立川で始まった「日本初」 世界初の量産電気自動車、全国初の女性議長、サザエさん裁判

立川で始まった日本初・全国初・東京初・多摩初を、市の年表、議会の記録、判決文までたどる散歩ルポ。立川の飛行機屋がつくった世界初の量産電気自動車「たま」、昭和36年の全国初の女性市議会議長、漫画キャラクターの著作権が争われたサザエさんバス裁判、全国初の3連単、ヒマラヤに登った女子高生まで、「初」の数え方の但し書きも添える。

全国で最初の女性の市議会議長は、立川の議場に座った。市の年表は、そのことを小学校の開校と同じ大きさの活字で、一行だけ書いている。

立川市の年表を、昭和から順に指でたどっていく。

ほとんどは小学校の開校や会館のオープンで、読んでいてあくびが出そうになる。ところが、ときどき指が止まる。「日本最初の定期航空を開始」。「全国初の女性市議会議長が選ばれる」。「都下で初の立川交通相談所開所」。大事なことほど、市の年表は一行で済ませる。前後の「市立第○小学校開校」と同じ活字の大きさで、さらりと書いてある。

これだけ「初」があるのに、立川の人が「うちが日本初だ」と言うのを、私はあまり聞いたことがない。立川には、本当はいくつの「初」があるのか。そして、その「初」は本当に初なのか。地元の人も自慢しそびれてきた「初」を一つずつ拾い、ついでに疑ってみることにした。疑うのは、好きだからである。

立川の「日本初」、まずは空から——そして最初の但し書き

立川の「初」の話は、どうしても空から始まる。この特集のほかの回でも触れてきたので、ここでは手短にまとめておく。

市の年表によれば、昭和2年(1927)、ソ連の親善機が立川飛行場に飛来した。立川に来た最初の外国機で、この後、外国機の飛来が相次ぎ、立川飛行場は「国際空港」となる。昭和4年(1929)には、日本航空輸送株式会社が立川と大阪のあいだで「日本最初の定期航空」を始めた。百科事典の日本航空輸送の項によれば、この東京と大阪を結ぶ路線の料金は35円、平均の搭乗時間は約3時間で、東京の拠点は昭和6年(1931)に羽田へ移るまで立川だった。

ここで、さっそく但し書きをつけたい。同じ百科事典には、大阪の堺に、大正11年(1922)に設立された日本航空輸送研究所という民間の航空会社があり、水上飛行機で郵便や貨物、旅客の定期航空路を飛ばしていたと書かれている。つまり立川の「日本最初」は、国の後押しで生まれた全国規模の会社による、陸上の飛行場からの東京と大阪の定期便としては最初、と読むのが正確だろう。「初」は、どこまでを数えるかで、ときどき形を変える。この記事では、そういう但し書きも、隠さずに添えていくつもりだ。

空の「初」の時代には、地上の珍事もあった。市の年表の大正13年(1924)の項には、立川町の町制施行を記念して、立川飛行場で自動車レースが開かれたとある。飛行機のための広い平らな地面を、自動車が走り回った。立川の平らさは、昔から何にでも使われてきたのだ。

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世界初の量産電気自動車「たま」は、立川の飛行機屋がつくった

空の次は、地面を走る話である。しかも、思いがけないほど大きな「初」だ。

JR立川駅の駅ナカ商業施設、エキュート立川(2009年12月撮影)。
JR立川駅の駅ナカ商業施設、エキュート立川(2009年12月撮影)。
写真: ITA-ATU / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

敗戦で飛行機を作れなくなった立川飛行機の技術者たちが、自動車へ向かったことは、この特集の立飛の回でも書いた。ここで付け加えたいのは、彼らが最初に作ったのが電気自動車だったこと、そしてその車が「世界初の量産電気自動車」と呼ばれていることである。百科事典のたま電気自動車の項は、日本機械学会誌の「世界初の量産電気自動車『たま』」と題した記事を引いて、そう紹介している。

自動車の歴史に詳しい書き手が、三樹書房のウェブ連載で、その経緯を細かく書いている。敗戦のとき、ガソリンは統制されていて手に入りにくかった。そこで立川飛行機は、電気で走る車を選んだ。モーターを日立製作所と神鋼電気に、電池を湯浅電池に頼み、昭和21年(1946)11月、系列の会社のトラックを土台にした最初の実験車を2台完成させる。ところが、その直後に工場が米軍に接収されてしまった。

ここで、元立川飛行機の試作工場長だった外山保を中心とする200人ほどが独立を決める。府中町の空いた工場を借り、昭和22年(1947)4月にトラック、5月に乗用車を完成させた。車の名前は、地名にちなんで「たま」。6月には、のちのプリンス自動車工業となる東京電気自動車を設立する。連載によれば、当時は車が極端に不足していて、定価35万円ほどの車にプレミアムが付き、45万円で売れたという。

性能も本物だった。昭和23年(1948)3月、商工省の主催で電気自動車の性能試験が大阪の高槻で行われ、「たま」は乗用車もトラックも、ほかを大きく引き離してトップの成績を取った。連載が引く記録では、このときの乗用車は1回の充電で96.3キロを走り、最高速度は時速35.2キロだった。いまの感覚では原付ほどの速さだが、戦後まもない道では、これで十分に新しかった。同じ年の9月、小田原での2回目の試験では、新型の「たま セニア」が1回の充電で231.5キロを走る新記録を出している。

いちばん面白いのは電気代の話だ。昭和24年(1949)ごろのカタログには、1キロ走るのに要する電気代が50銭と書かれていた。連載の計算では、当時のガソリン車は1キロあたり1円80銭ほどで、電気自動車の費用はその3分の1以下だったことになる。

それなのに、「たま」は消えた。昭和25年に朝鮮戦争が始まると、電池に使う鉛の値段が暴騰し、逆にガソリンは米軍から大量に放出された。連載によれば、たま電気自動車は合計1,099台が作られ、昭和26年(1951)6月に生産を打ち切った。会社はガソリン車へ転じ、やがてプリンス自動車として、そして日産自動車の一部として、別の歴史を歩みはじめる。

あのころ、立川の飛行機屋がつくった電気自動車は、鉛の値上がりに負けた。いま、電気自動車は世界中の街を静かに走っている。連載は、その日産から2010年に新世代の電気自動車が発売されたことに触れて結ばれている。60年早すぎた車を作ったのは、立川の飛行機の技術者たちだった。その「たま」の乗用車は、令和7年(2025)のジャパンモビリティショーにも展示され、会場で写真に撮られている。80年近く前の電気自動車が、未来の車の見本市に並んだのである。

但し書きも添えておく。工場があったのは府中で、名前の「たま」は多摩の地名から取られた。立川の名を冠した車ではない。ただ、それを作った人と技術は、まぎれもなく立川の飛行機工場から来ている。

全国初の女性市議会議長、昭和36年の立川市議会

もう一度、市の年表に戻る。昭和36年(1961)の項に「全国初の女性市議会議長が選ばれる」とある。

この特集の歴史の回でも一行だけ触れたが、誰が選ばれたのかまでは、年表は書いていない。そこで市議会の「歴代議長」の一覧を開いてみた。昭和36年に新しく就任した議長は一人しかいない。第14代、小川良。就任は昭和36年11月25日、退任は翌年の6月9日である。年表の「全国初」と、議会の一覧の日付を重ねれば、この人が全国で最初の女性の市議会議長だったと読める。

半年あまりの在任だった。それでも、全国のどの市議会よりも先に、女性が議長の席に座ったのが、立川だったことになる。昭和36年の立川は、駅の北に米軍の基地を抱え、隣の砂川町とは合併の話し合いが進んでいた。年表をめくると、同じ年に下水道事業が始まり、東京消防庁の第8方面本部が高松町に置かれている。街のあちこちで工事の音がしていた年に、議場でも新しいことが起きていた。

あのころの市役所は、昭和33年(1958)に錦町に落成したばかりの庁舎だった。いま、市役所は泉町に移り、錦町に残った庁舎のうち、老朽化した第1庁舎は解体され、昭和45年(1970)にできた第2庁舎が改修されて、立川市子ども未来センターと立川まんがぱーくになった。全国初の女性議長が生まれた役所の跡で、いまは畳敷きの床の上で、子どもたちが漫画を読んでいる。

名前の読みも、経歴も、私はまだ確かめられていない。年表に一行、議会の一覧に一行。その二行のあいだに、きっと誰かが書き残すべき物語がある。立川の人が自慢しそびれてきた「初」の、たぶん筆頭だ。

都下で初の交通相談所と、昭和の立川の道

昭和の立川の年表には、交通の話がやたらに多い。

昭和37年(1962)、立川市と国立町、砂川町、村山町、大和町の1市4町が「交通安全都市」を宣言し、毎月20日を交通安全日と定めた。同じ年、立川駅の東の踏切に地下道ができ、中央線と立体交差する陸橋「ふじみ橋」も完成している。昭和39年(1964)には、立川駅の構内で無人のタンク車が暴走して火災を起こす事故があった。そして昭和40年(1965)、年表は「都下で初の立川交通相談所開所」と記す。

市の年表に添えられた写真の題も、時代を語っている。「昭和33年当時の市庁舎から立川通りへ出る乗用車の列」。車の列が、わざわざ写真に撮って残す光景だった時代があったのだ。

あのころの立川は、踏切と陸橋と車の列の街だった。いま、駅の北と南は歩行者のデッキで結ばれ、上をモノレールが走っている。市の年表によれば、駅の南口と北口の歩行者専用デッキが開通したのは平成17年(2005)である。車の列を写真に撮っていた街は、40年あまりで、人が車の上を歩く街になった。都下で最初に交通の相談窓口を開いた街は、交通に悩んだ分だけ、道の使い方を考え抜いた街でもある。

電灯、電話、映画館——立川の暮らしの「初めて」

「日本初」ばかりが「初」ではない。市の年表には、この街の暮らしが初めて何かを手にした日も、律儀に書きとめられている。

大正4年(1915)、立川村に電気の供給が始まった。大正10年(1921)、電話が開通した。大正14年(1925)、立川で最初の映画館「立川キネマ」が開き、同じ年に立川女学校が開校した。昭和23年(1948)には民家へのガスの供給が始まり、昭和26年(1951)には上水道の事業が始まる。同じ昭和26年の項には、市営の競輪場の開設と並んで、小学校の完全給食の実施が書かれている。下水道の事業が始まるのは、全国初の女性議長が選ばれたのと同じ昭和36年(1961)だ。

並べてみると、立川は「空の都」と呼ばれたころでさえ、電話も来たばかりの村だったことが分かる。飛行場の開設は大正11年(1922)、電話の開通はその前の年である。電話が通じた翌年に飛行場ができ、上水道の事業が始まる四半世紀近く前に「国際空港」の名がついた。順番が少し変わっている。その変わった順番こそが、立川という街の生い立ちなのだろう。

村は、やがて市になる。市の年表によれば、立川町が市制を施行したのは昭和15年(1940)。百科事典は、東京市、八王子市に次いで東京府で3番目の市で、東京府の時代に市になった最後の自治体でもあったと書く。3番目にして最後。表彰台の銅メダルと、閉店間際の滑り込みを同時に手にしたような記録である。

市の「第1号」も年表に残っている。昭和47年(1972)、富士見児童館が開館し、これが児童館の第1号。昭和58年(1983)には滝ノ上会館が、学習等供用施設の第1号として開いた。どの街にもある施設にも、それぞれの街の「最初の一つ」がある。

数字で読む立川の「初」

  • 35 — 昭和4年、立川と大阪を結んだ定期便の料金(円)。約3時間の空の旅だった。
  • 50 — 「たま」が1キロ走るのに要した電気代(銭)。ガソリン車の3分の1以下。60年早すぎた節約術である。
  • 1,099 — 作られた「たま」の台数。世界初を名乗るには、十分すぎる数だった。
  • 14 — 全国初の女性市議会議長が、立川市議会の何代目だったか。
  • 27 — 立川バスの「サザエさん」の顔を描いた観光バスの台数(昭和39年)。始まりは1台だった。この話は次のページで。

旅人の寄り道クイズ

立川飛行機の技術者たちが作った電気自動車「たま」。その名前の由来はどれか。(A)開発者の娘の名前(B)工場のある土地の地名(C)丸みを帯びた卵形の車体。答えは、実はもう本文に書いてある。読み飛ばした人のために、最後にも置いておく。

空と道の「初」を拾い終えたところで、次は法廷へ向かう。立川のバス会社が、国民的な漫画家に訴えられた話である。

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