立川ゆかりの人びと 小澤征爾は立川の小学校に通い、彗星の発見者は立川で生まれた

立川ゆかりの意外な人物をたどる散歩ルポ。世界的指揮者・小澤征爾が通った立川国民学校とリヤカーで運ばれたピアノ、立川基地の町で生まれたヘール・ボップ彗星の発見者、落語の「立川」が墨田の川の名である話、牧水の妻の歌人・若山喜志子、庭の学者・森蘊、ウルトラセブンの美術監督まで、市の資料と人名の記録で確かめる。

立川市の名誉市民は、何人いるか。

市の公式サイトに答えがある。一人だ。昭和41年(1966)に条例ができてから今日まで、名誉市民に選ばれたのは、昭和43年(1968)の中嶋舜司ただ一人である。市役所の中に、その胸像が置かれているという。

一人。私はその数字を見て、少し拍子抜けした。人口18万を超える街が、60年近くかけて一人しか選んでいない。よほど基準が厳しいのか、それとも、この街は自分のところの人間を自慢するのが苦手なのか。

ところが、人名の記録を立川という地名で引いていくと、思いもよらない名前がぞろぞろ出てくる。世界の指揮台に立った人。夜空に彗星を見つけた人。ウルトラセブンの怪獣を描いた人。どの人も、立川の人に「知ってた?」と聞くと、たいてい首を横に振られそうな人ばかりだ。立川は、人を育てておいて、黙って手放す街なのだろうか。その問いを抱えて、亡くなった人びとの足跡をたどってみることにした。存命の人を数えはじめると、この記事は終わらない。

立川ゆかりの人物、名誉市民がただ一人の街

まず、その一人から始めたい。

市の紹介によれば、中嶋舜司は明治28年(1895)、立川村に生まれた。府立第二中学校、いまの都立立川高校を出て、村会議員、町会議員、市議会議員を務め、立川町長、市議会議長、そして3代と5代の立川市長を歴任した。昭和56年(1981)に亡くなっている。市議会の歴代議長の一覧を見ると、第2代の議長も中嶋舜司で、就任は昭和18年(1943)6月12日だ。村議から市長まで、一つの自治体の階段を全部のぼった人である。

市民歌の頁にも、この人の名がある。昭和32年(1957)、立川市民合唱団が市民歌の歌詞を募り、97編の応募から一つを選んだ。11人の審査員の中に「中島舜司」の名が見える。そして同じ列に、もう一人、思いがけない名前が並んでいる。若山喜志子。歌人・若山牧水の妻である。その話はあとに回そう。

選ばれた歌詞は、いま読むと時代の空気がそのまま封じ込められている。1番は「大立川の朝ひらく」、2番は「大立川は伸びてゆく」、3番は「大立川に栄えあれ」。三度とも、頭に「大」がつく。昭和32年の立川は、駅の北に米軍の基地を抱え、その拡張をめぐって砂川が揺れていた時代である。自分の街に「大」をつけて歌うことに、誰もためらいがなかったのだ。いまの市民が同じ歌を口にしたら、たぶん少し照れる。その照れの分だけ、街は大人になったのかもしれない。

市にはもう一つ、市民栄誉表彰という制度がある。その第1号は平成31年(2019)のジャズピアニスト、山下洋輔だ。市の説明によれば、平成27年(2015)に市で最初の「たちかわ交流大使」となり、市民会館での無料コンサートや中学校での指導のほか、市立若葉台小学校の校歌まで作曲している。肘で鍵盤を鳴らす奏法で知られたピアニストが、小学校の校歌を書く。子どもたちが毎朝歌う歌の作曲者がどういう人か、親の世代の方がよく知っているかもしれない。

顕彰の数は少ない。だが、ゆかりの人が少ないわけではない。ここから先が、本題である。

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小澤征爾と立川国民学校、リヤカーで3日かけて運んだピアノ

ボストン交響楽団の音楽監督を29年務め、ウィーン国立歌劇場の音楽監督にもなった指揮者、小澤征爾。2024年2月に亡くなったこの人が、少年時代を立川で過ごしたことを知る人は、地元でもそう多くないと思う。

1963年、ニューヨークで撮られた若き日の指揮者・小澤征爾の写真。
1963年、ニューヨークで撮られた若き日の指揮者・小澤征爾の写真。
写真: Don Hunstein / Public domain / Wikimedia Commons

百科事典の小澤征爾の項は、伝記をもとに、こう記している。小澤は昭和16年(1941)3月、父を満洲に残したまま、母や兄たちと日本へ戻り、立川の若草幼稚園に入った。昭和17年(1942)4月には立川国民学校に入学する。いまの立川市立第一小学校だ。

少年がやって来たころの立川は、市になったばかりだった。市の年表によれば、立川町が市制を施行したのは昭和15年(1940)。百科事典は、東京市、八王子市に次いで東京府で3番目の市であり、東京府の時代に市になった最後の自治体でもあったと書く。年表の昭和17年の項には、富士見、柴崎、錦、羽衣、曙、高松、緑の各町の名がこの年に決まったとある。いま私たちが住所に書いている「曙町」や「錦町」は、小澤少年が国民学校に入ったのと同じ年に生まれた名前なのだ。

立川国民学校の来歴も面白い。立川市の年表によれば、明治3年(1870)、普済寺に郷学校が開かれた。これが現在の市立第一小学校の始まりだという。立川で最初の学校がお寺の中で生まれ、その70年あまりのちに、満洲から来た少年が門をくぐった。のちに世界の指揮台にその名を知られることになる少年である。

小澤家の立川暮らしで、私がいちばん好きなのはピアノの話だ。百科事典によれば、昭和20年(1945)、少年は長兄の克己からアコーディオンとピアノの手ほどきを受けた。才能を感じた一家は、本格的にピアノを習わせようと決める。横浜の白楽の親類から安く譲られたピアノを、リアカーに縛りつけ、父と長兄の克己、次兄の俊夫が、3日かけて立川の自宅まで運んだという。

横浜から立川まで、ピアノを引いて3日。昭和20年といえば、戦争の終わりの年か、その直後である。立川市の年表は、この年、立川が13回の空襲を受け、大きな被害を受けたと書く。父と二人の兄が、空襲の傷の残る道を、ピアノを引いて歩く。どの道を通ったのか、雨は降らなかったのか、記録はそこまで教えてくれない。ただ、のちのボストンの指揮台は、多摩の台地を3日かけて越えてきた1台のピアノから始まっている、と言っても大げさではないだろう。

次兄の俊夫ものちに名のある人になる。ドイツ文学と昔話の研究者、小澤俊夫だ。その百科事典の項には、府立第二中学校、いまの立川高校に在学中、勤労動員で陸軍の造兵廠に配属されたとある。兄は立川の中学から勤労動員に出され、弟は立川の家でピアノと出会った。昭和22年(1947)、父が友人とミシンの会社を始め、一家は神奈川県の金田村へ移っていく。立川で暮らしたのは、6年ほどの間だった。

あのころの立川国民学校は、13回の空襲を受けた街の、戦時下の学校だった。いまの第一小学校は、年表によれば平成24年(2012)に建て替えの解体工事が始まり、平成26年(2014)に「第一小学校等複合施設」として落成している。普済寺の郷学校から数えて150年あまり。少年がピアノに出会った街の学校は、いまは複合施設の中で子どもを迎えている。

ついでに書いておくと、征爾という名は、父と縁のあった軍人二人の名から一字ずつとったものだと百科事典は伝える。その名を背負った少年が、のちに剣ではなく指揮棒を振ることになった。名づけた側は、さぞ予想外だったろう。

立川基地の町で生まれた彗星の発見者、アラン・ヘール

もう一人、空の上の話をしたい。

1997年3月29日、クロアチアで木の上空に撮られたヘール・ボップ彗星。
1997年3月29日、クロアチアで木の上空に撮られたヘール・ボップ彗星。
写真: Philipp Salzgeber / CC BY-SA 2.0 at / Wikimedia Commons
2005年、アルバカーキの催しに出た天文学者アラン・ヘール。立川生まれの彗星の発見者。
2005年、アルバカーキの催しに出た天文学者アラン・ヘール。立川生まれの彗星の発見者。
写真: DaveThomasNMSR / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

1997年の春、大きな彗星が夜空に長い尾を引いた。ヘール・ボップ彗星である。アメリカの地方紙は、その発見者の訃報に「数十年でいちばん明るい彗星の発見を助けた天文学者」と見出しをつけた。発見者の一人、アラン・ヘールは、立川で生まれている。

英語版の百科事典によれば、ヘールは1958年3月7日、日本の立川で生まれた。父がアメリカ空軍に勤めていたからだ。そして生後4か月で、父はニューメキシコ州のホロマン空軍基地へ転属になる。立川にいたのは、わずか4か月である。

1958年の立川を思い浮かべてみる。市の年表をたどると、その3年前の昭和30年(1955)には、基地の拡張に反対する砂川の闘争が始まっている。駅の北には米軍の立川基地が広がり、百科事典は、敗戦後の接収によって立川は「基地の町」として全国に知られるようになった、と書く。赤ん坊のヘールの子守歌は、たぶん輸送機のエンジン音だった。

あのころ、その滑走路の街で、アメリカ人の赤ん坊が生まれた。いま、同じ土地の多くは国営昭和記念公園と防災基地になり、芝生の上で日本人の赤ん坊が昼寝をしている。米軍の飛行場は昭和52年(1977)に全面返還され、公園は昭和58年(1983)に開園した。わずか20年あまりで、滑走路の街は芝生の街に変わったのである。

ヘールが生まれた翌年の昭和34年(1959)、立川市はカリフォルニア州のサンバーナディノ市と姉妹市の約束を結んだ。市の年表には、昭和37年(1962)に交換高校生の制度を始めたことも記されている。駅の北にアメリカの基地を抱えた街は、海の向こうのアメリカの街とも手を結んだ。フェンスの内と外で、立川の昭和30年代は、思いのほかアメリカと近かった。

ヘールはニューメキシコのアラモゴードで育った。もっとも本人は、2013年に「そこで育ったとは言わないことにしている。私を知る人なら、私がまだ大人になっていないと知っているから」と語っている。立川で生まれた人は、大人になる前に引っ越していったうえ、そもそも大人になる気がなかった。

1995年7月22日から23日にかけての夜、ヘールはニューメキシコ州クラウドクロフトの自宅で、別の彗星が昇ってくるのを待つあいだに、時間つぶしに射手座のあたりを眺めていて、見慣れない光に気づいた。それがのちの大彗星である。時間つぶしで歴史に名を残す。私の時間つぶしは、たいてい歴史に何も残さない。

ヘールは2026年6月6日、クラウドクロフトの自宅で亡くなった。68歳だった。立川の夜空でヘール・ボップ彗星を見上げた人のうち、それが立川生まれの人の見つけた星だと知っていた人は、何人いただろう。

数字で読む立川ゆかりの人びと

  • 1 — 立川市の名誉市民の数。60年近くで、ただ一人。選ぶ側の謙虚さが、数字に出ている。
  • 3 — 小澤家がピアノを横浜から立川まで運んだ日数。ピアノの運送料としては、たぶん史上もっとも汗くさい。
  • 4 — アラン・ヘールが立川にいた月数。彗星の尾よりも短い滞在だった。
  • 97 — 昭和32年、市民歌の歌詞に寄せられた応募の数。選ばれた1編には「大立川」が3回出てくる。
  • 14 — 根川緑道の「詩歌の道」に並ぶ碑の数(市の案内に挙がる作家の数)。散歩しながら歌集を一冊読める。

旅人の寄り道クイズ

小澤征爾の一家が、横浜からピアノをリアカーで運んで立川の家に着くまでにかかった時間は、どれだったか。(A)3時間(B)3日(C)3週間。答えは、実はもう本文に書いてある。読み飛ばした人のために、最後にも置いておく。

ピアノの話を書いたので、ここからは言葉の話に移りたい。立川には、名前そのものにまつわる、ちょっと困った誤解がある。

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