立川の歴史散歩は、駅の南の柴崎町から始まる。立川市でただ一つの国宝・六面石幢が立つ普済寺と、弘仁2年(811)の勧請と伝わる諏訪神社。図像を刻んだ緑泥片岩の石幢はここにしかない。一度引っ越した社、1年交代の名主、町内当番の相撲まで、見どころと行き方を資料でたどる。
立川市でただ一つの国宝は、人の背丈ほどの石である。駅の南の住宅街で、六百六十年、立ったままでいる。
立川でいちばん古いものは、どこにあるのだろう。そう聞かれたら、私は答えに詰まっていたはずだ。駅の北には百貨店が並び、モノレールの軌道が空を横切る。南口にもビルが立つ。新しい街だ、と誰もが思う。
ところが、地図を南へ指でたどると、多摩川へ下りる手前に柴崎町という町名がある。そこには六百六十年前に刻まれた石が立ち、千二百年前に信濃から神を迎えたと伝わる社がある。国宝まである。
なぜ、立川の古いものは駅前ではなく、南のはずれに集まっているのか。今回の散歩は、この一つの謎を追いかける旅になる。答えは、最後まで歩いた人にだけ見えてくる。
立川の歴史散歩は、柴崎町の段丘から始まる
立川駅の南口を出て、線路から離れるように南へ歩く。商店の看板、マンションの外廊下、信号待ちの自転車。駅前の景色が、少しずつ低くなっていく。空が広くなる。
立川市の市史編さん広報紙『たちかわ物語』は、普済寺の場所をこう案内している。JR立川駅から南へ進み、多摩モノレール柴崎体育館駅からおよそ700m西へ進んだ柴崎四丁目。寺は多摩川の段丘面の上にある。春には根川沿いの桜並木が眼下に見え、天気がよければ遠くに山並みが望めるという。
段丘とは、川が土地を削って残した段のことだ。人は段の上に住み、下に田を開いてきた。駅前の平らさに慣れた足が、このあたりでわずかな傾きを感じる。それが、古い時間の入口の合図になる。
柴崎は、江戸時代には柴崎村と呼ばれた村の名だ。立川市の散歩コースの案内は、このあたりを旧柴崎村(立川村)の中心地域と書いている。古い地名の上に、新しい家が建っている。
市の案内には、少し不思議な一行がある。江戸時代、中嶋家が鈴木家と1年交代で柴崎村の名主を務めていた、というのだ。村のまとめ役が、毎年入れ替わる。毎年が引き継ぎの年だ。私はつい、書類の量を想像してしまう。
その中嶋家の屋敷には、文化6年(1809)、幕府の役人で文人の大田南畝が訪れている。覚えておいてほしい。この名前は、あとでもう一度、思わぬ場所に現れる。
段丘の崖が抱えてきたもの
段丘の縁は、穏やかな歴史だけを抱えてきたわけではない。
市の案内によれば、山中坂には段丘の崖を利用した防空壕があった。昭和20年(1945)4月4日の未明、空襲警報が鳴り、近くの老人や子どもたちが壕へ逃げ込んだ。そこに250キロ爆弾が命中し、42人が亡くなった。そのうち32人が子どもだった。今は小さな地蔵堂が建ち、花や線香が絶えないという。
地形は人を守り、ときに人を閉じ込める。崖の前で、私は少し長く立ち止まった。そして、坂を上って寺へ向かった。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
普済寺と立川氏、館の下に眠る時間
普済寺は、臨済宗建長寺派の禅寺である。立川市の案内によれば、立川で勢力をふるった武士団の立川氏が、南北朝時代の文和2年(1353)に一族の菩提寺として開いた。開山には、鎌倉の建長寺から高僧の物外可什を招いたという。
立川氏とは誰か。市立図書館の調べもの案内は、武蔵七党の一族の武士で、普済寺に館を構えていたと考えられている、と書く。市の発掘調査報告書は、まさに「立川氏館跡」の名で何冊も出ている。寺の池や参道を整えるたびに、その下を掘って調べてきたのだ。
2002年の報告書の抄録を読むと、出てくるものの幅に驚く。縄文の土器がある。古代の瓦がある。中世の層からは陶器と土器、砥石や石臼、そして板碑。近世の層には道路と池と溝の跡があり、肥前や瀬戸美濃の焼き物が混じる。
一つの境内の下に、縄文から江戸までが層になって眠っている。
市の年表は、もっと古い時間まで連れていく。錦町と羽衣町にまたがる向郷遺跡では、約1万3千年前の旧石器時代の人の痕跡が見つかった。柴崎町4丁目の大和田遺跡と向郷遺跡では縄文時代の集落の跡が、柴崎町の大和田遺跡と下大和田遺跡では奈良・平安時代の集落が確かめられている。立川は新しい街だ、という思い込みは、ここで一万年単位で覆される。
館の名残を、地上で探す人もいる。旅行記サイトの口コミには、本堂の前に高く盛り上がったところがある、と書いた人がいる。案内板のようなものがぽつんと立っている、とも。館そのものは残っていない。往時を見るには、やはり想像力が要るらしい。
さて、話を立川氏の館に戻す。立川氏は、その長い連なりのある一時期の住人にすぎない。見晴らしがよく、水が近い。条件のいい場所は、時代が変わっても選ばれ続ける。地形が人を呼ぶのだ。
普済寺には、もう一つ意外な顔がある。市の案内によれば、この寺は「普濟寺版」と呼ばれる仏教経典を印刷して刊行していた。当時のこの地方の、仏教文化の中心地だったという。中世の立川に、出版の拠点があった。駅前の大型書店より、だいぶ先輩である。
ただし、境内に苔むした古寺を期待すると肩すかしを食う。平成7年(1995)の不審火で、本堂などの建物が全焼したからだ。重要文化財の開山物外和尚坐像と、市指定有形文化財の釈迦牟尼坐像が焼け、市指定の板碑群も被災した。今の伽藍は、その後の再建である。
焼けても、同じ場所に建て直す。古さは建物ではなく、その意志のほうに宿っているのかもしれない。
「立川」の名と、最初の学校と村役場
普済寺の来歴で、私がいちばん驚いたのは明治の話だ。立川市の年表によれば、明治3年(1870)、普済寺に郷学校が開かれた。今の市立第一小学校の始まりである。学校は明治5年(1872)に「ぐ頴学舎」、明治11年(1878)に「柴崎学校」と名を変えた。
そして明治14年(1881)、柴崎村は立川村と名を改めた。学校も「立川学校」になった。市立図書館の資料も、立川市の始まりを、明治14年の柴崎村から立川村への改変から書き起こしている。立川という名の村は、ここ柴崎から生まれたのだ。
明治22年(1889)、町村制の施行で、立川村は独立した村になった。年表には、普済寺と心源庵を借りうけて立川村役場を建て、村会を開いた、とある。同じ年、甲武鉄道が開通し、立川停車場ができた。
立川の最初の学校は普済寺で開かれ、立川の最初の村役場も普済寺の一角に置かれた。いまの市立第一小学校の卒業生は、自分の学校の始まりが国宝のある寺だと知っているだろうか。立川市の「一丁目一番地」を探すなら、それは駅前ではなく、この寺の境内にある。
では、「立川」という名そのものは、どこから来たのか。市立図書館の調べ方の案内によれば、地名の由来には諸説がある。郷土資料の『立川の地名』は、第四章で由来について七つの説を挙げているという。七つ。一つの地名に、これほど多くの物語が用意されている街も珍しい。図書館の案内は、調べる手がかりの語として、立河(立川)氏、武蔵七党、多摩川、普済寺、諏訪神社などを並べている。ここでは、どれか一つに決めないでおく。
では、火をくぐり抜けて、今もここに立ち続けているものは何か。
国宝・六面石幢、人の背丈の守護神
普済寺の名を立川の外に知らしめているのは、一基の石である。

写真: Nesnad / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
文化庁の国指定文化財等データベースは、その名を単に「石幢」と載せている。員数1基、種別は考古資料、時代は南北朝、西暦1361年。注記には「延文六年七月在銘」とある。大正2年(1913)4月14日に重要文化財、昭和28年(1953)11月14日に国宝に指定された。立川市で唯一の国宝である。多摩の真ん中の街に、国宝が立っている。そのこと自体を知らない立川市民も、きっと少なくない。
石幢とは何か。『たちかわ物語』によれば、幢は仏や菩薩を飾る荘厳具の一つで、旗やのぼりのようなものだ。ふつうは布で作るが、それを石で造ったのが石幢である。中国から伝わった様式で、唐の時代から作られたという。
普済寺の石幢は、秩父青石と呼ばれる緑泥片岩の板6枚でできている。1枚は高さ166cm、幅42cm、厚さ9cm。それを六角形の台座の上に組み、六角形の笠石と宝珠を載せた。2面には仁王像の阿金剛と吽金剛、4面には四天王の増長天、広目天、多聞天、持国天が刻まれている。
166cm。人の背丈とほとんど変わらない。見上げるのでも見下ろすのでもなく、守護神とほぼ同じ高さで向き合うことになる。仁王に正面から睨まれる距離だ。悪いことをした覚えはないのに、なぜか背筋が伸びる。
板碑に似て、板碑ではないもの
石幢は、石でできた卒塔婆である板碑に似ている。違うのは二点だ。板が六角形に組まれていること。そして、板に図像が刻まれていること。
緑泥片岩の石幢は、埼玉県で数点が確認されている。しかし、形が崩れずに残る例は珍しい。図像が刻まれているのは、普済寺の六面石幢だけだという。この形と、この図像の組み合わせを見たければ、立川の柴崎町まで来るしかない。石の産地は北武蔵、今の長瀞町や小川町のあたりだ。板にしやすいこの石は、立川でも縄文時代から使われてきた。
北武蔵で割り出された青い石が、多摩川の段丘の上まで運ばれてきた。六角の柱は一つの寺の宝である前に、武蔵という土地の広がりの証人なのだ。
銘文と、刻んだ二人
銘文は、広目天の面にだけ残っている。「施財性了立」「延文六秊辛丑七月六日」「道圓刋」。延文6年(1361)7月6日、性了という人物の主導のもと、道圓が刻んだ、という意味だと解説されている。
性了とは誰で、道圓はどんな職人だったのか。記録はそれ以上を語らない。残っているのは、二人の名前と、ある夏の日付だけだ。それでも名前を刻んだということは、自分の仕事を後の世に預けたということでもある。六百六十年たって、その名を読む者がいる。
広目天は西方の守護神で、筆と巻物を手にしている。何かを書き留めているような姿だ。眉間にしわを寄せ、口を真一文字に結ぶ。腹には獅噛という獣面の飾りがある。持国天は東方の守護神で、甲冑を着て剣を持つ。6枚の板の上部には、植物や動物、貝、七宝などの吉祥文様が刻まれている。
三次元計測が読み直した顔
ただ、こうした細部を肉眼で読むのは難しい。石は傷んでいる。
江戸時代、この石幢は『集古十種』や『江戸名所図会』に取り上げられた。そして、大田南畝も書き残している。そう、柴崎村の名主の屋敷を訪ねた、あの文人である。柴崎村は、江戸の好事家の地図にちゃんと載っていたのだ。
人気には代償があった。好事家たちは普済寺を訪れ、拓本を採っただろう、と市史編さんの委員は書く。和紙を貼って摺るたびに、傷みは積み重なった。雨除けの茅葺きがあった時期もあれば、雨風に晒された時期もある。今は6面いずれも摩耗が激しい。愛されすぎて擦り減る。人気者の宿命は、六百年前から変わらないらしい。
そこで市史編さんでは、石に触れずに形を測る三次元計測に取り組んだ。覆屋の中で撮った写真は1,800枚。凹凸を強調した画像では、拓本で読めなかった起伏が稜線のように浮かんだ。結わえた髪の細い線まで見えたという。
六百年前の鑿の跡を、今の計算機が読み直す。石は黙っている。だが、問い方を変えれば、まだ話し始める。
数字で読む柴崎町
- 811 — 諏訪神社が信濃の神を迎えたと伝わる年。甲武鉄道の開通より千年以上早い。
- 1361 — 六面石幢の銘の年。刻まれた日付は7月6日まで分かっている。
- 166cm — 石の板の高さ。仁王と目が合う、ちょうどいい身長である。
- 1,800枚 — 三次元計測で撮った写真の数。観光客の記念写真なら、だいぶ撮りすぎだ。
- 酒8升 — 享保18年(1733)、獅子舞の衆への謝礼。二つの祭りで、金額まできっちり同じ。
- 1年 — 柴崎村の名主の任期。中嶋家と鈴木家が交代で務めた。
旅人の寄り道クイズ
江戸時代の柴崎村で、中嶋家と1年交代で名主を務めていたのはどの家か。A 立川家 B 鈴木家 C 五十嵐家。答えは、この散歩の終わりに。
石の前を離れて、私は同じ柴崎町の中を駅の方へ引き返した。もう一つの古い場所は、千二百年のあいだに一度、引っ越しをしている。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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