国立の「立」は立川の「立」。国分寺と立川の間につくった駅から名づけられた国立の由来、関東大震災から生まれた学園都市と大学通り、一橋大学の兼松講堂、赤い三角屋根の旧国立駅舎、文教地区の誕生、東日本最古の谷保天満宮と「野暮天」、立川まで走って引き返した明治の自動車行列まで、立川の隣町を一次資料でたどる散歩ルポ。
隣の駅の名前の半分が自分の街から来ていることを、立川の人はどれくらい知っているだろう。
立川駅から中央線の上りに乗ると、次の駅が国立である。発車して、窓の外をぼんやり眺めているうちに、もう着く。
駅の南口を出ると、まっすぐな広い道が南へ延びていく。大学通りだ。春は桜、秋はいちょう。並木の向こうに大学の古い建物がのぞく。おしゃれで、落ち着いていて、本屋とカフェが似合う街。立川に住んでいると、隣の駅なのに、少し遠い国のように感じることがある。
調べてみると、本当にそうだった。国立の「立」は、立川の「立」なのだ。それなら、なぜ立川の隣の村は、自分の名前ではなく、よその駅の頭文字を名乗ることになったのか。そもそも、この街の本当の名前は何だったのか。答えを探しに、立川から一駅だけ旅をすることにした。
国立散歩の入口──「国立」の「立」は立川の「立」
国立市の公式ページは、名前の由来をこう書いている。大正時代の末期、箱根土地株式会社が谷保村の北部の山林を開発した際、まちの名前を選ぶときに出てきた名だ。当時の中央線は国分寺の次が立川で、ちょうどその真ん中にあたる場所に駅をつくることになっていたため、両方の頭文字を取って「国立」にしようという声が上がった。この案は「この地から新しい国が立つ」という願いとも相まって、受け入れられたようだ、と。
国分寺の「国」と、立川の「立」。立川の人間としては、名前の半分を貸している、と胸を張ってもいい。返してもらった覚えはないが、貸した覚えもないので、おあいこである。
では、それまでこの土地は何と呼ばれていたか。答えは「谷保」だ。市によれば、鎌倉時代の後期には「谷保郷」という地名が成立していた。谷保の「谷」は本来「ヤツ」で、湿地帯を意味し、水田に適した土地だったと考えられる。明治22年(1889)、谷保村、青柳村、石田村の飛地が合併して、国立の前身の「谷保村」ができた。明治26年には、それまで属していた神奈川県から東京府へ移った。立川と同じく、国立もかつては神奈川県だったのである。
大正の終わりになっても、谷保村は、甲州街道沿いに数百戸の農家が点在するだけの村だった。そこへ、北の山林を切り拓く大きな開発がやってくる。駅ができ、大学が来て、人が増えた。そして戦後の昭和26年(1951)4月1日、村が町になるとき、町の名前をどうするかで村の意見が分かれた。市によれば、谷保村議会で投票した結果、「国立町」に決まった。鎌倉時代から続いた谷保の名は、町の看板からは降りた。いまは南武線の駅と、天満宮の名に残っている。
国立という字は、たびたび読み違えられる。百科事典には、「こくりつ」と誤読されやすく、国立音楽大学のような私立の学校が国の施設と誤解されやすいこともあって、「くにたち」と仮名で書くことがある、とある。市の図書館は「くにたち図書館」だ。国の立てた図書館ではありません、と名前で先回りしている。
その国立音楽大学は、いま国立市にはない。立川の文化施設をめぐった回で書いたとおり、昭和53年(1978)に立川市柏町へ移った。国立の名を借りた街の隣で、国立の名の大学を立川が迎えている。名前の貸し借りは、どうやら一度では済まなかったらしい。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
大学通りと赤い三角屋根──関東大震災から生まれた学園都市
国立という街は、一度の大地震から始まった。

写真: Suikotei / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
国立市の旧国立駅舎の頁によれば、大正12年(1923)の関東大震災で、神田一ツ橋にあった東京商科大学、いまの一橋大学の校舎が倒れた。その大学と、当時、大規模な郊外の開発を手がけていた箱根土地株式会社が契約し、大学の校舎を中心に据えた学園都市を開発することになった。箱根土地は、西武の創業の祖とされる堤康次郎が設立した会社で、同じころ小平学園都市や大泉学園都市も手がけている。
大正14年(1925)に大学と会社が交わした「土地交換契約覚書」には、すでに街の骨格が書きこまれていた。市によれば、覚書は、駅舎を大学町にふさわしいものにするよう特に言及し、駅前広場や大学通りとの関係を定めている。駅と街を一体で設計した、優れた都市計画の事例だと市は評価する。
そうして大正15年(1926)、国立駅が開業した。この駅は、鉄道が自分で建てた駅ではない。箱根土地が建物をつくり、鉄道省に寄付した、いわゆる「請願駅」である。駅をつくって国に差し上げ、その駅の名前で街を売る。大正の不動産業の、なかなか大胆な発想だ。
赤い三角屋根に白い壁。市は、この洋館風の駅が、箱根土地の分譲地の広告塔として大きな役割を担ったと見ている。分譲のちらしには、駅の写真が大きく載った。左右非対称の三角屋根に、ロマネスク風の半円アーチ窓。英国の田園都市の小さな住宅のデザインを取り入れ、入口には扉があって、住宅のような姿だった、と市は書く。骨組みの一部には、イギリス、ドイツ、アメリカなどでつくられた古いレールが使われていた。解体前は、大正13年(1924)の原宿駅舎などに次ぐ古い木造駅舎だった。
駅前広場にも、驚く話がある。市によれば、国立のような駅前広場を持つ駅は、実は戦後のものがほとんどだ。国立駅の駅前広場は、開発の当初、中央の円形公園に水禽舎が置かれ、ペリカンが飼われていた。一時期は、円形公園に土を盛って「展望台」をつくる計画もあったらしい。駅を出ると、ペリカンが迎える。大正の終わりの国立では、待ち合わせの目印が鳥だったのかもしれない。
その駅前から、大学通りが南へ延びる。市によれば幅は約44メートル。道の両側の緑地帯には、桜といちょうが交互に植えられ、春には桜の花びらがまちをピンク色に染め、秋にはいちょうが黄金色に輝く。この景色は新東京百景に選ばれている。桜は、昭和9年(1934)、前の年の皇太子誕生、つまり上皇陛下の誕生を記念して植えられたものだ。並木の木を選んだ人については、百科事典に興味深い話が載っている。国立の設計に携わった技師の子息への聞き取りによれば、日比谷公園などを設計した林学博士の本多静六に堤が相談し、銀杏と桜を勧められたのだという。
春の大学通りは、本当に歩きにくい。人が多いからではない。立ち止まって上を見上げてしまうからだ。
一橋大学と兼松講堂──講堂が先か、引っ越しが先か
大学通りの両側に、一橋大学の国立キャンパスが広がる。

写真: Kakidai / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
大学の公式の沿革によれば、その源流は明治8年(1875)8月、森有礼が東京銀座の尾張町に私設した商法講習所である。東京府立になり、農商務省の直轄になり、文部省の直轄になり、高等商業学校、東京高等商業学校と名前を変え、大正9年(1920)に東京商科大学となった。名前を変えるたびに、学校は少しずつ偉くなっていった。昭和19年(1944)には、戦時下で「東京産業大学」と改称し、3年後の昭和22年に、もとの東京商科大学の名に戻っている。昭和24年、新しい制度のもとで一橋大学になった。神田の一ツ橋の名が、国立で大学の名になったわけだ。
いつ国立に来たのか。ここで、資料によって数字が少しずれる。国立市は、昭和2年(1927)に東京商科大学が移転してきた、と書く。大学の沿革は、昭和5年(1930)12月に「国立校舎が完成し移転する」と記す。そして、キャンパスのシンボルである兼松講堂は、昭和2年8月の建設だ。どうやら、講堂のほうが本格的な引っ越しより先に建っていたらしい。新居の家具より先に、立派な客間ができた格好である。
国立市の文化財の頁によれば、兼松講堂は、東京商科大学が関東大震災によって神田一ツ橋から国立に移る際に建てた本格的なロマネスク様式の建物で、株式会社兼松商店から寄贈された。創業者、兼松房治郎の13回忌を機に、故人を偲ぶ記念事業としての寄贈だった。設計は東京帝国大学の伊東忠太。外装はスクラッチタイル張り、正面中央の車輪のような窓に校章を掲げている。平成12年(2000)、国の登録有形文化財になった。
同じ日に登録されたものに、旧門衛所がある。昭和6年(1931)に建った木造平屋の小さな洋館で、フランス瓦の屋根に、ハーフティンバーの壁。昭和42年(1967)に今の西守衛所ができるまで、大学の門番の詰め所だった。日本建築学会が「保存に価する建物」に選んだ門番小屋。大学の門を守るのは、ずいぶん格の高い仕事だったようだ。大学通りの東側には、商学専門部の本館として昭和4年(1929)に建った東本館もある。
ただし、見学には注意がいる。市によれば、大学の構内には守衛所で手続きをすれば入れるが、これらの建物には原則として関係者以外は立ち入れない。入学試験などで構内に入ること自体が制限される日もある。外から眺めるだけでも、ロマネスクの赤茶色の壁は十分に絵になる。
数字で読む国立
- 44メートル ── 大学通りの幅。道路というより、細長い公園に車道が通っている。
- 1926年 ── 国立駅の開業。駅が先にできて、街はあとからついてきた。
- 80年 ── 三角屋根の駅舎が駅として働いた年月。平成18年(2006)に解体され、令和2年(2020)に戻ってきた。
- 8.15平方キロメートル ── 国立市の面積。東西2.3キロ、南北3.7キロ。歩いて端から端まで行ける市である。
- 1903年ではなく903年 ── 谷保天満宮の始まり。桁をひとつ読み落とすと、1000年ほど若返る。
- 4本 ── 市内の遺跡から並んで出た、長さ1メートルを超える縄文の石棒。国立市の持つ初めての国の重要文化財。
旅人の寄り道クイズ
国立駅が開業したころ、駅前の円形公園で飼われていた動物は何か。
(A)ペリカン (B)ヤギ (C)クジャク
答えは、この記事の最後のほうで。
駅と大学と並木。ここまでは、絵はがきのような国立だ。だが、この落ち着いた街並みは、ただ放っておいて残ったものではない。昭和の半ば、町は一度、真っ二つに割れている。そのきっかけは、隣の立川にあった。
文教地区の誕生──立川基地の時代に、町が選んだこと
国立駅前のロータリーには、「国立文教地区」の看板が掲げられている。国立市の公式ページは、この文教地区の由来は、たんに大学や学校の数が多いからではない、と書いたうえで、昭和の出来事を語りはじめる。
昭和25年(1950)、朝鮮戦争が始まった。隣の立川市には基地があり、多数の米兵がやってきた。その影響は国立にもおよび、米兵を相手にした簡易旅館や飲食店などが現れた。環境を守ろうとする市民や学生を中心に、東京都の「文教地区建築条例」の指定を目指す運動が始まった。この条例の地区では、風営法の対象となる料亭やキャバレーなどの建物は建てられず、ホテルや旅館の建築も制限される。
反対の声も強かった。経済の発展のためには文教地区の指定は障害になる、町がさびれ、税金が高くなる。市は、町を二分する大論争になった、と書く。町議会では熱気にあふれた討議が続き、一転二転した末に、指定を議決して都に申請した。昭和27年(1952)1月6日、国立は建設省と東京都から「文教地区」の指定を受けた。百科事典は、東京で初めての文教地区だったと記している。
市は、この運動を、単なる歓楽街の進出反対運動ではなく、開発以来の理想の学園都市づくりを選び直す運動だったと位置づけている。国立の市民は、学校や行政と一丸となって、「開発」より「環境」のまちづくりを選んだ。その後の国立の方向を市民が決めた点で、住民自治の先駆けとして歴史的な意義は大きい、と。
立川の人間として、この話をどう読むか。私は少し考えこんだ。基地の町だった立川には、立川の昭和があった。その時代の暮らしは、立川の基地の歴史と基地の町の文化をたどった回で見てきたとおりだ。一方で、隣の町は、同じ時代の同じ風を受けて、正反対の選択をした。どちらが正しかったかを決める話ではない。一本の線路でつながった二つの町が、同じ時代に、それぞれの答えを出したということだ。そして70年あまりが過ぎたいま、立川は多摩の中心として人が集まる街になり、国立は並木の静かな学園都市として人を呼んでいる。隣どうしで、違う顔を持つ。そのことが、この一帯を歩く楽しさを倍にしている。
では、そうして守られた町で、昭和の人びとはどんな毎日を送っていたのか。市の資料には、映画館の行列と、ある夏の熱狂が書き留められている。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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