立川ゆかりの有名人 ノッポさんは立川の高校を出て、「ダバダ〜」の作曲家は立川基地で弾いた

立川生まれではないのに立川と縁を結んだ有名人をたどる散歩ルポ。「できるかな」のノッポさんと漫画家・東海林さだおが卒業した都立立川高校、ネスカフェの「ダバダ〜」の作曲家が弾いた米軍立川基地、公民権運動のメレディスが「男になった」と語った基地、松本清張『ゼロの焦点』の影の立川、陣内孝則のバンドの米軍ハウス生活まで。

ノッポさんは、立川の高校を出ている。

そう書いても、たいていの人は信じない。私も信じなかった。あの、一言もしゃべらずに紙を切り、箱を貼り、身ぶりだけで子どもたちに話しかけていた人が、京都でも下町でもなく、多摩の真ん中の立川で高校を卒業していたとは。

特集の前の記事では、立川で生まれた人たちを追いかけた。小澤征爾、彗星の発見者、庭の学者。そのとき、名簿の端にこぼれ落ちていく名前がいくつもあった。立川で生まれてはいない。けれど、立川で学び、立川で弾き、立川で暮らし、あるいは小説の奥に立川を隠した人たちだ。

引いていくと、出てくるわ出てくるわ。ネスカフェの「ダバダ〜」を作曲した人。アメリカの公民権運動の歴史を変えた人。日本の推理小説の大家。そして、刑事ドラマのあの警部。

なぜ、こんなに多くの人が、生まれた街でもない立川に足跡を残したのだろう。立川は、人がどこかへ向かう途中で、たまたま立ち寄る街なのか。それとも、途中だからこそ何かが始まる街なのか。その問いを抱えて、生まれではない人びとの足跡を順にたどってみる。

立川ゆかりの有名人を、「生まれ以外」で数えてみる

まず、決まりごとを一つ置いた。

人の縁は、言いっぱなしにすると、すぐ伝説になる。「あの人も立川に住んでいたらしい」という話は、どの街にもいくらでもある。だから今回は、人名の事典や本人の言葉、新聞や大学の公式の記録など、二つ以上の資料で一致した縁だけを書く。いま活躍している人については、本人が公に語ったことと、公の経歴だけにとどめる。

そのうえで、縁の種類を分けてみると、四つの型があった。

一つめは、学んだ人。立川には明治から続く高校があり、昭和の終わりからは音楽大学がある。二つめは、基地の時代に立川にいた人。演奏した人、兵士として暮らした人。三つめは、作品の中に立川を置いた人。四つめは、暮らした人。上京して最初に住んだ家が立川だった人、子どものころに親の仕事で引っ越してきた人。

どの型にも、名前を聞けば日本中の誰もが顔を思い浮かべる人がいる。そして、その誰もが、立川の人に「知ってた?」と聞くと、首を横に振られそうな人ばかりなのだ。

最初は、学んだ人から始めよう。それも、錦町にある一つの高校の門から。

初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。

体験レッスンを予約体験専用 03-6665-0898LINE

ノッポさんは、立川の高校を卒業していた

NHKの記録によれば、高見のっぽは昭和9年(1934)に京都市で生まれた。百科事典によれば、生まれたのは太秦で、父は芸人で、奇術師で、俳優でもあった人だ。4歳のときから東京の向島で育ち、小学4年で岐阜県の笠松町に疎開した。地元の中学を出て、岐阜県立加納高校に入り、高校2年までを岐阜で過ごす。そして東京に戻り、都立立川高校に転校して、そこを卒業した。

転校先の立川高校は、明治34年(1901)に東京府第二中学校として生まれた学校である。学校が受験生向けに出している案内には、1901年の設立以来120年以上の歴史を重ねてきたこと、そして校風が「質実剛健」と「自主自律」であることが書かれている。多摩の子どもたちが中等教育を受けられるように、と地元から声が上がってできた学校だった。いまは普通科に加えて、創造理数科という学科も置いている。

京都、向島、岐阜、そして立川。高校を二つまたいだ少年が、最後に卒業証書を受け取ったのが、多摩の旧制中学の流れをくむこの学校だったのである。

その後の道のりは、決して平らではない。百科事典によれば、高見はダンサーとして芸歴を始め、キャバレーの仕事から日劇ミュージックホールに出るまでになったが、その先がなかなか続かなかった。NHKの記録によれば、独学でタップダンスを身につけ、芸人だった父のかばん持ちをしながら舞台に立っていた。

転機は昭和41年(1966)に来る。NHKの教育テレビで始まった「なにしてあそぼう」と、その後を継いだ「できるかな」に、20年以上にわたって出演した。セリフを使わず、身ぶりだけで工作をしてみせる。昭和の子どもたちは、テレビの前で、黙って紙を折る背の高い人を見つめて育った。

「できるかな」は平成2年(1990)3月に最終回を迎える。百科事典やいくつかの記録は、その最終回で、ノッポさんが初めて子どもたちに語りかけたと伝えている。20年黙っていた人が、最後の日に口を開いたのである。

それにしても、と私は思う。この人が卒業した学校の校風は「自主自律」なのだ。みずからを律する。律した結果、20年間ひとこともしゃべらなかった人を世に出したのだとしたら、これほど校風を体現した卒業生も珍しい。もちろん、学校がそこまで求めたわけではないだろうが。

高見のっぽは、令和4年(2022)9月に亡くなった。黙って子どもたちと向き合い続けた人の、高校生活の終わりの日々は、立川の錦町にあった。

そして同じ門を、もう一人、意外な人がくぐっている。こちらは、黙っているどころか、生涯しゃべり続けた人だ。

東海林さだおと、立川高校の同じ門

『アサッテ君』『タンマ君』『サラリーマン専科』。新聞や週刊誌をめくった世代なら、どれか一つは目にしているはずだ。

その作者、東海林さだおも、立川高校の卒業生である。文藝春秋の追悼の記事によれば、東海林は昭和12年(1937)に東京の高円寺で生まれた。父は写真の会社、小西六(いまのコニカミノルタ)の社員だったが、戦後、八王子で酒屋を始めた。東海林は都立立川高校を卒業し、一浪ののち早稲田大学に入り、2年のときにできたばかりの漫画研究会に入って、園山俊二や福地泡介と出会う。百科事典の記述も、この流れとぴたりと重なる。

百科事典によれば、少年は疎開先の山梨から栃木へ移り、中学2年までをそこで過ごして、漫画家を将来の目標に決めた。その少年が、どういう道筋で立川の高校にたどり着いたのか、資料は多くを語らない。漫画家になると決めた高校生が、多摩の旧制中学の流れをくむ校舎で何を描いていたのか。想像するしかないのが、少しもどかしい。

東海林は大学を途中でやめ、出版社に原稿を持ち込みつづけ、昭和42年(1967)に『ショージ君』などの連載を始めた。漫画と並んで、食べ物のエッセイでも長く読まれた。『あれも食いたいこれも食いたい』という題を見ただけで、人柄がおおよそ分かる。

そして令和8年(2026)4月、88歳で亡くなった。今年の春のことである。

ここで、私は一つ、余計な勘定をしてしまった。ノッポさんは昭和9年生まれ、東海林さだおは昭和12年生まれ。三つ違いだ。生まれ年から考えると、二人が同じ校舎にいた時期は、あったとしてもごく短い。たぶん、すれ違いだった。だが、想像するのは自由だろう。何もしゃべらずに工作を続ける先輩と、食べ物について何冊もの本を書いた後輩。同じ学校が、黙る名人と語る名人を、ほぼ同じころに世に送り出していたのである。

錦町の校門の前を通る人の中に、この二人の顔を思い浮かべる人は、どれくらいいるだろう。

学校の話はいったん置いて、次は、立川がまだ「基地の町」だったころに目を向けたい。そこには、日本中の茶の間に流れたあるメロディーの作曲家がいた。

「ダバダ〜」の作曲家は、米軍立川基地でピアノを弾いた

コーヒーのテレビCMで流れる、「ダバダ〜」というスキャット。昭和に生まれた人なら、その旋律を口ずさめるはずだ。

百科事典のネスカフェの項によれば、ネスカフェ ゴールドブレンドのCMで使われてきた曲は、例外を除いて、八木正生が作曲し、伊集加代子が「ダバダー」とスキャットを入れた「目覚め」である。人物の事典も、ネスカフェのCMソング「めざめ」を八木の作曲として挙げている。

その八木正生が、若いころ、立川の基地で弾いていた。

日外アソシエーツの人名事典によれば、八木は昭和7年(1932)に東京で生まれたジャズピアニストで、戦後、築地の「クラブ・リオ」や米軍立川基地などで演奏した。百科事典も、同じ二つの場所の名を挙げている。立川の基地の名が、ジャズピアニストの経歴の最初の行に、はっきりと書かれているのである。

同じ事典の別の解説には、ちょっと笑ってしまう話が載っている。八木は戦後、中学3年のころから仲間とハワイアンのバンドを組み、スティール・ギターを担当していた。進駐軍のキャンプでも演奏したが、当時は停電が多く、電気がないとスティール・ギターは鳴らない。そこで仕方なくピアノを弾いたこともあった、というのだ。どのキャンプでの話かまでは書かれていない。それでも、停電がピアニストを一人こしらえたとすれば、戦後の電力事情もなかなかの名プロデューサーである。

その後の仕事の幅には、目を見張る。事典によれば、八木は生涯に200本近い映画音楽を手がけた。『網走番外地』のシリーズ、『不良番長』のシリーズ。テレビアニメ『あしたのジョー』の主題歌も八木の作曲である。1980年代には、サザンオールスターズの曲の編曲にも加わった。

少し並べてみよう。立川基地のステージ、網走の雪原、リングの上のジョー、そして朝のコーヒー。一人の作曲家の仕事の中で、これだけ遠い場所がつながっている。「違いがわかる男」のCMの音楽を書いた人は、基地のクラブで、言葉の通じない米兵を相手に、その違いを耳で覚えたのかもしれない。

八木は平成3年(1991)に亡くなった。いまも「ダバダ〜」が流れると、私は少しだけ、立川の基地のステージを思い浮かべるようになった。

ところで、同じ基地には、別の種類の人も暮らしていた。ステージの客席の側にいた、一人のアメリカ兵である。彼が立川で考えたことは、のちにアメリカという国そのものを揺さぶることになる。

ジェームズ・メレディスが「男になった」と語った立川基地

1962年、アメリカ南部のミシシッピ大学に、一人の黒人学生が入学した。人種で隔てられていたこの州立大学に、黒人が入るのは初めてだった。入学をめぐって暴動が起き、連邦政府が兵を送って鎮めるという、公民権運動の歴史に残る事件である。その学生の名を、ジェームズ・メレディスという。英語の百科事典によれば、このときの暴動を鎮めるために、3万1000人のアメリカ兵が必要になった。一人の学生の入学のために、小さな町一つ分ほどの兵隊が動いたのである。

1962年10月、連邦保安官に付き添われてミシシッピ大学の授業へ向かうメレディス
1962年10月、連邦保安官に付き添われてミシシッピ大学の授業へ向かうメレディス
写真: Marion S. Trikosko / Public domain / Wikimedia Commons

英語の百科事典によれば、メレディスは1933年生まれ。1951年に高校を出ると空軍に入り、1960年まで9年間を軍で過ごした。

その最後の3年間が、立川だった。

アメリカの軍事紙エアフォース・タイムズの記事によれば、メレディスは1957年から1960年まで、軍務の最後の3年を東京近くの立川空軍基地で過ごした。そして、その基地を「自分が一人前の男になった場所」と語っている。日本語の百科事典も、空軍時代に東京の立川基地に派遣されたことを記している。

なぜ、立川だったのか。記事は、本人の言葉をいくつも引いている。日本で、人間として劣っていると感じたことは一度もなかった。そこは、白人ではない人びとがつくった千年の文明の、まったく別の宇宙だった。そして日本にいるあいだに、アメリカの白人至上主義と黒人の劣った立場は、自然のものではなく人がこしらえたものだと、はっきり分かった、と。

記事には、こんな場面も出てくる。日本の田舎道を歩いていたメレディスは、一人の少年に出会う。少年は、彼がアメリカ南部の出身だと知って驚き、アメリカの人種の問題をよく知っていた。今度はメレディスのほうが衝撃を受け、自分の国の汚れを恥じた。そして、空軍をやめてミシシッピに帰り、戦うしかないと決めたのだという。

アメリカの書評誌カーカス・レビューも、2012年に出た彼の回想録を評して、公平さと敬意を味わったのは1950年代の終わりに日本に駐留していたときだけだった、という彼の述懐に触れている。

1960年、メレディスは軍を離れて帰国する。そして2年後、ミシシッピ大学の門を開けさせた。

立川の基地の町といえば、私たちはつい、ジャズや映画やコーラの瓶のような、アメリカの文化が日本に流れ込んできた話ばかりを思い出す。だが、流れは片道ではなかった。立川で暮らしたアメリカ兵の中には、日本で何かを受け取り、それを抱えて自分の国に帰った人がいた。その一人が持ち帰ったものは、アメリカの大学の門を一つ、こじ開けたのである。

昭和記念公園の芝生に寝ころんで、ここがかつて基地だったことを思い出すとき、私はもう一つ思い出すことにしている。この土地は、ある青年が自分の国の間違いに気づいた場所でもあったのだと。

基地の町の陰の部分に目を向けた人もいる。日本の推理小説を変えた作家である。

初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。

体験レッスンを予約体験専用 03-6665-0898LINE

💬 ご質問がある場合はこちらからどうぞ

オンザショアのチャットで質問する(24時間受付)

レッスン内容・料金・体験のご予約など、気になることをお気軽にお尋ねください。

1

2

Warning: Attempt to read property "show_author" on false in /home/c1531448/public_html/ontheshore.jp/wp-content/themes/heal_tcd077/single.php on line 165

関連記事

PAGE TOP
ご体験予約