立川の空襲を、総務省の戦災の記録、立川市と砂川村の事務報告、市史編さんの広報紙、市民の戦争体験記でたどる。1945年2月から8月までの13回の空襲、米軍が工場につけた目標番号、4月4日未明に42人が亡くなった山中坂の防空壕、砂川の学校が焼けた4月24日、そして慰霊と語り継ぎの場所。
立川駅北口の広い駅前は、戦争中に家を壊して空けた土地の上にある。
デッキの下にバス乗り場があり、その先に北口大通りがまっすぐ延びている。総務省の戦災の記録は、この駅前広場と大通りが、空襲に備えて建物を取り壊した跡を使ってつくられたものだと書いている。毎日、大勢の人が通りすぎるこの広さの来歴を、知っている人は多くない。
立川は、1945年(昭和20年)の2月から8月までに、13回の空襲を受けた。飛行場と、飛行機をつくる工場と、軍の施設が集まっていた町である。狙われた理由は、はっきりしている。
それでも、記録を読みはじめてすぐ、私は一つの数字の前で立ちどまった。4月4日の未明、最も多くの人が亡くなったのは、飛行機工場の中でも飛行場の中でもなく、そこから南西へ2キロほど離れた、段丘の崖の下の小さな壕だった。42人。そのうち32人が子どもだった。
なぜ、そこだったのか。そして、その夜のことを、誰が、どうやっていまに伝えてきたのか。この記事は、その二つの問いを抱えて、立川の空襲の記録をたどる。ここでは冗談を言わない。悲しみを、悲しみのまま書く。
立川の空襲は、いつ、何回、どこに──総務省の記録を読む
総務省は、全国の都市ごとに戦災の状況をまとめている。その「立川市における戦災の状況」は、立川が軍の町になった始まりから書き起こしている。
大正11年(1922)11月10日、当時の立川村に陸軍の飛行場がつくられ、岐阜県の各務原から飛行第五大隊が移ってきた。これをきっかけに、立川を含む北多摩は「軍都」になっていく。飛行場の西には陸軍航空工廠、陸軍航空技術研究所、陸軍航空廠などが並び、東には陸軍航空技術学校があった。市内にはほかにも、陸軍獣医資材本廠、高射砲陣地、憲兵隊、陸軍病院が置かれた。昭和5年(1930)には飛行場の隣に石川島飛行機製作所、のちの立川飛行機が移ってくる。
市史編さんの広報紙『たちかわ物語』によれば、昭和15年(1940)末に3万4,693人だった立川の人口は、軍需工場で働く人が急に増えたことで、昭和19年には5万1,126人に達した。4年で1万6千人あまり。町は、飛行機をつくる人びとであふれていた。
そして昭和20年(1945)2月16日から、空襲が始まる。総務省の記録には、地区ごと、日付ごとに犠牲者の数を並べた表が載っている。それをそのまま書き写すと、こうなる。
2月17日、44人。うち41人が立川飛行機、3人が砂川町。4月4日、144人。富士見町57人、高松町38人、曙町19人、錦町13人、柴崎町7人、立川飛行機9人、砂川町1人。4月19日、2人。4月24日、114人。立川飛行機89人、砂川町25人。4月25日、2人。7月10日、4人。8月2日、20人。日付の分からない人が2人、市外で被災した人が8人。合わせて340人。
地区ごとの合計は、立川飛行機155人、富士見町66人、高松町39人、砂川町33人、曙町19人、柴崎町15人、錦町13人である。
表の下には、短い注がついている。飛行場の中などの軍事施設で被災した人の数は、分からないため含まれていない。
数字は、ほかの記録とも少しずつずれる。『たちかわ物語』によれば、昭和20年の立川市の事務報告書には死者約300名とあり、三多摩の空襲犠牲者を調査記録する会の調べでは346名になるという。どの数字も、数えられた人の数であって、数えきれなかった人の数ではない。
北口の駅前の町、曙町の19人は、全員が4月4日に亡くなっている。いま北口のデッキの下を歩く人の多くは、そのことを知らない。私も知らなかった。
では、米軍はこの町のどこを、どう見ていたのか。答えは、一枚の空中写真に残っていた。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
米軍の写真には、工場ごとに番号がついていた
『たちかわ物語』vol.8は、米国戦略爆撃調査団の文書に収められた一枚の写真を紹介している。1945年3月29日に撮られた、立川一帯の空襲目標の写真である。原資料はアメリカの国立公文書館にあり、国立国会図書館のデジタルコレクションで見ることができる。

写真: 国土地理院 / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons
写真には、工場や飛行場ごとに米軍の目標番号が書きこまれている。立川飛行機は792、陸軍航空工廠は2008、立川陸軍飛行場は1404、日立航空機の立川発動機製作所は2009、昭和飛行機は791、多摩陸軍飛行場は2809。広報紙は、立川飛行場周辺の軍事施設と軍需工場が把握されていたことがうかがえる、と書く。町の工場の一つ一つが、海の向こうで四桁の番号を振られていた。
最初に来たのは、空母から飛び立った飛行機だった。百科事典によれば、2月16日と17日、アメリカ海軍の機動部隊が関東を空襲し、17日には中島飛行機の武蔵製作所や、多摩・立川方面の航空機工場に爆撃機が差し向けられた。総務省の表で2月17日に亡くなった44人のうち、41人は立川飛行機の人である。
立川飛行機の工場の中は、どうなっていたのか。立川市が平和都市宣言25周年の事業として50人を超える市民の寄稿をまとめた『戦争体験記』に、昭和18年に工場へ呼び戻された元工員の文章がある。戦闘機は一日に十機ほど造っていたが、終戦間際には一日に一機しか造れなくなった、と彼は書く。戦闘機の製造には女子挺身隊も動員されていた。空襲が来ると、防空壕に潜んだ。恐怖から外へ飛び出す者もいた、とある。
同じ体験記には、工場の近くの学校にいた人の記憶もある。校舎の屋根をかすめるように突っ込んでくるP51の操縦士の姿が、はっきり見えた。学校の南にある立川飛行機の工場を狙ったものだった、と。
工場は狙われていた。工員もそれを知っていた。だが、4月4日の未明に起きたことは、工場の塀の内側だけでは終わらなかった。
4月4日未明、山中坂
4月4日の空襲について、『たちかわ物語』は具体的に書いている。立川飛行機を主な目標とした、B29爆撃機61機による夜間の低空精密爆撃だった。被害は立川市と砂川村にとどまらず、多摩地域では8月2日の八王子空襲に次ぐ犠牲者を出した。米軍は攻撃の戦果を「僅少」としていたが、目標をそれた爆弾が周辺に数多く落ち、多摩の各地に被害が広がったという。

写真: 根川孝太郎 / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
総務省の記録によれば、その日は午前1時ころに空襲警報が出され、立川は二度にわたって爆撃を受けた。とくに第2波が激しかった。
富士見町の山中坂は、段丘の崖に沿った坂である。そこに、崖を利用した横穴式の壕が掘られていた。もとは市役所の重要書類を退避させるために掘られたものだったが、使われなくなり、近所の人たちが防空壕として使うようになっていた。立川市の散歩コースの案内は、戦争がひどくなると、空襲警報のサイレンが鳴るたびに、近所の人びとがここへ避難するようになったと書く。
4月4日の未明、サイレンが鳴り、近くに住む老人や子どもたちが、次々とこの壕へ逃げこんだ。そこへ、B29が落とした250キロ爆弾が、壕の入口付近に命中した。中にいた全員が亡くなった。42人。立川市は、そのうち32人が子どもだったと記している。総務省の記録は、ほとんどが老人や女性、子どもという痛ましいものであった、と書く。
立川飛行機から山中坂までは、南西へおよそ2キロ。『たちかわ物語』は、近年の戦争報道でいう「誤爆」にあたるが、事実上の無差別爆撃で尊い命が失われた、と書いている。同じ夜、北東へ約5キロ離れた東村山町の東京陸軍少年通信兵学校にも爆弾が落ちた。学校の側は、立川飛行機と関わりがあって狙われたとは考えず、持っていた大型の通信機が狙われたと思っていたという。爆弾を落とした側と、落とされた側とで、その夜の意味がまるで違っていた。
なぜ、山中坂だったのか。総務省の記録は、二つの説を挙げている。近くに中央線の鉄橋があり、鉄橋を狙った爆弾がそれたという説。壕の入口あたりで子どもたちが出たり入ったりしていたのが、照明弾の光で見つかって狙われたという説。どちらも説であり、確かなことは分かっていない。
その夜を、子どもの目で覚えている人がいる。市の『戦争体験記』に、当時5歳だった富士見町の人の文章が載っている。夜中に家族に起こされ、手を引かれて外に出ると、「夜空が月もないのに明るい」。その明るさがすうっと消えて、また明るくなる。米軍の落とした照明弾だったと知ったのは、小学校に入ってからだという。祖父に手を引かれて山中坂の壕へ走ったが、壕はもう人でいっぱいで入れず、崖に沿った西側の別の壕に入った。
数日後、近所の大人たちが山中坂へ急ぐのについていくと、壕はつぶれ、坂には筵をかけられた遺体が横たわっていた。小雨が降っていて、根川の桜のつぼみがピンク色になっていた記憶がある、と書いている。
壕に入れなかったことが、その子の命を分けた。私はこの短い文章を、何度も読み返した。そして、その記憶に出てくる根川の桜が、いまも毎年4月に咲くことを思った。
立川の空襲は、4月4日で終わらなかった。20日後、今度は町の北の砂川が、大きな被害を受ける。
4月24日、砂川の学校が燃えた
総務省の表で、4月24日の犠牲者は114人。そのうち89人が立川飛行機、25人が砂川町である。当時の砂川は、まだ立川市ではなく、北多摩郡砂川村だった。
『たちかわ物語』vol.16によれば、立川飛行場に隣接する砂川村の周りには、立川飛行機や日立航空機の工場が建てられ、工員住宅も建った。百科事典によれば、日立航空機の立川工場は2月17日と4月24日に、立川飛行場や立川飛行機とともに攻撃され、組立工場などが完全に壊され、工場の50%が壊滅した。この工場の変電所は戦後も使われ続け、平成5年(1993)まで現役で動いていた。いまは弾痕の跡を残したまま、東大和市の指定文化財として都立東大和南公園の中に保存されている。立川の名を冠した工場の、弾痕の残る壁が、隣の市でいまも立っている。
砂川村の役場は、自分たちの被害を書き残していた。『たちかわ物語』vol.10は、旧砂川村役場の文書「昭和二十年砂川村事務報告」を紹介している。その「厚生―戦時災害」の項に、村民の被害として死者25人、負傷者13人、全焼115、全壊34、半壊111とある。「学事」の項には、4月24日の空襲で砂川国民学校が、8月2日の空襲で西砂川国民学校の分教場が、焼けて全焼したと記されている。
市の『戦争体験記』には、4月24日の朝のことを書いた人もいる。警報が出て、B29の大編隊が東京方面へ向かっているという知らせで、子どもたちはすぐに家へ帰された。防空壕に身をひそめていると、やがて猛烈な爆発音が聞こえた。その日、学校は壊滅的な被害を受けたという。子どもたちを先に帰した判断が、どれほどの命を救ったのかは、記録からは分からない。
同じ体験記には、当時砂川の国民学校の生徒だった人の文章もある。彼は『立川空襲の記録』を引いて、4月24日の午前8時半ごろ、B29およそ120機が立川の工場や砂川八番(いまの幸町)、日立の工場を爆撃したと書く。その翌日、五日市街道の天王橋のたもとにいたとき、またB29が近づき、雨が近づくようなザーという音と、耳が痛くなるような風圧を感じた。松の根の山の下にもぐりこんで無事だった。その松の根は、近くにあった海軍の松根油の製造所に、農家が掘って出したもので、国民学校の生徒も早朝から手伝っていたという。家へ帰る途中、爆弾が掘ったすり鉢状の穴の底に、牛が腹を上に向けて四つ脚を広げ、あえいでいた。近くの家では、4歳の子が防空壕に埋まって亡くなっていたことを、彼は70年たってから知ったと書いている。農村の空襲は、人と家畜と畑を、区別せずに打った。
立川市図書館がまとめた調べもの案内によれば、立川市立第八小学校の開校百周年記念誌には、昭和20年4月の砂川への空襲のあと、6月27日付で当時の校長が書いた日誌が収められているという。学校の記念誌のなかに、空襲の記録が眠っている。
4月24日のあと、夏が来る。立川の空襲の最後の大きな夜は、隣の町の火とともにやって来た。
8月2日の夜、南西の空が赤かった
1945年8月1日の夜から2日の未明にかけて、八王子がB29の大編隊に焼かれた。百科事典によれば、2日の午前0時ごろに米軍機が侵入し、169機のB29が焼夷弾を落とし、市街地の8割が焼け、約450人が亡くなった。
立川からは、その火が見えた。市の『戦争体験記』に、富士見町の人がこう書いている。8月2日の深夜、空襲警報が鳴り、しばらくして八王子の方がやられ、南西の空が真っ赤になった。警報が解けたので、防空壕から出て、母屋の蚊帳の中にもぐった。安心のひとときだった。ところが、眠りにつくかつかないうちに、また警報が鳴った、と。
総務省の表によれば、8月2日の立川の犠牲者は20人。富士見町7人、柴崎町6人、立川飛行機4人、砂川町2人、高松町1人である。
その夜、立川市役所の本館にも爆弾が落ちた。『たちかわ物語』vol.10が紹介する「昭和二十年立川市事務報告」には、8月2日の空襲で市役所本館が爆撃を受けたが、市役所の防衛本部員などが火を消し止めて焼失を免れたことが記されている。同じ報告は、昭和20年の市民の被害を、死者約300名、重軽傷者約400名、焼失戸数約300戸、破壊戸数約500戸とまとめている。
そして、終戦の日まで、あと2週間足らずだった。
数字で読む 立川の空襲
- 13 — 回。1945年2月16日から立川が受けた空襲の回数(総務省の記録)。
- 340 — 人。総務省の記録が地区ごとに数えた犠牲者の合計。飛行場の中など、軍の施設で亡くなった人は含まれていない。
- 61 — 機。4月4日未明、立川飛行機を主な目標に夜間の低空から爆撃したB29の数(『たちかわ物語』vol.8)。
- 2 — キロ。目標の立川飛行機から、42人が亡くなった山中坂の防空壕までのおよその距離。
- 792 — 米軍が立川飛行機につけた目標番号。陸軍航空工廠は2008だった。
- 115 — 戸。昭和20年の砂川村事務報告に記された、村の全焼家屋の数。
旅人の寄り道クイズ
富士見町の山中坂の横穴の壕は、もともと何のために掘られたものだったか。(A)はじめから近所の人の防空壕として(B)市役所の重要書類を退避させるため(C)段丘の湧き水をためるため。答えは最後に明かす。
空襲が来る前から、町はすでに削られはじめていた。北口の広場の話に、戻らなければならない。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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