立川と多摩川の水害と橋の歴史をたどる散歩ルポ。鎌倉道の柴崎の渡し、甲州街道の日野の渡し、明治22年に人より先に川を渡った中央線の鉄橋、明治43年の大水害、鮎と鵜飼と砂利の川、立川駅北口の冠水と地下に消えた排水路「緑川」、立日橋と令和の日野橋まで、国と市の資料で読み解く。
立川では、汽車のほうが人より37年早く多摩川を渡った。
国土交通省の京浜河川事務所がつくった多摩川の年表を、明治の欄から順に読んでいた。明治22年に、立川のあたりの話は出てこない。大正15年(1926)の欄に、ようやく一行ある。「8.25 多摩川に日野橋架設。日野の渡し・万願寺の渡し廃止」。
つまり大正の終わりまで、立川から対岸の日野へ、歩いて渡れる道の橋は無かった。人は舟で川を越えていた。
ところが、立川市の資料にはこうある。明治22年(1889)8月、甲武鉄道の立川から八王子までが開通。八王子は川の向こう側だ。汽車は、明治22年にはもう多摩川を渡っていたのである。
鉄の汽車が先で、生身の人があと。なぜ、そんな順番になったのか。その答えを探して、立川の南の縁を流れる多摩川の、水と橋の記録をたどってみることにした。
立川の多摩川、橋の歴史は「橋がない」ことから始まる
立川市の南の端を、多摩川が東西に流れている。資料館の資料は、多摩川から人々が飲み水や農業用水のほか、魚や川底の砂利などの資源を得てきたと書き、その一方で洪水などの災害に見舞われることもあり、昔から人々の生活と深く関わってきたと続ける。恵みと災いを、同じ川が運んできた。
京浜河川事務所は、多摩川を勾配の急な「あばれ川」として説明する。その暴れ方は、橋の歴史にそのまま表れている。
事務所の解説によれば、江戸時代の多摩川は、軍事上と技術上の理由から、橋よりも舟による渡しが主流だった。小河内から河口までに、39か所の渡しがあった。いちばん下流の東海道でさえ、慶長5年(1600)に長さ120間、約218メートルの六郷大橋が架けられたものの、洪水のために何度も流された。結局、明治7年(1874)まで、六郷は橋の無い渡しのままだった。
天下の東海道で橋が架からないのだから、甲州街道の立川あたりに橋が無くても誰も文句は言えない。江戸の多摩川では、橋が無いほうが普通だったのである。
鎌倉の滅亡とともに消えた渡し
では、立川の岸には、どんな渡しがあったのか。
京浜河川事務所がまとめた渡し場の一覧に、立川の名を持つ渡しが一つある。「柴崎の渡し」。柴崎は、立川の南部の古い村の名だ。一覧によれば、柴崎の渡しは古い鎌倉道の渡しで、廃止は江戸時代より前。廃止の理由の欄には、こう書いてあった。「鎌倉幕府の滅亡」。
廃止の理由が、幕府の滅亡。人が来なくなったとか、橋ができたとかではない。鎌倉に通じる道を行き来する理由そのものが、政権ごと消えてしまったのだ。勤め先が倒産して、渡し舟まで失業した。700年近く前の話とはいえ、ずいぶんスケールの大きいリストラである。
一覧のすぐ隣には、甲州街道の渡しが三つ並んでいる。「石田の渡し」は古い甲州街道の渡しで、慶安年間に街道が移ったため廃止。「万願寺の渡し」も古い甲州街道の渡しで、大正15年に日野橋ができて廃止。そして「日野の渡し」が、江戸時代の甲州街道の渡しだった。
甲州街道が、なぜ渡る場所を変えたのか。ウィキペディアは日野橋の項で、甲州街道は当初、府中の分倍河原から多摩川の低地を通って万願寺で川を渡っていたが、多摩川の氾濫で街道が分断されたため、河岸段丘の上の道に移されたと説明している。川があふれるたびに、街道のほうが逃げた。人と川の付き合いは、最初から川のほうが強かった。
日野の渡しの来歴と、立川側の錦町に立つ記念碑のことは、特集の根川と多摩川の回に書いた。冬の渇水期には仮の橋を、夏の増水期には舟を使う渡しだった。ここでは、ウィキペディアが日野橋の項にまとめている渡しの暮らしを少しだけ足しておく。
それによれば、日野の渡しは貞享元年(1684)に甲州街道の正式な渡しと定められた。それ以前から、対岸の柴崎村、つまりいまの立川へ畑仕事に通う人たちに使われていたという。渡しは有料で、人と馬の料金がそれぞれ決められていたが、僧侶と武士と宿場の人々は無料だった。経営と管理は日野宿が担い、渡し賃は宿場の収入源にもなった。明治になると経営は宿場から町に移り、毎年の入札で決まった請負人が舟を運び、決まった額を町に納める仕組みになった。
川の両岸の村にとって、渡しは道であり、財布でもあった。武士がただで乗る舟を、百姓はお金を払って乗る。舟の上でも、身分の勘定はきっちりしていた。
そして、もう一つ。大正時代、自動車が通るようになると、橋が無いことが問題になった。馬を運ぶ船を2艘並べて、その上に長い板を敷き、自動車を乗せて対岸へ運んだと伝えられている。
自動車を舟に乗せて川を渡る。運転手はそのあいだ、ハンドルを握っていたのだろうか。それとも降りて、自分の車が揺れるのを見守っていたのだろうか。どちらにしても、あまり心の休まる時間ではなかったはずだ。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
明治22年、汽車が人より先に川を渡った
その舟渡しの上流で、明治のなかばに、まったく別の方法で川を越えたものがいる。汽車である。

写真: 甲武 / CC BY 3.0 / Wikimedia Commons
立川市の資料によれば、甲武鉄道、いまのJR中央線は、明治22年(1889)4月11日に新宿と立川のあいだで開通し、同じ年の8月に立川と八王子のあいだが開通した。立川から八王子へ行くには、多摩川を渡らなければならない。
ウィキペディアの「多摩川橋梁(中央本線)」の項によれば、この鉄橋は立川と八王子のあいだの延伸工事にともなって明治22年に完成し、8月11日から使われはじめた。建設当初は単線で、長さは418.7メートル。昭和12年(1937)に立川と豊田のあいだが複線になったとき、最初の橋を上り線用として残し、下流側に下り線用の橋が新しく架けられた。上り線の橋脚は、一部がコンクリートに変えられているものの、煉瓦でできた楕円形の橋脚が特徴だという。
明治22年の煉瓦の脚が、いまも中央線の上り電車を支えて多摩川に立っている。
この鉄道の生まれ方にも、川と水がからんでいる。ウィキペディアの甲武鉄道の項によれば、会社の発端は水運の代わりの馬車鉄道の計画だった。明治3年(1870)に始まった玉川上水の舟運が2年で禁じられたあと、その代わりに、上水の堤防に沿って新宿から羽村まで馬車鉄道を敷く計画が立てられた。堤防沿いの鉄道は認められず、経路を変えて新宿から八王子までの免許を得たが、そのときもまだ馬車の予定だった。ところが同じころ、ほかの会社が蒸気鉄道を出願したため、甲武は急いで動力を馬から蒸気に切り替えて、競争相手を退けたという。
もし計画どおり馬が引いていたら、多摩川を渡る橋の姿も、ずいぶん違っていたかもしれない。馬に418メートルの鉄橋を歩かせるのは、馬にも乗客にも気の毒だ。立川で、いまも現役で働いている明治の構造物を挙げよと言われたら、私はまずこれを推したい。
ここで、冒頭の謎の半分が見えてくる。京浜河川事務所の橋の解説は、江戸時代の中期以降、多摩川の青梅より下流で架けられた最初の永久橋は、明治5年(1872)の官設鉄道新橋〜横浜間の開通にともなう六郷川の鉄道橋だったと書く。一方、同じ六郷の道路橋は明治6年に架けられたものの、洪水のたびに壊れたり流されたりして、明治36年には廃止されてしまった。多摩川では、最初に川を越えるのはいつも鉄道で、道路の橋はそのあとを追いかけていた。
鉄道は、国や大きな会社が多額のお金をかけて、頑丈な橋脚を川に打ち込める事業だった。街道の橋は、そうはいかなかった。私の推測にすぎないが、立川の37年の差も、たぶん同じ理由でできている。汽車の線路は、渡し舟の時代の頭の上を、一足先に通り過ぎていったのだ。
川の真ん中に引かれた線
明治の初め、多摩川には、もう一本見えない線が引かれている。京浜河川事務所の年表によれば、明治元年(1868)9月、東京府と神奈川県の境界が多摩川の中心となった。明治45年(1912)にも、東京府と神奈川県との境界を多摩川の中央とすると定められている。
ところが、立川市の資料によれば、柴崎村と砂川村は明治4年(1871)に神奈川県に移され、三多摩が東京府に移ったのは明治26年(1893)である。そのあいだ、立川は川の北にありながら神奈川県だった。その経緯は特集の別の回に譲るとして、川の真ん中に県境を引いても、川の北の村が神奈川県に入る時代があったことだけは覚えておきたい。境界線は、川よりずっと気まぐれだ。
明治43年の大水害、鉄橋が切れた夏
汽車が川を渡るようになって20年あまりたった夏、多摩川が本気で暴れた。
京浜河川事務所の年表は、明治の後半に堤防の決壊が続いたことを淡々と記している。明治17年(1884)9月、台風により多摩川の各所で堤防が決壊。明治23年(1890)8月、同じく各所で決壊。明治40年(1907)8月、また各所で決壊。そして明治43年(1910)8月10日から11日、台風によって、ほぼ全川にわたって破堤した。
この水害は立川にも及んだ。『たちかわ物語』という立川市の市史編さん広報紙の第15号に、市史の近代部会の調査の報告がある。国立国会図書館で古い新聞を調べていると、長野県や山梨県の新聞にも立川の記事が見つかった。理由は、明治43年の水害で、長野県や山梨県と東京を結ぶ中央線も被害を受けたからだった。この水害で、立川と日野の駅のあいだの多摩川の鉄橋が不通になり、仮の橋を設けて徒歩で連絡したことが書かれていた。橋の被害は、立川町の公文書でも確かめられたという。
人より37年早く川を渡ったはずの汽車の客が、明治43年の夏には、仮の橋を歩いて川を越えたのである。汽車を降りて、荷物を抱えて、川を見下ろしながら歩く。37年分の貸しを、川が一度に取り立てに来た。
なぜ、明治の多摩川はこれほど堤防が切れたのか。ウィキペディアの多摩川の項は、こう説明している。多摩川の堤防の多くは昔ながらの霞堤で、大きな洪水では決壊し、土地は荒れ地になった。江戸時代からの慣例で、そうした土地には税がかからなかったが、明治6年(1873)の地租改正で課税されるようになり、村が自力で水害を乗り切ることが難しくなった。そこへ、治水の予算が細るなかでの橋脚の建設や砂利の採掘、河川敷の果樹栽培、川岸への工場の進出が重なり、被害を大きくしたとされる。
橋脚を建て、砂利を掘る。汽車を通すための営みが、川の暴れ方を変えていた。鉄橋が切れた夏には、そういう皮肉も含まれている。
数字で読む立川の多摩川
- 39 — 江戸時代の多摩川にあった渡しの数。橋の数を数えるより、ずっと早く済む。
- 418.7 — メートル。明治22年に架けられた最初の中央線の鉄橋の長さ。いまも煉瓦の脚が残る。
- 37 — 年。汽車が川を渡った明治22年から、人が歩いて渡れる日野橋ができた大正15年までの差。
- 3400 — 戸。昭和41年6月の台風4号で、多摩川の流域で床上浸水した家の数。
- 4 — キロ。立川駅のあたりの水を多摩川へ流すために掘られた排水路の長さ。いまは地面の下にある。
- 45 — 年。令和元年の台風で多摩川の流域が浸水したのは、昭和49年の狛江の水害以来、何年ぶりの規模だったか。
では、暴れる川は、立川に災いだけを運んできたのか。そうではなかった。川は、立川に魚と石も運んできた。
鮎と鵜飼と砂利、多摩川が立川にくれたもの
立川市歴史民俗資料館の「多摩川の漁法と漁具」の資料に、明治30年代の写真が載っている。料亭の屋形船だ。説明によれば、明治時代、立川の近辺には鮎料理の料亭が3軒あった。客は河原の小屋や屋形船の上で、鮎料理に舌鼓を打った。
立川で屋形船。いまの立川からは想像しにくいが、多摩川の鮎は昔から名物だった。ウィキペディアの多摩川の項によれば、多摩川の鮎は江戸幕府にも上納され、天保14年(1843)には御留川に指定されて、鮎は将軍家の専用になった。献上する鮎は沿岸の農民が負担したという。市史の広報紙の第16号も、江戸時代の柴崎村には多摩川の堤防の維持や将軍への鮎の献上といった課題があり、そのための村どうしの組合がつくられたと書いている。
立川の村は、鮎を獲って将軍に差し出す側だった。自分の村の前の川の鮎を、自分たちは食べられない。鮎を眺めながら堤防の手入れをする柴崎村の人の気持ちを思うと、少し同情したくなる。
資料館の資料には、もう一枚、思いがけない写真がある。昭和初期の多摩川の鵜飼だ。多摩川の鵜飼は江戸時代にはすでに行われていたが、かがり火を焚いて夜に行う長良川などとは違い、昼間に川を歩いて行う「徒歩鵜」という方法だった。明治時代になると、料亭の屋形船の前で、一種のショーとしても行われていたという。
立川の鵜飼は、昼の、徒歩の、ショーだった。かがり火の幽玄はないが、屋形船から見物するには、昼のほうがよく見えたに違いない。資料は、多摩川の漁法は釣り、網、笯を使うもの、鵜飼など、100種類を超えるといわれると書いている。
川底の砂利を運んだ鉄道
鮎と並んで、多摩川が運んできたもう一つの恵みが、砂利だった。
京浜河川事務所の年表によれば、明治4年(1871)、多摩川の砂利は、新橋と横浜のあいだに開通した鉄道の線路の道床に使われた。日本で最初の鉄道の線路の下に、多摩川の石が敷かれていたのである。明治43年には、東京砂利鉄道が開通して、多摩川の砂利の輸送が始まった。
砂利の鉄道は、立川にもやって来る。いまのJR南武線だ。ウィキペディアによれば、南武線は、川崎の上平間の名主の家に生まれた秋元喜四郎が発起人の総代となって、大正8年(1919)に「多摩川砂利鉄道」として出願したのが始まりで、多摩川の河原でとった砂利を運ぶことが目的だった。立川市の資料によれば、南武鉄道の立川と川崎のあいだが全線開通したのは昭和4年(1929)12月である。
この秋元喜四郎という人には、もう一つの顔がある。事務所の年表は、大正3年(1914)9月16日、御幸村とその周辺の村民たち500人あまりがアミガサをかぶって神奈川県庁に押しかけ、多摩川の築堤を訴えた「アミガサ事件」を記している。ウィキペディアによれば、その先頭に立ったのが秋元喜四郎だった。
堤防を求めて県庁に押しかけた人が、川の砂利を運ぶ鉄道を興し、その鉄道の終点が立川になった。治水と砂利が、一人の人の中で同居している。
砂利の採掘は、川に深い傷も残した。ウィキペディアによれば、採りすぎた砂利のために川底が下がり、農業用水が取れなくなるなどの被害が続いた。戦後も、立川の米軍基地の建設などのために多摩川の砂利の採掘は続いたという。国の河川の年表によれば、昭和11年(1936)に二子橋より下流での採取が全面禁止になり、昭和40年(1965)4月30日、ついに多摩川水系の砂利採取が全面的に禁止された。
立川市の資料館は、『多摩川の砂利採取と人びと』という本を出している。家業として砂利採取業を営んだ二人の半生記をたどった、立川の生活誌だという。立川には、川から石を掘って暮らしを立てた人たちがいた。
大正の終わり、人はようやく、舟ではなく自分の足で川を渡れるようになっていた。ところがその橋には、治水の歴史の上で、もう一つ別の役目が待っていた。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
1
2



