東京で最初のIKEA、東京初のシネコン、伊勢丹の最初の支店。なぜ「東京初」は立川に集まるのか。伊勢丹の社史が書いた1947年の出店理由、1968年の地理学の論文、IKEAの店の立地、国と都の計画、昼夜間人口の統計から、広い土地・30キロの距離・多摩の結節点・外を迎える街という4つの理由をたどるルポ。
東京で最初のIKEAは、渋谷でも新宿でもなく、立川に建った。東京で最初のシネコンも、立川の北口で生まれた。新宿の伊勢丹が、戦後はじめて支店を出した街も立川だった。
「東京で最初」の店や施設を調べていくと、なぜか立川の名前ばかりが出てくる。1,400万人が暮らす大都会の、地図でいえば西のほう。都心から中央線に乗ってきた人が、そろそろ遠くまで来たなと思いはじめるあたりである。
私ははじめ、偶然だろうと思っていた。たまたま空いた土地があり、たまたま店が来た。それだけの話だろう、と。だが、伊勢丹の社史の一節と、半世紀以上前の地理学の論文と、IKEAの店の一覧を並べてみると、どうも偶然では片づかない。立川には、新しいものが東京へ入ってくるときの、決まった通り道のようなものがあるらしい。
なぜ大都会の東京で、西の街に「初」が集まるのか。会社が書き残した理由と、学者が測った数字と、国と都の計画書をたどって、その答えを探してみることにした。
立川の「東京初」はなぜ多いのか——まず、数えてみる
この特集では、立川の「初」をすでに一度拾い集めている。ここでは手短に並べ直すだけにとどめる。
昭和4年(1929)、立川と大阪のあいだで日本最初の定期航空が始まったと市の年表は書く。昭和22年(1947)には伊勢丹が最初の支店を立川に開き、その店は中央線の沿線で初めての百貨店として注目された。昭和31年(1956)には駅の北口で稲毛屋がセルフサービスを取り入れ、都下で最初のスーパーマーケットになった。昭和40年(1965)には都下で初めての交通相談所が開いた。平成6年(1994)には東京初のシネマコンプレックス、シネマシティ。平成19年(2007)には、改札の外にまで店を構えた初めてのエキュート。平成26年(2014)には都内で最初のIKEA。翌年には、多摩地域で初めてのららぽーとが立飛駅の前に開いた。
こうして並べると壮観だが、但し書きも要る。
まず、東京の「初」が全部立川にあるわけではない。たとえば、都内でいちばん古いコストコは、立川ではなく町田市の多摩境店で、平成14年(2002)に開いている。もうひとつ、「初」という称号そのものが、ときどき揺れる。百科事典のシネマコンプレックスの項には、「日本初のシネマコンプレックス」を名乗った映画館が、愛知の小牧にも、東京の大森にも、川崎にもあったと書かれている。日本初が三つある。数え方しだいで、「初」は案外たくさん生まれるものらしい。
それでも、立川の「初」の並びには、ひとつの傾向が見える。どれも、それまで都心か、東京の外にしかなかったものが、東京の郊外へはじめて入ってきた瞬間なのだ。百貨店の支店、スーパー、シネコン、IKEA、ららぽーと。東京の外から、あるいは都心から、何か新しいものが多摩へ入ってくるとき、その最初の着地点がしばしば立川になる。
なぜなのか。私は四つの仮説を立てた。都心にはもう無い、広く平らな土地。都心から約30キロという距離。多摩の鉄道が結び合う場所。そして、外から来るものを迎え慣れた街の気風。ただ、仮説を検める前に、先に読んでおきたい資料がある。実際に立川を「最初の一軒」に選んだ会社が、その理由を自分で書き残していたのだ。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
1947年、伊勢丹が最初の支店を立川に出した理由
百科事典の伊勢丹立川店の項は、『伊勢丹百年史』を引いて、戦後すぐの事情をこう書いている。
戦後、伊勢丹の新宿店はGHQに接収された。限られた営業を補うために、伊勢丹は各地に売店を開いた。立川の売店も、そのひとつだった。昭和22年(1947)10月、場所は立川駅の南口、いまの多摩モノレールの柴崎体育館駅から立川南駅のあいだの線路沿いにあたる。店は木造トタン張りの2階建てで、広さは延べ23坪、76平方メートル。家族向けのマンションの一戸ほどの広さだ。売っていたのは、学生を中心にした客向けの文房具や事務用品だった。
日本を代表する百貨店の、記念すべき最初の支店は、文房具屋だったのである。のちに衣料品の扱いが少しずつ増えていったというから、まずは鉛筆とノートで街の様子をうかがったのだろう。
そして、肝心の理由である。社史は、立川がなぜ有望だったのかを、三つの言葉で説明している。立川市は、戦後に人口の増加が著しい三多摩地区の中心に位置していた。官公庁の出先機関が多かった。そのうえ大規模な米軍基地があり、多数の従事者が通勤していた。だから、有望な商業地としての条件を整えつつあった、と。
私はこの一節を読んで、少し驚いた。冒頭で立てた四つの仮説のうち三つが、79年前の出店の理由として、百貨店の社史にすでに書いてあったからだ。三多摩の中心という「結節点」。国の役所の出先という「国が置いたもの」。米軍基地という「外から来たもの」。立川が「初」を引き寄せる理由は、戦後すぐの時点で、商売の勘のいい人たちにはもう見えていたらしい。
文房具の売店は順調に売り上げを伸ばした。昭和27年(1952)2月には北口の木造2階建ての家を借りて移り、延べ166坪、547平方メートルになった。小さいながら、中央線の沿線で初めての百貨店として注目を集めたと社史は書く。昭和31年(1956)4月には、曙町2丁目の鉄筋コンクリート造、地下1階地上5階の建物を借りて、本格的な百貨店として営業を始めた。この地区ではまだ珍しかったエレベーターを2基備え、客の話題を集めたという。昭和34年(1959)には屋上の塔屋に展望食堂ができ、その眺めが評判になった。
あのころの立川では、エレベーターに乗ること自体が、ちょっとした事件だった。デパートの上の食堂から、平らな街と、その先の基地と、晴れた日の山並みを眺める。それが昭和30年代の休日のぜいたくだったのだろう。いま、伊勢丹立川店は駅の北口から歩行者のデッキでそのまま入れる場所にある。平成13年(2001)1月に開いたいまの店の売場は37,500平方メートルで、それまでの店の2.8倍に広がった。最初の売店のおよそ490倍である。鉛筆の棚から始まった店が、半世紀あまりでここまで来た。
この社史には、もうひとつ見逃せない一行がある。昭和45年(1970)9月、伊勢丹立川店は、地元の金辰鈴木商店が曙町2丁目に建てた地下2階地上8階、延べ床面積22,000平方メートルの「金辰ビル」に移った。建物を建てたのは地元の商店で、そこへ東京の百貨店が入った。
じつは、この「地元が建て、東京が入る」という形こそ、半世紀以上前に一人の地理学者が、立川の特徴として書きとめていたものだった。
地元がビルを建て、東京の店が借りる——1968年の地理学者が見た立川
昭和43年(1968)、日本地理学会の『地理学評論』に、「東京西郊の都市におけるビルの増加」という論文が載った。書いたのは東京都立教育研究所の中沢浩一である。八王子、立川、三鷹、小金井、府中、調布、小平、国立の8つの市で、駅前や繁華街にビルがどう増えてきたのかを、固定資産の台帳と聞き取りで調べ上げた仕事だ。

写真: Razgrad / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
論文によれば、ビルが増えはじめたのは八王子と立川が早く、八王子では昭和33年(1958)ごろから、立川では少し遅れて昭和35年(1960)ごろから本格的に増えた。三鷹や府中、小金井で増えはじめるのは、それより後である。
面白いのは、八王子と立川の違いだ。八王子では、地元の商店がもとの商売を発展させて、自分の敷地にビルを建てる例が目立った。呉服店、洋品店、菓子店、瀬戸物店。地元の店が、地元のビルで商う。一方の立川について、論文はこう書く。中央から進出してきたものが時期的に早かったこと、そして敷地やビルの所有と、小売業の経営の主体が分かれていることが多かったこと。それが複合型のビルを多くしている、と。
注には、もっと具体的に書いてある。敷地とビルを持つのは地元の有力な商人や地主で、そこへ中央から進出してきた百貨店や準百貨店がビルを借りて入る。金辰ビルに伊勢丹が入ったのと、そっくり同じ形だ。
保険会社の話も出てくる。生命保険や火災保険の会社の支社は、はじめ八王子で早くからビルに入っていたが、やや遅れて立川に支社級の拠点が急に増えた。聞き取りによれば、立川にある生命保険会社の支社のうち、以前は八王子にあったものを移して立川に開いたものが数社あったという。論文は、東京西郊での保険会社の広がりは、立川を第一次の拠点とし、ほかの都市を第二次の拠点として系列化されている、とまとめている。八王子の人がこの論文を読んだら、少し複雑な気持ちになるかもしれない。
私はここに、四つ目の仮説の手がかりを見た。立川には、外から来るものを受け入れる「器」を、地元の側が先に用意する習慣があったのではないか。地主がビルを建て、東京の店が借りる。百貨店も、保険会社も、まず立川に入ってから、多摩のほかの街へ広がっていく。
同じ形は、映画館にもある。立川の映画文化を記録した「たちかわビルボード」によれば、シネマシティの会社は昭和26年(1951)、地元の商店主や市民が出資して開いた北口の立川セントラル劇場を借りて営業を始めた。その「大家と店子」の関係は、いまも続いているという。東京で最初のシネコンの土台にも、地元の大家がいたのである。
だが、器を用意するだけでは、東京の店はやって来ない。器がどれだけ立派でも、外の側に「立川へ行きたい」理由がなければ始まらない。ここからは、出店する側から見た立川を、四つの仮説に沿って一つずつ確かめていく。
理由1 都心にはもう無い、広く平らな土地
一つ目の仮説は、いちばん分かりやすい。土地である。

写真: Kakidai / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
内閣府の資料によれば、昭和52年(1977)11月、立川飛行場は全面的に返還され、このとき返された国有地は453ヘクタールにのぼった。駅から歩ける距離に、これだけの平らな土地がまとまって戻ってきた街は、首都圏でもそう多くない。その土地の上に、昭和記念公園も、防災の基地も、ファーレ立川も、のちのIKEAも建っている。この特集の別の回で何度も書いてきたので、ここでは数字だけを置いておく。
ここで確かめたいのは、「東京初」の店が、本当に広い土地を求めていたのか、という点だ。
百科事典のイケアの項で、日本の店の来歴を順に読んでいくと、思わず笑ってしまう。平成18年(2006)に開いた日本の1号店、船橋の店は、屋内スキー場の跡地の一部に建った。同じ年の港北の店は、自動車販売会社の拠点の跡地。平成20年(2008)の神戸の店は、遊園地の跡地。大阪の鶴浜の店は、ホームセンターの建設予定地だった埋立地。そして平成26年(2014)、7番目の店として開いたIKEA立川は、立川基地の跡地の国有地を取得して建てられた。スキー場、自動車屋、遊園地、飛行場。IKEAは、何かが去ったあとの広い土地がよほど好きらしい。
逆に、IKEAが国内で初めての都心型の店を出したのは、令和2年(2020)、渋谷区の神宮前だった。大きな倉庫のような店は、都心には入れない。都心に入るには、店の形そのものを変える必要があった。だから東京で最初のIKEAは、都心ではなく、広い土地が空いた多摩の街に来た。ここまでは、資料からほぼ言える。
ただし、IKEA自身が「なぜ立川なのか」をどう説明したのか、その発表文までは、私は確かめきれなかった。開業のころの報道に残るのは、電車で行きやすいことを店の特徴に掲げていたこと、そして近くに住む人への調査で「収納に困っている」と答えた人が多く、収納の売り場を既存の店の約2倍にしたことである。立川の人の押し入れ事情まで、北欧の会社はちゃんと調べていた。
シネコンも、同じ道を通っている。百科事典のシネマコンプレックスの項によれば、日本で現代型のシネコンが登場した1990年代には、店は基本的に郊外の幹線道路沿いに置かれることが多かった。黎明期を引っぱったワーナー・マイカル・シネマズが平成5年(1993)に開いた海老名の館も、郊外のショッピングセンターの中にあった。かつての映画館が並んでいた市街地は地価が高く、収益を上げるのが難しいと考えられていた、と同じ項は書く。新しい形の映画館は、まず郊外から日本に入ってきたのだ。
立川の場合は、そこに区画整理が重なった。たちかわビルボードによれば、平成4年(1992)、北口の大規模な区画整理とファーレ立川の構想によって、その一帯にあった三つの映画館もビルへと移り変わることになり、東京で初めてのシネコン、シネマシティが生まれた。土地を組み直す大仕事が、たまたま新しい映画館の形が日本に入ってきた時期と重なった。翌年、海老名に続くように、東京で最初のシネコンが立川に灯った。
平成27年(2015)には、立川飛行場の跡地に接していることから名づけられた立飛駅の前に、多摩地域で初めてのららぽーとが開いた。広い土地があり、そこへ郊外型の新しい店が来る。理由1は、資料の上でもかなりはっきり確かめられる。
だが、広い土地なら、首都圏のほかの郊外にもある。千葉にも埼玉にも神奈川にも、跡地はいくらでもある。それなのに、なぜ東京の「初」は多摩に来て、その多摩の中でも立川に来るのか。次のページでは、距離の話から始めたい。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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