立川の空襲と戦争の記憶 北口の広場は建物疎開の跡だった。山中坂の壕と13回の空襲

建物疎開と、リヤカー一台の引っ越し

空襲は、来る前から暮らしを変えていた。

総務省の記録によれば、昭和12年(1937)4月に防空法が施行され、防空演習と灯火管制が市民生活を変えていった。昭和19年(1944)7月22日の官報で、立川に建物疎開の地区が告示される。7月29日の毎日新聞によれば対象は400戸余り、8月18日の朝日新聞によれば、軍事施設の防衛に伴う2か所(2万1,100坪)と、交通緩和のための立川駅道路拡張(6,100坪)の合わせて3か所だった。取り壊しは、学徒の動員や疎開労務挺身隊の協力もあって、9月9日までに終わった。

建物疎開というのは、空襲で火が燃え広がるのを防ぐために、指定された区域の家をあらかじめ壊しておくことだ。総務省の記録は、疎開には学童疎開のような人の疎開だけでなく、物や施設の疎開もあった、と説明している。立川で行われたのは、町そのものを削る疎開だった。

壊される側の暮らしが、市の『戦争体験記』に残っている。曙町に住んでいた人は、強制疎開で生活が大きく変えられたと書く。仲良しの友達と離れ、親は家さがしと引っ越しに追われた。借りたリヤカー一台で、曙町から高松町へ引っ越した。忘れられないのは、そこで空襲にあったことだという。照明弾で外は昼間のように明るくなり、爆弾の音が腹にしみこむ。家族は防空壕でふとんをかぶって、足をふんばっていた。

家を壊して火を防ぐ。その家に住んでいた家族は、リヤカーを引いて別の町へ移り、そこでまた空襲を受けた。疎開は、人を安全な場所へ運んでくれるとは限らなかった。

『たちかわ物語』vol.6は、終戦末期の「疎開要図」と、公共の待避所を書き入れた「立川市全図」という二枚の地図を紹介している。前者は立川飛行機の疎開計画を、後者は空襲に備えた立川市の公共待避所を記したものだという。工場は工場の、町は町の逃げ道を、地図の上に描いていた。

北口の駅前広場と北口大通りがこの疎開の跡にできたことは、冒頭に書いた。私たちがバスを待つ場所は、かつて誰かの家だった。

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燃やされた記録と、市民が書き残した記録

ここで、冒頭の二つめの問いに戻りたい。その夜のことを、誰が伝えてきたのか。

『たちかわ物語』vol.2に、市史の編さんに関わった市民の文章がある。戦前、立川飛行場の周りには陸軍航空の機関や工場が集まり、立川は「軍都」と呼ばれた。だが、軍は敗戦直後に文書の焼却を命じ、軍関係の記録はほとんど残されていない、と書く。

公の記録が燃やされた町で、記録を残したのは市民だった。

立川市図書館の調べもの案内「立川空襲について調べる」は、まず一つのシリーズを挙げている。立川市文芸同好会がまとめた『立川空襲の記録』1〜4(1972〜1986年)と、それに新しい原稿を加えて書き直した新装改訂版『この悲しみをくり返さない 立川空襲の記録』1〜3(けやき出版、1982年)である。立川空襲を体験した市民の体験談を、地区ごとにまとめた。第1巻は山中坂の防空壕と富士見町・柴崎町、第2巻は砂川村、第3巻は高松町・曙町・羽衣町・錦町と立川飛行場の空襲。図書館の案内は、3冊のボリュームのある貴重な資料、と紹介している。文芸の同好会が、空襲の記録を地区ごとに編んだ。この町の記憶は、まず文章を書く人たちの手で守られた。

同じ案内には、ほかにも手がかりが並ぶ。市の教育委員会がまとめた『立川の建物疎開の記録』(1996年)は、新聞記事と住民への聞き書きで建物疎開を検証し、昭和初期の立川駅周辺の建物の配置図も載せている。立川病院の五十年史には病院の空襲被害が、第九小学校の百年記念誌には西砂地域への空襲が書かれている。当時を知る女性たちからの聞き書き「立川飛行場と女たち」もある。

聞き書きは、その後も続いた。『たちかわ物語』vol.2の同じ市民の文章によれば、平成7年(1995)から中央公民館の「立川飛行場に関する学習会」に加わり、多くの関係者に話を聞いて『昭和記念公園は飛行場だった』の第1集と第2集をまとめた。空襲の体験者の話をビデオに撮り、戦後70年の立川市の平和事業の一環として上映して、多くの市民に見てもらったという。聞き取りは歴史を知る手段として文書と同じくらい大事だと知った、とその人は書いている。

市史編さんの調査報告『柴崎の口承文芸』には、富士見町・柴崎町・錦町・高松町の人びとから聞いた120ほどの話が、土地の言葉のまま収められている。人魂や狐に化かされた話と並んで、空襲下を逃げまどった幼い日の体験談も入っているという。昔話と空襲の記憶が、同じ一冊の中に並んでいる。それがこの町の、ふつうの記憶のかたちなのだと思う。

そして立川市は、平成4年(1992)の平和都市宣言から25周年を迎えるにあたり、50人を超える人から寄せられた戦争体験を『戦争体験記』にまとめた。この記事で引いた文章の多くは、そこから来ている。市立図書館で読むことができ、市のサイトでも公開されている。

慰霊と語り継ぎ──地蔵、観音、そして女性の像

山中坂には、いま小さな祠がある。総務省の記録によれば、被災した跡地には、亡くなった人の霊を慰めるため、遺族の手で戦災供養地蔵尊が建てられた。平成7年(1995)4月2日には、山中坂の悲劇を叙情的に歌った「山中坂悲歌」の歌碑が建てられている。立川市の散歩コースの案内は、いまも花やくだもの、線香が供えられ、悲惨な戦争をくり返してはならないという祈りが続けられている、と書く。祠の隣の歌碑は「あの悲しみをくり返さない」と歌っているという。市民が編んだ空襲の記録の題名と、同じ言葉である。

立川市柴崎町の普済寺。戦災殉難者の慰霊碑がある寺
立川市柴崎町の普済寺。戦災殉難者の慰霊碑がある寺
写真: Nesnad / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

柴崎町の普済寺にも、総務省の記録が挙げる二つの碑がある。一つは平和観音で、全国の戦死者や戦災殉難者、沖縄で戦死した戦友を供養するため、昭和39年(1964)に当時の住職が建てた。もう一つは戦災殉難者慰霊碑で、4月4日の空襲で引き取り手のなかった犠牲者を埋葬したという場所に、昭和50年(1975)の春に建てられた。引き取り手のなかった人がいた。その一行の重さを、私はうまく言葉にできない。

市としての慰霊も、少しずつ形になってきた。立川市の年表によれば、昭和58年(1983)に第1回の戦没者・戦災殉難者追悼式が行われている。平成4年(1992)に平和都市宣言。平成7年(1995)8月15日、終戦50周年を記念して、当時の市役所の玄関前の噴水の中に、茂木弘之の作品、平和記念像「おはなし」が置かれた。平成22年(2010)に庁舎が移ると、像も新しい市役所の西側へ移された。像の背後には、平和都市宣言の碑と、昭和57年(1982)の立川市民憲章の碑が立っている。市は、庁舎の片隅で静かにたたずむ女性の像を、恒久の世界平和を願う市民の祈念の象徴だと紹介している。

戦後80年の令和7年(2025)12月18日、立川市は「核兵器廃絶平和都市」を宣言した。宣言文は、かつて飛行場をはじめ多くの軍事施設を持ち、戦禍と接収の歴史を持つ立川市が、戦後80年を迎えたいま、多様な人びとが集う平和と文化のまちへと発展した、と書き起こしている。市内の中学校の代表の生徒たちを被爆地の広島へ送る事業も続いていて、令和7年度は9人が2泊3日で広島を訪ね、帰ってから立川教育フォーラムで発表した。

語り継ぐ人は、毎年少しずつ入れ替わっていく。山中坂の夜を覚えていた5歳の子は、体験記を書いたとき76歳だった。その記憶を受けとる側に、いまは中学生がいる。

焼け跡から始まった町で、山中坂の問いに答える

8月15日、戦争が終わった。総務省の記録によれば、9月に米軍が進駐し、立川飛行場は接収されて米軍の基地になった。立川は「基地の街」として戦後の第一歩を踏み出す。北口には露店やテント張りの闇市が立ち並んだ。

市の『戦争体験記』には、戦後に新しい中学校へ入った人の、少しだけ笑みのこぼれる記憶もある。曙町のその人は、立川二中の一期生だった。学校は昔の軍隊の兵舎の馬小屋を改築したもので、それができるまで、生徒たちは第二小学校に「居候」をしていた。先生は「静かに歩いてよ。小学校の先生に迷惑をかけるようなことはだめよ。居候をしているのだからね」と言っていたという。馬小屋の教室と、居候の廊下。焼け跡の町の子どもたちは、そうやって次の時代を歩きはじめた。

暮らしの場所にも、戦争の名残は長く残った。『たちかわ物語』vol.3によれば、昭和18年(1943)に立川飛行機の工員宿舎として建てられた「高松住宅」は、二戸建ての平屋が480戸並ぶ団地だった。場所は砂川村にあったのに、立川市の地名である「高松」を名乗っていたため、立川市に属するような錯覚を与えるとして、のちに砂川村の南部を意味する「南部住宅」に名を改めたという。工場のために建てられた家並みが、戦後は町の暮らしの場になっていった。

基地の時代の北口の写真も、市史の広報紙に残っている。vol.15が紹介する一枚では、いまの曙町二丁目の交差点あたりから北西を見ると、並木が基地と市街地の境になっていて、その周りに当時の人気製品の看板から、米兵向けと思われる英字の看板までが並んでいる。外国人向けの土産物店、「Souvenir Store」の文字も見える。創刊号の表紙は、昭和40年(1965)ごろの北口を写している。北口大通りを人と車が行き交い、中武デパートの屋上には遊戯施設があり、通りの向かいには当時、伊勢丹があった。

あのころ、建物疎開の跡にできた北口の駅前には人と車があふれ、基地との境の並木のそばには英字の看板が並んだ。いま、駅前にはデッキが架かり、その下でバスを待つ人の列ができる。焼け跡から、デパートの屋上の遊具へ、そしてデッキへ。北口の広さは、三つの時代を重ねてできている。

さて、冒頭の問いである。なぜ、山中坂だったのか。

米軍が狙ったのは、792番、立川飛行機だった。山中坂は、その目標から2キロ離れた、市役所の書類のために掘られた壕だった。照明弾の光、中央線の鉄橋、それた爆弾。理由として挙げられるものはいくつかあるが、どれも説のままである。確かなのは、工場を狙った夜間の「精密爆撃」が、2キロ先の坂で42人の命を奪ったという事実だけだ。『たちかわ物語』の言葉を借りれば、それは事実上の無差別爆撃だった。

軍都と呼ばれた町は、軍の施設のために狙われた。だが、亡くなった人の多くは、工場の外で、家族と一緒に壕に逃げこんだ人たちだった。そして、軍の記録が燃やされたあと、その人たちのことを書き残したのは、文芸の同好会であり、公民館の学習会であり、50人を超える市民の手記だった。

立川の空襲の記憶は、国ではなく、町の人が守ってきた。それは、この町が誇っていいことだと私は思う。

新宿から中央線で一本、川崎からなら南武線で一本。週末に南口から段丘を下りれば、山中坂の小さな祠に手を合わせ、その足で根川の緑道まで歩ける。

4月の初め、段丘の下の根川沿いでは、今年も桜が咲く。

寄り道クイズの答え

答えは(B)。総務省の記録と立川市の散歩コースの案内によれば、山中坂の壕は、もともと市役所の重要な書類(公文書)を避難させるために掘られたものだった。使われなくなったあと、空襲警報が鳴るたびに、近所の人びとが防空壕として使うようになっていた。

訪ねる前に

  • 山中坂地蔵堂(戦災供養地蔵尊・山中坂悲歌の歌碑): 立川市富士見町。総務省の記録は所在を富士見町五丁目とし、坂は富士見町四丁目にあると書く。立川市の散歩コース「古村を歩く」は、JR立川駅南口を出発して、諏訪神社、普済寺、山中坂地蔵堂、歴史民俗資料館をめぐる: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004848/1004889.html 地蔵堂はいまも人が祈る場所なので、静かに手を合わせたい。
  • 普済寺(平和観音・戦災殉難者慰霊碑): 立川市柴崎町4丁目。多摩モノレールの柴崎体育館駅からおよそ700m西(『たちかわ物語』による)。境内の拝観については寺に確かめてほしい。
  • 立川市歴史民俗資料館: 立川市富士見町3-12-34。業務時間は9時から16時30分、休館日は月曜日(祝日・振替休業日の場合は翌日)と年末年始(立川市の案内による)。最新は公式で: https://www.city.tachikawa.lg.jp/shisetsu/1008065/1008098.html
  • 平和記念像「おはなし」: 立川市役所(立川市泉町1156-9)の西側。像の背後に平和都市宣言と市民憲章の碑がある。市の紹介: https://www.city.tachikawa.lg.jp/shisei/heiwa/1007076/1020469.html
  • 記録を読むなら: 立川市の『戦争体験記』は市のサイトと市立図書館で読める: https://www.city.tachikawa.lg.jp/shisei/heiwa/1007076/1007092.html 総務省「立川市における戦災の状況」: https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_21.html 立川市図書館の調べもの案内「立川空襲について調べる」: https://www.library.tachikawa.tokyo.jp/images/upload/tachishira02_202007.pdf
  • 都心と神奈川から: 新宿からはJR中央線快速で立川まで乗り換えなし(30分台)。神奈川からは、川崎からJR南武線で乗り換えなし(立川まで約1時間)。時刻と所要時間はJR東日本の公式で確かめてほしい。
  • 所要時間の目安: 公式に書かれた所要時間は確かめられなかった。山中坂、普済寺、資料館は、いずれも立川駅の南、多摩川へ下る段丘の上と下にあり、「古村を歩く」の一つのコースでめぐれる。
  • 組み合わせて回るなら: 同じ散歩コースに、柴崎村の鎮守だった諏訪神社がある(普済寺と諏訪神社の記事で歩いた道筋)。段丘の下の根川の緑道は、春には桜の並木になる(根川と多摩川の記事で歩いた道筋)。

坂をのぼって、北口へ

山中坂から立川駅へ戻る道は、段丘をのぼる道でもある。南口を抜けて北口へ出ると、そこは冒頭に書いた、建物疎開の跡にできた広場だ。

JR立川駅の北口から徒歩1分、立川市曙町2-14-10のエトロワビル3階に、オンザショア立川店がある。溶岩プレートを敷いたスタジオで行うホットヨガのスタジオで、常温のヨガやピラティス、女性専用のキックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、パーソナルトレーニングもある。ヨガだけで25種類以上のレッスンがある。

営業は8時から23時30分まで、年中無休で、曜日による違いはない。

ヨガの体験レッスンは税込1,980円。60分のレッスンに、バスタオル2枚、フェイスタオル1枚、ヨガマットのレンタルが含まれる。

妊娠中の人は溶岩ホットヨガには参加できないが、常温のマタニティヨガがある。医師から運動を止められている人は利用できない。

料金は https://ontheshore.jp/price/ 、店の案内は https://ontheshore.jp/ 、体験の予約は https://site.locaop.jp/C0aVK?_src=hp で確かめられる。

坂を歩いた日の夕方、北口の空は、ただ静かに暮れていく。

冒頭の写真: 空襲の弾痕が残る旧日立航空機立川工場変電所(東大和市の都立東大和南公園)(写真: Suikotei / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons)

この記事の情報は2026年10月時点のものです。

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