立川・普済寺と諏訪神社を歩く 国宝の石と千二百年の社、立川という名が生まれた村

諏訪神社の千二百年と、一度の引っ越し

諏訪神社の公式の交通案内には、JR立川駅から徒歩10分とある。

立川の諏訪神社の社殿。青空と白い雲の下、狛犬と灯籠が参道の両脇に並ぶ。
立川の諏訪神社の社殿。青空と白い雲の下、狛犬と灯籠が参道の両脇に並ぶ。
写真: 冬めく / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

神社の由緒によれば、御祭神は建御名方神。第52代嵯峨天皇の弘仁2年(811)7月27日、信州諏訪大神を勧請したのが始まりだという。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にも、「弘仁二七月廿七日初て當村に鎭座せり」とある。立川市の案内は、この社を立川の鎮守と呼ぶ。

811年。9世紀の初めである。信濃の神を、なぜ武蔵のこの村に迎えたのか。由緒は理由までは書かない。わからないことは、わからないままにしておく。ただ、建御名方神は武勇に富んだ神とされる。段丘の縁で暮らす人々が何を守ってほしかったのか、少しだけ想像はできる。

この社の来歴には、火の記録が多い。天正14年(1586)11月9日、武蔵野の野火で社殿と旧記が焼けた。寛文10年(1670)に本殿を再建。安政4年(1857)に本殿の覆舎と拝殿を造営した。

ここに、市の散歩コースの案内が教えてくれる事実がある。寛文10年の本殿は、今の場所ではなく、現在の諏訪の森公園にある「旧宮跡碑」の場所に建てられた。社が今の場所へ遷ったのは、寛延3年(1750)だという。神社も、引っ越すのだ。

ところが、同じ立川市の年表は、寛文10年(1670)に「諏訪神社が現在の場所に再建される」と書いている。どちらが正しいのか。市の資料どうしで、八十年の食い違いがある。私には判定できない。ただ、旧宮跡の碑が諏訪の森公園に立っていることは、散歩コースの案内が書くとおりだ。気になる人は碑の前に立って、自分で考えてみるといい。

諏訪の森は、昭和の子どもたちの遊び場でもあった。市の年表によれば、昭和37年(1962)に諏訪の森公園遊園地ができ、平成29年(2017)には諏訪の森広場が開かれた。神社の古い跡地が、子どもの遊び場になる。悪くない引っ越し先である。

「遊園地」と呼ばれていたころの森を覚えている人と、「広場」しか知らない人とが、いまは同じ森の木陰で子どもを遊ばせている。名前が変わっても、子どもが走る場所であることだけは、半世紀以上変わっていない。

そして平成6年(1994)10月26日、諏訪神社と八幡神社、稲荷神社の社殿が再び焼けた。市の案内は、不審火で市指定有形文化財の本殿と拝殿が焼失した、と書く。再建の年を、市の案内は平成12年(2000)とし、神社の由緒は平成14年(2002)の再建と造営を記す。資料によって二年のずれがある。工事が数年にわたったのだろう、と私は読んだ。

普済寺の火災が平成7年(1995)だったことを思い出す。一年違いで、柴崎町の寺と社がそろって焼けた。そして、どちらも同じ場所に建て直された。

境内には、ほかにも小さな時間の層がある。八幡神社の誉田別神は、明治40年(1907)11月27日に柴崎町1丁目から合祀された。市の年表は同じ年を「八幡神社本殿を諏訪神社に移築」と書く。その八幡神社が柴崎町に建てられたのは、建長4年(1252)だという。天正14年(1586)、諏訪神社が野火で焼けたのと同じ年には、「立河照重内女おねね」が八幡神社に本地仏像を奉納した、と市の年表は書く。この仏像は市指定有形文化財になっている。稲荷神社は文政2年(1819)の創建。神楽殿は昭和43年(1968)の竣工だ。境内の写真には、随身門、疱瘡神社と日吉神社、金刀比羅神社と浅間神社、目の神様が並ぶ。疱瘡の神がいて、目の神様までいる。柴崎の神さまたちは、ずいぶん前から分業が進んでいたらしい。

南の鳥居から西へ約200m行くと、市指定史跡の八幡神社大欅がある。文政7年(1824)の野火で被災し、木の上部には近年まで焼け跡が残っていたという。この大欅から普済寺へ通じる道は、たんす職人が多く住んだことから「たんす横町」と呼ばれ、柴崎村の中心街として栄えたと伝えられる。

寺と社を結ぶ道が、村の目抜き通りだった。謎の答えに、少しずつ近づいている気がする。だが、この社の名を広く知らしめてきたのは、焼失の話ではない。夏の話である。

初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。

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獅子舞と相撲、八月の例大祭

神社監修の観光案内は、この社を「獅子舞と相撲の名社」と紹介している。「おすわさま」の愛称で親しまれているという。

諏訪神社の境内にある土俵。屋根のかかった土俵を、新緑の木々が囲んでいる。
諏訪神社の境内にある土俵。屋根のかかった土俵を、新緑の木々が囲んでいる。
写真: 冬めく / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

公式サイトの年中行事を見ると、8月に例大祭がある。金曜が宵宮祭、土曜が諏訪神社、日曜が八幡神社の例大祭だ。令和8年(2026)は8月21日が宵宮、22日と23日が例大祭と告知されていた。パンフレットには「氏子五拾ヶ町」の文字がある。神輿、大太鼓、囃子、獅子舞、弓道、そして子どもの相撲の写真が並ぶ。

獅子と棒、二つの町の分担

『たちかわ物語』vol.13は、この獅子舞の来歴を丁寧に追っている。諏訪神社の獅子舞は、獅子舞と、その露払いとされる棒仕いから成る。昭和38年(1963)に立川市獅子舞芸能保存会ができるまでは、二つの町が分担していた。獅子舞は柴崎町の番場・横町・出口・新屋敷が受け持った。棒仕いは富士見町の台・滝の上・山中が伝えた。

棒仕いには伝承がある。江戸時代の初め、山中の五十嵐家がお伊勢参りの帰りに、三河国で習った棒術に由来するという。伊勢参りの土産といえば今なら菓子だろう。だが、五十嵐家が持ち帰ったのは棒術だった。日持ちのよさでは、こちらに軍配が上がる。

古文書には、もっと手触りのある記録がある。神社所蔵の「明神本社普請記録」には、享保18年(1733)7月27日の「明神祭礼」の支出として「酒八升 代四百文 これはししまいの衆へ出す」とある。同じ年の8月15日の八幡祭礼にも、酒八升、代四百文。諏訪の祭りでも八幡の祭りでも、謝礼はきっちり同額だ。値上げ交渉の形跡は、少なくとも記録には残っていない。

獅子舞がいつ始まったのかは、はっきりしない。立川市の年表は、元禄年間(1688〜1704)のころに諏訪神社に伝わる獅子舞が始まった、と書く。この獅子舞は、市指定無形民俗文化財になっている。

この資料には、奉納相撲の記述もあるという。酒と獅子と相撲。夏の夜の座敷が、数字の向こうに見える気がする。

名主の日記に残った祭り

ここで、先ほどの名主の話が戻ってくる。柴崎村の名主、鈴木平九郎の日記「公私日記」には、天保8年(1837)からの祭礼の記録が続く。その年の7月27日には、獅子宿と棒の宿の担当者の名とともに、「角力は沢町内当番」とある。

相撲は、町内の当番で受け持つ行事だったのだ。立川の相撲好きは、その後も続く。市の年表には、昭和58年(1983)に練成館相撲場が完成し、平成28年(2016)には37年ぶりに立川で大相撲巡業が開かれた、とある。回覧板の当番表に「相撲」と書かれた町内を、私はしばらく想像してみた。なかなか緊張感のある当番である。

嘉永5年(1852)の祭礼では、砂川村や小川村の者とのあいだに喧嘩沙汰があった。後始末まで日記に書かれている。翌年には、祭礼縮小の記事が見える。喧嘩をしたら、次の年の祭りが小さくなる。その因果の素直さには、叱られた子どもの家のような味わいがある。

祭りの日取りも動いてきた。富士見町の棒組の台帳によれば、昭和22年(1947)までは9月14日と15日が祭礼日だった。昭和23年(1948)は8月14日と15日。昭和24年(1949)以降は8月27日と28日に固まっていく。今の例大祭が8月の下旬に行われるのは、その延長にある。

宿を引き受ける家は、庭と座敷を貸し、食事を出した。獅子舞や棒仕いの子どもたちには、風呂まで用意した。大きな負担だったが、それが名誉とされていた、と市史の聞き書きは伝えている。

昭和38年(1963)に保存会ができるまでの夏を、少し思い浮かべてみる。獅子は柴崎の四つの町、棒は富士見町の三つの町。稽古を終えた子どもたちが、宿の家の座敷に上がり、ご飯をもらい、よその家の湯船で汗を流す。祭りは神社の境内だけでなく、町内の家の台所と風呂場の中にもあった。他人の家の風呂に、祭りの子として堂々と入れた時代である。いまの子どもに話せば、たぶん少し羨ましがられる。令和2年(2020)と令和3年(2021)には、感染症のために獅子舞の奉納などが中止された。途切れたことも、記録の一行になった。

柴崎の寄り道と、諏訪神社の一年

祭りの太鼓が遠ざかったところで、少し脇道へ入りたい。普済寺と諏訪神社の間には、市の散歩コースが拾い上げた小さな史跡が点々とある。寄り道をするなら、ここが楽しい。

満願寺跡には、井戸だけが残っている。市の案内によれば、元禄期以前、ここには東光院という寺があって大変栄えた。元禄期にはすっかりさびれたが、黄檗宗の名僧、鉄牛和尚の弟子の別峰が、医王山満願寺として再興した。幕末には住職がいなくなり、明治8年(1875)に廃仏毀釈で廃寺になった。栄えて、さびれて、よみがえって、消える。井戸一つが、その全部を見てきた。

中嶋家の門も残る。1年交代の名主の、あの中嶋家である。門は江戸時代の末に、代官の江川太郎左衛門から譲り受けたと伝えられている。大田南畝が訪ねた屋敷の門が、代官の家のお下がりだった。柴崎の名主は、なかなかの人脈を持っていたらしい。

足元には、水の道も通っている。柴崎分水は元文2年(1737)、玉川上水から引かれた。柴崎村が幕府に分水の願い状を出したのは貞享5年(1688)だから、水が来るまでに49年かかった計算になる。分水は台地の上では飲み水に、台地の下では田の水に、さらに延べ11台の水車にも使われた。富士見町2丁目の交差点では、本流と支流が7対3の割合で分かれる。支流は土地の微妙な高低差を使い、北から南へ、逆に南から北へと流れるという。今も開渠で流れ、玉石積みの法面が残る箇所は市指定史跡になっている。

少し足を延ばせば、富士見町の立川市歴史民俗資料館がある。昭和60年(1985)12月1日の開館だ。土地はもともと井上家の屋敷の一部で、井上家はここに400年以上住んできたという。建設の際の発掘で、平安時代の集落跡、台の下遺跡が見つかった。資料館を建てようと掘ったら、資料が出てきた。これ以上ふさわしい敷地はない。

諏訪神社の一年

諏訪神社の暦は、思った以上に細かく刻まれている。公式の年中行事によれば、元日に歳旦祭、1月15日に成人祭とドンドン焼き、2月3日に節分祭の豆まきがある。4月17日は春祭り、7月25日は夏祭りの天王祭。8月の例大祭のあと、9月15日には秋祭りの奉納芸能大会が開かれる。11月には約2週間の菊花展があり、酉の日には境内の大鷲神社で酉の市が立つ。12月31日は除夜祭だ。毎月1日には月次祭がある。

いつ訪ねても、何かの気配がある社だ。冬の火、春の祈り、夏の太鼓、秋の菊。季節を選んで来る楽しみが、ここにはある。

ただし、そろそろ最初の謎に答えを出さなければならない。

段丘の縁で、謎を解く

歩きながら、私は何度か足を止めた。石の前で、拝殿の前で、そして崖の前で。駅前を急ぐときには使わない種類の時間が、ここには流れている。呼吸がいつのまにか深くなっていたことに、帰り道で気づいた。

最初の謎に戻ろう。なぜ、立川の古いものは駅前ではなく、南のはずれに集まっているのか。

答えの半分は、もう出ている。古いものが南のはずれにあるのではない。ここが、もともと村の真ん中だったのだ。段丘の縁に館が築かれ、寺が開かれ、神が迎えられた。寺と社をたんす横町が結び、名主が1年交代で村をまとめた。明治になると、この村が「立川村」を名乗り、最初の学校と村役場が普済寺に置かれた。立川という名前そのものが、ここで生まれたのだ。

一方で、市の案内によれば、甲武鉄道、今のJR中央線が開通したのは明治22年(1889)だ。大正11年(1922)には、駅の北側に飛行場ができた。街の重心は、そこから北へ動いていった。私の見立てでは、立川の中心が南のはずれから駅へ引っ越したのだ。諏訪神社が寛延3年に少しだけ場所を遷ったように。

立川は、新しいだけの街ではない。市内ただ一つの国宝がある。立川という名の村の、最初の学校と役場の跡がある。図像を刻んだ緑泥片岩の石幢として、ほかに例のない一基がある。中世には経典を刷る寺があり、九世紀には信濃から神を迎えたと伝わる。名主の日記は、祭りの酒の量から喧嘩の後始末まで書き残した。古い街を名乗る資格は、十分すぎるほどある。

残りの半分は、ここを歩く人が決めればいい。古い時間は、隠れていたわけではない。ずっとそこにあって、私が見に来なかっただけだった。

クイズの答え

答えはB、鈴木家。立川市の散歩コースの案内によれば、江戸時代、中嶋家は鈴木家と1年交代で柴崎村の名主を務めた。祭りの相撲を「町内当番」と書き残した「公私日記」の鈴木平九郎も、柴崎村の名主である。

訪ねる前に

  • 普済寺:東京都立川市柴崎町4丁目(発掘調査報告の遺跡所在地は柴崎町4-20)。『たちかわ物語』vol.7によれば、JR立川駅から南へ進み、多摩モノレール柴崎体育館駅からおよそ700m西。寺の公式サイトは確認できなかった。六面石幢は覆屋の中にあるので、拝観の可否や時間は訪ねる前に寺へ確かめたい。
  • 六面石幢の指定内容:文化庁 国指定文化財等データベース https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/846
  • 柴崎町の寺社と史跡をめぐる道順:立川市「散歩コース【1.古村を歩く】」 https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004848/1004889.html
  • 諏訪神社:東京都立川市柴崎町1-5-15。JR立川駅から徒歩10分(公式の交通案内)。
  • 諏訪神社の公式サイト:https://suwajinja.or.jp/index.html (年中行事と例大祭の日程は年によって変わる。最新は公式で確かめてほしい)
  • 所要時間の目安:諏訪神社はJR立川駅から徒歩10分(公式)。普済寺は多摩モノレール柴崎体育館駅からおよそ700m(『たちかわ物語』)。二つは同じ柴崎町の中にあり、立川市の散歩コース「古村を歩く」は立川駅南口を出発して両方をめぐる。
  • 組み合わせて回るなら:普済寺の立つ段丘からは、春なら根川沿いの桜並木が見下ろせる(『たちかわ物語』)。その先は多摩川である。同じ散歩コースには、八幡神社大欅、中嶋家の門、満願寺跡、柴崎分水、山中坂地蔵堂、昭和60年(1985)開館の立川市歴史民俗資料館(富士見町3-12-34)も入っている。資料館の開館日と時間は、立川市の公式サイトで確かめてほしい。
  • 祭りに合わせるなら:例大祭は8月の金・土・日(令和8年は21日から23日)、菊花展は11月に約2週間(諏訪神社の年中行事より)。

歩いたあとは、立川駅北口で

柴崎町の段丘から駅へ戻り、そのまま北口へ抜ける。改札を出て徒歩1分、曙町2-14-10のエトロワビル3階に、溶岩ホットヨガスタジオのオンザショア立川店がある。

石と社を見て歩いた一日の終わりに、もう一度自分の体に戻る場所があってもいい。そう思うなら、ここは候補になる。溶岩プレートを敷いたスタジオでのホットヨガのほか、常温のヨガ、ピラティス、女性専用のキックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、パーソナルトレーニングがある。ヨガだけで25種類以上のレッスンがある。

営業時間は8時から23時30分まで。年中無休で、曜日による違いはない。祭りの日の夜でも、朝の散歩の前でも、時間を選ばない。

初めてなら、ヨガの体験レッスンがある。税込1,980円で、60分のレッスンが受けられる。バスタオル2枚、フェイスタオル1枚、ヨガマットのレンタルも含まれる。妊娠中の人は溶岩ホットヨガには参加できないが、常温のマタニティヨガがある。医師から運動を止められている人は利用できない。

料金は https://ontheshore.jp/price/ に、店の案内は https://ontheshore.jp/ にある。体験の予約は https://site.locaop.jp/C0aVK?_src=hp から。

村の真ん中だった南から、街の真ん中になった北へ。その道の終わりに、汗をかく場所が一つある。

冒頭の写真: 立川市柴崎町の普済寺。開いた門扉の先、石畳の参道の奥に白壁と瓦屋根の堂が建つ。(写真: Nesnad / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons)

この記事の情報は2026年10月時点のものです。

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