立川シネマシティは、極上爆音上映と極上音響上映で知られる立川駅北口の映画館。1951年に地元の商店主が出資した劇場から始まり、1994年に東京初のシネコンになった。大手に囲まれた駅前で、なぜ地元の映画館が残り、音で全国から客を呼ぶのか。弁士の創業から電源の改良までをたどる立川さんぽ特集の一編。
映画を、耳ではなく、腹で聞いたことがあるだろうか。戦車の履帯がきしむ音を、座席の背中で受けとめたことは。
立川駅の北口から歩いて数分のところに、そういう映画館がある。シネマシティという。大型のサブウーファーが重低音を吐き出し、建物ごと揺れるような「極上爆音上映」で、映画好きのあいだでは全国に名が通っている。北海道や沖縄からも客が来ると、劇場の企画担当者は週刊アスキーで語っている。
白状すれば、私は立川を映画の街だと思ったことがなかった。駅は大きいが、乗り換えで通り過ぎる。映画なら、どこのシネコンでも同じものがかかる。
ところが調べてみると、立川には昭和のころ10館の映画館があり、平成のはじめには一時、市内から映画館が1館もなくなっていた。その空白に立ったのが、一人の弁士が始め、地元の商店主たちの出し合った金で建った劇場を借りて育った映画館だった。東京で最初のシネコンになり、2000年代には大手のチェーンに囲まれ、それでも駅前に残った。配信で映画が見られる時代に、なぜ人は、わざわざ立川まで音を浴びに来るのか。その問いを抱えて、北口のデッキを降りる。
立川シネマシティとは──駅前の二つの館、シネマ・ワンとシネマ・ツー
シネマシティは、二つの館でできている。公式サイトのアクセスの頁によれば、シネマ・ワンは立川市曙町2-8-5にあり、JR立川駅から徒歩5分、多摩モノレールの立川北駅から徒歩3分。シネマ・ツーは曙町2-42-26で、JR立川駅から徒歩6分、立川北駅から徒歩2分だ。二つの館は、歩いてすぐの距離にある。
公式サイトは、シネマ・ワンを「東京初のシネコン&THX認定シアター」と書き、「立川の文化成熟度をあらわすような記録を持ちます」と添えている。自分の町の文化成熟度を、映画館の案内文で言い切る。この胸の張り方は、嫌いではない。
シネマ・ツーについては、映画が終わると、余韻を大切にするように座席のあいだのライトがゆっくりとつく、と書いてある。前の人と頭が重ならず、手すりの幅も広い。スタジオごとに座席の傾斜が違い、作品の見え方が少しずつ違うという。最大のaスタジオは382席。極上爆音上映の多くは、このシネマ・ツーで行われてきた。
もうひとつ、公式サイトのよくある質問に、地味だが見逃せない一行がある。シネマシティの予告編は5分前後と大変短いので、開始時間に合わせて来てほしい、というのだ。上映開始から延々と予告を見せられて、本編が始まるころには気持ちがすっかり冷めている。あの経験のある人には、これだけで信用できる映画館に見えるはずだ。遅刻の言い訳が一つ減るのは、惜しいが。
では、この映画館は、どこから来たのか。話は、映画に音がなかった時代にさかのぼる。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
弁士の映画館と、「映画の街」立川
立川の文化芸術のまちづくり協議会が運営する「たちかわビルボード」は、シネマシティの来歴を、一人の弁士から書き起こしている。
その名は、川手健吉。弁士とは、音のない映画に合わせて、筋や台詞を語りで表現することを仕事にした人々のことだ。トーキーが広まって職を失った川手は、都心で映画館を開いたが、やがて第二次世界大戦に突入する。立川へ移り住み、一つの映画館を開いた。
音のない映画に声をつけていた人の映画館が、のちに日本でいちばん音にこだわる映画館の一つになる。歴史というものは、ときどき、出来すぎた筋書きを書く。
立川に映画館が初めてできたのは、大正14年、1925年のことだと伝わる。同じたちかわビルボードによれば、並木吉蔵という人が、いまのシネマ通りに「キネマ立川」を開いた。
戦後、立川は基地の街になった。三井住友トラスト不動産の「このまちアーカイブス」によれば、終戦後、立川飛行場は米軍に接収され、駅の北口には露店やヤミ市が並んだ。1950年に朝鮮戦争が始まると、米兵相手の商売で景気が上向いた。
その賑わいのなかで、映画館が増えていく。立川市商店街連合会は、かつて「映画の街」と呼ばれていた立川には10館の映画館があった、と記している。このまちアーカイブスは、1960年代の顔ぶれを書き残している。北口に「シネマ立川」「立川セントラル」「立川松竹」「立川中央」。南口に「立川名画座」「立川日活」「立川大映」「東映立川南座」「立川東宝」、そして「立川新東宝」、のちの「立川錦座」。日活、大映、東映、東宝、松竹。映画会社の名前が、駅の両側にひととおりそろっていた。年配の立川の人なら、この館名のどれか一つで、手をつないだ相手の顔まで思い出すかもしれない。若い人には、駅の改札を出て、どの会社の映画を見るかで右と左に分かれる街を想像してほしい。いまのシネコンの案内板が、駅の外まではみ出していたようなものだ。
1951年、昭和26年。シネマシティの会社概要が「設立」と記すこの年に、川手は北口の立川セントラル劇場を借りて興行を始めた。たちかわビルボードによれば、この劇場は地元の商店主や市民が出資して開いたもので、その「大家と店子」の関係は、いまも続いているという。このまちアーカイブスには、1954年ごろの写真に、緑川の曙橋のあたりに建つ立川セントラル劇場が写っていると記されている。
川手の映画館は北口だけではなかった。たちかわビルボードによれば、南口にも名画座、あるいは演芸館と呼ばれた映画館があり、戦後は川手がそれを引き継いだ。立川市商店街連合会は、大正時代に開館した立川名画座が、南口の区画整理に伴って昭和61年、1986年に歴史の幕を閉じたと記している。二つの資料の名画座が同じ館を指すのかどうかまでは、私には確かめきれなかった。ただ、駅の南にも北にも映画のかかる町だったことは、どちらの資料からも読みとれる。
昭和30年、1955年には、川手がセントラル劇場の西側に立川中央劇場を建てた。翌年には、別の会社が立川松竹を建てる。北口の一角に、三つの映画館が肩を寄せ合った。
だが、灯りは一つずつ消えていく。同じ資料の一覧によれば、立川日活は1969年、立川で最初の映画館の流れをくむシネマ立川は1976年、立川東宝は1978年ごろ、立川大映と立川錦座は1981年ごろ、東映立川南座は1982年に幕を下ろした。南口の立川名画座が閉じたのは1986年である。昭和が終わりに近づくにつれて、駅の両側の暗闇は少しずつ狭くなっていった。
それでも、北口の三つの館は残った。町の人が出し合った金で建った劇場を、弁士だった男が借りて、映画をかける。これが、いまのシネマシティの根っこである。立川の駅前の映画館は、最初から町のものだった。その事実は、のちに大きな意味を持つことになる。
区画整理と、東京で最初のシネコン
平成4年、1992年。たちかわビルボードによれば、北口の大規模な区画整理とファーレ立川の構想によって、そのエリアにあった三つの映画館もビルへと移り変わることになった。このまちアーカイブスは、立川セントラル劇場などが並んでいた緑川の暗渠の上の一帯が、再開発でファーレ立川になったと書く。そして三つの映画館があった場所には、いま、シネマシティのシネマ・ワンが建っている。

写真: Razgrad / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
このまちアーカイブスは、さらりと一行で書いている。3館が1992年に閉じたあと、一時期は立川市内に映画館が無くなった、と。10館を数えた「映画の街」に、映画館がゼロ。そのあいだ立川の人は、映画を見るのに電車に乗るしかなかったはずだ。
それでも、三つの館は町を出ていかなかった。同じ場所で、一つのビルにまとまって戻ってきたのだ。
そうして、東京で初めてのシネマコンプレックス、シネマシティが生まれた。週刊アスキーの取材記事は1994年の開業とし、都内で初めての現在型のシネコンで、日本人の手による初めてのTHX劇場がここにあったと伝えている。THXは、映画の音と映像の再現性を一定の基準で認証する仕組みだ。AV Watchの記事によれば、国内では1993年に神奈川の海老名が初めてTHXの認定劇場となり、それに続いたのが立川のシネマシティだった。
開業からしばらくは、追い風が吹いた。AV Watchの記事で、1997年にアルバイトとして入社した劇場の企画担当者は、当時は周りにシネコンがほとんどなく、何もしなくても成功した時代だったと振り返っている。
ところが、風は変わる。昭島や府中に大手のチェーンが進出し、客足が奪われていった。週刊アスキーの記事は、2000年代の初めに、大手のシネコンに周りを囲まれたと書く。全国チェーンの資本と、地元の一社。同じ映画が、どこでも同じ値段で見られる。地元の映画館がそこで消えていくのは、日本中で見られた話だ。
立川の映画館は、ここで消えなかった。その理由を探るには、2004年に建った、もう一つの館に入ってみなければならない。
数字で読む シネマシティ
- 1925 — 立川に最初の映画館ができたと伝わる年。シネマシティの音へのこだわりは、まだ影も形もない。音がないのだから。
- 10 — 「映画の街」と呼ばれた1960年代の、立川の映画館の数。迷っているうちに、最終回が始まる。
- 0 — 1992年に北口の3館が閉じたあと、しばらくの立川市内の映画館の数。映画の街の、短い冬である。
- 1951 — シネマシティの会社の設立の年。大家は、町の商店主たちだった。
- 382 — シネマ・ツーのaスタジオの席数。382人が同時に、同じ低音で腹を揺らされる。
- 5分前後 — 公式サイトが言う予告編の長さ。うっかり遅れると、本当に間に合わない。
- 1億円 — テレビ東京の「アド街ック天国」が伝えた、音響設備への投資額。チケット1枚ずつ返していくと、気の遠くなる数になる。
映画のためだけの建物、シネマ・ツー
AV Watchに、映画監督の樋口真嗣が連載している記事がある。そこで劇場の企画担当者は、2004年に開いたシネマ・ツーを、商業施設と複合しない建物で、映画のためだけに、制約なく建築することができたと語っている。

写真: After789798 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
音のコンセプトは、映画の音がつくられている録音スタジオの音を、忠実に再現することだった。だから劇場を「スタジオ」と呼ぶ。壁にははじめ吸音材が入っておらず、映画館というより音楽寄りの方向に振り切った設計で、業界の中からは批判もあったという。
同じ記事によれば、2000年代の半ば、劇場は方針を変えた。不特定多数の客は大手に任せ、「映画が好きな人のためのシネコン」を目指す。誰にでも好かれようとするのをやめて、誰かに深く好かれようとした。
その最初の手がかりが、マイケル・ジャクソンだった。シネマシティの公式ニュースは、2009年、開かれなかったライブのリハーサルを捉えた記録映画『THIS IS IT』の公開を控えて、シネマシティに何ができるかを考え抜いた末に生まれたのが、「1本の映画のために、綿密な音響調整を行って上映する」極上音響上映だったと書いている。劇場はこれを、映画館の歴史の中で初めて誕生した上映方式だと胸を張る。週刊アスキーの記事によれば、この映画を50回観た客がいたという。50回。歌詞より先に、リハーサルの段取りを覚えてしまいそうだ。
音を整えるのは、音響家の仕事だ。AV Watchの記事によれば、2011年の『THIS IS IT』で、音響家の増旭は、コンサートのPAの音量を基準に、チャンネルごとに音を整えた。増はそれを「演出するわけではなく、磨く。」と言う。時間に合わせて音量を上げ下げするような細工はしない。作り手がもともと鳴らしたかった音を、この部屋で正しく鳴らす。
週刊アスキーの記事で、劇場の企画室長は、1作品の音響調整にはおよそ3時間をかけると語っている。客が拍手し、声を上げ、一緒に歌ってよい「ライブスタイル上映」も、2009年の『THIS IS IT』が出発点で、のちに『映画けいおん!』でも行われたという。同じ記事には、極爆の『ゴジラ』を25回観た客がいたことも出てくる。劇場の最も小さな部屋は1万5000円で借りられるとも語られていて、映画館を、客が自分たちの上映会のために使える場所にもしている。爆音上映の火付け役が、ファンの貸切上映だったことを思えば、筋は通っている。
旅人の寄り道クイズ
シネマシティの公式ニュースは、音量を上げるだけでなく綿密な音響調整を行うのが「立川流」だと書き、その読み方に注をつけている。正しい読み方はどれか。
- A りっせんりゅう
- B たちかわりゅう
- C たてかわりゅう
答えは、この記事の終わり近くで。
磨かれた音は、やがて、建物を揺らしはじめる。
極上爆音上映は、ゴジラから始まった
AV Watchの記事によれば、極上爆音上映のデビュー作は、2014年の『GODZILLA ゴジラ』だった。ゴジラが目の前にいると感じる音にしたい、という劇場の依頼に、増がサブウーファーの追加を提案した。aスタジオにはもともと、『地獄の黙示録』のために開発された「650-P」というサブウーファーが4台あり、そこにレンタルで2台を足した。週刊アスキーの記事では、そのきっかけに、ファンの有志が主催した『パシフィック・リム』の貸切の爆音上映が大いに盛り上がったことがあったと語られている。客が先に火をつけ、劇場がそれを本気で受け取った。
翌2015年6月20日、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が公開される。公式ニュースによれば、シネマシティはこの映画のために、超強力な重低音を放つ「1100-LFC」を導入した。30年ぶりの続編で、ふつうに考えれば到底ヒットは望めない作品に、非常識なまでの高額を賭けた、と劇場は自分で書いている。その賭けは映画ファンを熱狂させ、半年後には、劇中のスピーカーを積んだ車を劇場で再現したいという理由で、ラインアレイスピーカーまで導入した。映画の中の車に影響されて、映画館が設備を買う。普通は逆だ。
そして同じ2015年の11月21日、『ガールズ&パンツァー 劇場版』が公開された。公式ニュースによれば、作品の岩浪美和音響監督、音響効果とミキサーの担当者が直接、シネマシティでの音響調整に加わった。岩浪監督はそれを「センシャラウンドファイナル」と呼ぶべき音に仕上がったと書き、「邦画史上、もっとも音がデカイかも」とまで言った。同じ記事で、劇場は、建物が揺れまくる、と書いている。
この上映は、劇場の名を全国に知らしめた。いまシネマシティの公式ニュースは、「『ガルパン』といえば、シネマシティ。」と書き、その称号に恥じないように、と続けている。2025年12月には劇場版の10周年を記念する上映が開かれ、2026年10月9日に公開された『最終章』第5話では、岩浪監督がこの劇場の上映のために「サウンドネーム」を届けている。音響監督が、立川の一館のために、毎回、音の名前を考える。公式ニュースはこれを「恒例の命名」と呼ぶ。
aスタジオとbスタジオの違いを説明する公式の記事には、こんな一節がある。設備も劇場の建築も違うので、明らかに違いはあるが、どちらも作品に最適な調整をするので、豚骨ラーメンと味噌ラーメンほどの違いはない。豚骨は豚骨でも、一方がやや塩気が強く、背脂少なめですっきり、というような違いだという。説明のための例えで、急に腹が減ってきた。重低音とは関係なく、腹が鳴る。
だが、この劇場の音の話は、ラーメンの例えで終わるほど短くない。次に彼らが手をつけたのは、目に見えないものだった。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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