後、昭和記念公園へ会場を移した昭和の終わりに今の名前になった、と伝わる。公の資料からは、その空白の年をひとつずつ数えることはできなかった。

空白は数え切れないのに、回数だけはきちんと数えてある。立川の人は、開けなかった夏を数えず、開けた夏だけを一つずつ積み上げてきた。では、長い空白のあとに花火が戻ってきた年、この街では何が起きていたのか。

1982年、新しい滑走路と、新しい駅

花火が「復活」したと伝わる1982年という年を、立川市の年表で開いてみる。すると、この年の立川が、ちょっとした変わり目にいたことがわかる。

前の年、1981年には立川駅の仮駅舎が使われはじめ、駅ビルの工事が始まった。基地の跡地に通す幹線道路と、国営昭和記念公園の区域が都市計画として決まったのも、同じ1981年だ。立川市の第1回の農業祭も、この年に開かれている。

そして1982年。年表には、まず「新滑走路運用開始(新立川飛行場)」とある。続けて、立川駅舎、立川駅ビル、立川駅の南北自由通路が完成した。年表の同じ年の終わりのほうには、「C-1輸送機初飛来」という一行もある。市の年表に、飛行機の初飛来が、駅ビルの完成と同じ重さで並んでいる。空の出来事を、つい街の出来事として書き留めてしまう。立川の年表には、そういう癖がある。

翌1983年には、国営昭和記念公園が一部オープンし、西武拝島線の武蔵砂川駅が開いた。新しい滑走路、新しい駅ビル、新しい公園。花火がふたたび上がりはじめたのは、街が基地の時代の次の顔をつくりはじめた、ちょうどその時期だったことになる。

公園の運用も、少しずつ変わってきた。関東地方整備局が平成24年と25年に出した公園の資料には、花火大会の日は「18時以降の入園者に限り入園無料」と書かれている。いまの実行委員会の資料では、花火大会の当日は入園料が終日無料だ。夕方6時の線は、いつのまにか朝まで下がった。

五千発の中身、芸協玉と一尺五寸玉

では、その65回目の夜には、何が上がったのか。実行委員会の資料によれば、打ち上げ総数は5,000発の予定。三寸玉から一尺五寸玉まで、ワイドスターマイン、芸協玉ほか。打ち上げ時間は午後7時15分から8時15分までの60分間だ。

資料は、見どころをこう書く。都内ではなかなかお目にかかれない尺玉、一尺五寸玉といった大迫力の花火。東京の真ん中では、大きな玉を上げるだけの場所がなかなか取れない。立川には、それがある。平らで、広くて、周りに高いビルの少ない、元飛行場の土地があるからだ。

芸協玉という言葉にも、公式チラシが注を付けている。日本煙火芸術協会による優秀作品。チラシによれば、協会は長野の青木儀作を中心に結成された約30名の花火師の集まりで、各地のコンクールで優勝し、新しい創作や独特の技術を持つ作者を会員にしているという。日本ならではの「八重芯」をはじめとする作品を、海外でも披露してきた。協会自身のサイトはその来歴をもう少し詳しく書いている。昭和34年(1959)の秋、八重芯の割物花火の創作を完成させた青木儀作が、花火の業界で初めて黄綬褒章を受けた。それを機に、花火という伝統文化を育てる母体として協会が生まれ、結成は1960年だという。チラシは結成を昭和36年としているので、1年の食い違いがある。ここは協会自身の記述に従っておきたい。花火職人による競技大会の入賞作品が、そのまま立川の夜空に上がる。

チラシの裏面は、さらに面白い。協賛者の名前が細かい字でびっしり並び、ところどころに「☆7号2発」「☆6号1発」「☆3号6発」と書き添えてある。会社や商店会や学校が、何号玉を何発、と玉の単位で協賛しているのだ。5,000発のうちの何発かには、確かに、この街の誰かの名前がついている。立川の夏の空は、街じゅうで書いた寄せ書きである。

一覧を下までたどると、「立川プロスポーツ連絡会」という見出しのもとに、チームの名前がまとまって並んでいる。バスケットボールのアルバルク東京と立川ダイス、サッカーの東京ヴェルディ、フットサルの立川アスレティックFC、ハンドボールのジークスター東京、そして、たちかわ競輪の選手会。立川に縁のあるプロのチームが、そろって花火に名を連ねている。ひとつの市の花火大会の協賛者の欄に、これだけの競技の名前が並ぶ。立川が、見る人の集まる街であることの、さりげない証拠のように私には見える。

一覧には、神輿の愛好会や、商店街の振興組合や、町の保育園の名もある。花火の費用を、街の大きな会社から小さな店まで、それぞれの懐具合で分け合っている。一年じゅう同じ通りでシャッターを上げ下ろしている人たちが、夏の一晩だけ、空に名前を出す。玉の号数は、たぶん、その心意気の大きさだ。

数字で読む 立川の花火大会

  • 1954 — 第1回の年。そのころの立川市の人口は、5万9,548人だった。
  • 65 — 2026年の大会の通算回数。1954年から数えると、8回足りない。数えなかったのは、開けなかった夏のほうだ。
  • 5,000 — 打ち上げ総数(予定)。60分で割ると、1分におよそ83発。数えようとした人は、たぶん3分であきらめる。
  • 74万5千 — 2025年の総動員数。園内34万5千人、外周40万人。立川市の人口のおよそ4倍が、一晩だけ立川にいる。
  • 60 — 大会のあと公園に残されるごみの量、トン。
  • 6 — 実行委員会の構成団体の数。立川市、商工会議所、観光コンベンション協会、商店街振興組合連合会、青年会議所、そして公園の管理センター。

旅人の寄り道クイズ

立川の花火大会の公式チラシには、来場者への「ワンポイントアドバイス」が並んでいる。打ち上げの前後はスマホの通信が難しいので、あらかじめ待ち合わせ場所を決めておこう、という項目のあとに、括弧書きで添えられている一言はどれか。

  • A (子どもから目を離さずに)
  • B (大人も迷子になります)
  • C (花火は逃げません)

答えは、この記事の終わり近くで。

一晩で74万5千人、そして60トン

公式サイトのお知らせによれば、2025年の大会の観客動員数は、国営昭和記念公園の中が34万5千人、外周が40万人、合わせて74万5千人だった。立川市の人口は約18万7千人。ひとつの市に、その4倍の人が一晩で集まる。

あのころ、日野橋の下の河原。人口5万9,548人の市の、川風まかせの納涼花火。いま、元飛行場の原っぱ。その市の人口の12倍を超える人が、一晩で空を見上げる。

なぜ、それほどの人が来るのか。実行委員会の報道向けの資料は、その理由を一言で書いている。立川の花火大会は、交通の結節点として、多摩の全域や近隣の県からも人が来る。JRの中央線、青梅線、南武線、そして南北に走る多摩モノレール。多摩のあちこちから一本で来られる街だからこそ、一晩でこれだけの人が集まれる。同じ資料は、来場者がさらに増えて観覧場所の受け入れの限界を超え、安全の確保と動線の確保が難しくなることを危ぶんでいる、とも書く。人気がありすぎて困っている。立川の花火の悩みは、ぜいたくな種類の悩みである。

人が集まれば、ものが残る。実行委員会の資料は、大会の当日に一晩で60トン以上のごみが出ると書く。公式チラシも、ごみの分別と、運搬や廃棄の費用に充てる支援金の募金を呼びかけている。処分の費用を減らせれば、きれいな花火をもっとたくさん楽しんでもらえる、と。来年の花火の数は、今年の私たちが持ち帰ったごみの量で決まる。

チラシの「ワンポイントアドバイス」は、この大会の現実をよく伝えている。夜でも熱中症になる。ゲリラ豪雨に備える。トイレは大行列。財布や交通系のICカード、鍵、スマホは、落とすと見つからない可能性が高い。駅では事故を防ぐために入場を制限することがある。そして、打ち上げの前後はスマホがつながりにくい。

運営のかたちも、年とともに変わってきた。2026年の大会では、近年の打ち上げ費用をはじめとする経費の増加と、会場の過度な混雑への対策として、みんなの原っぱとその周辺を有料のエリアに指定し、入場には事前に買った券が必要になった。代わりに、ふだんは駐車場の立川口と砂川口を、無料で見られる場所として新しく開いている。昼のアスファルトは想像以上に熱くなり、日陰もないから、身を守る工夫をしてほしい、と公式のお知らせは注意している。この年は、公園の砂川口、玉川上水口、昭島口が、券を持つ人だけの入口になった。有料エリアの入口では、紙の券と引き換えに紙のリストバンドを受け取り、大会が終わるまで着けておく。スマホの画面を見せても入れないから、必ず紙の券を持ってきてほしい、と念を押してある。通信がつながらなくなる夜に、紙がいちばん頼りになる。理にかなった話だ。

演出も、年ごとに新しい趣向が加わる。2025年の大会では、花火の打ち上げに先立って、午後7時15分から約15分間、約500機のドローンによる光のショーが行われた。日本ハムの「シャウエッセン」の名を冠したショーである。花火の前に、まずソーセージの名が夜空に上がる。公式のお知らせは親切にも注意している。ドローンは公園のうんどう広場の上空、つまり原っぱから見て西側に展開し、東側に打ち上がる花火とは反対の方向になる、と。15分間は西を向き、そのあと60分間は東を向く。花火の夜の観客は、首の体操から始めることになる。

同じ2025年には、スタッフのTシャツに映画の公開記念で「チェンソーマン」のポチタが描かれた。大会の当日の朝には、公式サイトに「本日午前7時の決心をもって大会開催を決定いたしました」と載った。決定ではなく、決心。空を見上げ、天気図をにらみ、数十万人の夜を引き受けると決めた人たちの、朝7時の覚悟が、その一語に出ている。

2026年には、アニメの「デジモン」との共同企画もあった。会場では限定のうちわが配られた。配布は午後1時30分から、ひとり一つまで、非売品で転売は固くお断り、受け取ったうちわは捨てずに必ず持ち帰るように、と公式のお知らせは細かい。60トンのごみと格闘する人たちの、切実なお願いでもあるのだろう。スタッフのTシャツにはアグモンたちが描かれ、会場ではアグモンによる場内放送が流れるという。数十万人の流れを真顔でさばく人々の胸で、小さな恐竜がのんきに笑っている。この取り合わせが、どこか立川らしい。

では、そろそろ、あの括弧書きの答えに近づこう。

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