福生の酒蔵散歩 石川酒造と田村酒造場、多摩川のそばで川の水を使わない二つの蔵

立川から青梅線で行く福生の酒蔵散歩。文政5年創業の田村酒造場と文久3年創業の石川酒造は、どんな水で酒を造っているのか。地下150メートルの水、大欅の根元の泉、水に乏しかった熊川村の分水、玉川上水が地面に吸いこまれた水喰土、明治の「日本麦酒」、昭和の永田橋と多摩川の砂利まで、公式資料と市の資料でたどる立川発の日帰りルポ。

東京で日本酒を造る蔵は、いくつあるか。百科事典は、田村酒造場を、東京で伝統を守っている10軒の酒造業者の一つ、と紹介している。その10軒のうち2軒が、福生という、人口6万に満たない一つの市の中にある。しかも、江戸時代から続いている。福生市観光協会は、江戸時代から続く二つの造り酒屋、と書く。

福生と聞けば、多くの人は基地と国道16号のアメリカの風景を思い浮かべるだろう。私もそうだった。ところが同じ街の西側、多摩川の方へ下っていくと、黒い板塀と白い土蔵と、樹齢数百年の欅が現れる。石川酒造の観光案内は、福生を、酒蔵が2蔵ある「日本伝統エリア」と、横田基地のある16号周辺の「アメリカンエリア」の2つが楽しめる街、と書いている。一つの街が、二つの国の顔を持っている。

酒は水で決まる、とよく言われる。福生の二つの蔵は、多摩川と玉川上水のほとりにある。だから、福生の酒は多摩川の水で造られているのだろう。私はそう思いこんで調べはじめた。そして二つの蔵の公式の案内を読んで、その思いこみが、半分ずつ外れていたことを知る。福生の酒の水は、どこから来るのか。立川から青梅線に乗って、その来歴をたどってみる。

福生の酒蔵散歩は、立川から青梅線で

立川駅から青梅線に乗る。石川酒造の案内によれば、立川駅から拝島駅まで快速で約12分。福生市熊川1番地に、石川酒造がある。拝島駅からはタクシーで約8分、歩いて約20分。もう一つの田村酒造場は、福生駅から歩いて約10分。観光協会によれば、こちらは玉川上水のほとりで酒を造っている。

福生の地形を、福生市はこう書く。横田基地のある市の東側から多摩川に向かって河岸段丘がゆるやかに続き、段丘面の境にはハケと呼ばれる崖線が連なり、その斜面には地下水が流れ出して、各所で湧き水が見られる。地質は大部分が関東ローム層で、多摩川の低地は沖積土。市の西端を多摩川が流れ、市の中ほどを玉川上水が流れる。東から西へ、台地を一段ずつ下りていくと、水の気配が濃くなる。

立川も、同じ多摩川の段丘の上にある街だ。福生を流れた多摩川は、昭島を抜けて、立川の南を流れる。根川緑道の先で立川の人が眺めている多摩川の水は、そのいくらかが、さっきまで福生の河原を洗っていた水である。玉川上水も同じだ。福生市観光協会によれば、玉川上水は羽村の取水口から、羽村市、福生市、昭島市、立川市と、9市4区を通っていく。福生の酒蔵の脇を流れた水が、立川の砂川を通って、さらに東へ向かう。立川と福生は、同じ二本の水でつながっている。

では、その水で、酒は造られているのか。まず、古いほうの蔵から訪ねる。

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文政5年、名主が興した田村酒造場と「嘉泉」

田村酒造場の公式の歴史によれば、田村家は武蔵国多摩郡福生村で代を重ねてきた家で、いちばん古い文書では1600年代後半に先祖「半十郎 豊真」の名が見られる。福生村を切り開いた旧家の一軒だったと思われる、と蔵は書く。江戸時代の福生村は幕府の直轄領で、田村家は名主などの村役を務めた。

酒造りを始めたのは、九代目の勘次郎、号を賢真という人である。28歳で名主役を継ぎ、1822年、文政5年、46歳のときに酒造業を興した。蔵は、その時代背景をこう説明する。華やかな文化文政期の江戸で飲食の需要が膨らみ、それまで主流だった上方の「下り酒」に代わるものとして、幕府が「江戸地廻り酒」、つまり江戸の近くで造る酒の生産を奨励した。福生の酒は、江戸の地酒を増やそうという幕府の旗振りに、名主が46歳で応じたところから始まっている。人生の折り返しで家業を一つ増やした人の決断に、私は少し勇気づけられる。

酒の名前は「嘉泉」。蔵によれば、田村家は敷地内の井戸に、酒造りに好適な中硬水の秩父奥多摩伏流水を得た喜びから「嘉泉」と名付けた。嘉き泉。いい水が出た、という喜びが、そのまま200年の酒の名前になっている。百科事典は、敷地の各所で井戸を掘ったところ、大欅の根元から泉が湧き出したのにちなむ、と書き、その井戸水は創業以来、仕込み水として使われているという。

ここで、最初の思いこみが半分外れる。田村酒造場の酒の水は、多摩川から汲んだ水ではない。秩父や奥多摩の山に降った雨が、地下をくぐってきた伏流水を、敷地の井戸から汲んでいる。川の水ではなく、川の下を流れてきた水だ。

ただ、田村家と玉川上水には、別の縁がある。蔵の歴史によれば、田村家の屋敷の中を流れる田村分水は、隣の玉川上水から水を取り、地域の生活用水や、水田と畑を潤す灌漑用水として使われていた。酒の水は井戸から、暮らしと田畑の水は上水から。名主の家は、二つの水を使い分けていた。

勘次郎は、商売の組み立てでも先を行っていた。蔵は、いまで言うチェーン店のように、近在の酒造家や酒店と「店内関係」を結び、総本店として技術や経営のノウハウを提供した、と書く。その店蔵は、多摩地区から神奈川、埼玉の一部まで、武州一帯で24を数えた。家印の「かねじゅう」が、その組織の印として使われた。創業から幕末まで損失の年が無かったという記録が残っているという。幕末まで赤字なし。経営の教科書に載せたくなる話だが、残念ながら、その秘訣は「丁寧に造って 丁寧に売る」という家訓の一行にまとめられてしまっている。

この家訓のもと、大規模生産の蔵がある中で、田村酒造場は目の行き届く1,500石前後の造り高を守ってきた。1,500石は、百科事典によれば約27万リットル。一升瓶にすれば15万本ほどになる。多いのか少ないのか、私にはうまく想像できない。一日1本ずつ飲むと、400年以上かかる、と計算して、余計に想像できなくなった。

地下150メートルの水と、石川酒造の熊川一番地

福生のもう一つの蔵、石川酒造の始まりは、田村酒造場より40年ほど後だ。蔵の公式の説明によれば、石川酒造の歴史は文久3年(1863)9月1日(旧暦)に始まる。最初の酒は、福生ではなく、多摩川の対岸の小川村、いまのあきる野市にあった森田酒造の蔵を借りて、13代当主の和吉が造った。森田酒造の「八重菊」と姉妹関係ということで、創業の銘柄は「八重桜」。大正8年(1919)に「八重梅」と改め、昭和8年(1933)から今の「多満自慢」を名乗っている。

石川酒造の敷地に建つ木組みの屋根付きの建物。冬枯れの枝ごしに見える。
石川酒造の敷地に建つ木組みの屋根付きの建物。冬枯れの枝ごしに見える。
写真: alonfloc / CC BY 3.0 / Wikimedia Commons

熊川の地に蔵を建てたのは、明治13年(1880)だ。蔵の見学案内によれば、いまも「多満自慢」を醸している本蔵が、この年の建築。約25メートル×28メートル、高さは約13メートル、300坪の瓦が葺かれている。石川酒造は、国の登録有形文化財に指定された建物を6棟持つ。

そして、水だ。石川酒造の見学案内は、仕込み水について、はっきり書いている。当蔵では150m地下より汲み上げる上総層群・東久留米層下部層の地下天然水(中硬水)を使用しています。

地下150メートル。多摩川でも、玉川上水でもない。地上の川から見れば、はるか下の、古い地層の中の水である。田村酒造場は川の下をくぐってきた伏流水、石川酒造は深い地層の水。私の「福生の酒は多摩川の水」という思いこみは、二つの蔵のどちらでも、きれいに外れた。

外れたことが、かえって面白い。多摩川と玉川上水という、東京でも指折りの水の通り道のすぐ脇にありながら、二つの蔵は、どちらも足もとの、さらに下の水を選んでいる。川は目に見える水で、酒の水は目に見えない水だ。なぜ、すぐそばの川の水ではなく、地面の下の水なのか。その答えの手がかりは、意外なことに、石川酒造のある熊川という土地の、水の乏しさにあった。

水に乏しかった熊川村と、熊川分水

酒蔵のある村なのだから、水には恵まれていたのだろう。そう思うのが普通だ。ところが、福生市観光協会がまとめた「熊川分水の起こり」は、逆のことを書いている。熊川分水は、高台で井戸がすくなく、水の乏しい熊川地区の人たちにとっては最大の水源であった。

観光協会が引く「熊川村分水願書之写」は、当時の東京府知事に出した願書の写しだ。その冒頭はこうだという。熊川村は、玉川附の高台で井戸を掘るにも容易ではなく、従って飲み水にも乏しい。玉川の本流から引くにも地形上できない。玉川上水は村の中央を流れているが、民家は南の端にあって水汲み場まで遠い。年々干ばつが多く、水不足がはなはだしい。

上水が村の真ん中を流れているのに、その水は村の人の口に入らなかった。江戸へ向かう水が、目の前を素通りしていく。熊川の人たちが、毎日どんな気持ちでその流れを眺めていたのかは、想像するしかない。

分水がようやく引かれたのは、明治になってからだ。石川酒造の見学案内によれば、熊川分水は明治19年(1886)から明治23年にかけて、玉川上水から生活用水として引かれたもので、この工事には石川家を中心とする熊川村の人々が携わった。いまも石川酒造の敷地の脇を、この分水の跡が通っている。御神木の欅の下の、昔の酒造りに使った井戸のそばである。

観光協会は、熊川分水の記述の中に、隣村の数字を並べている。砂川村は明暦3年(1657)、拝島村は元文5年(1740)、福生では慶応2年(1866)に、いずれも飲み水用の分水が設けられていた。

砂川村。いまの立川市の北部だ。玉川上水から江戸への通水が始まったのは承応3年(1654)だから、砂川村はその3年後には、もう分水を引いていたことになる。熊川村が分水を引くのは、その230年近く後である。同じ一本の上水の、上流側の熊川村が明治まで待たされ、下流側の立川の砂川村が真っ先に水を得ていた。上流が先に潤うとは限らない。砂川の短冊形の屋敷とまっすぐ流れる分水のことは、この特集の「玉川上水と砂川」の回で歩いた。その分水が、福生の側から見ると、こんなにも早かったのだ。

熊川では、なぜそこまで井戸を掘るのが難しかったのか。その答えの一つが、熊川の中にある、ある公園の名前に刻まれている。

水喰土、玉川上水が地面に吸いこまれた場所

みずくらいど公園。漢字で書くと水喰土。水を喰らう土、である。

福生市内を流れる玉川上水。両岸の木々の緑が、静かな水面に映っている。
福生市内を流れる玉川上水。両岸の木々の緑が、静かな水面に映っている。
写真: fitm / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

福生市観光協会は、福生市教育委員会の『福生歴史物語』をもとに、この地名の由来を説明している。八王子千人同心の小島文平が享和3年(1803)に書いた「上水紀元」によれば、玉川兄弟は最初、日野の渡しのそばの青柳村から掘り始めたが、府中の方へ掘り進んだところで高低差を見誤ったのか失敗し、福生村から水を引き入れることにした。ところが、四谷まで完成して水を流すと、熊川村のいまの公園のあたりで、水はことごとく地中に吸いこまれてしまった。そこで測量をやり直し、取水口をいまの羽村にして、ようやく上水を完成させた、という。

この話の後半、つまり上水全体の開削の異説については、立川の側から上水をたどった回で触れた。福生の側から読むと、話の焦点は「水が地面に吸いこまれた」という一点に絞られる。観光協会は、その仕組みをこう説明している。「水、地面に引きしずみ流れ」なかったみずくらい現象は、導水の勾配が千分の一以下のゆるやかな水路が、透水力のきわめて大きい礫層を通ったために、大量の水が下の段丘面に流れ落ちて、給水能力が激減したことを指すと考えられる。

熊川の地面の下には、水をよく通す砂利の層がある。上水の水さえ、そこを通ると消えてしまう。地元の古老の間では、この一帯を「みずくれぇど」、あるいは「ほりけぇ」と呼ぶ地域があったという。延長約1キロにおよぶ掘り替えに駆り出された村人の苦労が、「みずくれぇど」という呼び名になり、やがて地名として広がった、と観光協会は書く。地名が、そのまま工事の失敗の記録になっている。役所の文書に残すより、ずっと消えにくい記録の残し方だ。

古い上水の掘り跡は、約1キロのうち、みずくらいど公園の中の40メートルと、青梅線と五日市線の間の約60メートルが、おおかた元の形をとどめている。福生市の史跡に指定されている。福生十景の一つでもあり、観光協会は「道の向こうに江戸時代が見えてきそうな趣」と書いている。

水を吸いこむ砂利の層。高台で井戸が掘りにくい村。そして、地下150メートルから水を汲む酒蔵。三つの事実を並べると、熊川で良い水を得るには、地面のずっと下まで下りていくしかなかったのではないか、という気がしてくる。これは私の推測で、蔵がそう書いているわけではない。だが、水を喰らう土の上で、水の神様を祀りながら酒を造ってきた蔵がある、という事実だけで、私には十分に面白い。

石川酒造の御神木の根元には、米の神様の大黒天と、水の神様の弁財天が祀られている、と蔵は書く。二柱の神様は、お酒造りのいわばベストカップル、なのだそうだ。水に苦労した土地の酒蔵が、水の神様を、米の神様と一緒にきちんと大事にしている。

数字で読む〈福生の酒蔵〉

  • 1822 — 田村酒造場の創業の年(文政5年)。九代目が46歳で興した。
  • 1863 — 石川酒造の歴史が始まった年(文久3年)。最初の酒は対岸の村の、よその蔵を借りて造った。
  • 150 — 石川酒造が仕込み水を汲み上げる深さ(メートル)。多摩川の川面より、ずっと下である。
  • 24 — 江戸時代、田村家と「店内関係」を結んだ店蔵の数。いまで言うチェーン店のようなものだった、と蔵は書く。
  • 6 — 石川酒造の敷地にある、国の登録有形文化財の建物の数。
  • 4.48 — 石川家のケヤキの幹周(メートル)。蔵によれば、まわりを囲うには大人3人がかり。

旅人の寄り道クイズ

石川酒造は明治20年(1887)にビールの醸造に乗り出し、「日本麦酒」(英文ラベルはJAPAN BEER)の名で東京や横浜にも売った。ところが明治23年には製造装置を売却してしまう。その理由として蔵が挙げているのは、次のうちどれか。

(A)麦が手に入らなかった(B)まだ王冠の技術がなく、瓶が破裂しやすかった(C)日本酒の蔵人に反対された

答えは、この記事の終わりで。

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