国分寺散歩 お鷹の道と真姿の池、武蔵国分寺跡を立川から歩く 「はけ」は立川から始まっていた

立川から中央線で歩きに行く国分寺散歩のルポ。名水百選のお鷹の道・真姿の池湧水群、全国最大級の金堂と雷に焼かれた七重塔の武蔵国分寺跡、幅12メートルの古代道路・東山道武蔵路、殿ヶ谷戸庭園まで。国分寺崖線(はけ)が立川から始まることや、昭和の国鉄の学校と横に飛んだロケットの話も公式資料でたどる。

国分寺崖線は、国分寺から始まらない。

東京学芸大学が小学校の先生向けにまとめた教材に、こんな一文がある。国分寺崖線は、立川市から世田谷区にかけて約30キロつながっている。

私は二度読んだ。国分寺崖線。多摩の人が「はけ」と呼ぶ、武蔵野の段差のことだ。湧き水と雑木林と、名水百選の池の舞台である。その崖に、国分寺の名がついている。なのに、始まりは立川だという。

立川に住んでいて、自分の街に「国分寺崖線の起点」があると知っている人は、どれくらいいるだろう。私は知らなかった。隣の隣の街の名を冠した崖が、うちの街から出発している。なぜ崖は国分寺の名で呼ばれ、なぜ古代の国分寺は、その崖の下に建てられたのか。それを確かめに、中央線に乗った。

国分寺散歩の前に、立川の砂川九番から始まる崖

まずは地形の話をしておきたい。そうしないと、国分寺の水の話が半分しか分からない。

東京都建設局の野川の河川整備計画は、武蔵野台地の成り立ちを次のように説明する。台地は古多摩川がつくった扇状地性の河成段丘で、古いほうから多摩面、下末吉面、武蔵野面、立川面などに分けられる。古多摩川は武蔵野面をつくったのち、数万年前から約3万年前にかけて立川面をつくった。そのとき武蔵野面を削ってできた崖が、国分寺崖線である。

つまり、こういうことだ。上の段が武蔵野面、下の段が立川面。その境目の段差が国分寺崖線。崖の下に広がる平らな土地は、名前からして立川の側に属している。

では、崖はどこから始まるのか。百科事典の武蔵野台地の項目によれば、国分寺崖線は立川市の五日市街道の砂川九番交差点付近に始まり、JR中央線を国立駅の東側で横切って国分寺市へ入る。そこから小金井、三鷹、調布、世田谷を経て、大田区の嶺町付近まで続く。世田谷の等々力渓谷も、この崖線の一部だという。学芸大の教材の「立川市から世田谷区にかけて約30km」と、ちょうど重なる。

砂川九番。立川の北の端、玉川上水と五日市街道の近くだ。この特集の玉川上水と砂川の記事で歩いた、短冊形の屋敷が並ぶあたりである。あの平らな畑の続く砂川で、東京でいちばん有名な崖の一つが、そっと始まっている。最初はほとんど段差にも見えないような、ささやかな始まりなのだろう。大河の源流が、たいてい拍子抜けするほど細いのと同じように。

「はけ」という言葉の由来について、学芸大の教材は、語源には諸説あるとしたうえで「水を吐く」、すなわち湧水を意味する、という説を紹介している。大岡昇平の小説『武蔵野夫人』の冒頭にも、はけの説明が出てくるという。

崖の途中から、水が吐き出される。都建設局の資料はその仕組みも書いている。武蔵野面に降った雨は地下にしみこみ、礫層を流れ、その一部が国分寺崖線から湧き水として出てくる。それが野川の主な水源になる。崖線には、湧き水が崖を削り込んでできた、のこぎりの歯のような小さな谷がいくつもある。それを「はけ」と呼ぶのだ、と。

崖は、地下水の切り口である。その切り口から水が出るところに、人は住み、寺を建てた。国分寺の話は、そこから始まる。

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中央線で立川から国分寺へ、同じ日に生まれた二つの駅

立川から国分寺までは、中央線で一本だ。快速なら国立、西国分寺の次が国分寺。中央特快なら、立川を出ると次はもう国分寺に停まる。

この二つの駅には、ちょっとした因縁がある。百科事典の駅の項目によれば、国分寺駅は明治22年(1889)4月11日、甲武鉄道の新宿と立川の間が開通したのと同時に開業した。立川駅の開業も同じ日である。立川駅と国分寺駅は、同じ日に生まれた双子のような駅なのだ。片方は多摩の巨大な乗り換え駅に、片方はJR中央線と西武線が交わる駅になった。国分寺市の観光サイトは、市内をJR中央線、武蔵野線、西武国分寺線、多摩湖線が縦横に走ると紹介している。

同じサイトは、国分寺市が東京都の中心、つまり重心に位置する、東京の「へそ」だと胸を張る。東京の重心。立川から来た旅人は、隣の隣の街が東京全体のへそを名乗っていることに、少しだけ気圧される。話の規模が一回り大きい。

国分寺駅の北口には、近く小さな銅像が立つ予定だ。国分寺市によれば、アニメ制作会社のタツノコプロは昭和37年(1962)に国分寺市内で創業し、半世紀にわたって数多くの名作アニメが国分寺で生まれた。市は「昆虫物語みなしごハッチ」の主人公、ハッチの銅像を北口の駅前広場に設けるため、令和8年10月からクラウドファンディングを始めた。高さは台座を含めて120センチ。子どもから大人まで、手をつなげる大きさにしたという。除幕は令和9年3月下旬の予定だ。市はまた、昭和35年(1960)には、さいとう・プロダクションも市内で設立されたと書いている。

ミツバチの少年と劇画。国分寺は、湧き水と古代の寺の街であると同時に、日本のアニメと劇画の揺りかごの一つでもあった。

駅の南口を出て、南西へ歩く。少し行くと、道は下り坂になる。坂を下りきったところが、崖の下だ。

お鷹の道、尾張徳川家の御鷹場を流れる水

崖の下の小道に入ると、空気が変わる。

崖の下を湧き水の流れに沿って続く国分寺市のお鷹の道
崖の下を湧き水の流れに沿って続く国分寺市のお鷹の道
写真: DiKnK8713 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

足もとを、澄んだ水が流れている。両側は雑木林で、片側は崖が立ち上がっている。国分寺市の観光サイトによれば、ここはケヤキ、イヌシデ、スギ、コナラなどが多く見られ、古くからの雑木林の景観が残された地域だという。

お鷹の道。名前の由来を、市の観光サイトはこう説明する。江戸時代、このあたりが尾張徳川家の御鷹場に指定されていた。御鷹場とは、将軍家や徳川御三家などが鷹狩りをするための場所だ。尾張の殿様の鷹が、この崖の上を舞っていたことになる。いまこの道を歩いているのは、鷹ではなく、散歩の人と、ときどき鯉を眺める子どもたちである。

遊歩道として整備されているのは約350メートル。水は国分寺崖線から湧き出し、真姿の池を経て、野川の支流のひとつ、元町用水へ流れ込む。用水路はお鷹の道に沿って流れ、都市の中の貴重な水辺として親しまれている。市は、沿道には春から初夏にかけてカラーの花など四季の植物が咲き、ホタルも彩りを添えると書く。

東京都環境局の「東京の名湧水57選」は、お鷹の道・真姿の池湧水群を、市街地に残された貴重な湧水群、年間を通じてほぼ変わらない豊富な水量で、環境省の名水百選にも選ばれている、と紹介している。百科事典によれば、名水百選への選定は昭和60年(1985)。湧水群は東京都の指定名勝でもある。

そして、ここで立川との縁がもう一つ見つかる。東京の名湧水57選のリストには、立川市の矢川緑地も並んでいるのだ。この特集の矢川とはけの記事で歩いた、立川崖線の下の湧き水である。立川の水と国分寺の水は、同じ名簿に名を連ねている。

国分寺市の観光サイトには、こんな一文もある。国分寺市民が口をそろえて「国分寺市観光一番のおすすめ」と話すのが、このお鷹の道・真姿の池湧水群だ、と。市民が口をそろえる。全員に聞いて回ったのかと少し気になるが、歩いてみると、反論する気は起きない。

お鷹の道の流れは、やがて野川になり、多摩川へ注ぐ。都建設局によれば、野川の流域に関わる区市には、世田谷区、狛江市、調布市、三鷹市、武蔵野市、小金井市、府中市、国分寺市、小平市、そして立川市が含まれている。国分寺の水の話に、立川の名前がまた出てくる。崖の始まりだけでなく、水の行き先の帳簿にも、立川は載っているのである。

真姿の池、絶世の美女が姿を取り戻した伝説

お鷹の道の途中に、小さな池と弁財天のお堂がある。真姿の池だ。

名前には伝説がある。国分寺市の観光サイトによれば、嘉祥元年(848)、不治の病に苦しんでいた絶世の美女、玉造小町が、病気平癒を祈って国分寺を訪れ、21日間参詣した。すると一人の童子が現れ、池で身を清めるよう告げた。そのとおりにすると病が癒え、元の美しい姿に戻った。真の姿に戻った池。それで「真姿の池」だという。

21日間も通い続けた根気には頭が下がる。私なら3日目に、途中の茶店で団子を食べて帰っているだろう。伝説の美女にはなれない理由が、よく分かる。

伝説はさておき、池の水は本当に澄んでいる。市は、水は清らかで透明度が高く、鯉が泳ぐ姿も見られると書く。年間を通じて水量がほとんど変わらない湧き水は、夏には冷たく感じ、冬には手を入れると少しぬるく感じるはずだ。地下を長く旅してきた水は、季節の変化に鈍いのである。

真姿の池のすぐ近くに、有料公園施設の「おたかの道湧水園」がある。国分寺市の歴史公園ガイドブックによれば、平成21年(2009)10月18日に開園し、江戸時代に国分寺村の名主を務めた旧本多家の屋敷の跡にある。園内の建物の1階が武蔵国分寺跡資料館で、旧本多家住宅の長屋門は江戸末期の建物だという。入園料は、自然環境を大切に残していくための維持管理費にあてられている。

資料館には、武蔵国分寺の推定復元模型がある。北に国分寺崖線、西に東山道武蔵路、東に旧野川。崖と水と道に囲まれた寺の姿が、一目で分かる。

数字で読む国分寺

  • 30 ── 国分寺崖線のおよその長さ(キロ)。出発地は立川。国分寺は途中の駅にすぎない。
  • 350 ── お鷹の道の遊歩道の長さ(メートル)。全部歩いても、鯉と見つめ合う時間のほうが長い。
  • 60 ── 武蔵国分寺の七重塔の推定の高さ(メートル)。奈良時代の武蔵野で、いちばん目立った建物。
  • 19 ── 金堂の基壇に残る古代の礎石の数。本来は36個あった。残りの17個の行方は、礎石に聞くしかない。
  • 12 ── 東山道武蔵路の道幅(メートル)。いまの片側2車線の道路並みの幅を、1300年前の人は歩いていた。
  • 23 ── 昭和30年に国分寺で発射された日本初のロケットの全長(センチ)。定規より少し長い。

旅人の寄り道クイズ

武蔵国分寺の七重塔は、どれくらいの高さがあったと考えられているだろう。

(A)約20メートル (B)約60メートル (C)約120メートル

答えは記事の終わり近くで明かす。

武蔵国分寺跡、全国最大級の金堂と雷に焼かれた七重塔

お鷹の道から崖の下を少し歩くと、視界が急に開ける。芝生の広がる平地に、古い建物の基壇と礎石が並んでいる。武蔵国分寺跡だ。

国の史跡に指定されている国分寺市の武蔵国分寺跡
国の史跡に指定されている国分寺市の武蔵国分寺跡
写真: DiKnK8713 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

国分寺市の歴史公園ガイドブックによれば、奈良時代の天平13年(741)、聖武天皇は仏教の力で国を安定させるため、諸国に国分寺の建立を命じた。武蔵国では湧水の豊かな国分寺崖線を背にして、東山道武蔵路の東側に僧寺、西側に尼寺を置いた。武蔵国は多磨郡をはじめとする21の郡からなり、造営には国内の人々の力が総結集された。完成は天平宝字年間(757〜765)ごろと考えられるという。

多磨郡。立川も、この郡の内にあった。1300年前、いまの立川のあたりに暮らしていた人々も、この大工事と無縁ではなかったはずだ。

なぜ、ここだったのか。国分寺市の観光サイトは理由を挙げている。府中に国府があったこと、上野国と武蔵国府を結ぶ東山道武蔵路が通り交通の便が良かったこと、そして風水の好適地「四神相応の地」であったこと。東には野川が流れ、南には立川段丘面の平地、西には東山道武蔵路、北には国分寺崖線の段丘崖。

南には、立川段丘面の平地。冒頭の謎の半分が、ここで解ける。国分寺は、崖を背にし、立川の名を持つ平らな段丘の上に建てられた寺だった。崖からは水が湧き、前には広い平地がある。寺を建てるにも、人が暮らすにも、これ以上の場所はない。崖が「国分寺」の名で呼ばれるのは、この寺がこの崖の、いちばんの見せ場に陣取ったからなのだろう。

ガイドブックの数字を拾っていくと、寺の大きさに驚く。金堂、講堂、中門などの中枢部は、塀と溝に囲まれて東西約156メートル、南北約132メートル。中門から南へ約60メートル離れて南門、東へ約200メートルのところに七重塔がそびえた。寺を支えた集落は、金堂を中心に東西約2キロ、南北約1.5キロに広がっていたという。

金堂は7間×4間の礎石建物で、軒の出は約4.8〜5.1メートルと想定され、国分寺の金堂としては全国でも最大級の規模と荘厳さを誇っていた。基壇に本来36個据えられていた礎石のうち、19個がいまも残っている。

七重塔には、国を守るために金字で書かれた経典が納められ、高さは60メートルほどあったと考えられている、と市の観光サイトは書く。そして、雷が落ちて焼失し、十数年後に再建されたことが分かっている。百科事典は、『続日本後紀』によれば承和2年(835)に落雷で焼け、承和12年(845)に男衾郡の大領だった壬生吉志福正が私費での再建を申し出て許された、と伝える。

自腹で七重塔を建て直す地方の豪族。いまで言えば、焼けた市役所のタワーを、よその郡の社長が「うちで出します」と言って建て直したようなものだ。どれほどの財力だったのか、想像がつかない。

寺はその後も続いた。ガイドブックによれば、武蔵国分寺は元弘3年(1333)、新田義貞と鎌倉幕府方の分倍河原の合戦の際に焼け、建武2年(1335)に新田義貞の寄進で薬師堂が金堂の近くに建てられて再興したと伝えられる。いまの国分寺の薬師堂は、宝暦年間に現在の場所に建て替えられたと考えられ、本尊の木造薬師如来坐像は国の重要文化財だ。市の観光サイトによれば、例年10月10日に御開帳がある。

境内の万葉植物園には、昭和25年(1950)から13年をかけて当時の住職が集めた、万葉集に詠まれた植物が約160種類ある。住職がこつこつ独力で採集して育て、植物ごとに札を立てたという。13年。真姿の池の21日とは、桁の違う根気である。

武蔵国分寺跡が国の史跡に指定されたのは大正11年(1922)10月12日。大正8・9年の東京府の実地調査を踏まえたものだった。追加指定を重ね、市の観光サイトによれば、府中市域の参道口を含めて165,000平方メートルを超える範囲に広がっている。令和8年8月には、整備を終えた南門の周辺も国分寺市立歴史公園に加わった。

だが、ここまで残るまでには、昭和の危うい時期があった。その話をする前に、寺の西を通っていた、もう一本の古代の道を見ておきたい。

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