立川基地と砂川闘争の歴史を歩く──広がらなかった滑走路と、返された土地の使いみち

立川基地の歴史と砂川闘争を、立川市の年表、図書館資料、最高裁判決の原文でたどる。1955年の拡張通告、町を二つに割った測量、教室に残った中学生の作文、伊達判決と砂川事件の最高裁判決、1977年の全面返還。そして返された土地に、町は公園と図書館と、政府の災害対策の予備施設を置いた。立川さんぽ特集の一編。

立川駅の北口で、デパートの紙袋を提げて歩く人の足もとは、50年前には金網の内側だった。

その金網は、一度も北へ広がらなかった。滑走路を北へ延ばす計画が持ち上がり、町が二つに割れ、裁判は最高裁判所の大法廷まで届いた。それでも基地は広がらないまま、やがて丸ごと消えた。

立川は、地味な街だと言われることがある。駅前は便利だが、語るほどの来歴はない、と。だが、この街の地面には、戦後の日本がいちばん大きな声で言い争った問題のひとつが埋まっている。なぜ滑走路の延長が、憲法の話になったのか。広がらなかった基地は、なぜ消えたのか。そして返された土地を、町は何に使ったのか。私はその三つの問いを抱えて、立川の古い年表を開く。

立川基地の歴史は、平らな桑畑から始まった

立川市歴史民俗資料館の解説「立川飛行場のあゆみ」は、立川に飛行場が造られた理由を四つ挙げている。首都東京に近いこと。人家のない広い平らな土地があること。鉄道が通っていること。気象条件に恵まれていること。

二つ目を言い換えれば、何もなかった、ということだ。立川という街の出世は、何もないことを見込まれたところから始まっている。地味と言われる街の、筋金入りの地味さである。

大正10年(1921)の秋に建設が決まり、大正11年(1922)11月、陸軍飛行第五大隊がやって来た。昭和4年(1929)7月には、立川と大阪のあいだで日本最初の民間定期旅客輸送が始まる。市の年表は、昭和12年(1937)、朝日新聞社の神風号が立川飛行場を出発してロンドンまで飛び、飛行時間の世界記録を樹立したと記す。空の都と呼ばれた時代である。飛行場の来歴そのものは、この特集のほかの記事に譲りたい。ここで追いたいのは、その後だ。

昭和20年(1945)、市の年表は短く書く。立川市は13回の空襲を受け、大きな被害を受ける。太平洋戦争終わる。米軍進駐。9月、米軍は立川飛行場に入った。ここから昭和52年(1977)までの32年間、立川は米軍基地の街になる。

その32年のあいだ、街の人々はどう暮らしていたのか。

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英語の看板と、滑走路から200メートルの中学校

「立川飛行場のあゆみ」には、戦後の街の様子が一行だけ書かれている。まちのあちこちには、英語の看板をかけたアメリカ兵相手の商店が目につくようになった。添えられた写真の説明は「英語の看板をかけた商店(緑川沿い)」。緑川は、駅の北側の雨水を流すために掘られた排水路で、市の年表によれば昭和22年(1947)に通水し、昭和24年に緑川と名づけられた。いまは暗渠になり、通りの名前に残っている。

米軍に接収された後の立川飛行場の空中写真(1947年11月14日撮影)
米軍に接収された後の立川飛行場の空中写真(1947年11月14日撮影)
写真: 国土地理院 / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons

市の市史編さん広報紙『たちかわ物語』には、もう少し手ざわりのある写真が載っている。昭和27年ごろの、曙町二丁目の交差点。米軍立川基地のメインゲートが面していた交差点で、米兵向けの看板がずらりと並んでいる。外国人向けの土産物の店、Souvenir Store は、北口だけでなく、線路をまたいだ南口にも広がっていた。戦争が終わったばかりのころには、米軍が、コーラの空き瓶を拾ったら返すように、と警察を通じて周りの村に通達を出している。まだ誰もコーラを知らない時代だったから、通達には手描きの瓶の絵が添えてあった。謄写版の原紙に瓶の形を写した役場の誰かは、たぶん、それが何の飲み物なのかも知らなかった。

あのころ、曙町二丁目の交差点の先には基地の正門があり、英語の看板が客を呼んでいた。いま、その正門の跡は「憩いの場」という広場になり、ファーレ立川の玄関口のように人を迎えている。英語の看板を掲げて米兵を客にした店も、その店で買い物をした兵士も、もうここにはいない。けれど、来た客をもてなして暮らしを立てるという北口の商いの筋は、同じ交差点のまわりで、いまも続いている。

基地は、街の最大の勤め先でもあった。住宅情報サイトに載った都市論の記事は、『東京百年史』などを引いて、立川周辺の米軍基地で働く日本人はおよそ2万人、そのうち立川基地がおよそ1万2千人を占め、市内の全従業員数を上回るほどだったと書いている。金網の内側で給料をもらい、外側で暮らす。街の稼ぎの大きな部分が、柵の向こうにあった。

1950年に朝鮮戦争が始まると、立川基地は米軍の輸送の要になり、基地の街は米兵相手の商売で潤った。同時に、騒音と、米兵が絡む事件が街の悩みになった。景気と騒音は、同じ滑走路から、同じ便で届いた。

それでも、互いに歩み寄ろうとする日もあった。三井住友トラスト不動産がまとめた街の記録によれば、1959年から60年ごろ、米軍と住民の融和を目的に基地を開放する催しが開かれている。ふだんは入れない金網の内側に、家族連れが入っていく。年に何度かの、柵が少しだけ低くなる日だ。

基地の北側、当時はまだ立川市ではなかった砂川村にも、戦後に新しい学校ができている。市の年表の昭和22年の項に、砂川村立砂川中学校(現・市立第四中学校)開校とある。東京外国語大学に提出された博士論文の要旨によれば、この中学校は滑走路から200メートルの位置にあり、生徒たちは拡張の話が持ち上がる前から爆音に悩まされていた。

授業中に頭の上を輸送機が通れば、先生の声は途切れ、黒板の前で全員が少し待つしかなかっただろう。窓の外の空が、時間割を勝手に書き換える教室である。

この中学校の生徒たちが、のちに町の大事件を作文に書き残すことになる。

1955年5月4日、砂川町に届いた拡張の通告

ウィキペディアにまとめられた年表によれば、1955年3月、在日米軍は小牧、横田、立川、木更津、新潟の5つの飛行場の拡張を日本政府に求めた。5月4日、調達庁東京調達局の立川事務所長が、砂川町長の宮崎傳左衛門に立川基地の拡張を通告する。立川市の年表と、立川市図書館の資料は、1955年5月を砂川闘争の始まりとしている。

計画は、滑走路を北へ延ばすというものだった。延長線の上には、砂川町の畑と家があった。玉川上水と五日市街道に沿って、江戸時代から短冊形に拓かれてきた村である。

5月12日、砂川町議会は拡張反対を決議した。立川市図書館の資料によれば、砂川闘争は1955年から1960年代まで続いた、米軍立川基地の拡張計画に反対する住民運動である。運動は地元の農家を中心に始まり、やがて全国の労働組合や学生、知識人が支援に加わって大きくなった。

運動の言葉として知られるのが、「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」である。測量のために打たれる杭と、打たれない心。

ただし、町がひとつの声だったわけではない。同じ年の秋、町議会の中に、補償や滑走路の地下化を条件として求める条件派が現れたと伝えられる。先祖からの畑を一歩も譲らないという人がいて、条件しだいで話を聞くという人がいた。どちらも、同じ町の、同じ畑の話をしていた。

測量は1955年の秋に始まり、そのたびに、反対する人々と警官隊がぶつかった。最大の衝突は1956年10月のことで、博士論文の要旨は、負傷者1000人以上を出し「流血の砂川」と呼ばれた出来事だと書く。その直後、政府は測量の中止を発表した。

数字で読む 立川基地と砂川闘争

  • 4 — 立川が飛行場に選ばれた理由の数。うち一つは「何もない」だった。
  • 13 — 1945年に立川市が受けた空襲の回数。基地の物語は、焼け跡から始まる。
  • 200 — 砂川中学校と滑走路のあいだのメートル数。授業は、ときどき爆音で中断した。
  • 7 — 1957年の事件で起訴された人の数。この7人の裁判が、憲法の解釈を動かした。
  • 52 — 砂川事件の最高裁判決の、裁判所公開版のページ数。数メートルの立ち入りをめぐる文書である。
  • 32 — 米軍が進駐してから全面返還までの年数。昭和20年から52年まで。

砂川に集まった人々、それぞれの持ち場

闘争の中心にいたのは、拡張予定地に土地を持つ農家だった。博士論文の要旨によれば、反対同盟の行動隊長だった青木市五郎は、地元農家の代表として国会の委員会に2度出席し、陳情している。論文は、その発言の土台に、戦時中から占領期にかけて農家が共通して経験した基地をめぐる三つの出来事があり、それが「不服従」の心性を作っていたと分析する。そして運動が続くうちに、土地を次の代へ受け継ぐという新しい理屈が生まれていったという。

副行動隊長の宮岡政雄は、のちに『砂川闘争の記録』を書いた。立川市図書館の手引きは、著者を拡張予定地の地主の一人で、闘争の中心的人物の一人と紹介し、拡張予定地の概略図や年表がある本だと書く。

町の女性たちも、それぞれの持ち場を持っていた。図書館の手引きが挙げる『砂川・私の戦後史』の著者、砂川ちよは、地元の婦人会会長で、砂川町の教育委員を務め、のちに砂川町の教育長も務めた人である。座り込みの列にいる人もいれば、役場の机で町の子どもの教育を考える人もいた。

外から来た人々もいる。歴史家の高橋磌一は、雑誌『世界』の特派員として強制測量を取材するために砂川を訪れ、その後、清水幾太郎らと「基地問題文化人懇談会」を作った。この会のメンバーの有志が書いたのが、1957年の『心に杭は打たれない』だ。博士論文の要旨には、ひとつ印象的な挿話がある。原水爆禁止世界大会のために来日したインドの代表が、砂川の運動を尊重するからこそ、あえて砂川を訪ねないという姿勢を見せた。支援とは、乗り込むことだけではない。その遠慮の前で、高橋はたじろいだという。

写真家もいた。論文の要旨によれば、多くの写真が衝突の激しさを撮ったのに対し、新海覚雄と向井潔は、座り込む女性たちの「待機の時間」の表情に焦点を合わせた。衝突は一瞬で、待つ時間は長い。運動の大半は、実は待つことでできていた。向井は、衝突の現場で逮捕され、決定的な瞬間に立ち会えなかったという。カメラを持って現場に入る者の立場の危うさを、この一行はよく語っている。

農家がいて、町の役職者がいて、知識人がいて、写真家がいて、そして向かい側には、命じられて現場に立つ警官たちがいた。その全員の暮らしが、砂川という町に重なっていた。

では、その町の子どもたちは、この時代をどう見ていたのか。

教室の中の砂川闘争、文集「スナガワ」

立川市図書館は「立川について調べる」という手引きの中で、砂川闘争の資料を紹介している。その中に『文集スナガワ』がある。教職員組合砂川中分会の「基地と教育」研究サークルが、1955年から1957年にかけて編んだ、当時の中学生の作文集だ。図書館の手引きは、この文集から、基地拡張の賛成派と反対派に二分された町の雰囲気や、日常的な飛行機の爆音の様子が伝わってくると書いている。

博士論文の要旨は、もう一歩踏み込んでいる。作文を通じて、先生たちは、教室で絶対反対派の家の子と条件派の家の子が対立し、反目していることを知った。そして、警察官の家の子どもが傷を抱えていることを見つけた。

私はこの一行の前で、しばらく先へ進めなかった。測量の日、畑の前に座る人がいて、その向かいに立つ人がいた。その双方に子どもがいて、翌朝、同じ教室の同じ机に並んで座った。歴史の本では二つの陣営として描かれる人々が、教室では隣の席の誰それだった。

論文の要旨は、文集が1955年夏の強制測量から1956年秋にかけて出されたこと、そして中学生たちの問題意識が運動の展開とともに変わっていったことも伝える。爆音への不満から始まった作文が、やがて、願う、祈るといった言葉を含むものになっていく。子どもたちは、大人たちの争いを外から眺めていたのではなく、内側で、自分の言葉を探していた。

先生たちの側にも、苦い経験があった。サークルの教師たちは、北多摩と東京の代表として全国の教育研究集会でこの実践を報告したが、文集は「実感」の次元にとどまり「理論」に達していない、と批判されたという。実感だけでは足りない、と言われた作文が、いま、半世紀以上たって、当時の町を知るいちばん確かな手がかりになっている。理論は古びても、実感は古びない。

誰が正しかったのかを、作文は裁かない。裁く代わりに、十代の子どもたちは、自分の見たものと、聞こえた爆音と、家で交わされた言葉を、そのまま書いた。賛成と反対に割れた町の記録として、これほど偏りの少ない資料は、たぶん他にない。

立川市図書館はこの文集を複製版として持っている。その町の大人たちが、やがて裁判所に呼ばれることになる。

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