立川基地と砂川闘争の歴史を歩く──広がらなかった滑走路と、返された土地の使いみち

伊達判決と砂川事件の最高裁判決

1957年7月8日。最高裁判所の判決文は、この日付をはっきり記している。昭和32年7月8日当時、砂川町所在の立川飛行場内の土地を米国軍隊が使っていた。この日、拡張のための測量に反対するデモの一部が境界の柵を壊し、基地の中に数メートル立ち入った。同じ年の9月、学生や労働組合員ら23人が検挙され、うち7人が、日米安全保障条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反で起訴された。

事件の中身は、それだけである。判決に添えられた田中耕太郎裁判官の補足意見も、本件の法律問題はきわめて単純かつ明瞭であり、立ち入りを禁じられた施設に正当な理由なく立ち入ったということだけだ、と書いている。

その単純な事件が、単純では終わらなかった。1959年3月30日、東京地方裁判所の伊達秋雄裁判長は、米軍の駐留は憲法9条2項が禁じる戦力の保持にあたり、刑事特別法の規定は違憲だとして、7人全員に無罪を言い渡した。伊達判決である。

検察は、高等裁判所への控訴を飛ばして、最高裁判所へ直接上告した。跳躍上告という。そして同じ年の12月16日、最高裁判所大法廷は原判決を破棄し、東京地方裁判所へ差し戻した。

裁判所が公開している判決要旨によれば、最高裁は、わが国が指揮・管理できない外国の軍隊は、駐留していても憲法9条2項の戦力にあたらないとした。さらに、安全保障条約のように高度の政治性をもつ条約は、一見極めて明白に違憲無効と認められない限り、裁判所の審査権の範囲外にあると述べた。

判決の末尾には、大法廷の15人の裁判官の名前が並ぶ。判決は裁判官全員一致の意見によるものとされているが、そのうち田中耕太郎、島保、藤田八郎、入江俊郎、垂水克己、河村大助、石坂修一の7人が補足意見を、小谷勝重、奥野健一、高橋潔の3人が意見を書いている。15人のうち10人が、結論には賛成しながら、自分の言葉を書き足さずにはいられなかった。数メートルの立ち入りをめぐる判決が52ページになった理由の一端は、ここにある。

旅人の寄り道クイズ

1959年3月30日の東京地裁判決のあと、検察はどうしたか。

  • A 東京高等裁判所に控訴した
  • B 最高裁判所に直接上告した
  • C 上訴しなかった

答えは、この記事の終わり近くで。

差し戻されたあとの裁判で、7人はやがて有罪となり、1963年12月に確定した。共同通信の用語解説によれば、罰金2千円である。

話はそこで終わらなかった。立川市図書館の手引きは、2008年から2013年にかけて砂川事件に関する米国の解禁文書が見つかったこと、2014年から2015年にかけて、集団的自衛権の行使容認をめぐる議論で砂川判決が根拠として挙げられたことを、近年の動きとして記している。判決をどう読むかについては、いまも意見が分かれている。ここで私が言えるのは、柵の内側の数メートルが、60年以上たっても議論の真ん中にあるということだけだ。

1959年という年には、立川市の年表にもうひとつ別の項目がある。立川市が、アメリカ合衆国カリフォルニア州のサンバーナディノ市と姉妹都市になった。基地の駐留が法廷で争われた同じ年に、市はアメリカの町と手を結んでいる。対立の年は、交流の年でもあった。暮らしというものは、たいていそういう二枚重ねでできている。

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砂川町と立川市の合併、そして畑をめぐるもうひとつの裁判

法廷に出たのは、刑事事件だけではない。

市の年表によれば、昭和35年(1960)、立川市議会が砂川町議会に合併を申し入れ、昭和38年(1963)に立川市と砂川町は合併した。立川市図書館の手引き「立川と砂川の合併について調べる」は、当時の写真集に記念アーチや記念塔、記念行事の写真があることを紹介している。基地をはさんで南と北に分かれていた二つの町が、ひとつの市になった。

同じ昭和38年の年表には、砂川の土地収用問題について東京地方裁判所の判決があった、とも書かれている。合併の祝いのアーチが立った年にも、町はまだ法廷にいた。

拡張予定地の農家の土地をめぐる争いは、その後も続いた。2017年にニュースサイトに載った現地ルポは、行動隊長の青木市五郎が1956年4月に土地明け渡しをめぐる訴訟を起こし、1967年に東京都知事が交代すると土地の収用認定が取り消され、1976年に青木家の裁判が和解して土地の返還が決まった、と経緯をまとめている。ルポによれば、その土地は1002坪、およそ3300平方メートル。いまは雑木林になっているという。

1002坪。その広さをめぐって、訴えから和解まで20年の歳月が流れた。

では、拡張そのものは、どうして止まったのか。

1968年の拡張中止と、1977年の全面返還

「立川飛行場のあゆみ」の年表には、昭和43年(1968)12月、米空軍司令官が立川基地滑走路拡張計画の中止を発表、とある。13年越しの延長計画は、ここで終わった。翌昭和44年(1969)10月、米軍は立川での飛行停止を発表する。

そのあとの年表は、返還へ向かって細かく刻まれていく。昭和46年(1971)、日米合同委員会が立川基地の一部返還に合意。昭和47年(1972)、基地将校クラブでAB地区の返還調印式。同じ年、自衛隊が米軍立川基地へ移駐し、市の年表は隊員127人、ヘリ5機と数まで書いている。返還の書類に判を押す場所が将校クラブ。去り際まで、いかにも基地の街らしい。

昭和48年(1973)、日米安全保障協議委員会で昭和51年に米軍立川基地を全面返還することが決まった。昭和51年(1976)には、基地跡地の三分割有償方式に反対する市民大会が開かれている。返されることは決まった。次は、誰がどう使うかで町が声を上げた。

そして昭和52年(1977)11月30日、立川基地は全面返還された。同じ年の年表には、東京都と立川市、昭島市による基地跡地利用計画がまとまったこと、そして市立柏小学校の開校も並んでいる。基地が返る年にも、町は小学校を開けていた。

拡張が中止された理由について、私が目を通した公的な年表は、それ以上を語らない。拡張は中止され、飛行は止まり、基地は返った。その間にあったのは、13年余りにわたる住民の抵抗と、裁判と、基地の役割の移り変わりである。どれが決め手だったのか、一行で言い切る資料に私は出会えなかった。答えの残り半分は、図書館の棚に任せたい。

返ってきた土地は、広かった。その広さを、町はどう使ったのか。ここからが、私がいちばん書きたかったことだ。

返された土地を、立川の人々は何に使ったか

立川市の資料は、返還された跡地がいま、国営昭和記念公園、広域防災基地、市街地等として使われていると書く。年表を追うと、町の手つきが見えてくる。昭和53年(1978)、立川市図書館設置。昭和54年、立川基地跡地利用計画大綱案が決まる。昭和56年、基地跡地関連の幹線道路と国営昭和記念公園の区域などが都市計画として決まる。昭和58年(1983)、国営昭和記念公園が一部開園し、同じ年に西武拝島線の武蔵砂川駅が開業した。基地の北の町に、駅ができた年でもある。昭和60年(1985)には歴史民俗資料館が開いた。昭和記念公園で市民が芝生に寝転ぶようになった話は、この特集の別の記事に譲る。

広域防災基地のほうは、もう少し知られてよい。内閣府防災担当によれば、首都直下地震などで首相官邸や内閣府が大きな被害を受け、政府の災害対策本部を運営できなくなったとき、立川広域防災基地内の災害対策本部予備施設に政府の災害対策本部が置かれ、国の災害応急対策活動の拠点になる。2001年版の防災白書は、この予備施設について、約500人に及ぶ参集要員が1週間執務できる体制を整え、休日を含めて24時間体制で要員を置いていると書いている。かつて輸送機が離着陸した土地は、いま、この国の非常時の控えの間になっている。地味と言われる街は、首都がいちばん困った日のための街でもあった。

国土交通省の資料によれば、立川基地跡地関連地区には、文部科学省と総務省の研究・研修機関5機関が移り、その後、同じエリアに東京地方裁判所等の合同庁舎、隣接して立川市役所が移転した。1957年の事件は東京地方裁判所で裁かれた。その基地の跡地に、いま東京地方裁判所の合同庁舎が建っている。偶然と呼ぶには、少し出来すぎた配置だ。

いまも立川に飛行場がある、という事実

ここで、ひとつ書いておかなければならないことがある。立川には、いまも飛行場がある。

立川飛行場の格納庫の前を走る箱根駅伝予選会の選手たち(2010年)
立川飛行場の格納庫の前を走る箱根駅伝予選会の選手たち(2010年)
写真: 陸上自衛隊(防衛省) / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

市の年表は、昭和57年(1982)に新滑走路の運用が始まった、新立川飛行場、と記す。米軍が去ったあとも、陸上自衛隊の立川飛行場は、跡地の一角で動いている。立川市が公開している運用の要領によれば、飛行は通常、平日の午前8時から午後8時まで、離着陸は1日平均おおむね50回。土曜、日曜、祝日は、原則として訓練のための飛行を行わない。

その要領の終わり近くに、私は思わず二度読みした一行を見つけた。入試のときは、努めて会場の上空を避け、航空機の騒音を減らすよう努めている。

1950年代、滑走路から200メートルの中学校では、爆音のたびに授業が止まった。いま、同じ街の飛行場は、受験生の頭の上を避けて飛ぶ。たった一行の申し合わせに、この街が70年かけてたどり着いた距離が入っている。

そしてもうひとつ。例年10月、東京箱根間往復大学駅伝競走の予選会は、陸上自衛隊立川駐屯地をスタートし、立川の市街地を抜けて国営昭和記念公園でゴールする、21.0975キロのハーフマラソンとして開かれてきた。かつて金網の内側だった土地の上を、何百人もの学生ランナーが一斉に駆け出していく。正月の箱根への道は、立川の滑走路から始まっている。テレビの前でそれを知っている人は、案外少ない。

基地の跡地の図書館に、基地の記録がある

駅の北口には図書館がある。立川市中央図書館は平成7年(1995)1月12日、基地跡地に生まれたファーレ立川のセンタースクエアに開館した。その中央図書館は、立川基地と飛行場の資料を特別コレクションとして集め、分類番号W-3-10の書架に一か所にまとめている。『文集スナガワ』も、伊達判決に至る公判記録の複製も、反対同盟の副行動隊長が書いた記録も、同じ書架に並ぶ。市がまとめた冊子『立川基地』、議会事務局の新聞記事集、米軍基地の内部を写した写真集、元米軍関係者がまとめた英語の写真集まで、図書館の手引きには載っている。

ファーレ立川の一角にある立川市中央図書館の入口と、前に置かれた作品(2018年)
ファーレ立川の一角にある立川市中央図書館の入口と、前に置かれた作品(2018年)
写真: Abasaa / Public domain / Wikimedia Commons

基地の跡地の図書館が、その基地の記録をいちばん丁寧に持っている。争った双方の資料が、同じ棚の上で隣り合っている。教室で隣の席に座っていた子どもたちのように。

私は書架の番号を手帳に書き写し、それだけで少し得をした気分になった。W-3-10。町の22年が、棚の番号ひとつに収まっている。

広がらなかった滑走路が、町に残したもの

最初の問いに戻ろう。

滑走路の延長が、なぜ憲法の話になったのか。答えの半分は、判決文の中にあった。数メートルの立ち入りを罰する刑事特別法の根拠をたどると、米軍の駐留そのものに行き着く。駐留が憲法に合うのかを問わなければ、柵の数メートルを裁けなかった。伊達判決はその問いに踏み込み、最高裁はその問いに裁判所が答える範囲を線引きした。

広がらなかった基地は、なぜ消えたのか。こちらは、半分しか答えられない。1968年に拡張は中止され、翌年に飛行は止まり、1977年に基地は返った。その間に、畑を守ろうとした人々がいて、条件を探った人々がいて、警官として現場に立った人々がいた。そのどれか一つだけで基地が消えたと言うのは、たぶん、どの立場の人に対しても不正確だ。

そして、返された土地を町は何に使ったのか。公園にし、研究所を迎え、裁判所と市役所を置き、図書館を建て、首都の非常時の控えを引き受けた。残った飛行場は受験生の頭上を避けて飛び、秋には学生ランナーの出発点になる。金網の内側にあった土地は、いま、誰でも入れる芝生と、誰でも本を借りられる書架と、誰かが走り出すためのスタートラインになっている。

立川は地味な街だ、と言う人がいる。だが、立ち入りを禁じられた土地を、これほど多くの人が入ってよい場所に作り替えた街を、私はほかに多く知らない。それを成し遂げたのは、遠くの誰かではなく、畑を守り、店を開け、小学校を開け、市民大会に足を運んだこの町の人たちだった。

歩き疲れて北口のデッキに戻ると、さっきまでと同じ人波が、何事もなかったようにデパートへ吸い込まれていく。足もとの舗装の下に何があったかを、知っている人も、知らない人もいる。

新宿から中央線で一本、川崎からは南武線で一本。週末の半日で、戦後の日本が大きな声で言い争った土地の上を、自分の足で歩いて確かめられる。そういう街が、東京の西にある。

寄り道クイズの答え

答えはB。検察は東京高等裁判所への控訴を飛ばし、最高裁判所に直接上告した。跳躍上告と呼ばれる。最高裁判所大法廷が判決を言い渡したのは、東京地裁の判決から8か月余りあとの1959年12月16日だった。

訪ねる前に

  • 都心と神奈川から: 立川駅へは、新宿からJR中央線で一本。東京都環境局の散策案内は、新宿から立川までを中央線で30分としている。神奈川からは、川崎駅と立川駅を結ぶJR南武線で、乗り換えなしで着く
  • 立川市歴史民俗資料館: 立川市富士見町3-12-34。JR青梅線の西立川駅から徒歩20分。JR立川駅南口から「新道福島」行きか「富士見町操車場」行きのバスで「団地西」下車、徒歩5分(立川市による)。入館無料。解説「立川飛行場のあゆみ」は市のサイトでも読める。開館時間と休館日は公式で確かめてほしい: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004849/1004905.html
  • 立川市中央図書館: 立川市曙町2-36-2、ファーレ立川センタースクエアの2〜4階。JR立川駅北口から歩行者デッキでファーレ立川へ、徒歩3分ほど(ファーレ立川アートの公式サイトによる)。立川基地・飛行場の資料は分類W-3-10。調べものは3階のレファレンス室で相談できる。開館時間と休館日は公式で: https://www.library.tachikawa.tokyo.jp/contents?pid=32
  • 図書館の手引き「砂川闘争について調べる」: https://www.library.tachikawa.tokyo.jp/images/upload/tachishira03_202007.pdf
  • 立川市の散歩コース「近・現代を歩く」(北口から陸軍飛行第五聯隊正門跡、全長約1.7キロの引込線跡の栄緑地などを回る): https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004848/1004891.html
  • 砂川事件の最高裁判決(裁判所の裁判例検索。判決全文のPDFも読める): https://www.courts.go.jp/hanrei/55816/detail2/index.html
  • 立川飛行場の運用について(立川市): https://www.city.tachikawa.lg.jp/shisei/kichi/1005271/1023744.html
  • 組み合わせるなら: 午前に北口でファーレ立川の作品と中央図書館、午後に国営昭和記念公園。砂川の畑と玉川上水まで足を延ばすと、拡張予定地があった北側の土地の広さが体でわかる。研究所の並ぶ緑町の南極北極科学館も、同じ基地跡地にある。

古い年表を閉じたら、立川駅北口で

基地の跡をめぐる一日は、思いのほか長く歩く。北口のデッキから図書館へ、バスで資料館へ、公園の芝生へ。年表を追いかけているうちに、足は棒になり、首と肩は書架の前でこわばっている。

立川駅の北口から歩いて1分、東京都立川市曙町2-14-10のエトロワビル3階に、オンザショア立川店がある。かつて基地の正門が面していた、あの曙町二丁目の町内だ。溶岩プレートを敷いたスタジオで行うホットヨガのスタジオだ。常温のヨガ、ピラティス、女性専用のキックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、パーソナルトレーニングもあり、ヨガだけで25種類以上のレッスンがある。

営業時間は8時から23時30分まで、年中無休で、どの曜日も同じだ。図書館で調べものをした帰りの夜にも、寄る時間は残っている。

ヨガの体験レッスンは税込1,980円。60分のレッスンに、バスタオル2枚、フェイスタオル1枚、ヨガマットのレンタルが含まれる。

妊娠中の人は溶岩ホットヨガには参加できないが、常温のマタニティヨガがある。医師から運動を止められている人は利用できない。

  • オンザショア: https://ontheshore.jp/
  • 料金: https://ontheshore.jp/price/
  • 体験の予約: https://site.locaop.jp/C0aVK?_src=hp

かつて金網があった北口の空の下で、いまは誰もが、自分の用事のために自由に出入りしている。

冒頭の写真: 北の上空から見た立川飛行場と、その奥に広がる基地跡地の緑(2023年)(写真: ブルーノ・プラス / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons)

この記事の情報は2026年10月時点のものです。

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