立川の歴史を知るなら、富士見町の立川市歴史民俗資料館へ。国宝・六面石幢の複製と修理を終えた本物、名主の日記に描かれた黒船、多摩川の漁具と昼の鵜飼、馬場吉蔵の立川村十二景、館で育てた55粒の蚕まで、開館40年で33万人が訪れた入館無料の館の見どころと行き方を資料でたどる。川越道緑地古民家園は2027年3月まで休園中。
国宝の名を展示の一覧のいちばん上に掲げながら、その本物を持っていない資料館がある。
場所は富士見町。駅から歩けば、西立川駅から20分。住宅の並ぶ段丘の上の、目立たない建物である。市の案内で主な展示物の一覧を開くと、いちばん上にこう書いてある。「【国宝】六面石幢(※レプリカ)」。括弧の中で、自分から白状している。
国宝の本物は、ここにはない。都の指定文化財の鉦鼓にも、「※レプリカ」の注がつく。それでも市の資料館だよりによれば、昭和60年の開館から40年で、33万人もの人がこの館を訪れた。本物の国宝がない資料館に、人はいったい何を見に来るのだろう。そもそも、町の資料館というのは、毎日何をしている場所なのか。
私はその問いを抱えて、資料館が公開している資料を一枚ずつ開いていった。最初の一枚から、話は予想しない方向へ転がりはじめた。
立川の歴史を知るなら、富士見町の歴史民俗資料館へ
立川市歴史民俗資料館は、昭和60年、1985年の12月1日に開館した。市の歴史や文化、自然風土に関する市民の知識と理解を深め、市民文化の向上に寄与するため、と市は開館の目的を書いている。市の年表によれば、平成3年に増築された。入館は無料である。
館の中には二つの部屋がある。立川の原始から近現代までの歴史、民俗、自然の資料を並べた常設展示室と、テーマを決めて企画展を開く特別展示室だ。展示の解説をまとめた見学の手引は10種類あり、市のサイトから誰でも読める。展示ガイドのアプリ「ポケット学芸員」も入れてあって、市によれば、このアプリは館の外でも使える。家のソファで、学芸員の解説を読める。便利な時代である。入館は無料、家で読めば電車賃まで無料になる。
令和7年の12月、資料館は開館40年を迎えた。その年度の催しの案内を読んでいて、私は一行に目を留めた。清瀬市郷土博物館と立川市歴史民俗資料館は同級生、とある。どちらも40周年を迎えたのを記念して、お互いの館の資料を交換して展示したのだという。町の資料館が、隣町の資料館を同級生と呼ぶ。その言い方の気安さに、この館の性格が少し出ている気がした。
40周年の冬には、もうひとつ、少しくすぐったい展示があった。企画展「暮らしのなかの道具たち―40thAnniversaryLimited―」で、昔懐かしい暮らしの道具と並べて、資料館が開館した昭和60年ごろの民具も紹介したのだという。昭和60年といえば、立川駅に「WILL」という名前の駅ビルが建ってから3年ほど、モノレールの工事もまだ始まっていないころだ。その時代に家の台所や居間で使われていた道具が、いまは資料館のガラスの向こうで「民具」と呼ばれている。年配の人にとっては、ついこのあいだまで自分の家にあったものが、歴史の側に移ったことになる。若い人にとっては、親や祖父母の若いころの暮らしを、初めて間近に見る機会になる。
では、その同級生に見せたくなるような、立川の資料館の自慢は何なのか。最初に向き合うべきなのは、やはり一覧のいちばん上の、あの複製である。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
国宝は複製、本物は柴崎の寺で修理を終えた
常設展示室に立つ六面石幢は、複製である。本物は、柴崎町の普済寺にある。延文6年、1361年に建てられた石の塔で、六枚の緑泥片岩の板に仁王と四天王が刻まれている。その由来や図像のことは、この特集の普済寺と諏訪神社の一編に詳しい。ここで追いたいのは、その後の話である。

写真: タバコはマーダー / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
資料館だよりの最新号に、修理に関わった研究者が寄せた文章が載っている。それによれば、石幢は1923年の関東大震災で、笠石や板石の一部が折れて倒れた。その後、建て直す修理が行われ、1927年に報告書が出ている。そして2018年1月、石幢が置かれていた一帯が土砂災害警戒区域に指定された。安全な場所へ移すことになり、そのための調査で、本体の破損と、大正の修理で使われた材料の傷みが見つかった。
そこで、大正以来となる解体修理が行われた。市の案内によれば、修復は令和2年から令和6年にかけて実施された。手がけたのは美術院国宝修理所の技術者たちだと、寄稿は書く。岡倉天心が1898年に始めた日本美術院を起源とし、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像や東大寺南大門の金剛力士像の修理も手がけてきた工房である。立川の石の塔は、鳳凰堂の仏さまと同じ人たちの手で、もう一度組み上げられた。
寄稿には、立川市民が覚えておいていい数字がある。国宝は全国に1,149点あるが、そのうち考古資料は51点しかない。東京は国宝をいちばん多く持つ都道府県だが、その多くは絵画や彫刻のような持ち運べるもので、動かせない不動産の国宝は3点だけだという。東村山市の正福寺地蔵堂、港区の旧東宮御所の赤坂離宮、そして立川の石幢である。東京で地面に据えられた国宝は三つ。そのうちの一つが、立川の柴崎町に立っている。
寄稿の結びには、こんな一文がある。文化財を後世へ伝えるには、多くの人が見て、感じて、愛することが大切で、文化財にも「推し活」が重要なのだ、と。国宝の修理の報告に、推し活という言葉が出てくる。真面目な文章の中で、そこだけ少し照れたように明るい。
修理の完了を記念して、資料館は令和7年の秋に企画展「甦る六面石幢―文化財修理最前線―」を開いた。複製は、本物が修理と引っ越しで留守にしているあいだも、ずっと展示室に立っていたことになる。本物が手術を受けているあいだ、黙って受付を続けた代役。拍手はたいてい本物のほうへ行く。それでも、複製には複製の仕事がある。
同じことは、ほかの展示物にも言える。都の指定文化財の銅鉦鼓は、市によれば個人の持ち物で、展示室にあるのは複製だ。八幡神社の本地仏も、本物は諏訪神社にあり、ここに並ぶのは複製である。それぞれの来歴は、立川氏の一編と古い村の一編に書かれている。資料館の展示室は、本物のありかを指し示す地図のようなものなのかもしれない。
その石幢は、昭和の映像の中にも映っている。そこから、この館のもうひとつの顔が見えてくる。
酢の匂いのするフィルムと、昭和26年の立川
資料館だよりの第28号に、地味だが胸の騒ぐ報告が載っている。資料館は令和3年度から3年かけて、所蔵する資料のデジタル化を進めた。最初の年に手をつけたのは、古い映像フィルム約150点だった。
フィルムは傷んでいた。酸化などで形が崩れ、像の面がはがれかけていたものもある。報告に添えられた写真の説明には、劣化が進んで溶けかけたフィルムは、ベタつきがあり、強い酢酸の臭いを放つ、とある。昭和の立川の景色は、酢の匂いをさせながら、消えかけていたのだ。資料館は、安い機械ではなく本格的なスキャナーで一コマずつ読みとり、赤く色あせた映像も自然な色合いまで補正した。もう見ることのできない市内の風景や歴史的な瞬間がよみがえった、と報告は書く。ただ、劣化がひどすぎてデジタル化できなかったフィルムもあった。缶にペンで書かれた文字から、市内の獅子舞を撮ったものだと分かっているという。
よみがえった映像の一つに、昭和26年、1951年に作られた『伸びゆく都市(新しい立川)』がある。だよりに載ったその一場面には、普済寺の国宝の石幢と、その上空を飛び去っていく米軍立川基地の飛行機が映っている。
あのころ、南北朝の石の塔の真上を、基地の飛行機が横切っていた。いま、返還された基地の跡には昭和記念公園の芝生が広がり、石の塔は修理を終えて、安全な場所に移されている。同じ一枚の石を、七十年あまりの時間を隔てて見比べられる。そういうことができるのは、誰かがフィルムを捨てずに、缶に入れて取っておいたからだ。
二年目には、台紙に貼られた写真約1万6,800点をデジタル化した。市役所の中だけでなく、報道や企業からの問い合わせも多い、館でいちばんよく使われる資料だという。資料館はこうした写真を使って、昭和の街を何度も見せてきた。令和5年の写真展は「立川駅前の移り変わり~昭和30年代から平成10年代~」。平成21年度には、昭和20年代から40年代の生活の道具を並べた「昔の道具展」を開いている。平成12年には「映画の街立川」というミニ企画展もあった。立川がかつて映画館の多い街だったことを、覚えている人も、知らない人もいるだろう。若い人には知らない街の写真として、年配の人には見覚えのある街角として、同じ一枚が二通りに届く。
令和6年2月末の時点で、市民から寄贈された資料は4万1,000点に迫る、とだよりは書く。4万点。その一点一点に、誰かの家の押し入れの匂いがついている。
では、本物がここにある資料のなかで、私がいちばん驚いたものは何か。それは、一冊の古い日記の、あるページだった。
名主の日記の余白に、黒船が描かれていた
「公私日記」は、江戸時代の末、柴崎村の名主だった鈴木平九郎が書いた日記だ。資料館の見学の手引によれば、天保8年、1837年から安政5年、1858年までの20年間、日々の天気、名主としての公の記録、年中行事、農作業、物の値段、村の事件、世の中の動きまでが、こまかく書きこまれている。市の指定有形文化財で、資料館が保管している。祭りの記録としての一面は、普済寺と諏訪神社の一編がすでに紹介した。
ここで見たいのは、弘化3年、1846年6月10日の記事である。手引によれば、そのページには黒船が描かれている。弘化3年の5月27日に浦賀沖に現れた、大砲を備えたアメリカの軍艦だという。
ペリーではない。ペリーが浦賀に来たのは、嘉永6年、1853年である。その7年前に、アメリカの軍艦は一度、浦賀に来ていた。事典によれば、アメリカの海軍の軍人ビドルが、戦列艦コロンバスとスループのビンセンスの2隻で1846年7月に浦賀へ入り、通商を求めた。上陸は許されず、幕府は長崎へ回るよう答え、ビドルは10日ほどで去った。教科書ではたいてい一行で済まされる出来事である。
その一行で済まされる出来事を、多摩川のほとりの村の名主が、同じ夏のうちに日記に描きとめている。江戸から遠く離れた多摩の柴崎村に、黒船の話がどう届いたのか。誰かが絵を見せたのか、話を聞いて描いたのか。手引は、そこまでは書いていない。私も想像で埋めるのはやめておく。ただ、ペリーより7年早く、立川の名主の机の上に黒船が浮かんでいた。それだけで、立川の江戸時代の見え方は少し変わる。
この日記は、本にもなっている。資料館の販売図書の一覧には、「公私日記 改訂版」が第一巻から第五巻まで、2011年から2015年にかけて並ぶ。面白いのは、一覧に価格と並んで「重さ」の欄があることだ。郵送で買う人のためだろう。第一巻は309ページで680グラム。同じ一覧で最も重いのは、9,000円の発掘調査報告書『向郷遺跡』の2,180グラムだった。歴史の重みを、グラムで量っている資料館を、私はほかに知らない。
一覧の書名を眺めているだけでも、「民俗」という言葉の中身が見えてくる。『立川の方言』『続 立川のむかし話』『柴崎の女性が見た立川』『砂川の農家に生まれて』『立川のお医者さん』『立川の屋敷神』。殿さまや合戦の本ではない。言葉や昔話や、村の女性の目や、町医者の記憶を集めた本だ。歴史が出来事の記録だとすれば、民俗は暮らしの記録である。この館の名前に「民俗」の二文字が入っている理由は、たぶん、この棚にいちばんよく表れている。令和8年1月には「多摩郷土誌フェア」が柴崎学習館で開かれた。多摩地域の21の市と町が出した郷土や歴史や自然の本を一堂に集めて売る催しで、これが第38回だった。
日記の村は、多摩川のすぐ北にあった。名主が天気を書きとめた空の下で、村の人たちは川と、どう付き合っていたのか。資料館には、その答えが、道具の形で残されている。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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