大正15年の日野橋と、改修が日野橋で止まっていた時代
大正15年(1926)8月25日、多摩川に日野橋が架かり、日野の渡しと万願寺の渡しが廃止された。同じ年表の一行である。鉄の桁橋の来歴と、令和の架け替えのことは、特集の根川と多摩川の回に書いたので、ここでは繰り返さない。
日野橋の名前は、その後、治水の歴史に別の形で現れる。
事務所の年表によれば、多摩川の本格的な改修は、大正7年(1918)に内務省の直轄で始まり、まず河口から二子橋までが対象になった。次に昭和7年(1932)、内務省の直轄事業として、二子橋から日野橋までのあいだと浅川で、古い堤防の拡築や護岸などの工事が始まった。戦争をはさんで、昭和21年(1946)に二子橋から日野橋までの上流改修工事が再開されている。
改修の区間は、日野橋で終わっていた。日野橋は、立川の錦町の岸に架かっている。そして立川の岸辺は、日野橋から上流の柴崎町の方へと続いている。
国の直轄で川を管理する区間がさらに上流へ延びるのは、昭和42年(1967)4月、多摩川の直轄管理区間が河口から青梅の万年橋までになったときだと、年表は記す。その前年、昭和41年3月に、多摩川は一級水系に指定された。
そして昭和63年(1988)3月、多摩川の日野橋より河口までの両岸が、高規格堤防、いわゆるスーパー堤防の整備区間に指定された。ここでも、区切りは日野橋だ。日野橋は、多摩川の治水の地図の上で、長いあいだ「ここまで」の目印として使われてきた橋でもあったのである。
旅人の寄り道クイズ
立川と日野のあいだの多摩川に、いちばん最初に架かった橋はどれか。(A)道路の日野橋(B)中央線の鉄橋(C)多摩モノレールの通る立日橋。答えは、ここまで読んだ人ならもう知っている。念のため、最後にも置いておく。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
立川駅北口が水に浸かった日、地下に消えた「緑川」
立川の水害は、多摩川のほとりだけで起きたわけではない。意外なことに、駅前でも起きていた。
『たちかわ物語』の第15号は、立川飛行場の100年を写真でたどった号である。その中に、「立川駅北口の冠水(1935年 立川市蔵)」という写真が載っている。
記事によれば、立川飛行場の開設は、人口の増加や雇用を生み、立川に大きな繁栄をもたらした。ところが、陸軍と飛行場に主導された急速な発展にインフラの整備が追いつかず、さまざまな都市問題を抱えることになった。そのひとつが排水だった。大雨や長雨のとき、飛行場やその周りの敷地からあふれた雨水は、東南の立川駅の方へ流れ下り、立川駅の一帯はしばしば大きな浸水や冠水に見舞われた。
立川駅は、台地の上にある。多摩川からは遠い。それでも水に浸かった。広い飛行場に降った雨が、まとめて駅へ下りてきたのだ。空の都は、雨の日には水の都にもなった。
この水害を解決するために、飛行場の東南部から多摩川まで、全長約4キロの排水路が掘られることになった。第二次世界大戦中の昭和18年(1943)11月に測量が行われ、翌年4月から工事が始まった。この「立川排水路」は、終戦後の昭和22年(1947)4月に水を通し、昭和24年(1949)8月に「緑川」と名付けられた。
その後、市民の要望もあって、昭和35年(1960)から覆蓋、つまり蓋をして暗渠にする工事が行われた。広報紙は、いまでは駐車場や駐輪場、公園、道路など、さまざまに使われていると書いている。
名前をもらったのが昭和24年、蓋をされ始めたのが昭和35年。緑川は、名付けられてからわずか11年で、地面の下に姿を隠し始めた川である。立川の駅前を自転車で走る人の中に、自分がいま川の上を走っていると知っている人は、どれくらいいるだろう。私は、知らなかった。
昭和の台風、平成の立日橋、令和の日野橋
戦後の立川も、何度か水の試練を受けている。立川市の年表は、昭和41年(1966)に「台風立川市を襲う(災害救助法が適用される)」と記す。国の河川の年表には、同じ年の6月28日に台風4号で床上浸水3400戸とある。同じ年の6月には、多摩川の流域が大きな水害に見舞われていた。

写真: MosaMint / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
立川の川の形も、水害対策で変わった。昭和47年(1972)、洪水対策のために残堀川は柴崎町で多摩川へまっすぐ流れるように付け替えられ、根川の下流は埋め立てられて、いまの根川緑道になった。その話は根川の回に詳しく書いた。
昭和49年(1974)9月には、台風16号で多摩川の左岸、狛江市で本堤が260メートルにわたって決壊し、人家19棟が流された。事務所の年表は、その後の訴訟が平成4年(1992)に住民側の勝訴で終わったことまで記している。立川から20キロ近く下流の出来事だが、多摩川の治水の考え方を変えた事件だった。
あのころの河原、いまの河原
戦後から昭和50年ごろの多摩川は、いまの河川敷とはずいぶん違う顔をしていた。
まず、河原は掘られていた。ウィキペディアによれば、戦後も立川の基地の建設や高度経済成長の工事のために砂利の採掘が続き、堤防の内外には採掘の跡が塹壕のように点在していた。雨が降ると穴に水がたまり、子どもが溺れる事故も起きたという。砂利の採取が多摩川の全域で禁じられたのは、昭和40年(1965)である。
日野橋は、昭和39年(1964)の東京オリンピックの自転車競技が甲州街道を通ることになり、交通量も増えたため、昭和40年代にかけて幅を7.3メートルから10.5メートルに広げる大改修を受けた、とウィキペディアは書く。オリンピックの選手が渡るために、大正の橋が肩幅を広げたのだ。
市史の広報紙の第2号によれば、根川には昭和20年代までボート乗り場があり、船着き場には茶店も建っていた。桜の下でボートを楽しむ風景は絵はがきにもなった。
そして川は、遊び場として開かれていく。同じ年表によれば、昭和41年(1966)7月に「多摩川河川敷第一次開放計画」が始まり、昭和50年(1975)には多摩川の土手にサイクリングロードが完成した。立川市の年表は、昭和48年(1973)に「多摩川緑地公園完成」と記す。
あのころ、多摩川の河原は砂利を掘る場所で、駅前の緑川は蓋のない水路だった。いま、河原には野球場とサイクリングロードがあり、緑川の上は駐輪場と公園になっている。年配の人には「そうそう、あそこは掘り返されていた」と思い出せる景色が、若い人には「ここが?」と驚く景色が、同じ土手の上に重なっている。
柴崎の渡しの、650年後
平成に入ると、立川の岸に新しい橋が架かる。立日橋だ。
立川市の年表によれば、立日橋は平成元年(1989)に部分開通し、平成3年(1991)に全面開通した。多摩都市モノレールの建設のために道路の橋が先に開通し、平成12年(2000)1月に立川北から多摩センターまでのモノレールが開業して、橋の上をモノレールが走るようになった。
ウィキペディアの多摩川の項は、渡しの一覧の中で、柴崎の渡しについて「古鎌倉道であったが、鎌倉幕府滅亡により廃止。後世に立日橋が架橋」と書いている。鎌倉幕府が滅んだのは元弘3年(1333)。立日橋が開通したのは平成元年。柴崎の渡しのあたりに、ふたたび川を越える道ができるまで、650年あまりかかった計算になる。今度の道は、鎌倉ではなく多摩センターへ、モノレールで向かう。
令和元年の台風
そして令和元年(2019)10月、東日本台風、いわゆる台風19号が多摩川を襲った。日野橋の立川側の橋脚が沈み、通行止めになったことは根川の回に書いた。ウィキペディアによれば、この台風では、多摩川の流域の広い範囲が、昭和49年の狛江の水害以来45年ぶりとなる規模で浸水の被害を受けた。
これを受けて、国と都と流域の市や区は「多摩川緊急治水対策プロジェクト」をまとめた。京浜河川事務所の資料によれば、令和元年度から令和7年度にかけて、河道の掘削や樹木の伐採、堰の改築、堤防の整備などを進め、事業費はおよそ255億円とされている。目標は、令和元年の東日本台風と同じ規模の洪水に対して、多摩川からの氾濫による浸水の被害を防ぐことだという。
川底の砂利を掘りすぎて困った川で、いまは洪水を流すために、川底を掘っている。もちろん目的も方法もまるで違う。それでも、同じ川で「掘る」という言葉の意味がここまで変わったことに、私は少し驚いた。
謎の答え、汽車が人より先に川を渡った理由
人より汽車のほうが、37年早く川を渡った。その理由を、私は資料の中から三つ拾った。
一つ目は、川そのものだ。多摩川は勾配の急な暴れ川で、江戸時代には軍事上と技術上の理由から橋より渡しが主流だった。東海道の六郷でさえ、橋は何度も流された。
二つ目は、橋をつくる力だ。江戸の中期以降、青梅より下流の多摩川で最初の永久橋は、明治5年の鉄道橋だった。道路の六郷橋は明治6年に架かったものの、洪水のたびに壊れて明治36年に廃止された。頑丈な橋脚を川に据える力を最初に持ったのは、鉄道だった。
三つ目は、町の意志だ。立川市の資料によれば、甲武鉄道ははじめ甲州街道や青梅街道に沿って敷く計画だったが、沿道の住民の強い反対で実現せず、鉄道に注目した立川村や砂川村の人々が誘致に動いて、いまの線路が敷かれた。汽車が立川で川を渡ったのは、立川の人が汽車を呼んだからでもある。
立川は、何もない町だと言われることがある。だが、この町の南の縁には、鎌倉の滅亡で失業した渡しがあり、自動車を舟で運んだ渡しがあり、明治22年の煉瓦の脚でいまも電車を支える鉄橋があり、将軍の鮎と昼の鵜飼と砂利の鉄道があった。駅前の地面の下には、名付けられて11年で姿を隠した川が眠っている。
新宿から中央線で一本、川崎からなら南武線で一本。その南武線は、もとは多摩川の砂利を運ぶために生まれた鉄道である。週末、その線に揺られて来て、立日橋の上から上流と下流の橋を見比べてみるといい。
日野橋の上流に立日橋、その上流に中央線の鉄橋。三本の橋が、三つの時代の顔をして並んでいる。そのあいだを、多摩川は今日も、何事もなかったような顔で流れている。
寄り道クイズの答え
答えは(B)中央線の鉄橋。甲武鉄道の多摩川の鉄橋は明治22年(1889)に完成し、8月11日から使われた。道路の日野橋の開通は大正15年(1926)、立日橋の部分開通は平成元年(1989)である。汽車は、人が歩いて渡れる橋より37年早く、立川の多摩川を越えていた。
訪ねる前に
- 立日橋と中央線の鉄橋: 多摩モノレールの柴崎体育館駅と甲州街道駅が、立日橋のそばにある。立日橋の上流側に中央線の多摩川の鉄橋が、下流側に日野橋が架かっている。多摩モノレールでは、立川南駅の次が柴崎体育館駅だ。
- 日野の渡し碑と多摩川緑地: 錦町の下水処理場の敷地の角に、日野の渡しの記念碑が立つ。立川市の「たちかわウォーキングマップ」は、柴崎市民体育館から根川緑道、普済寺、多摩川サイクリングロードと日野の渡し碑をめぐる約4.5キロのコースを紹介している(特集の根川と多摩川の回を参照)。
- 日野橋は架け替えの工事中で、令和7年5月から交通は仮橋を通っている。規制の最新は立川市の案内で確かめてほしい: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kurashi/kotsu/1001934/1024379.html
- 多摩川の歴史年表(京浜河川事務所): 江戸から平成までの水害と橋と渡しの記録が読める: https://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/keihin_index036.html
- 多摩川の渡しと橋の一覧(京浜河川事務所): https://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/keihin00592.html / https://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/keihin00613.html
- 多摩川の鮎漁や鵜飼の道具は、立川市歴史民俗資料館の資料「多摩川の漁法と漁具」で見られる。資料館(富士見町3-12-34)の開館の時間と休館日は市の施設案内で: https://www.city.tachikawa.lg.jp/shisetsu/1008065/1008098.html
- 大雨のときの河川敷は危ない。多摩川の水位は京浜河川事務所のリアルタイム情報で確かめられる。増水のときは河川敷に下りないこと。
- 都心と神奈川から: 新宿からはJR中央線快速で立川まで乗り換えなし(30分台)。神奈川からは、川崎からJR南武線で乗り換えなし(立川まで約1時間)。時刻と所要時間はJR東日本の公式で確かめてほしい。
- 組み合わせるなら: 立日橋から多摩川沿いに日野橋の方へ下り、根川緑道を通って立川駅南口へ戻ると、渡しと橋と埋め立てられた川を一度にたどれる。
川を歩いたあとは、立川駅北口で
多摩川の土手は風が通る。立日橋から日野橋、根川緑道まで歩くと、体は思った以上に冷えていることがある。
立川駅に戻ったら、北口から徒歩1分のところにオンザショア立川店がある。住所は立川市曙町2-14-10、エトロワビル3階。溶岩プレートを敷いたスタジオで行うホットヨガのスタジオだ。常温のヨガやピラティスのほか、女性専用のキックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、パーソナルトレーニングもある。ヨガだけで25種類以上のレッスンがそろう。
営業は8時から23時30分まで、年中無休で曜日による違いはない。朝に土手を歩いても、日が暮れてから駅へ戻っても間に合う。
はじめての人のためのヨガの体験レッスンは税込1,980円。60分のレッスンに、バスタオル2枚、フェイスタオル1枚、ヨガマットのレンタルが含まれている。歩いた帰りに、ほとんど手ぶらで寄れる。
妊娠中の人は溶岩ホットヨガには参加できないが、常温のマタニティヨガがある。医師から運動を止められている人は利用できない。
料金の詳細は https://ontheshore.jp/price/ 、店の案内は https://ontheshore.jp/ 、体験の予約は https://site.locaop.jp/C0aVK?_src=hp から確かめられる。
かつてこの北口は、雨の日に水に浸かった。いまは晴れの日も雨の日も、乾いた駅前の階段を上るだけでいい。
冒頭の写真: 多摩川に架かる立日橋。立川市柴崎町と日野市を結ぶ(写真: トダジー / CC BY 3.0 / Wikimedia Commons)
この記事の情報は2026年10月時点のものです。
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