福生散歩 横田基地はなぜ横田にないのか、国道16号のアメリカンな街の親は立川飛行場

立川から青梅線で行く福生散歩。横田基地はなぜ「横田」にないのか。1940年に立川飛行場の付属として生まれた多摩飛行場、1969年に立川から移ってきた輸送機、国道16号沿いの1.6キロの商店街、米軍ハウスの白い平屋、そして立川市の中にもある横田基地の土地まで、福生市・東京都・国会の資料でたどる立川発の日帰りルポ。

福生を、初見で「ふっさ」と読める人はあまりいない。そう書いているのは、ほかでもない福生市だ。初見で読める方は残念ですがなかなかいません、と。市役所が自分の街の名前について「残念ですが」と書くのを、私はほかに知らない。

読めない名前の街には、もう一つ、読めない名前がある。横田基地だ。福生市の面積のおよそ3分の1を占める、本土で最大の米空軍基地。ところが福生市の地図をどれほど眺めても、「横田」という町名は見つからない。横田基地は、横田にない。

そして、調べはじめてすぐに、立川に住む者として聞き捨てならない一文に行き当たった。この基地は、そもそも立川飛行場の「付属」として生まれた、というのだ。さらに、いまの横田基地の土地の一部は、立川市の中にある。立川の駅から電車で十数分の街の、あのフェンスの向こうの話が、急に他人事ではなくなった。福生のアメリカの風景は、どこから来たのか。立川を起点に、その来歴をたどってみることにした。

福生散歩の入口、横田基地はなぜ「横田」にないのか

立川駅から青梅線に乗る。拝島で八高線と五日市線が分かれ、その次が牛浜、さらに次が福生だ。拝島までは、福生市の酒蔵の案内によれば快速で約12分。立川の改札を抜けてから、コーヒー1杯が冷めないうちに、窓の外は基地の街になる。

福生市の資料によれば、横田基地は福生市、立川市、昭島市、武蔵村山市、羽村市、瑞穂町の5市1町にまたがる。総面積は約7.136平方キロメートル。東西約2.9キロ、南北約4.5キロ、周囲は約14キロある。そのうち福生市が提供している面積は3.317平方キロメートルで、基地全体の46.5%。福生市の行政面積は10.16平方キロメートルだから、市の32.6%が基地ということになる。市の観光協会は、もっと短く「福生市の東北部およそ1/3」と書く。

では「横田」はどこにあったのか。東京都の資料は、昭和20年10月、民有地を接収して滑走路を延長し、当時の北多摩郡村山町、いまの武蔵村山市の地名を取って「横田飛行場」とされた、と書く。福生市の資料は、少し違う角度から同じ名前を説明する。昭和21年8月15日に公式に基地が開設され、米軍極東地図局が作った地図の中の「YOKOTA」から、横田飛行場と呼ばれるようになった、と。

つまりこういうことらしい。米軍の地図に、隣町の小さな地名が「YOKOTA」と記されていた。その文字が、飛行場の名前になった。福生の土地の半分近くを抱えながら、名前だけは隣から借りている。表札が隣家の苗字になっている家のようなものだ。福生の人がこの名前をどう思ってきたのか、資料は語らない。ただ、名前の由来を説明する文章が、市にも都にも観光協会にも、それぞれ少しずつ違う言い回しで載っているところに、この街が何度もこの質問をされてきた気配がある。

ところで、この基地が「横田」と呼ばれる前の名前がある。多摩飛行場。そしてその名前の向こうに、立川がいる。

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立川飛行場の「付属」として生まれた多摩飛行場

東京都の資料の沿革は、こう始まる。当施設は、昭和15年に旧陸軍立川飛行場の付属施設陸軍多摩飛行場として設置され。福生市観光協会も、1940年(昭和15年)旧帝国陸軍立川飛行場の付属として多摩飛行場が建設されました、と書く。

本土最大の米空軍基地の出生届には、親の欄に立川の名が書いてある。立川に住んでいる人の多くは、たぶんこれを知らない。私も知らなかった。立川の飛行場の歴史は、この特集の別の記事で、桑畑から始まって1977年の全面返還までを追った。その立川の飛行場に、西の台地の上で、もう一つ子どもが生まれていたのだ。

当時の福生は、どんな土地だったのか。福生市は、明治、大正、昭和にいたる福生は、酒造と製糸を地場産業とし、養蚕を中心とした農村地帯でした、と書く。そこへ昭和14年から15年にかけて、市の東北部に陸軍の飛行場が造られ、航空審査部と陸軍整備学校が移ってきた。人口が増え、翌昭和15年に福生村と熊川村が合併して福生町になった。飛行場と町が、同じ年に生まれている。

東京都の資料によれば、昭和17年には陸軍航空審査部が置かれ、陸軍の新鋭機や試作機のテスト飛行が行われていた。新しい飛行機を、まず飛ばしてみる場所。桑畑の村が、ある日から試験飛行の空を抱えることになった。

その名残は、駅にもある。牛浜駅だ。百科事典にまとめられた駅の歴史によれば、1940年に立川飛行場の付属飛行場として陸軍多摩飛行場が作られ、周りに軍の施設が次々にできたため、軍の命令で停留場を新設することになった。急いで開けるために仮の停留場とし、定期券を持つ軍関係者に限って扱った。駅事務所は建坪6.6坪、ホームは角材を井桁に積み上げた長さ70メートルのものだったという。開業は1943年3月1日。一般の人が切符を買えない駅というのは、いまの感覚では少し想像しにくい。改札の前で「定期券をお持ちでない方は」と言われる駅を思い浮かべて、私は自分が真っ先に追い返される側だと気づいた。

では、立川の付属として生まれた飛行場は、なぜ、いつのまにか立川よりも大きな基地になったのか。答えは戦後の、ある発表の中にある。

YOKOTAという名前と、3,350メートルの滑走路

昭和20年9月、多摩飛行場は米軍に接収された。日付は資料によって少しずつ違う。福生市は昭和20年9月6日に米軍の進駐が行われ接収された、と書き、観光協会は9月4日と書く。百科事典は、9月3日に米軍が陸路から来て、6日に正式に引き渡されたとまとめている。終戦直後の数日は、それぞれの記録の中で、少しずつずれて残っている。

横田基地の広い敷地。冬枯れの草地の向こうに、低い建物が遠く並んでいる。
横田基地の広い敷地。冬枯れの草地の向こうに、低い建物が遠く並んでいる。
写真: osekkai / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

接収したときの滑走路は約1,300メートル。東京都の資料によれば、基地の規模は面積446万平方メートル、滑走路1,300メートルだった。そこから基地は大きくなる。朝鮮戦争(昭和25年から28年)のころには、B-29爆撃機や戦闘機が置かれる国連軍の主要な基地となった。軍用機のジェット化と大型化が進み、基地は大幅に広がる。福生市によれば、昭和30年に滑走路とオーバーランの延長が決まり、北側に約50万平方メートルが提供されて、昭和35年には面積約700万平方メートル、滑走路3,350メートルの、ほぼいまの規模になった。

1,300メートルが3,350メートル。15年で2.5倍以上である。滑走路だけでなく、まわりの道も動いた。百科事典は、拡張のときに北側で国鉄八高線や国道16号の経路が変わり、南側で五日市街道が分断された、と書く。そして、このため、この周辺では常時渋滞している、と付け加えている。百科事典に「常時渋滞」と書かれる交差点は、たぶん全国でもそう多くない。

戦後の福生の町は、この基地とともに大きくなった。福生市は、戦後は米軍横田基地を中心に急速な発展を遂げ、商店街は急速に大きくなった、と書く。そのすぐあとに、こう続く。昭和37年頃から基地の町からの脱皮が真剣に考えられ。基地とともに育った町が、育ったそのすぐあとから、基地だけの町であることをやめようとした。この二つの文が隣り合っているところに、福生という街の正直さがあると思う。

1960年に、横田はほぼ今の大きさになった。一方そのころ、親であるはずの立川の飛行場では、拡張をめぐって砂川で大きな争いが起き、1968年には拡張が中止される。親は大きくなれず、子は大きくなった。その差が、1969年のある発表で、はっきりした形になる。

立川の空が福生へ移った、1969年10月3日

昭和47年3月、内閣が衆議院に出した答弁書がある。米軍立川基地についての質問への答えで、その別紙に、在日米空軍が昭和44年(1969年)10月3日に出した発表文の日本語訳が、そのまま載っている。府中基地の第5空軍司令部の名で出されたものだ。

発表文は、立川基地における飛行業務は、近い将来、立川基地の大部分の飛行部隊及び飛行活動が米国又は横田基地に配置転換された後に、終結を予定されている、と始まる。理由は、国防長官が8月に発表した軍事費の削減と、大統領の海外要員10パーセント削減の発表の結果だという。そして具体的な名前が並ぶ。C-130ハーキュリーズ輸送機を持つ第815戦術空輸中隊は撤退する。民間契約の輸送会社エアーアメリカは、間もなくその業務を、徐々に、横田基地に移動する。第36宇宙救援回収中隊などは横田基地に配属され、第609兵員空輸支援中隊は活動を止め、その兵員は横田基地の第610中隊に配属される。

「宇宙救援回収中隊」という部隊名が、1969年の立川にあった。アポロ11号が月に降りた年である。立川の空にも、宇宙の気配が少しだけ漂っていたらしい。

福生市の年表は、同じ出来事を福生の側から短く書いている。昭和44年末、立川基地の飛行活動停止に伴い空輸部隊(C-130)等が移駐し、翌昭和45年には米空軍最大の輸送機C-5A(ギャラクシー)が発着を始めた。立川から飛行機が去った年、福生の空には、それより大きな飛行機が来た。

この先の流れは、立川の記事で書いたとおりだ。1977年11月30日、立川基地は全面返還され、跡地はいま、国営昭和記念公園や広域防災基地になっている。立川の芝生の上を米軍の大きな輸送機が飛ばなくなったのは、その飛行機たちが西の福生へ移ったからでもある。立川の空と福生の空の行く末は、同じ一枚の発表文から分かれている。

数字で読む横田基地と福生

ここで、確かめた数字をいくつか並べておく。

数字で読む〈横田基地と福生〉

  • 32.6 — 福生市の行政面積のうち、横田基地が占める割合(%)。市の3分の1が、入れない場所である。
  • 3,350 — 横田基地の滑走路の長さ(メートル)。接収したときは約1,300メートル。15年で2.5倍以上に伸びた。
  • 0.29 — 横田基地のうち、立川市が提供している面積(平方キロメートル)。立川市の面積の1.2%。立川は、いまも横田基地のある街の一つだ。
  • 6.6 — 牛浜駅が仮停留場だったころの、駅事務所の広さ(坪)。軍関係者の定期券だけが通れた。
  • 62 — 令和3年3月31日現在、福生市に住む人の国籍の数。観光協会は国旗とともに一覧にしている。日本を入れると63。
  • 810 — 基地の中にスタジオがある米軍放送 AFN Tokyo の AM の周波数(kHz)。観光協会によれば、かつてはFEN(極東放送)と呼ばれていた。

立川の名前が、三つ目に出てくる。福生市の資料の表によれば、横田基地の土地のうち、立川市の分は0.29平方キロメートルで、基地全体の4.1%。昭島市の0.021平方キロメートルより、ずっと大きい。立川は1977年に自分の基地を返したが、隣の基地の端は、まだ抱えている。1996年に東京都と立川市を含む5市1町が「横田基地に関する東京都と周辺市町連絡協議会」をつくったのも、立川がこの基地の当事者だからである。

数字の上では、立川と横田は親子で、いまは地主と店子のような関係でもある。だが、福生の街を歩くとき、私たちが目にするのはフェンスの内側ではない。外側だ。国道16号の、あの長い通りである。

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